解きほぐす
「橘はどうだ?」
早瀬さんの漠然とした質問に、和泉先輩は案じるようにして答えた。ここは保健室である。早瀬さんが和泉先輩を呼び出した格好である。昼休みには患者や患者もどきが大勢押し寄せるなんて思い込みだったらしい。いや、単に弁当食う前だからか。
「今日欠席するって連絡があったけど、さっきラインがきて大丈夫だって」
「そうか、それならいい。俺は先日からずっと気になっていたことがある」
俺は黙って聞いているしかない。ここにきてまったくの役立たずだ。
「何?」
若干うつむき気味の和泉先輩は怯えているように見えた。
「お前と橘の距離感だ。一年の頃確かに仲が良かった。しかし、この間から見られたのはそれとは違う」
「そりゃずっと一緒にいれば距離感は変わるよ。言って悪いけど早瀬君に知れない時間がもう流れているのよ」
確かにその通りだ。一方は留年しちまったからな。けれど、和泉先輩の言葉が空々しいと言うか、声自体が空虚に聞こえてしまう。
「そうだ。俺の知らない時間があった。そういうことだな」
やや間があって。
「時に和泉、お前生理の時どうしている」
おい! なんか雰囲気的に大声出しちゃいけないって感じだったが、さすがにそこは止めるぞ、聞き方ってのをだな。昨今、セクハラなんだと案件がひっきりなしに取り沙汰されてるんだぞ。ICレコーダーは今度買っておこう。今からスマホの録音機能をいじり始めたら怪しまれるかな。
「変なの。そんなこと女子に聞いちゃだめだよ。まあ早瀬君にとっては解決のために必要だからきいているんでしょうけれど。私は別に重い方でもないから、取り立ててどうのと言うことはないよ」
とはいうものの、デリカシーのない男子を生理的に無理で邪険にしようとしているわけではない。それどころかむしろそつなく話をまとめようとして聞こえる。乾いた声で。
「そうだな。一年の頃の記憶をたどっても、お前が授業中に気分が悪いと言って立ち上がったことはないしな」
和泉さんはあっけらかんとして、
「早瀬君、キモイよ。そんなこと覚えてるの?」
それでも苦笑いをしていた。随分乾いた笑いだな。よくこんなデリカシーのない問いに答える気にもなるもんだ。
「記憶力にはささやかな自信がある。ところで俺には何度か橘が出て行った記憶がある、お前と違ってな」
「そうだね、美和ちゃんは辛そうだね」
和泉先輩は顔色を曇らせ、
「ということは痛み止めを飲むだろうな」
早瀬さんの一言に黙ってしまった。それも見越していたのか、早瀬さんは将棋をしているかのようにして問い続ける。
「和泉、二年になっても保健委員なのはなぜだ?」
「それはしん……、進路のことよ」
和泉先輩はさっと顔を上げた。責めるような、射るような、それでいて心を悟らせないような視線だった。
「そうだな。お前の母親は薬剤メーカーの重役だ。お前が薬剤師とかそのメーカーに就職とか考えてもおかしくないな」
「ホント、早瀬君、キモイ通り越して不気味だよ、早瀬君の前でそんな話したっけ?」
「ああ、一年の二学期の中間テストの頃だ」
よくそこまで覚えてるな。俺の方が顔が引きつりそうだ。てことはさぞかし和泉先輩は心中穏やかではあるまい。
「さっきの質問の答えね、私が保健委員なのはそういうことよ」
「ああ、橘の世話もできるしな」
沈黙二度目。早瀬さんから目を逸らしてしまった。
「こないだ、保健室に来て薬品棚を開けたな。俺はてっきり片付けでもしているのかと思ったが、それは違った。薬を返したんだろ」
「何言ってるの? 委員が薬をいじっちゃダメなの? それに、真白君の処置をしたじゃない。何かおかしなことでもあるの」
声が明らかに変わった。焦っている、俺にも分かるくらいに。
「いや全然、むしろ真面目な保健委員は頼りになる」
「でしょ。私、しょ……将来のこと考えて今からしっかりやってんだよ」
「それなら、薬剤の過剰摂取がどうなるかも分かっているんだろ」
瞬間、和泉先輩の体が強張った。制服で覆われているのに、俺にも見えるくらいに。
「錠剤でも砕けば顆粒になり、飲料に混ぜることができる。抗躁薬、使ってないだろうな」
和泉先輩の体がびくついた。コーソーヤクって何? 後で調べます。
「自分の行為に胸を張れるか? 和泉」
和泉先輩の体から力が抜けた。またうつむいてしまった。
「ねえ、早瀬君、私どうしたらよかったの?」
「無理しなければよかっただけだ、俺はそう思う」
ああ、それはゲロッたってことだね。
