↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

『至高の騎士の最期』

六月の生温かい湿気を孕んだ風が吹くたび、泥と血の混じり合った重い匂いが鼻を突く。

クラークの周りには、もはや誰一人として立っている者はいなかった。

ただ一人、朱に染まった血の海の真ん中に孤立した将軍。全身に十数箇所どころか数十箇所の深手を負い、引き裂かれた甲冑の隙間から溢れ出る血が、足元の黒い泥をいっそう赤く染めていく。

しかし、彼を二重三重に取り囲む数千のラシル兵は、槍を構えたまま金縛りに遭ったかのように身をすくませ、じりじりと後ずさっていた。全身から血を流し、息も途絶えだえなはずの男——その眼光から放たれる圧倒的な気迫と死に狂いの威厳に気押されていたのだ。数千の大軍が、たった一人の満身創痍の武将を前に、恐怖で息を殺していた。

風が止み、恐ろしいほどの静寂がゆっくりと黄山原を包み込んでいく。

クラークはヒューヒューと鳴る胸の奥から静かに息を吐き出すと、重い腕を持ち上げ、ゆっくりと愛剣を天へと掲げた。幾人もの生き血を吸い上げた鋼の刃は黒く澱み、ボロボロに刃こぼれして見る影もない。

彼は静かに頭を上げ、空を見上げた。

どんよりと重く垂れ込めた六月の雲の隙間から、一筋の冷たい陽光が差し込み、彼の血塗られた顔を静かに照らし出す。

クラークは光の差す空を仰いだまま、乾いた唇をかすかに動かし、短く何かを呟いた。

出陣の夜、自らの手で命を奪った愛する妻と幼き子供たちの名であったのか。それとも、愚王の狂気によって黄泉の国へと引きずり込まれようとしている、愛しき祖国ダラーンへの別れの祈りであったのか。

その消え入るような呟きを聞き届ける者は、この地上には誰もいなかった。

風が吹き抜け、呟きを終えたクラーク・ダナミアはゆっくりと瞳を開いた。

その瞳の奥には、妻子を殺めた悲哀も、国を滅ぼされる怨嗟も、死への恐れすらも跡形もなく消え去っていた。そこにはただ、武人として己の生を最後まで全うする、澄み切った明鏡止水の境地だけが存在していた。

「——ダラーンに、栄光あれ」

静かだが、野の隅々にまで通る澄んだ声。

言い終えるやいなや、クラークは残された全神経と生命力を脚に込め、泥を蹴って跳んだ。数千のラシル兵がひしめく陣の只中へ、たった一人で躍り出たのだ。

ズウッ、と背筋が凍るような重い肉音がひびき渡る。

無数の槍が一斉に動き、前後左右から彼の胴を、胸を、肩を穿ち抜いた。

幾十本もの冷たい槍の穂先が肉を裂き、骨を砕き、彼の体を空中へ縫い留める。

痛みの叫び声など、ひとつとして上げなかった。

槍で貫かれたまま、クラークは途絶えかける最後の意識を振り絞り、刺さった槍を押し返すようにして、力強く一歩前へ踏み出した。そして、眼前で槍を握りしめ震えている若きラシル兵の瞳を、その凄絶な眼光だけで射殺すようにじっと見つめた。

ついで、糸が切れたように静かにその場へ倒れ伏した。

……完全な静寂が、黄山原を支配した。

数千のラシル軍からは、大将首を上げた歓声すら上がらなかった。圧倒的な数の暴力をもって勝利したはずの彼らを打ちのめしていたのは、重い疲弊と、恐ろしいほどの徒労感、そして言葉を失うほどの異様な静けさであった。

ラシル軍の総大将ムジン・ユシンは、静かに馬から降りると、雨上がりの湿った泥の上に立った。自ら重い兜を脱ぎ、胸に手を当てると、血と泥にまみれて横たわるクラークの遺体に向かって、深く、深く頭を下げた。

『国士』にして『至高の騎士』——クラーク・ダナミアは、こうして歴史に刻まれる凄絶な最期を遂げたのである。


登場人物一覧表


* クラーク・ダナミア:『国士』『至高の騎士』と称えられるダラーン王国の将軍。人格・武勇ともに国内外から厚く尊崇されている。出陣にあたり自らの妻子を自らの手で斬り捨て退路を断ち、黄山原にて五千の「死卒」を率いて死闘を繰り広げ、凄絶な最期を遂げた。

* イリアード:アルストラーナ帝国のセレスティア親王。十万を超える援軍を率い、ラシル軍とともにダラーン侵攻を進める若き将。黄山原の丘の上からクラークの命を賭した戦いと最期を見届け、深い敬意を示した。

* ギジル王:ダラーン王国の国王。かつては「ダラーンの奇跡」と称された英明な賢王であったが、親政や猜疑心の果てに狂気へと変貌。アルストラーナの迫る危機を顧みずラシル攻略の執念に固執した。

* ムジン・ユシン:ラシル王国の名将・総大将。五万の大軍を率いて黄山原でダラーン軍と対峙した。決闘の末に倒れたクラークの遺体に向かい、深く頭を下げて敬意を表した。

* ソージュ:かつてギジル王に直言を繰り返したダラーン王国の賢臣。王の狂気によって排せられ、冷たい獄中で息絶えた。

* スライロ:ギジル王に諫言した忠直な臣下。王によって辺境へと流罪にされた。

用語集一覧表

* ダラーン王国:かつて繁栄を誇った国家。ギジル王の狂気とラシル攻略への執着、アルストラーナ帝国とラシル軍による挟撃によって滅亡の危機に瀕する。

* ラシル王国:ダラーン王国と激しい戦闘を繰り広げていた国家。都まで追い詰められていたが、アルストラーナ帝国の援軍を得て反撃に転じた。

* アルストラーナ帝国:東海を隔てた大国。巨大な軍勢(征討軍十万超)を水陸から派遣し、ラシル王国を支援してダラーン王国の背後を突く。

* ビガンテ:ダラーン王国の王都および城塞。ギジル王の宮廷が置かれている。

* 黄山原(こうざんげん):ビガンテ城の南西に広がる荒れ果てた平原。クラーク率いる五千のダラーン兵とムジン・ユシン率いる五万のラシル軍が激突した凄惨な死闘の地。

* オテゲン皇国 / 燕国:かつてイリアード親王によって討ち取られた名将や騎馬軍団を擁していた諸外国。

* 死卒:生への執着を捨て、己の命を投げ打って敵を道連れにしようとする兵士の群れ。妻子を手に掛け退路を断ったクラークの兵たちがこれに該当する。

* 『国士』 / 『至高の騎士』:クラーク・ダナミアを象徴する称誉・二つ名。その高潔な武人としての誇りと武勇を称えて呼ばれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。