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衝動の根源

(※エリーズ視点、後半)


照合に手間取っているのか、記録係はまだ現れない。

わたくしは独り、あの回想の続きを手繰り寄せていた。


 * * *


一度目の邂逅から、数日ほどが過ぎた頃。


王宮の回廊を歩いていたわたくしは、ふと足を止めた。

中庭を見下ろす手すりの向こうから陽光が差し込み、石床を眩しく照らしている。

白く跳ね返ったその光が、階下から響く喧騒と混ざり合い、行き交う人々の輪郭をわずかに滲ませていた。


石の廊下に、いくつかの足音だけが規則正しく響いている。

向こうから、革紐で括られた羊皮紙の束を抱えた、見覚えのある姿が近づいてきた。


――あの時の。


「これは、スタイナー令嬢。先日はご迷惑をおかけいたしました」


わたくしに気づくと、彼は歩みを緩め、柔らかな笑みを湛えて丁寧に一礼した。

その至極自然な立ち居振る舞いに、記憶にあるあの時と同じ、穏やかな印象が鮮明に蘇る。


「別に。もう気にしていませんわ」


素っ気なく言葉を返しながら、ほんのわずかに視線を逸らした。

けれど足は、何故か止まったまま動かずにいた。


ふと、先日の彼の言葉を思い出す。

それは媚びでもお世辞でもなく、ただ純粋な観察の結果として述べられた評価だった。

気負いのない口調の奥に、確かな真実を見極める目がある――そんな印象が、強く胸に残っている。


王太子妃はヘスティア様ではないか。

どこへ行っても、耳に入るのは同じような意見ばかり。


けれど、この人なら。

周囲に流されない、彼だけの言葉を返してくれるのではないか。

そんな予感に背中を押されるようにして、気づけばわたくしは口を開いていた。


「――どこへ行っても、同じ名前ばかり聞こえてきますけれど。貴方は、どう思いまして?」


小さく零した問いに、彼は一瞬だけ目を細めた。

だがすぐに意図を察したようで、淀みのない滑らかな響きで言葉を紡ぎ出した。


「評判が立つのは、それだけ注目されているということです。ですが――最終的に選ばれる方が“完璧な方”とは限りません。公務において何を優先し、どの場でどう振る舞えるか。評価の軸は、意外と多岐にわたります」


声音はどこまでも耳に心地よく、何かを断じるような強さはない。

けれどその言葉には、静かな芯が通っていた。


「……多岐に?」


「ええ。たとえば対外の場での受け答え、緊急時の判断、周囲への影響力……書面では測れない部分も、重く見られることがございます」


彼は少し考えるように言葉を選びながら、丁寧に説明を続ける。

それは決して自説を押しつけるようなものではなく、ただ事実をありのままに提示するような語り口だった。


彼が語る視点は、世間で囁かれる“完璧さ”とは、少しばかり角度が違っていた。

所作、家柄、気品――ヘスティア様が称えられる理由は、どれも目に見えて分かりやすいものばかりだ。

けれど、彼の言葉はその枠組みの外側にある……もっと別の、本質的な何かを示唆していた。


「ですから、そうした表面的な評価だけで決まるとは限りません。書面上の評価だけで申し上げるならば、オルドリッジ令嬢とスタイナー令嬢の差はごく僅かだと感じております。祝賀当日の印象が、そのまま結果に結びつく可能性は高いかと。特に祝賀のような公の場では、体調や落ち着きといった要素までが注視されますから」


