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第10話 博士の悪意あるアップデート

「答えて、シロちゃん。あなたは――」


 ルビィ(氷室玲奈部長)の顔が、鼻先が触れ合うほどの至近距離まで迫っていた。

 彼女の冷たくも熱を帯びた気高い瞳が、俺の『死んだ魚の目』を射抜いている。逃げ場はない。


 三十歳の社畜としての生存か、それとも魔法少女としての尊厳か。

 俺の脳内コンピュータは、冷却ファンから白煙を噴き上げながら、最後の非常脱出プログラム(言い訳アルゴリズム)を弾き出した。


「た、たまたまです!」


 俺は、極限まで裏返ったロリボイスで叫んだ。


「たまたま昨日見た深夜のビジネスドラマで、クールで有能な部下が上司に向かって言ってたセリフが、今のシチュエーションにぴったりだなって思って、つい真似しちゃっただけですぅ! あ、私、明日も朝から学校の準備があるので、これで失礼しますっ!」


「えっ……? ドラマ……?」


 ルビィがポカンと口を開けた、その一瞬の隙。

 俺は彼女の豊かな胸を両手でドンッと押し返し(極限状態とはいえ、信じられないほど柔らかい感触に一瞬だけ気が逸れたが)、後方へ大きく跳躍した。


「マキ博士、強制転送ワープ起動!!」

『ちょっとシロ、まだコアの回収データが……』

「いいから早くしろォォォッ!!」


 足元に極彩色の魔法陣が展開される。

 光の奔流に包まれる直前、俺は見た。ルビィがハッとして手を伸ばし、「待って、まだ話は終わってないわ!」と叫ぶ姿を。


 俺はそのまま光のトンネルへと逃げ込み、社会死という名の最悪の追及から、間一髪のところで逃げ延びたのだった。


 ――そして、翌日の午後。


 昼休みのクロノス商事をこっそり抜け出し、俺は再び新東京市の地下深くに位置する軍のラボへと足を運んでいた。


 昨夜の冷や汗のせいで、今朝の朝礼でも玲奈部長の顔をまともに見ることができなかった。

 彼女はいつも通り「今日のあなたは一段と顔色が悪いわね、まるで死後三日目の深海魚みたい。さっさと昨日の資料を出しなさい」と氷のような声で言ってきたが、正体がバレているような素振りはなかった。

 どうやら、昨日の苦し紛れの「深夜ドラマの真似」という言い訳で、なんとかごまかし切れたらしい。あの限界オタクのことだから、「シロちゃんって深夜ドラマとか見るんだ、可愛い!」くらいに脳内変換してくれていることを祈るばかりだ。


「ふぅ……」


 俺は重い溜息をつきながら、ラボの自動ドアを抜けた。

 マキ博士から『重要なシステムアップデートを行うから至急来い』という、迷惑極まりない呼び出しを受けたのだ。


「遅いわよ、シロ!」


 ラボの奥、巨大なモニター群に囲まれたコンソールデスクで、御堂マキ博士が振り返った。

 今日は珍しく白衣の下にパリッとしたシャツを着ているが、目の下の深いクマと、咥えタバコ(火はついていない)は相変わらずだ。


「昼休みは一時間しかないんですよ。しかも午後イチで会議の議事録をまとめないといけないんです。無駄話は抜きで、手短にお願いします」


 俺はスーツ姿のまま、死んだ魚の目でマキ博士を睨みつけた。


「フフッ、相変わらず素晴らしい社畜根性ね。でも、今日からあんたのその態度は少しだけ変わるかもしれないわよ」


 マキ博士は不敵な笑みを浮かべ、キーボードをターンッ!と勢いよく叩いた。

 すると、巨大なモニターに、あの『純白のエトワール・ブラン』ことシロの3Dモデルが映し出された。


「昨日の記者会見、ネットで大反響だったわ! 『闇ロリ』『哀愁のシロちゃん』として、動画サイトの急上昇トレンドの一位を独占よ。軍の上層部も、この予想外のプロモーション効果にホクホク顔なの。市民の不安を和らげるどころか、完全にアイドル扱いよ」


