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第13話 オフィスでの心理戦

 人間の限界とは、一体どこにあるのだろうか。


 社畜として、俺はこれまで幾度となく「限界」の壁を越えてきたつもりだった。

 三日連続の徹夜、インフルエンザで三十九度の熱を出しながらのプレゼン、顧客の理不尽な怒号を五時間浴び続けるサンドバッグ業務。それらを乗り越え、心(という名の神経の束)を完全に死滅させることで、今の「神堂誠」という自動機械オートマトンは完成したはずだった。


 だが、甘かった。

 前日の魔法少女としての三連戦、マスコミへの記者会見(完全なる社会死)、そして深夜のファミレスでのルビィ(鬼部長)と結衣(新人)による地獄の嫉妬綱引き。

 それらのタスクをこなした後、自宅のアパートで、玲奈部長から叩きつけられた『一文字でも誤字があったら殺す』という脅迫NINEに従い、朝の六時までA社コンペの企画書を推敲し続けたのだ。


 午前八時三十分。

 クロノス商事の営業部フロアで、俺は自分のデスクの前に立っていた。


「……おはようございます」


 フロアに響いた自分の声は、まるで地底から這い出た亡者のように低く、掠れていた。

 鏡を見ていないが、自分の顔がどんな状態かは想像がつく。目の下のクマはもはやタトゥーのように定着し、白目は毛細血管が破裂して真っ赤に血走り、肌は土気色を超えて透明に近くなっているはずだ。


 カツ、カツ、カツ、カツ。


 午前八時四十五分。

 定刻通りに、氷山の悪魔が降臨した。


 氷室玲奈部長。

 彼女は今日も完璧なダークスーツに身を包み、一切の隙のない冷徹な顔でフロアを歩いてくる。


「神堂」


 玲奈が、俺のデスクの前で足を止めた。

 冷たい香水の匂い。ブルガリ・オムニア・クリスタリン。昨夜、俺がファミレスで横に座っていた時に嗅いだのと同じ香りだ。


「はい、氷室部長」

 俺は、虚無の極みのような声で返事をした。


「A社の企画書、最終案はできているわね?」


「はい。こちらに」


 俺は、プリントアウトした三十ページに及ぶ企画書を、両手で恭しく差し出した。

 誤字脱字のチェックは、エクセルの校閲機能、Wordの文章校正、そして俺自身の血走った目による三回のアナログ・チェックを経ている。完璧だ。一文字の狂いもない。


 玲奈は企画書を受け取ると、その場でペラペラとページをめくり始めた。

 フロアの空気が張り詰める。

 もしここで「この『てにをは』がおかしいわね」などと指摘されれば、俺の命(社会的な)はない。


 数分後。

 玲奈は企画書をパタンと閉じ、俺の顔を真っ直ぐに見据えた。


「……悪くないわ。論理構成もしっかりしているし、リスクヘッジの数字も現実的。……誤字も、見当たらないようね」


「ありがとうございます」

 俺は内心でガッツポーズをしながら、深く頭を下げた。これで、とりあえず今日の午前中は生き延びられる。


「ただ」


 玲奈の声が、一段階低くなった。

 いきなり核心を突いてくるのではなく、彼女はまるで世間話でも振るかのように、スッと目を細めた。


「神堂。あなた……最近ネットで話題になっている、『純白のフリフリの服を着た女の子』の動画、知っているかしら?」


(……ッ!?)


 俺の心臓が、嫌な音を立てた。


「……いえ。存じ上げません。毎日残業続きで、そのような動画を拝見する暇は……」

 俺は、表情筋を完全に固定し、極力なんでもないことのように聞き返した。


「そう。でも、最近のあなたの勤務態度は目に余るわ」


 玲奈が、すっと顔を近づけてきた。

 彼女の冷たい瞳が、俺の死んだ目を射抜くように見つめている。


「仕事中に頻繁にトイレに駆け込んで、長時間の離席を繰り返しているじゃない。戻ってくるたびに、心なしか以前よりずっと疲れた顔をしているし。……もともと死んだ魚みたいな目をしているけれど、最近はクマもひどいし、肌の色も土気色になっているわ」


