二十三
日が短くなって風が冷気を纏い、人々の間を刃の様にすり抜けていく。
結局地元に帰る勇気が湧かず、年末年始はバイトが入ったからと親に小さな嘘をついて地元の帰省は見送った。
来年には成人式もあるが、それにも参加しないと伝えた。
心がぐちゃぐちゃのままで向き合えば絶対に後悔する。今は自分の心を整理することが先決だと決めた。それよりも前にその時が来てしまえば元も子もないが、その時はその時で覚悟を決める。
父からは近況の確認の為の電話でぶつぶつと遠回しに嫌味を言われたが、母親からは了解したという短いメールが来ただけだった。
色々と思う所はあったが、親も人間だと自分に言い聞かせてなんとか文句を言うのを我慢した。
文明の進化により暖房器具が今日までに数多く開発された為、ひとたび屋内に入れば心地よい温度が体を包むのだ。
明里のバイト先である喫茶店も温かい空気で満たされている。
冬にしてはあたたかく麗らかな午後の昼下がり。窓からは束の間の柔らかい日差しが店内に差し込む。
数人の客が店内の机やカウンターにまばらに座って午後のひとときを過ごしている。
「お待たせ致しました、フレンチトーストです」
黄金色のフレンチトーストに粉雪の様に粉糖が降り掛かっている。艶やかな宝石の琥珀の様なメープルシロップが硝子のピッチャーに注がれており、苺やバナナ、キウイなどのフルーツが小山を成し、その隣にバニラアイスが添えられている。
この店の人気一番の品だ。
「こちらのフレンチトーストはいつ頂いても美味しいわねぇ」
「ありがとうございます」
明里が今フレンチトーストを運んで来た初老の女性客はフレンチトーストを目の前にして嬉しそうに目を綻ばせた。
彼女はここの常連客の一人、神代京子だ。いつも愛らしい笑い皺を目尻に寄せており、柔らかな白髪をくるりとまとめあげている。仕草も洗練されていて美しい。同性の明里でさえ思わず見惚れてしまう程だ。
明里と京子は年齢がかなり離れているのだが、テレビや今人気の俳優やアイドルの話し、美術館や博物館の展覧会の話しなどでよく盛り上がる。
人と関わる事が苦手な明里が難なく接していられるのは偏に、京子の穏やかな性格と、客と店員という立場の違いがあるから絶妙な距離感を保っていられるからだろう。
「どれだけ食欲が無くてもこれだけは食べられるの。不思議ね」
京子は小さく切り分けたフレンチトーストを口に運ぶ。
はっきりと京子の口から聞いた訳ではないのだが、話しからなんとなく察するに京子は何か病を患っている様だった。
何とも言えない微妙な距離感な為、立ち入った話をしても良いのかとずっと迷っている明里。結局大事な事は何一つ聞く事が出来ていない。
近付きたいのに近付いた途端離れてしまわないか不安なのだ。
「そういえば明里ちゃん東院美術館によく行くのよね?男性の学芸員さんって知ってる?」
予想もしていなかった所から知った名前が飛び出て来て明里は目を丸くさせた。
「今度の展覧会でうちの帯を貸してもらえないかって打診が来たのよ」
京子の実家は有名な呉服屋で婚家は元武家らしいと以前店長からこっそりと教えられた。美術館から打診が来る程見事な一品を手元に持っていてもおかしく無い。
「えっと、天澤さんですか?」
「ええ!そうそう!!」
薄々先の展開が読めて明里が問い掛けると京子が顔を一気に輝かせた。ああ、やっぱり、と明里は思わず苦笑を浮かべた。
京子は外見だけならば上品で大人しそうに見えるが、意外と俳優やアイドルなどが好きなミーハーで、テレビや雑誌で見掛けた芸能人が誰なのかよく明里に聞いてくる。そして気に入った芸能人は孫の様に活躍を見届けて楽しんでいるのだ。
確かに遥は見た目も中身も京子の好みど真ん中だ。
「あいつも罪作りな男だなぁ」
コーヒーを入れながら店長が苦笑を浮かべた。
「あら、店長さんも天澤君とお知り合いなの?」
「遥のおじいさんがここに通ってくれていて、その流れであいつもうちの常連客なんですよ」
「そうなの!?ますますここに来るのが楽しみになっちゃったわ!」
恐らく店長はそれを見越して京子に遥との繋がりを話したのだろう。商売人恐るべし。
「色々趣旨を説明したいからってうちに来てくれたんだけど、来てくれたのがあんまりにも綺麗で優しい男の子だったものだから、私思わずいいわよって言っちゃった!」
きゃっ!と京子が恥ずかしそうに両手で顔を覆った。改めて全年齢型のイケメンの凄まじさを思い知る明里である。
「うちは子供に恵まれなかったし、親戚の子達もお着物に興味が無いから、これを機に東院さんに寄贈しようと思ってて」
思い入れのあるものなら縁のある人に持っていてもらうことが一番良い。だが、それが叶わない事もある。そうなったらきちんと管理して大切にしてもらえる所に託すことが一番だ。
「でも、当の本人がねぇ……」
しかし、先程までの楽しそうな表情がから一変、京子の表情が陰った。京子が呟いた言葉の意味が理解できず、明里は首を傾げた。
「良かったら明里ちゃん、うちの帯を見に来ない?」
突然の京子の申し出に明里は目を丸くさせる。
「良いんですか?」
「うん、美術館に寄贈しちゃったら硝子越しになっちゃうし、そうなる前に出来るだけたくさんの人に触れて欲しいなって思って」
着物や帯などの衣類も美術品として扱われる。