「……その節は、大変な社会死の危機を味わわせていただき、誠にありがとうございました。で、本題は?」


「だから、その人気に応えるために、システムに『悪意ある……ゴホン、魅力的なアップデート』を施したのよ!」


 マキ博士が再びキーを叩く。

 モニターに映るシロの3Dモデルの姿が、シャランッ!というファンシーな効果音と共に変化した。


「な……ッ!?」

 俺は、思わず息を呑んだ。


 ただでさえ過剰だった純白のフリルとレースの量が、さらに一・五倍に増量されている。

 背中には、無駄にパタパタと動く小さな天使の羽が追加。

 そして、俺のメイン武器である重量二トンの『ドリーム・ステッキ』には、ピンク色のリボンがぐるぐると巻きつけられ、先端のハートにはなんと「LOVE」という光る文字のネオンサインまで埋め込まれていた。


「どう!? 名付けて『エトワール・ブラン・スーパーアイドルモード』! これなら、アンタから漂う闇の哀愁とのギャップで、さらにオタクたちの心を鷲掴みよ!」


「ふざけるなッ!!」


 俺はバンッ!とデスクを叩き、本気の怒声を上げた。


「なんだこの装飾過多は! 動きにくくなるだけだろうが! それに、そのステッキのネオンサインは何だ!? 夜の戦闘で敵に見つかりやすくなるだけじゃないか! 俺は世界を救う……いや、残業代を稼ぐために戦っているのであって、お前の着せ替え人形じゃないんだぞ!!」


「まあまあ、落ち着きなさいよ。服の機能性と重量バランスはシステムが補正するから、戦闘には全く問題ないわ。それに、アップデートの目玉はこれだけじゃないの」


 マキ博士は、俺の怒りなどどこ吹く風で、ニヤニヤと悪魔のように笑いながら続けた。


「変身システムと、武装召喚のプロンプト(呪文)も書き換えたわ。今までは棒読みで『煌めけ、私の純情』って言うだけだったでしょ? あれじゃあ味気ないって上層部からクレームが来てね」


「上層部ってどこの馬鹿だ、連れてこい。説教してやる」


「これからは、呪文を唱える時に『指定のポーズ』をとらないと、システムが起動しない仕様になったの。しかも、ポーズを正確にキメると、無表情でも自動的に『きゅるんっ☆』っていう可愛い効果音が鳴るわ」


 モニターに、新しい変身バンクのシミュレーション映像が流れる。

 シロ(俺)が、両手を顔の横で「にゃんっ」と猫の手のように丸め、片足を後ろに跳ね上げながら、死んだ深海魚のような無表情でカメラ目線をキメる。

 そして、背景にピンクの星が飛び交い、「きゅるんっ☆」という極彩色の文字が飛び出す。


「…………」

 俺の心の中の、何か細くて大切な、大人の男としての尊厳の糸が、プツンと切れる音がした。


「いい加減にしろ……」

 俺は、地を這うような低い声で呟いた。


「俺は、残業代とローンの返済のためにこの汚れ仕事を引き受けたんだ。だが、俺にも営業部主任としての、一人の人間としての誇りというものがある! こんな……こんな公開羞恥プレイみたいな真似、誰がやるか! 労基署に駆け込んでやる! 契約解除だ、今すぐ辞めてやる!!」


 俺は背を向け、ラボの出口へと向かって歩き出した。

 マジでキレた。もう限界だ。会社では鬼部長に理不尽に詰められ、夜は化け物と戦い、その上、毎回こんな恥ずかしいポーズをとらされるなんて、絶対に御免だ。給料なんかいらない、平穏な睡眠を返せ。


「あっ、そう。残念ねぇ」


 背後から、マキ博士のわざとらしい溜息が聞こえた。


「軍の上層部が、シロちゃんの昨日のプロモーション効果を高く評価してね。今回のアップデートを受け入れてくれるなら、特別手当としてアンタの基本給をこれまでの『3倍』に引き上げるって言ってたのに」


