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第9話 初めての呼び捨てと、聖女のわがまま

 下町に『聖女の奇跡』を起こした大騒動から、一夜明けた夜。


 木造アパート『ひだまり荘』の俺の部屋には、何やら妙な空気が流れていた。


 いつもならベランダから入ってくるなり「クロスー! コーラ!」と騒ぐはずのラステアが、今日はなぜか、緑色ジャージの襟元をいじりながら、もじもじとベッドの端に座っている。

 髪の隙間から覗く長い耳が、気のせいかほんのり赤い。


「……あの、どうかしたんですか。とんかつなら、今日はもう肉がないですよ?」


「ち、違うよ! 肉じゃなくて……その」


 ラステアは上目遣いで俺を睨むように見つめ、それから蚊の鳴くような声で言った。


「昨日……どさくさに紛れて、私のこと『ラステア』って呼んだでしょ」


「え……」


 やばっ。いつだろうか。まったく覚えていない。


 しかし、聖女様を呼び捨てなんてした日には、俺みたいなF級冒険者は打首間違いなし。


「……すみません。調子に乗りました。だから処刑は──」


「違うよ!」


 ラステアが勢いよく立ち上がった。長い耳がピコーンと直立している。


「処刑って……そんなことするはずないでしょ、ばか。てか、前々から言ってるでしょ。呼び捨てで良いって」


「し、しかし……」


「嬉しかったんだから。いつもみんなに『聖女様』って崇められて、遠巻きにされてるから……クロスが、普通に名前を呼んでくれたの、すっごく……特別、っていうか」


 最後の方は、完全に声が消え入るようだった。ジャージの袖で真っ赤になった顔を隠している。


 いつもは無自覚でズボラな癖に、こういう時だけ女の子らしい反応をするのは反則だ。


「だから、今度から呼び捨てにすること。これはもう、あれよ。使命。そう。クロスの使命なのよ」


 使命って。大そうなこったな。


「……分かりましたよ。じゃあ、二人の時にだけ、そう呼ばせてもらいます、ラステア」


 呼ぶと、ひまわりでも咲いたかのような笑顔を見してくれる。


「……うん! よろしくね、クロス!」


 一瞬で耳を「ぴこぴこ」と嬉しそうに揺らし、満面の笑みを浮かべる彼女。


 一線引いていた関係が、胃袋を通じて、少しずつ本物の『相棒』に変わっていくような、そんな心地よさが胸に広がった。


 しかし、そんな甘酸っぱい空気は、翌日のギルドで一変することになる。


 ♢


「おいクロス。お前に依頼クエストだ」


 ギルドマスターに呼び出され、執務室に着いた途端、秒で言われてしまった。


「どんなクエストですか?」


「王都の北にある『黒妖精の森』で、魔獣の異常活性化スタンピードの兆候が見つかった。ギルドは大規模な遠征討伐隊を組織する。そこにお前を推薦する」


 依頼書を拝見した時、ギョッとした。


「これ、A級以上の案件じゃないですか」


「言ったろ? 高額のクエストを回してやるって」


 言ってたけど。言ってたけども。


「ま、気張ってくれや。お前なら大丈夫だろう」


 相変わらず強引なギルドマスターなこと。


 黒妖精の森。強力な魔獣が巣食う、王都近郊でも有数の危険地帯だ。


(……魔獣の異常活性化、か。まさか、一昨日俺が倒した魔族の残党か?)


 裏でラステアを守るために動いた結果が、さらに大きな戦いへと繋がってしまっている。


 断ることもできるが、もし魔獣が王都へ押し寄せれば、このアパートでの平穏な『ジャージの聖女様との日常』が壊されてしまう。


「――分かりました。その遠征の依頼クエスト参加します」


 ♢


 その日の夜。遠征の話をラステアに伝えると、彼女はポテトチップスを掴んだ手をピタリと止めた。


「遠征……? 黒妖精の森に? ダメだよクロス、あそこは危ない魔獣がいっぱいいるんだよ」


「大丈夫ですよ。あなたがくれた『世界樹の祝福(永続バフ)』のおかげで、俺のステータス、今バケモノ並みですから。サクッと倒して帰ってきます」


 自分の実力じゃないけど、こういう時は使わせてもらっても良いよな。


 俺が笑って安心させようとすると、ラステアはポテチの袋をベッドに置き、真剣な顔で俺の服の裾をギュッと掴んできた。


「ダメ。私も行く」


「はぁ!? 何言ってるんですか。あなたは国賓の聖女ですよ? そんな危険な場所に――」


「だって、クロスが心配なんだもん! それに……」


 ラステアは俺をじっと見上げ、長い耳をきゅっと伏せながら、少し寂しそうに微笑んだ。


「クロスが遠征に行っちゃったら、私、誰のご飯を食べればいいの? 私の胃袋を掴んだ責任、ちゃんと取ってよね」


 それは、聖女の義務でも、ただのわがままでもなかった。


 俺の隣にいたいという、彼女なりの精一杯の理由だった。


「……分かりました。でも、公式の遠征隊に聖女様を連れて行くなんて無理ですよ?」


「ふふん、任せて」


 あ、嫌な予感


「明日、王宮の会議で『森の穢れを浄化するため、聖女自ら遠征隊に同行いたします!』って大真面目に言ってくるから!」


(また公式行事を私物化する気だ、この聖女様……)


 こうして、しがないF級冒険者と、隠れズボラな氷の聖女による、初めての『共同遠征』が決まった。


 王都の誰もが知らない、ジャンクフードで繋がった二人の戦いが、いよいよ幕を開けようとしていた。

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― 新着の感想 ―
遠征にもジャンクフードたくさん持っていかないと。保存食の硬い干し肉とかだと、聖女様怒っちゃいますよw
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