↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

『崩壊の足音』

ダラーン王国の王都ビガンテを包むのは、六月特有の湿り気を帯びたぬるい夜風と、鬱熱とした狂気であった。

かつて繁栄を誇り、精悍な騎士たちの足音が響いた城塞の宮廷は、いまや前線から届く勝鬨に沸き立っている。だが、その狂乱の裏には、薄氷を踏むような冷ややかな緊張感が沈殿していた。

ラシル王国の国境線を突破したダラーン王国の精鋭部隊は、怒涛の勢いで敵陣を破り、ラシルを絶体絶命の城塞へと追い詰めていた。城が落ちるのも時間の問題――そう誰もが信じて疑わなかった。しかし、その圧倒的な優勢の影で、大国アルストラーナ帝国による巨大な救援軍が、水陸の双方から静かに、そして確実にダラーンの背後へと迫りつつあった。

高楼の玉座に深く腰を沈めたギジル王は、重厚な金杯を傾け、酒精に濡れた唇を歪めた。眼下に広がる戦況図を睨みつけながら浮かべる笑みには、暗い狂気が宿っている。かつて「ダラーンの奇跡」と称えられ、賢王として英名をとどろかせた面影はどこにもない。ラシルを徹底的に討ち滅ぼそうとする執念と過度な親政、そして日に日に深まる猜疑心の果てに、その魂は荒々しい狂気へと変貌を遂げていた。

かつて王の過ちを正そうと直言を繰り返した賢臣ソージュは冷たい獄中で息絶え、忠直なスライロは辺境へと流罪となった。正論を口にする者は一人また一人と去り、王の耳に届くのは、耳に心地よい媚びへつらいと虚飾の勝鬨ばかりであった。

「……大、大王様!」

重い扉を押し開け、汗と脂に塗れた側近が意を決して玉座の前へ平伏した。蒼白な顔を床に擦り付けながら、震える声を絞り出す。

「背後より……アルストラーナ帝国の救援軍が押し寄せております! 我がダラーン王国征討軍は十万を超え、すでに海を渡って我が国の背後を突く構えです……!」

側近の切迫した報告にも、ギジル王は酒杯を置こうともしなかった。不機嫌そうに鼻で嗤うと、酒を煽り、薄赤い滴を顎へ伝わせた。

「ラシル王国の息の根を止めるのが先だ。アルストラーナ帝国の援軍など恐れるに足らん。我が軍の圧倒的な武力でラシルを握り潰し、そのまま帝国の青二才どもも蹴散らしてくれよう」

王の言葉に、周囲の側臣たちは一斉に歓声を上げ、迎合の言葉を口々にはやしたてた。

*

王城がラシル攻略の狂熱と虚妄の勝利に酔いしれるその夜。兵曹の詰所は、まるで時の流れから取り残されたかのように静まり返っていた。

湿った六月の夜気が、開け放たれた窓から忍び込んでくる。その静寂の中に一人、たたずむ将軍の姿があった。

『国士』『至高の騎士』——そう称えられ、その高潔な人格と並び立つ者のない武勇によって、国内外の誰もが惜しみない尊崇を寄せる武人、クラーク・ダナミアである。

クラークは使い古された布を手に、静かに愛刀の刀身を磨いていた。 窓から差し込む冷たい月光を弾き、鋼の刃が妖しく澄んだ光を放つ。その身に纏う空気には恐れも迷いもなく、ただ深く、静謐な覚悟だけが宿っていた。六月の夜風が彼の灰色の髪をかすかに揺らす。

「将軍……! 将軍クラーク!」

詰所の静寂を破り、息を切らした部下が駆け込んできた。肩を激しく上下させ、膝を折りそうになりながら声を震わせる。

「ラシルを追い詰めている前線部隊の背後へ……アルストラーナ帝国とラシルの挟み撃ちの陣が完成しつつあります……! このままでは……このままでは我が軍が挟殺されます!」

部下の目には絶望の色が浮かんでいた。ラシルを壊滅させようと前傾姿勢を深めすぎたダラーン軍の背後は、アルストラーナ帝国の大軍に対してあまりにも無防備であった。勝利の絶頂に酔いしれている最中に、逃げ場のない挟み撃ちの罠へと嵌まり込もうとしているのだ。