 ピタリ、と。

 俺の足が、床に縫い付けられたように止まった。


「……3倍?」

 俺は、首だけをカクンと後ろに向けた。


「ええ。今のあんたの会社の手取りの、およそ何倍近い額になるわね。完全歩合のノワール討伐ボーナスとは別に、毎月確実に振り込まれる固定給よ。アンタの家のローンなんか、一年で一括返済できるわね」


「…………」


「それだけじゃないわ。今回から、対ノワール殲滅部隊の規定が改定されてね。月間に一定数のノワールを討伐した場合、軍の特権を使って、あんたの本業の会社に『国家機密プロジェクトへの協力要請』という名目で、強引に『特別有給休暇』をもぎ取れる権限が付与されるの」


 ――特別有給休暇。


 その言葉は、俺の耳に天使のラッパのようにも、悪魔の甘い囁きのようにも響いた。

 氷室玲奈部長の顔色を窺うことなく。

 終わらない資料作成の山に怯えることもなく。

 堂々と、法律と国家権力という絶対の盾に守られて、平日に泥のように眠ることができる権利。


 俺の脳内で、天秤が激しく揺れ動いた。

 左の皿には「大人の男性としての尊厳」「人としての誇り」「羞恥心」。

 右の皿には「給料3倍」「ローン即完済の未来」「国家権力による絶対有給休暇」。


 天秤は、一瞬の迷いもなく、右側へとドゴォォン!!と音を立てて傾き、左の皿の「尊厳」という概念を宇宙の彼方へと弾き飛ばした。


 俺は、クルリと踵を返し、猛スピードでマキ博士のデスクへと戻った。


「喜んで、ポーズの練習をさせていただきます」

 俺は、一切の感情を排した完璧な営業スマイル(目は完全に死んでいる)で、深々と九十度のお辞儀をした。


「アッハハハハハハ!! アンタ、本当に最高の社畜ね! 見事なまでの手のひら返しだわ!」

 マキ博士が、腹を抱えて大爆笑する。


 笑えばいいさ。

 プライドで飯は食えないし、尊厳でローンは払えない。

 あのクソみたいな会社で、すり減るだけの人生を送るくらいなら、フリフリのドレスを着て「きゅるんっ☆」と叫ぶ方が、よっぽど生産的で建設的なビジネスというものだ。

 俺は、己の魂を完全に金と休日に売り渡した。


「さあ、それじゃあさっそく、変身ポーズのシミュレーションを……」


 俺が社畜の極みへと到達し、羞恥心を完全に捨て去ったその時。

 不意に、ラボの雰囲気が変わった。


 笑っていたマキ博士の顔からスッと表情が消え、彼女の視線が、コンソールデスクの端にあるサブモニターに釘付けになったのだ。


「……どうしました?」

 俺は、スーツのネクタイを締め直しながら尋ねた。


「……おかしいわね」

 マキ博士は、咥えていたタバコを灰皿に置き、凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。


「シロ、あんたが着任してからここ数日、ノワールの発生頻度が異常に上がっているのは知っているわよね」


「ええ。おかげで俺の睡眠時間が削られまくって、慢性的な寝不足です」


「単なる自然発生じゃないわ。これ、発生の波形に明確な規則性がある」


 モニターには、新東京市の地図上に、ノワールが出現したポイントが赤い点でプロットされていた。

 点が次第に増え、特定の区画を中心に、まるで獲物を追い込むように円を描くように分布している。


「まるで、誰かが意図的に人間をストレスのかかる環境に追い込み、そこから生じる『絶望』のエネルギーを効率よく回収するために、ノワールを『養殖』しているみたいなデータよ」


「養殖……? そんなことが可能な奴がいるんですか」

 俺の脳裏に、昨夜の人型ノワールの不気味な笑い声が蘇る。明らかに知能が高く、人間を盾に取るという狡猾な手段を使った怪物。


「分からない。でも、もし黒幕がいるとしたら、そいつは人間社会のシステム……特に理不尽な構造を深く理解し、それを利用している知性体よ。ただ本能で暴れるだけの化け物じゃない。軍の上層部も、まだこの異変には気づいていないか、あるいは……」


 マキ博士の言葉が濁った。

 軍の上層部が、何かを隠しているとでも言いたげな表情だ。

 俺の平穏(?)な副業ライフに、さらに厄介な陰謀の気配が漂い始めたのを感じた。


 ヴヴヴヴヴヴッ!!