温かみを帯びた声音のまま告げられたその言葉が、すとんと胸の奥に落ちてきた。

――今の自分が欲しかったのは、まさにこの言葉だったのだと、その時ようやく気づかされた。


……まだ、終わってはいないわ。


噂の奔流に押し潰されそうだった心に、小さな、けれど確かな灯がともる。


自分が選ばれるのだと信じてはいた。

けれど、どうしても拭いきれずにいた正体不明の不安――それに、彼の言葉が鮮明な輪郭を与えていく。


「文官の方は、随分と候補の事情にも詳しいのね」


少しだけ冗談めかして問いかけると、彼は困ったような、それでいて穏やかな微笑を浮かべた。


「記録や進行に関わる都合上、表に出ている範囲の情報は自然と目に入りますので」


丁寧な物腰を崩さぬまま、彼は一拍置いて続けた。


「祝賀も近く、皆様お忙しい時期でしょう。緊張も強くなる頃合いかと存じます」


どこか労わるようなその響きに、わたくしは思わず小さく息をついた。


「……ええ。確かに」


自覚していなかったが、胸の奥に抱えていたものをそっと言い当てられた気がして、わずかに視線を伏せる。

平静を装っていたつもりだったのに、この人の前では案外、隠せてはいなかったらしい。

彼はそれ以上踏み込んでくることはせず、柔和な眼差しを向けたまま、そっと続きを口にした。


「そうした場面では、鎮静作用のある薬草が用いられることもございます。ラディエル抽出液などは比較的穏やかで、軽い不安や高ぶりを和らげるのに使われることがあります」


「ラディエル……?」


聞き慣れない名を、小さく繰り返す。

そのわずかな戸惑いを汲み取るように、彼は言葉を重ねた。


「南方原産の植物から抽出された、医療にも用いられる成分です。お薬が苦手な方でもご安心ください。これは無色透明で、口の中に嫌な味や香りが残りません。服用した直後にお食事をされても、お料理本来の味を損なうことはございませんから」