休み時間を使って俺と早瀬さんは教務室や生徒会室に行っていた。生徒会で会計を務めている橘先輩の情報を仕入れるってのもあったけれど、早瀬さんは書記の記録の方がメインだったようだ。いわく、あの書記の方は几帳面で、日々の業務や来訪者をこと細かく日誌につけているとのことだった。実際、橘先輩が生徒会役員になった一年の後半からの記録があり、そこには橘先輩が二年になってからの変化もあった。すなわち、同行者としての和泉先輩の来訪の記述の急増である。その理由を役員の方々に聞いても納得できる答えがなかったのか、早瀬さんは教務室へ。橘先輩と和泉先輩の担任に事情聴取。担任先生は早瀬さんともあって、少し困り顔だったが、早瀬さんの質問にはさすが教師、記録を基に話をしてくれた。和泉先輩が橘先輩と同行して生徒会室に来るようになる二日前、進路希望調査を行ったことも聞けた。その二週間後からだ。橘先輩の異常が目立つようになったのは。
「どうしてって聞かないんだ、それも分かってるのかな?」
和泉先輩はもはや悄然としている。心配や不安や怒りや焦燥をとっくに通り過ぎてしまった、あるいはもうどこかに置き去りにしたような、そんな様子になった。
「いいや、少なくとも今の橘の状態を緩和するには、お前が何もしなければいいと分かっただけで、それ以上は俺が口をはさむことじゃない」
「そっか、でも聞いてほしいかも。あのね、確かに早瀬君たちが調べたとおりだよ。でもね、私がそうしたのはね、なんとなくなんだよ」
顔を上げ力なく言った。他に言い様がない、ってことは見て取れるが、なんとなくだって? 薬の過剰摂取は命にかかわることだぞ、それをなんとなくで。たったそんなことで。と思って、俺は止まってしまった。他人にとっての「そんなこと」は、当人にとっては「そんなこと」ではないってのは、よくあることだ。たとえば、俺が誰かに恋をしたとしよう。髪を掻き上げるしぐさに、不器用そうな笑顔に、ちょっとした癖に、他人にとってはどうでもいいような、「そんなこと」で俺は恋に落ちることがあるだろう。卑近な例だが、「そんなこと」は世間であふれている。
「そこは大丈夫。美和ちゃんの体重も知っているから、それから計算してたから」
そういう問題じゃないだろ。と言うと、
「代理ミュンヒハウゼン症候群。分かるか、和泉」
はっとする和泉先輩。俺にふられなくて正解。分からない俺はマイ・スマホで検索。よく知ってんな、そんな医療用語。あ、薬品関係の重役の娘さんなら、知って、るか?
「児童虐待とかでしょ。私は」
「そうお前の場合とは違うかもしれない。けれど、そういう心象だったのかもしれないだろ。橘にしろ、周りにしろ。橘にとってお前が必要な存在だと認めてほしかったんだろ」
「そうかもねえ。ねえ、早瀬君、私自首した方がいい?」
「俺は刑事でも検事でもないし、弁護士でもない。ただ俺に依頼をしてきたのは止めてほしかったからだろ。それならお前は本当の意味で橘と友人でいられるんじゃないか?」
いたずらにしちゃ、壮大すぎてヤバいけれど、
「私美和ちゃんの友達だって言ってもいいのかな」
俺は言うまいと思っていたが、言った。
「錠剤ってさ、顆粒にして飲み物に混ぜても味が分かんなくなるってことなんて、あるんですかね」
「え?」
ちゃんと混ぜたと思っても残るし。
「つまり、橘はうすうす気づいていたんじゃないか?」
和泉先輩は崩れた。
「わ……、私……」
その時だった。保健室の戸が開いた。
「ねえ、咲ちゃん。どうしたの? 今度は咲ちゃんの具合が悪いの?」
勢いよく入って来ると橘先輩は二度三度咳をした。俺はこれは知らんぞ。と早瀬さんを見た、いや睨んだ。
「俺が連絡をもらっていた」
いや、もっとフォローを。
「美和ちゃん、ご……」
もう号泣だ。言葉が形式を持ってない。
「咲ちゃんごめんね」
和泉先輩が泣きはらした顔を上げた。俺も思わず橘先輩を見てしまった。
「これは共犯だな、あえて言うなら」
いや何言ってんだよ。それってもはや自作自演。早瀬さんが否定……ちょっと待てよ、早瀬さん否定してたっけ。
「家のこととかさ、進路のこととかがって私もちょっとむしゃくしゃしてて。自暴自棄って言うのかな。ずる休みとか労わられたいなとか思ってたんだ」
だから、知ってて飲んでただと、それこそ命がさ、ってこの先輩たちいったい何考えてんだよ。……危ないことを共有するって。いや、ちょっと自省。多からずやってんのかもしれない、俺も。
「お義母さんとさ、少し仲良くなれたよ。あれって早瀬君でしょ」
なんのこと、と思いつつ、浮かんだのは先日の橘邸でのこと。帰り際に熟女と話していたな。一体、何をどうしたら橘先輩とお母さんとの距離を縮めることができたのやら。
「ああ、橘とあの義母の利き手が違った。だから食器類の並びが違ってしまうんだ。それを気にしないものもいるだろうが、橘は気にしてしまったんだろうな」
「うん、嫌がらせかって思って。でも違った」
ああ、これは橘家だけの事柄ではないな。こんな風にして人ってのはボタンの掛け違い状態で関係を続けてる、身に覚えがないとは言えないし。
「咲ちゃん、だからこれは秘密。ね、友達同士の約束」
和泉先輩は早瀬さんと俺の顔を見てから橘先輩の手を取ってまた泣きじゃくった。