 その重苦しい空気を切り裂くように、ラボ全体に赤いエマージェンシー・アラートが鳴り響いた。


「チッ、また出たわ! 新東京市の東区画、大型のノワール反応よ!」

 マキ博士が、険しい顔でメインモニターを振り返る。


「……ポーズの練習は後回しですね。特別有給休暇のポイントを稼ぐために、さっさと片付けてきますよ」

 俺はネクタイを緩め、ワープの準備に入る。


「待って、シロ。気をつけなさい。現場には……もう一人、『未知の反応』が出ているわ」


「未知の反応? ルビィさんではないんですか?」

「違う。M.A.G.I.C.システムに登録されていない、独自の魔力波形よ。データにない存在。……とにかく、飛んで!」


 ――強制転送ワープ


 光の奔流を抜け、俺が到着したのは、休日のためシャッターが閉ざされた大型ショッピングモールの広場だった。


「さて、新しい変身ポーズのお披露目といくか……」


 俺は死んだ魚の目で、視界の端に出現した新しいプロンプトの指示通りに、両手を顔の横で猫の手のように丸め、片足を跳ね上げた。


「煌めけ、私の純情ピュア・ハート。世界に届け、愛の奇跡にゃんっ


『きゅるんっ☆』

 という情けないシステム効果音と共に、背中の天使の羽と過剰なフリル、そしてネオンサイン付きの二トンのステッキが召喚された。

 羞恥心はすでに宇宙の彼方に捨ててきた。俺は給料3倍の戦士だ。


「さあ、残業代の糧になれ、化け物……って、なんだあれは」


 俺はステッキを構えて前方を睨み据え、しかしその動きを止めた。


 広場の中央で、ビル三階ほどの高さを持つ巨大なスライム型のノワールが暴れている。

 だが、そのノワールを圧倒している『存在』がいた。


「はぁぁぁぁッ!!」


 鈴を転がすような、しかし凛とした可憐な少女の声。

 青い光。


 そこにいたのは、俺やルビィのような、軍のシステムによる人工的な作り物の魔法少女ではなかった。


 清らかな青いセーラー服風の衣装。

 透き通るようなサファイアブルーの髪。

 彼女の杖から放たれるのは、絶望を力でねじ伏せる物理攻撃でも、氷のような冷徹な魔法でもない。


 純粋な『希望』。

 見る者の心を暖かく包み込むような、本物の魔法の光が、スライム型ノワールの巨体を次々と浄化していく。


「あんなの……軍の資料にはなかったぞ」


 俺が呆然と立ち尽くしていると、その青い魔法少女が俺の存在に気づき、クルリと振り返った。

 歳は高校生くらいだろうか。純真無垢な大きな瞳が、俺の死んだ魚の目と、純白の(無駄に派手な)衣装を捉える。


「あ……! あなたは!」


 少女は、ぱぁっと顔を輝かせた。


「動画で見ました! 純白の星、シロお姉様ですね!!」


「……は?」

 俺の口から、間抜けな声が漏れた。


 お姉様。

 三十歳のヒゲの生えかけた(今は消えているが)社畜のおっさんに向かって、この希望に満ち溢れた本物の魔法少女は、今、なんと言った?


「私、ずっとお姉様に憧れてたんです! どうか、私とお友達になってください!!」


 目をキラキラと輝かせながら迫ってくる青い魔法少女。

 その後ろでは、浄化され損ねたノワールが再び立ち上がろうとしている。


 俺の胃が、再び激しい痛みを訴え始めていた。

 ルビィ(上司)の重い愛に続き、今度は純真無垢な後輩(?)からの熱烈な崇拝。

 俺の平穏な(過酷だが)社畜ライフは、いよいよ引き返すことのできないカオスへと突入しようとしていた。

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