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『黄山原の死卒』

六月の空気は重く沈み、生温かい湿気を孕んでいた。

アルストラーナ帝国の万の軍勢を率い、東海を北上して半島に上陸したセレスティア親王イリアードは、ラシル軍の兵とともにダラーン王国の都ビガンテを目指して進軍を続けていた。野に生い茂る初夏の草々が軍靴に踏みにじられ、青く甘い匂いが立ち上る。

しかし、ビガンテ城の南西に広がる荒れ果てた平原——黄山原(こうざんげん)から届く報せは、異様な膠着を告げていた。ラシル王国の名将ムジン・ユシン率いる五万の大軍が、わずか五千のダラーン兵に足止めされているというのだ。

「五万の軍勢が、たった五千の残党に苦戦しているだと?」

本陣の天幕の中、皮の鞍に腰掛けたイリアードは眉をひそめた。六月のぬるい風が陣幕を大きく揺らす。異国の戦場で足止めが長引けば、兵糧の補給が途絶え、十三万を数える帝国軍全体の優位性が揺らぎかねない。

「敵の将は誰だ」

若き親王の静かな問いに、膝を突き、額に冷や汗を浮かべた斥候の兵が身震いしながら答えた。

「ダナミア……クラークにございます。あの男、出陣にあたり自らの妻子を自らの手で斬り捨て、『生きて辱めを受けるより、死して忠義を全うせよ』と兵に言い含めたとのこと……!」

「……己の家族を殺して出陣したか」

イリアードは腕を組み、天幕の隙間から黄山原の空を見上げた。六月の空は高くなく、どんよりとした薄雲が低く垂れ込め、湿った空気が泥色の野を覆っている。

自らの退路を裁ち、生への執着を一切捨て去った狂気。それは兵法において最も恐ろしい「死卒」の群れを意味していた。五千の兵すべてが、己の命を捨てて敵の命を道連れにしようとする鬼と化しているのだ。

イリアードは馬に跨がり、鞍を叩いてラシル軍の陣営に近い丘へと馬を走らせた。

丘の上から見下ろす黄山原は、青々とした夏の草木と黒い泥、そして朱色の血と双方が上げる死狂いの叫び声が渦巻く凄惨な地獄と化していた。

ダラーンの陣を取り囲むラシルの鮮やかな青い旗印。だが、その巨大な波を力任せに押し返しているのは、わずかな黒い一群であった。その中心に立つ男——身の丈が高く、幾人もの血で濡れた漆黒の甲冑を纏ったクラーク・ダナミアが、汗と血を撒き散らしながら自ら剣を振るっていた。

ラシル軍の将ムジン・ユシンは、死を恐れぬダラーンの狂気に抗うため、若き騎士たちを先鋒に立てた特攻を命じていた。命を燃やすように疾走するラシルの若者たちが単騎でダラーン陣へ飛び込み、次々と討ち取られていく。

「哀れな……」

イリアードは馬上でぽつりと呟いた。若い騎士の首が討ち取られて飛ぶたび、ラシル陣営から悲鳴のような怒号が上がり、悲憤に狂ったラシル兵がダラーンの陣へと怒涛のごとく雪崩れ込んでいく。

一回、二回、三回、四回。

四度にわたるラシルの猛攻を、クラーク率いる五千はすべて押し返した。敵を屠るたびにダラーン陣営から上がる勝鬨は、六月の重い空気を震わせ、地響きとなって丘の上のイリアードの耳にまで届いた。

だが、押し返すたびにその黒い群れが確実に小さくなっているのを、イリアードの冴えた眼光は見逃さなかった。ダラーンの兵は一人、また一人と泥に伏し、立ち上がることすらできぬ者も、口から血を吐きながら這いずり、ラシル兵の足に噛み付いていた。

「親王殿下、我が帝国の鉄騎兵を投入し、一気に踏み潰しますか?」

隣に手綱を握る副将が進言したが、イリアードは静かに首を振った。

「無用だ。ムジン・ユシンにやらせろ。これは彼らの戦争だ」

何よりイリアードは、『国士』『至高の騎士』と呼ばれ、滅びゆく国に最後まで咲き誇るクラーク・ダナミアという男の「最期」を、この目で確かめたかったのである。


登場人物一覧表


* クラーク・ダナミア:『国士』『至高の騎士』と称えられるダラーン王国の将軍。人格・武勇ともに国内外から厚く尊崇されている。出陣にあたり自らの妻子を自らの手で斬り捨て退路を断ち、黄山原にて五千の「死卒」を率いて死闘を繰り広げ、凄絶な最期を遂げた。

* イリアード:アルストラーナ帝国のセレスティア親王。十万を超える援軍を率い、ラシル軍とともにダラーン侵攻を進める若き将。黄山原の丘の上からクラークの命を賭した戦いと最期を見届け、深い敬意を示した。

* ギジル王:ダラーン王国の国王。かつては「ダラーンの奇跡」と称された英明な賢王であったが、親政や猜疑心の果てに狂気へと変貌。アルストラーナの迫る危機を顧みずラシル攻略の執念に固執した。

* ムジン・ユシン:ラシル王国の名将・総大将。五万の大軍を率いて黄山原でダラーン軍と対峙した。決闘の末に倒れたクラークの遺体に向かい、深く頭を下げて敬意を表した。

* ソージュ:かつてギジル王に直言を繰り返したダラーン王国の賢臣。王の狂気によって排せられ、冷たい獄中で息絶えた。

* スライロ:ギジル王に諫言した忠直な臣下。王によって辺境へと流罪にされた。

用語集一覧表

* ダラーン王国:かつて繁栄を誇った国家。ギジル王の狂気とラシル攻略への執着、アルストラーナ帝国とラシル軍による挟撃によって滅亡の危機に瀕する。

* ラシル王国:ダラーン王国と激しい戦闘を繰り広げていた国家。都まで追い詰められていたが、アルストラーナ帝国の援軍を得て反撃に転じた。

* アルストラーナ帝国:東海を隔てた大国。巨大な軍勢(征討軍十万超)を水陸から派遣し、ラシル王国を支援してダラーン王国の背後を突く。

* ビガンテ:ダラーン王国の王都および城塞。ギジル王の宮廷が置かれている。

* 黄山原(こうざんげん):ビガンテ城の南西に広がる荒れ果てた平原。クラーク率いる五千のダラーン兵とムジン・ユシン率いる五万のラシル軍が激突した凄惨な死闘の地。

* オテゲン皇国 / 燕国:かつてイリアード親王によって討ち取られた名将や騎馬軍団を擁していた諸外国。

* 死卒:生への執着を捨て、己の命を投げ打って敵を道連れにしようとする兵士の群れ。妻子を手に掛け退路を断ったクラークの兵たちがこれに該当する。

* 『国士』 / 『至高の騎士』:クラーク・ダナミアを象徴する称誉・二つ名。その高潔な武人としての誇りと武勇を称えて呼ばれた。


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