そして、わたくしの懸念を拭い去るように、ゆったりと頷いて見せた。


「ただ、効き方には個人差があり、わずかに足元が不安定になる方もいらっしゃいます。――ですので、使用の際は念のため医師の指示に従うのが賢明でしょう」


あくまで、落ち着いた説明だった。

けれど最後の一言には、さりげない気遣いの響きが混じっていた。


彼は丁寧に一礼し、流れるような所作で、会話の幕をそっと引き下ろした。

わたくしが立ち止まったまま動けずにいるのを察して、自らが身を引くことでその場を辞したのだろう。


「それでは、失礼いたします。祝賀が良きものとなりますよう、お祈り申し上げます」


静かな挨拶を遺し、彼は再び歩き出した。


わたくしの傍らを通り過ぎる瞬間に、ほんの一瞬だけ、礼を尽くすように視線をこちらへ戻したが、すぐにまた前を向き直る。


抱えた羊皮紙の束を揺らすこともなく、整った足取りで回廊の先へ。

本来の目的地へと遠ざかっていく彼の背中を見送るまで、わたくしはただ、その場に立ち尽くしていた。


再び訪れた静寂の中で、ようやくゆっくりと溜まった息を吐き出す。

胸の奥に残っているのは、微かな高揚と、どうしても消し去ることのできない一つの言葉。


「ラディエル抽出液、ね……」


初めて耳にしたその名は、不思議なほど強く、わたくしの心に引っかかっていた。


彼が語った「書面では測れない部分」という言葉。

そして、先ほど教えられた薬の成分と、その性質。


それらが今、ほんのわずかな可能性の糸となって繋がり始めている。

この違和感を辿った先に、何かが待っている。


――そんな予感がした。


 * * *


そして数日後、わたくしは再びその場所を訪れていた。


王宮の中庭を見下ろす上層の回廊は、祝賀を目前に控えた時期にしては、不思議なほど静まり返っていた。

中庭からせり上がる陽光が白い石壁に跳ね返り、廊下の空気をやわらかく、眩いほどに明るくしている。


外では準備のざわめきが絶え間なく響いているはずなのに、この一角だけは、時が止まったかのように空気がわずかに緩んでいる。

その回廊をゆっくりと歩きながら、わたくしは無意識に胸元へと手を当てた。

ここ数日、同じ考えが、幾度となく頭の中を巡っている。


――ほんの少し、取り乱すだけでも印象は揺らぐ。


祝賀は長丁場。

体調の波など、誰にでも、いつ訪れてもおかしくはない。


ヘスティア様が優位にある。

それは周囲の反応を見れば動かしがたい事実だ。

けれど、あの文官は確かに言ったのだ。


――彼女とわたくしの評価は僅差だ、と。


最後の印象がすべてを左右するのだとしたら。

祝賀の場での振る舞い一つで、結果は十分に変わり得るはずだ。


幾分か、顔色を悪くする。

言葉を詰まらせる。

あるいは一瞬、足元を揺らがせる。

完璧と謳われる令嬢像に、小さなひびが入る――それだけでいい。


その不穏な思考の先に、導かれるようにして一つの名が浮かび上がる。


――ラディエル抽出液。


あの文官が、淡々とその性質を説明していた無味無臭、無着色の薬。


……本当に、ただの鎮静剤なのかしら。

そこまで考えかけて、わたくしはすぐに首を振った。


医師の指示が必要だ、と彼は言っていた。

軽々しく扱うべきものではない――それは重々理解している。

それでも、一度回り始めた思考を止めることはできなかった。


そのとき、回廊の先に、見覚えのある後ろ姿が目に入った。

すっと伸びた背筋に、腕に抱えられた整然とした紙の束。

紺色の文官用上着が、白く反射する光の中でわずかに輪郭を滲ませている。

気づいたときには、思わず声がこぼれていた。


「そこの貴方」


呼びかけに振り向いたのは、やはりあの文官だった。

彼はその柔和な面差しを崩すことなく、流れるように一礼を返した。


「スタイナー令嬢。本日もお疲れさまでございます。何かご用件でしょうか」


耳に馴染む声。

決して踏み込みすぎない、適切な距離感。

あのときと同じ、非の打ち所のない好印象。


わたくしは歩みを緩め、吸い寄せられるようにして彼の前で足を止めた。


「以前、貴方が言っていたでしょう。祝賀の場では体調や落ち着きも見られる、と」


「はい」


「……あのとき、例に挙げていた薬草。ラディエル、と言ったかしら」


その名を出しても、彼の表情は少しも動かない。

ただ、さざ波一つ立たない湖面のような、凪いだ頷きを返した。


「はい。ラディエル抽出液でございます」


「一般的に使われるものなの?」


問いは軽く、あくまで何気ない興味を装って。

対する彼は、変わらぬ調子で答えた。


「医療の場では珍しいものではございません。強い薬ではなく、軽い不安や高ぶりを和らげる目的で用いられることが多いものです」


そこで、彼はほんのわずかに言葉を選ぶように間を置いた。


「ただし、成分の吸収には個人差がございます。稀にふらつきや眠気が強く出る例もあるようですので……服用される方の状態には、くれぐれもご注意ください。特に、空腹時などは効き目が早まる恐れがございますから」


静かな説明。

だが、その一文だけが妙にはっきりと耳に残った。


――空腹時などは効き目が早まる恐れがございます。


その瞬間、わたくしの中で何かが、音を立ててぴたりと噛み合った。


……つまり、早まるということは、それだけ一気に吸収されるということ。

空腹時なら、効きは劇的に強く出る。


思考はもはや予感ではなく、一気に鮮明な具体性を帯びていく。


祝賀は長丁場。

女性は、美しいドレスを着こなすためのコルセットのせいで、どうしても食事量は落ちる。

その最中に、ほんの少し体調を崩す者が現れたとしても――それは決して、不自然なことではない。


通常の薬であれば、独特の色があり、鼻を突く匂いもある。

毒であれ薬であれ、淑女の敏感な五感を欺くのは容易ではない。

けれど、この「ラディエル抽出液」は違う。

それは、水のように澄み、香りもなく、味さえもしない。


日常的に用いられている、穏やかな鎮静薬。

だからこそ、大事になるはずがない。

犯人探しなど、されるはずもない。


――ほんの些細な“揺らぎ”でいい。

人目を引くような大きな事件である必要はない。

ましてや、誰かの命に関わるようなものである必要もない。


ただ、あの完璧な令嬢の印象を、一瞬だけ揺らせばいい。

それで――わたくしは勝てる。


頭の中で、ひとつの形が完成する。

勝ち筋を掴んだとき特有の、確かな高揚が胸の奥で熱く広がった。


先ほどまでの重苦しさが嘘のように、思考は鋭く澄み切っている。

わたくしの口元には、自然と余裕を湛えた笑みが浮かんでいた。


「参考になりましたわ」


言葉とともに、わたくしは艶然と口角を上げ、迷いなく彼の二の腕に触れた。

ポン、と軽く叩いてから、慈しむように指先を滑らせて離す。

ごく短く、けれど確かな親愛を示す礼のつもりだった。

男というものは、得てしてこうした接触を喜ぶものだとわたくしは知っている。


それなのに――文官の顔から一瞬だけ、すとんと感情が抜け落ちた。

だがそれは瞬きする間ほどの空白で、すぐさまいつもの柔和な微笑が、先ほどの綻びを跡形もなく消し去っていた。


……今の、何?