報告を聞いても、クラークの布を動かす手は止まらなかった。 彼は拭い終えた刀を静かに鞘へと収めると、カチリと澄んだ金属音を響かせた。そして、窓の外――雲の合間に見え隠れする夏の月を見上げた。

「……一国の存亡は天の命にあらん」

澄んだ瞳で夜空を見つめたまま、クラークは低く、穏やかな声で呟いた。その声には、荒れ狂う時代の濁流をすべて呑み込むような静かな包容力があった。

「だが、臣下の義は己の命を尽くすことにある」

「将軍……」

「引き下がる道など、はじめから無いのだよ」

クラークは部下に視線を向け、優しく、どこか寂しげな笑みを唇に浮かべた。その大木のような肩に手を置き、ポンと軽く叩く。

逃走の道はない。ダラーンという国家の命運がここで潰えることは、火を見るよりも明らかであった。愚王の狂気に引きずられ、国はまさに滅びの淵へと落ちていく。

だが、クラークは迫りくる過酷な運命から目を背けることなく、じっとそれを見据えていた。一人の武人として、国士として、滅びゆく祖国と兵たちのために果たすべき最後の役割を、彼はその胸の奥深くに静かに決意していた。

窓から吹き込む六月の風が、ほのかに草の匂いを含んで詰所を吹き抜けていった。


登場人物一覧表


* クラーク・ダナミア:『国士』『至高の騎士』と称えられるダラーン王国の将軍。人格・武勇ともに国内外から厚く尊崇されている。出陣にあたり自らの妻子を自らの手で斬り捨て退路を断ち、黄山原にて五千の「死卒」を率いて死闘を繰り広げ、凄絶な最期を遂げた。

* イリアード:アルストラーナ帝国のセレスティア親王。十万を超える援軍を率い、ラシル軍とともにダラーン侵攻を進める若き将。黄山原の丘の上からクラークの命を賭した戦いと最期を見届け、深い敬意を示した。

* ギジル王:ダラーン王国の国王。かつては「ダラーンの奇跡」と称された英明な賢王であったが、親政や猜疑心の果てに狂気へと変貌。アルストラーナの迫る危機を顧みずラシル攻略の執念に固執した。

* ムジン・ユシン:ラシル王国の名将・総大将。五万の大軍を率いて黄山原でダラーン軍と対峙した。決闘の末に倒れたクラークの遺体に向かい、深く頭を下げて敬意を表した。

* ソージュ:かつてギジル王に直言を繰り返したダラーン王国の賢臣。王の狂気によって排せられ、冷たい獄中で息絶えた。

* スライロ:ギジル王に諫言した忠直な臣下。王によって辺境へと流罪にされた。

用語集一覧表

* ダラーン王国:かつて繁栄を誇った国家。ギジル王の狂気とラシル攻略への執着、アルストラーナ帝国とラシル軍による挟撃によって滅亡の危機に瀕する。

* ラシル王国:ダラーン王国と激しい戦闘を繰り広げていた国家。都まで追い詰められていたが、アルストラーナ帝国の援軍を得て反撃に転じた。

* アルストラーナ帝国:東海を隔てた大国。巨大な軍勢(征討軍十万超)を水陸から派遣し、ラシル王国を支援してダラーン王国の背後を突く。

* ビガンテ:ダラーン王国の王都および城塞。ギジル王の宮廷が置かれている。

* 黄山原(こうざんげん):ビガンテ城の南西に広がる荒れ果てた平原。クラーク率いる五千のダラーン兵とムジン・ユシン率いる五万のラシル軍が激突した凄惨な死闘の地。

* オテゲン皇国 / 燕国:かつてイリアード親王によって討ち取られた名将や騎馬軍団を擁していた諸外国。

* 死卒:生への執着を捨て、己の命を投げ打って敵を道連れにしようとする兵士の群れ。妻子を手に掛け退路を断ったクラークの兵たちがこれに該当する。

* 『国士』 / 『至高の騎士』:クラーク・ダナミアを象徴する称誉・二つ名。その高潔な武人としての誇りと武勇を称えて呼ばれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。