元は身に纏う為に生み出されたものだが、その美しい姿を後世に長く伝えて行く為にも作品に負担を掛けない様にしなければならない。
美しいが故に本来の役目をはたすことが出来ないのは物悲しい気もする。
衣桁に掛けられ、絵画の様に着物や帯を鑑賞するのも良いが、人に着てもらった衣服は殊更美しいものだ。
美術館に依頼される程の一品、できれば硝子越しではなく直接見たい。自分の目で、直接見たい。
「見に行っても良いですか?」
「もちろん」
美術館に展示依頼される程の逸品を直接見られることと、京子の好意が明里にはとても嬉しかった。
そして約束の土曜日、明里は手みやげを持って教えられた住所にやって来たのだが、
「すっげ……」
一人だと言うのに思わず言葉が零れた。
見上げる程高い塀は瓦を葺いた重厚なもので、塀の向こうから所々覗いている松の枝はどれも美しく剪定されている。美容院代すらけちっている明里より手入れされているのだろう。
門も重厚な木材で作られ、どっしりと構えている。形からして侵入者は徹底的に拒んでいる。
自分が行っていいものかどうかぐだぐだと迷っていると約束の時間の五分前となってしまい、遅れたらもっと失礼だと自分に言い聞かせてえいやっとインターフォンを押した。
どきどきしながら待っているとインターフォンから声が返って来た。
『はい、神代です』
「こっ、小泉ですっ」
『いらっしゃい。今門開けに行くわねー』
がちゃりとインターフォンが切れ、明里はほっと小さく息をついた。とりあえず家が間違っていなくて良かった。
「いらっしゃい明里ちゃん。さぁ、入って入って」
「お邪魔します」
ぺこりと頭を下げて門を潜って敷地内に入ると、別世界が広がっていた。門の中の世界と門の外の世界を正しく分けていた様だった。ここだけまるで江戸時代かと思ってしまう程純和風の世界が広がっている。
庭は手入れが行き届いており、どれも美しく切りそろえられていた。池もあり、石造りの小さな橋が池の上に架けられている。立派な石灯籠もあり、名のある寺社の庭と言われても頷ける程だ。
家の中もまるで明里からすれば非日常に近かった。埃どころか塵一つ落ちておらず、床や窓はぴかぴかに磨き抜かれ、ふと目についた所には季節の花々がつましく飾られている。
どこをどう歩いて来たのか分からない程迷路の様な長い廊下を右折と左折を繰り返し、やがて日当りの良い一室の部屋の障子に京子が手を掛けた。
部屋の中には部屋に見合った、深く渋い茶色の大きな座卓がどっしりと置かれている。
「お茶をいれて来るわね。ここでちょっと待っていてくれるかしら?」
京子が部屋を出て行こうとした時、明里は手土産の存在を思い出した。
「あ、これ、少ないんですけど良かったら食べて下さい」
おずおずと紙袋を持ち上げると、京子はぱちくりと目を瞬かせ、やがて目尻のシワを深くさせてやわらかな笑顔を浮かべた。
「ありがとう。あら、長沼堂の羊羹ね。私ここの羊羹大好きなの」
京子の笑顔に明里はほっと胸を撫で下ろした。
手土産は何を持って行くべきか一晩掛けて悩んだ甲斐があった。
手ぶらで行く訳にも行かず、かといって明里の経済力であまり高価なものは買えない。
結局近所で評判の良い和菓子屋さんの羊羹に決めたのである。
京子がお茶の準備の為に席を外し、明里は雪見障子越しに一人で庭を眺めていた。
京子はエアコンで部屋を温めてくれていた様で、真冬といえど寒さは感じない。
庭は春になれば花や木々の色で鮮やかになるのだろうが今は冬だ。まるで庭は眠りについているかの様に静寂に満ちている。色鮮やかな庭もきっと美しいだろうが、これはこれで心が落ち着く。これから芽吹く時を待っていると思うと、この静けさも寂しくは無い。
「おや」
素晴らしい庭に見入っていると、後ろから声がした。驚いて振り向くと、そこには白地の着流しに黒色の羽織りを纏った銀髪の美丈夫がその場に立っていた。
人の形をしているが、とてもこの世のものとは思えない美しさだった。天使や妖精と言われても頷ける。
「え!?」
突然の優雅で美しい侵入者に明里は慌てるしかなかった。
取りあえず警察に電話だ……!と明里は近くに置いていた鞄を引き寄せてスマートフォンを探すがこういう時に限って見つからない。
「もしや探しているのはそなたの横に置いてあるものじゃないか?」
そう言われてはっと気付き、横を見ると確かにスマートフォンが置かれていた。
「ああああありがとうございます!!」
「どういたしまして」
侵入者と思われる男は呑気に明里にスマートフォンの在処を教え、パニックに陥っている明里は間抜けにも礼を述べる。
「お待たせしてごめんなさいね。あら、」
お盆に湯気の立つ湯呑みと、明里が手土産で持って来た羊羹を機切り分けた皿を乗せて京子が部屋に戻って来た。部屋の中の二人を見て目を丸くさせている。
「京子、この娘視えておるぞ」
「あら、明里ちゃん舞鶴さんが視えるの?」
一一〇番に電話を掛けようとしていた明里の手がぴたりと止まった。
「……え?京子さん……お知り合い、ですか」
明里の問いに京子はにっこりと笑って答えた。
「ええ、こちら件の帯の付喪神様、舞鶴さんって言うの」
「よろしく、お嬢さん」
舞鶴はとろける様な笑顔を浮かべて明里に挨拶をした。