いいえ、気のせいね。

せっかく色をつけてあげたのに、つまらない男。


「お役に立てたのであれば、何よりでございます」


彼の返答を背中で受けながら、わたくしは歩き出した。

もう、この話題を続ける必要も、この文官に用もない。


胸の奥を占めているのは、もはや不安などではない。

不動の確信と、未来を塗り替える一つの決断。

回廊の静寂に溶けるような声で、わたくしは小さく呟いた。


「……ラディエル抽出液。機会は一度あれば十分だわ」


その名を、確かめるように舌の上で転がす。

ほんの少し、揺らすだけでいいのだ――


 * * *


いつの間にか、爪が掌に深く食い込んでいた。

鋭い痛みが、遠のいていた意識を現実へ引き戻す。

そこまで思い出して、ようやく理解した。


あの文官は――


何一つ勧めてなどいない。

ましてや、命じてなどいない。

彼はただ、そこに在る事実を差し出しただけなのだ。

それを受け取り、選び、実行に移したのは――他ならぬ、わたくし。

けれど、それを証明する術など、どこにも存在しない。


胸の奥が、氷を流し込まれたようにゆっくりと冷えていく。


あんな騒ぎになるなど、思いもしなかった。

王太子妃の座が手に入らないのなら、せめて、この罪から逃れなければ。

わたくしの人生が、ここで終わってしまう。

それだけは、何としてでも避けなければならない。


……やはり、あの文官を利用するしかない。


彼と会ったこと、そしてラディエル抽出液について教えを受けたこと。

これらは動かぬ事実であり、彼も認めざるを得ないはずだ。


だが、肝心の会話の内容を知る者は、わたくしとあの男しかいない。

それなら、歪めてこう言えばいいのだ。

「文官から祝賀でその薬を使うよう唆されましたが、わたくしは毅然と拒絶いたしました」と。


薬を実際に仕込むのであれば、給仕の手を借りる方が容易いはず。

ならば、あの文官と給仕が裏で通じていた――そう仕立て上げれば済む話だ。


あの男は、見たこともない顔だった。

平民か……あるいは、貴族であったとしても名のある家の者ではないだろう。

わたくしの実家が持つ権力を持ってすれば、名もなき文官一人をねじ伏せることなど造作もない。


今は、この取調べをやり過ごすことが先決。

一度ここを切り抜ければ、あとは家が動いて証拠を握りつぶしてくれるはずだ。


泥を被るのは、わたくしではなく、あの文官。

後のことは、すべてが片付いた後で考えればいいのだ。


やがて、重苦しい音を立てて扉が開いた。

同時に、引き延ばされていた思考が現実へと戻される。

先ほど退出した記録係の文官が、一人の人物を伴って部屋へ戻ってきた。


「ご確認ください」


促されて姿を現した男――その文官は、どこか戸惑ったような顔を浮かべていた。


その姿に、わたくしは無意識に息を呑んだ。

重なるはずの影が、あまりにも歪にズレていく。


あのときの男は、もっと……。


もっと、静かで。

もっと、柔らかくて。


けれど同時に、どこまでも見通せてしまいそうなほど澄んでいるのに、温度のない目をしていた。


この男には、それがない。

当たり前だ。


…………。


――誰よ、コイツ!


目の前に立つのは、わたくしが先ほど証言した通りの外見を持つ文官だった。


淡い金髪、落ち着いた金色の瞳、そして理知的な眼鏡。

少し長めの髪を結わず、そのままにしている。


特徴は、すべて一致している。

けれど――あの文官ではない。


取調官の視線が、こちらの反応を精査するように注がれた。


「こちらの文官で間違いありませんか」


ほんの一拍。

わずかな逡巡を振り払うようにして、わたくしは、ゆっくりと首を横に振った。


「……いいえ。違いますわ」


「ですが、あなたの証言と一致する人物は、現時点でこの者のみです」


――なんですって!?