 玲奈は、まるで獲物を追い詰める猟犬のように、声をさらに低くした。


「裏でコソコソと、その動画の『女の子』の追っかけでもしているんじゃないかしら? 何か『不健全なこと』にうつつを抜かしているのよね?」


 昨夜のファミレスでの彼女の妄想が、今、確信となって俺に向けられているのだ。

 俺がシロのストーカーであるという、理不尽極まりない設定が。


「い、いえ。そんなことは……」


「隠しても無駄よ。私にはお見通しなんだから」


 玲奈は、周囲の社員には聞こえないよう、しかし俺には鼓膜を突き破るような威圧感のある声で、遠回しに、だがねっとりとした釘を刺してきた。


「自分の身の丈をわきまえなさい、神堂。純白で、無垢で、誰からも愛されるような存在……そういう『高嶺の花』に、あなたのような薄汚い、濁った目の男が不釣り合いな執着を抱いても、決して手が届くことはないわ。むしろ、その汚い手を伸ばそうとすること自体が罪よ」


「…………」


 俺は、口をパクパクとさせることしかできなかった。

 反論したくても、「いや、俺がその純白で無垢な高嶺のシロなんですけど」とは絶対に言えない。

圧倒的な無力感。どうしようもない不条理が、俺の胃を締め上げる。

 

「業務に支障を来すようなプライベートの妄想は、上司である私が徹底的に矯正してあげるわ。……覚悟しなさい」


 そこから始まったのは、文字通りの、地味で理不尽な監視地獄だった。


 昼食の時間。

 俺が自席でコンビニ弁当の蓋を開け、片手でスマホのニュースアプリを見ようとした瞬間。

 背後からスッと、ブルガリの香水の匂いが漂ってきた。


「……食事中も動画チェックかしら? 栄養と一緒に邪念も飲み込んでいるようね。消化に悪いわよ」


「た、ただの日経平均株価のチェックでして……。その、食事中に背後に立たれると、どうにも胃の腑が縮み上がるというか、消化不良を起こしそうになりますので……」


「あら、部下の健康管理も上司の務めよ。あなたが不健全な思想に囚われて午後からのパフォーマンスを落とさないか、見守ってあげているだけじゃない。……それにしても、あの女の子のどこがいいのかしら? ああいう疲れ切った哀愁に、あなたのような男は共感してしまうわけ?」


「……ですから、私は存じ上げませんと……」


 俺は冷や汗をかきながら、味のしない白飯を胃に流し込むしかなかった。


 午後。

 俺が限界を迎えた膀胱を解放すべく、席を立ってトイレに向かおうとした瞬間。


「どこへ行くの、神堂」


「……お手洗いに。少し長引くかもしれませんが、すぐ戻ります」


「そう。なら、スマホはデスクに置いていきなさい。個室で動画を視聴する時間は業務時間外よ。このストップウォッチで計らせてもらうわ。五分を超えたら、午後の査定からマイナスしておくから」


「……スマホなしでは、万が一のクライアントからの緊急連絡に差し支えますし……それに、五分で戻れというのは、いささか生理現象のコントロールを超えている気がするのですが……」


 俺は極力穏便に、しかし切実な抗議を試みた。


「緊急連絡なら、私があなたのデスクの電話で受けておくわ。さあ、早く行かないと一秒ずつマイナスされるわよ」

 有無を言わさぬ絶対零度の眼差しに、俺は肩を落としてスマホをデスクに置き、小走りでトイレへと向かうしかなかった。


 そして、極めつけはデスクワーク中だ。

 俺がPCのモニターに向かって、午後の企画書の修正作業を行っていると、ふと、黒いベゼル(画面の縁)に何かが反射しているのに気づいた。

 遠く離れたガラス張りの部長室。そのブラインドの隙間を指二本でスッと押し下げ、暗がりの中からこちらをジッと監視している、玲奈の『血走った目玉』が映り込んでいたのだ。


(……ヒッ!?)