きっぱりとした声。

だがその瞬間、わたくしの中で、何かが音を立てて崩れた。


一瞬、思考が真っ白に染まる。


……変装。


その疑念が脳をかすめた次の瞬間、もっと根源的な恐怖が這い上がってきた。


そもそも――彼は、本当に文官だったのか。


腕に抱えていたあの紙束さえ、文官という印象を付けるための、ただの小道具だったのではないか。

紺色の上着など、どこかで調達してしまえばそれまでだ。

振り返ってみれば、彼が役人であることを証明するものなど、最初から無かったのだ。


柔らかな物腰と、穏やかな微笑。

それだけを手掛かりにしていた自分の記憶の曖昧さに、背筋が凍りつく。


今のわたくしには、確かめる術などない。

ここから出ることも、自由に動くことも、彼を探し出す手立ても……何一つ、奪われている。


つまり――


……あの男との、やり取りを証明できないのは、わたくしも同じ。


視線の先には、たまたま条件を合致させただけの、何も知らない文官が立ち尽くしていた。


こんなはずではなかった。

けれど――


どうせ誰一人、あの男を特定できないのなら――いっそ、この文官に背負わせればいい。


ならば。


どこの誰とも知らない貴方。

わたくしのために、生贄になりなさい。


「まだ少し動揺していたようですわ。……ええ、その方で間違いありません。彼が西の回廊で会い、わたくしにラディエル抽出液の事を教えたのです」


向けられた視線に、文官が当惑したように目を見開く。

何が起きているのか理解できていないようだが、その混乱こそが望ましい。


「そこまでは良かったのです。祝賀当日の緊張を和らげるために、わたくしも私的に入手いたしましたから」


この理由なら、入手経路を突き止められたとしても正当化できるはずだ。


「……ですが、後日、再びお会いした折、彼から『祝賀の場でラディエル抽出液をヘスティア様に使うように』と指示されました。もちろん、わたくしは即座にお断りいたしましたわ。彼女にそのようなものを使う理由など、ありませんもの」


視線を伏せ、わずかに息を整える。

この主張は自分の潔白に繋がるはずだ。


「どのような意図があったかは存じません。ですが、今思い返せば……彼はどこか不自然でしたわ。まるで、最初の出会いから何かを仕組んでいたような……」


確証など必要ない。

ただ、疑いの種を蒔けばいいのだ。


「祝賀の場で騒動を起こし、名誉を汚すために、あえてわたくしに近づいたのではありませんか? ……給仕の者と通じていたとしても、何ら不思議ではありませんわ」


全て言い切ると、やっと自分が疑われていると気づいた文官の顔が青ざめた。


「何のことです!?」


「……つまり、今までの発言を踏まえると、スタイナー令嬢は『仕事中の貴方と会い、ラディエル抽出液について教えられ、オルドリッジ令嬢を失脚させるよう指示された』と供述しています。この事実関係に相違はありませんか?」


「あり得ません!」


若い文官は、思わず一歩踏み出しかけて、はっとしたようにその場に踏みとどまった。

喉元まで出かかった感情を押し込めるように息を整え、それでも声の震えは隠しきれない。


「私は……オルドリッジ令嬢が王太子妃に選ばれることを、望んでおりました。これは同僚にも日頃から話しておりますので、確認していただければ分かります」


一度言葉を切り、記憶の断片を必死に手繰り寄せているのか視線を泳がせる。


「それに、西の回廊とおっしゃいましたが……あの呼び名で指されるのは中庭に面した上層の区画です。私の持ち場は別棟の文官局で、階も棟も異なります。職務上はもちろん、私用で足を向けることもございません。あの回廊を通る理由が、私には一つもないのです」


言い切ると同時に、握りしめた彼の拳が白く震える。


「……もし、スタイナー令嬢と『仕事中』に会っていたとおっしゃるのであれば、その日時を照合してください。私が業務に就いていた時間だと言うのなら、記録も、共にいた同僚たちの証言も残っているはずです」


最後に、深く息を吸い込み、真っ向から取調官を見据えた。


「誓って申し上げます。私は、そのような疚しいことは一切しておりません」


取調官が、重々しく公文書を閉じた。

次いで零れたのは、一筋のため息。

その仕草は、残酷なほどに穏やかで――そして、決定的だった。


「スタイナー令嬢」


名を呼ばれ、肩がびくりと跳ねる。


視界の端には、ペンを走らせる記録係。

机上に鎮座する、封緘された証拠袋。

その一つひとつが、わたくしを追い詰めるための杭のように、逃げ道を冷酷に塞いでいく。


……まずい。

証拠があるなんて、完全に計算外だわ。


喉の奥が、ひりつくように渇く。

死刑宣告にも似た、温度を欠いた声が室内の重い空気に沈んだ。


「事実をありのままに証言してください。繰り返しますが、虚偽の供述はそれ自体が罪になります。不利になるのは貴女ご自身ですが――その証言でよろしいのですね? 記録と照合すれば、すぐに判明します。すべては証拠として刻まれます」


その言葉は、逃げ場を一つも残さなかった。


今度こそ言葉を失い、小さく息を吸い込んだまま、身じろぎひとつできずにいた。

膝の上で重ねた両手に、じわじわと力がこもる。

指先が白くなるほど握りしめているのに、それでも震えは止まらない。


違う。まだ、終わらせない。

わたくしは――


必死に抗おうとした、その瞬間。


――なんで、何もかも上手くいかないの。


必死に封じていた本音が、ひび割れた理性の隙間から溢れ出す。

その問いだけが、逃げ場のない胸の奥で、何度も、何度も繰り返される。

静かに、執拗に、そして確実に。


築き上げたすべてが、音を立てて崩れ去っていく。

その終焉の響きを、自分のことだという実感すら、もうなかった。

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