 俺は背筋が凍りつき、キーボードを叩く指が震えた。

 マキ博士から「ノワールの気配が」と軍用の偽装スマホに連絡が入るかもしれない。ポケットの振動に気付いて手を伸ばそうとするだけで、遠くから物理的な殺気が飛んでくるのが肌で分かる。

 仕方なく、俺はデスクの引き出しの中に両手を突っ込み、手探りのブラインドタッチでマキ博士に「今は無理です」と返信を打つという、スパイ映画顔負けの高度な隠蔽工作を強いられる羽目になった。


 完全に、不審者を警戒し、徹底的に粗探しをしてくる目の敵扱いだった。


(……勘弁してくれ……)


 俺は、無言で引き出しから胃薬を取り出し、水なしでボリボリと噛み砕いた。


 もともと彼女は、上司というだけでも十分に恐ろしく、手強い『鬼』であった。

 だが、俺がシロに変身して活躍し、彼女の命を救ってしまったがゆえに、彼女の中に「シロへの異常な愛」と「シロを狙う不審者(神堂)への異常な敵意」を同時に生み出してしまったのだ。

 魔法少女としての副業が、よりにもよって本業の労働環境を最悪の形で悪化させるという、まさに火に油を注ぐ結果になっている。


 そして、その日の夜。

 午後十時を回り、残業の山をやっとの思いで切り崩した俺が、フラフラとした足取りでオフィスビルを出た時のことだった。


「やっと……帰れる……」


 冷たい夜風が、火照った(そして冷や汗まみれの)身体を冷ましていく。

 今日こそは、何も考えずに布団にダイブしてやる。マキ博士から通信が来ても、絶対に無視して着信拒否にしてやる。


 そう固く決意し、駅に向かって歩き出そうとした瞬間。


 ――ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴッ!!!


 俺のポケットの中で、軍用スマホが、これまで経験したことのないような、狂ったような振動を始めた。

 単なるバイブレーションではない。スマホ自体が熱を持ち、まるで悲鳴を上げているかのような異様な警告音。


「な, なんだ……!?」


 俺は慌ててスマホを取り出した。

 画面は真っ赤に染まり、中央に極太の黒いフォントで、こう表示されていた。


『CRITICAL ALERT:CLASS "S" NOIR DETECTED』

『LOCATION:新東京市・中央区』

『WARNING:大規模結界の展開を確認。物理・魔力数値、測定不能』


「測定不能……?」


 俺の極限まで摩耗した社畜の勘が、かつてないほどの警鐘を鳴らした。

 これまでの、そこら辺の路地裏や公園で暴れていたノワールとは、根本的にスケールが違う。

 まるで、都市全体を飲み込もうとするかのような、巨大で底知れない『絶望』の気配。


『シロ!! 聞こえる!?』

 スマホから、マキ博士の切羽詰まった声が飛び出してきた。


「聞こえてます。なんだ、この異常なアラートは」


『結界よ! 敵が、新東京市の中央区全体を覆うような、巨大な隔離結界を展開したの! 内部の人間は完全に閉じ込められているわ!』


 マキ博士の背景で、軍のオペレーターたちが怒号を交わしているのが聞こえる。相当なパニック状態だ。


『ただの自然発生じゃない。明確な知性を持った、ノワールを統括する幹部クラス……いえ、あるいはそれ以上の存在が、直接手を下してきているわ!』


「……幹部クラス、ですか」


 俺は、ネクタイを緩め、夜空を見上げた。

 中央区の方向。肉眼では見えないが、空の星がその一帯だけ不自然に歪み、どす黒い淀みに覆われているように感じる。


『ルビィとピュア・サファイア(結衣)には、すでに先行して現場に向かわせているわ。でも、敵の結界の濃度が高すぎて、通常の魔法では太刀打ちできないかもしれない』


「了解しました。……残業代、深夜割り増しと特別危険手当、全額きっちり請求しますからね」


『ええ! もちろんよ! 頼んだわよ、シロ!』


 通信が切れ、俺はスマホを握り締めた。

 帰宅の夢は、またしても幻と消えた。

 だが、不思議と苛立ちはなかった。あの巨大な結界の中に、もしクロノス商事の取引先や、俺の担当している顧客が巻き込まれていたら、明日の仕事がさらに面倒なことになるからだ。


「……さて。特別有給休暇のための、大一番と行きますか」


 俺は、誰もいない夜の路上で、視界に表示されたあの忌まわしいプロンプトを読み上げた。


「煌めけ、私の純情ピュア・ハート。世界に届け、愛の奇跡。無表情ピース……きゅるんっ☆」


 極彩色の光が、夜の街を白く染め上げる。

 

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