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それぞれの道へ

祝賀の夜から、五日が過ぎた。


わたくしは屋敷で静養していた――

とはいえ、それは「休養」と呼べるような穏やかな時間ではなかったけれど。


医師の診察を受け、身体の状態を確認した後、なるべく安静に過ごすよう厳命されていた。

けれど、いつまでも寝台の上でのんびりしているわけにはいかない。

わたくしが王太子妃候補を辞退することは、すでに決定済みだ。

その後の身の振り方を決めるための、家族会議が始まろうとしていた。


オルドリッジ侯爵家の応接室には、息が詰まるような静寂に包まれていた。

向かい合って座るのは、お父様とお母様、そしてわたくし。

お兄様は王宮での公務のため不在だが、一連の経緯は後ほど共有される手はずになっている。


重い沈黙を破り、父がようやく重い口を開いた。


「……王家の判断だ。納得できなくとも、従うほかあるまい」


言葉こそ冷静に選ばれていたが、その眉間には深い皺が刻まれている。

隣に座る母もまた、わたくしが王太子妃候補から外されたという事実を前に、唇を噛みしめ、やり場のない表情を浮かべていた。


しかし、相手は王家である。

どれほど思うところがあっても、侯爵家が公然と異を唱えることなど出来ない。


「今回の件については、王家の処分を尊重する。そして……スタイナー家とは、今後距離を置く」


苦渋を滲ませながらも、毅然と言い渡した父の言葉に、わたくしは頷いた。


社交も取引も、あの家門とは控えるという意味だ。

そうなれば、周囲の家も様子を見る。

結果として、スタイナー家の立場は貴族社会の中で確実に弱まる。

それを承知のうえでの判断なのだろう。


今回の件の原因については、家族もすでに理解していた。

わたくしの体質――毒や薬への耐性である。


それは偶然のものではない。

数年前から、侯爵家の判断で計画的に行ったものだった。


家族にとって、その「毒耐性」は疑いようもなく「長所」であった。

致死量でなければ毒物すらも受け流す強靭な肉体。

それは、毒殺を恐れずに済む、この上ない安心材料だったのである。


彼らにとって、それは単なる「特異体質」に過ぎなかった。

薬が効きにくいという発想が及ばなかったのは、わたくしがこれまで、一度として医療を必要としないほど健康だったからに他ならない。


一般貴族の出産であれば、多少の危険はままあること。

しかし、次代を繋げる役目を担う王太子妃には、微塵の不確定要素も許されない。

絶対的な安全と、万全の管理が求められる場。


その厳格な基準に照らされたとき、かつての「強み」は「不適合」へと変貌した。

日常生活では問題とされなかった体質が、出産という特殊な状況において、初めて致命的な意味を持つ。


それが――命を繋ぐはずの「薬理」すら拒む理由となるなど、家族は、想像すらしていなかったのである。


治る見込みはあるが、時期は不明だ。

だからこそ、身体を整える時間が必要だった。


「しばらく療養に行くといい」


父が勧めてくれた療養地は、オルドリッジ侯爵家が所有する領地の一つだった。

王都から馬車で五日ほど離れた場所にある。

温暖な気候と澄んだ空気で知られ、小さな保養町もあるため生活に困ることはない。

そこで身体を治してこい――そう言い渡す父の声音に、反論の余地はなかった。

だが、わたくしにしてみれば、それはむしろ好都合というもの。

本心を隠し、素直に頷いてみせるのは容易いことだった。


それから二日後――


療養地に発つ準備に追われる慌ただしさの中、わたくしは父と共に馬車に揺られ、王宮へと向かっていた。

車窓を流れる王都の景色はいつもと変わらないはずなのに、馬車の車輪が叩く石畳の音は、今日に限ってひどく空虚で、冷え切っているように感じられる。


向かい合う父は、目を閉じ、考え事をしているようだった。

車内に満ちるのは、重苦しさというよりは、一つの役割を終えようとする時の、空虚な沈黙。


今日の目的は、お世話になった方々への、謝罪と退任の挨拶である。

祝賀の席に不測の事態を招き、場を汚してしまったことは事実。

どのような経緯があったにせよ、結果として王太子妃候補という立場を辞退することになったのは、わたくしの、ひいては侯爵家としての問題でもあった。


馬車が止まり、王宮の重厚な大扉が左右に開かれる。

最初に案内されたのは、謁見の間。

その奥、一段高い玉座には、この国の頂点である国王陛下が腰を下ろしていた。

それは裁きの座ではなく、一人の臣下の引き際を見届けるための、鷹揚な眼差しであった。


「このたびは祝賀の席で騒ぎとなり、王家の行事にご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」


父とわたくしは、深々と頭を下げた。

床に落ちる自身の影さえも、今はひどく頼りなく見える。


王太子妃候補の辞退。

祝賀の夜の騒動への謝罪。

これまで賜った厚情への感謝。

そして――今後の縁談についても療養を優先し、辞退させていただきたいという願い。

紡ぎ出す言葉は決して多くはない。

けれど、その一つ一つが、重く謁見の間に落ちていく。


玉座に座す国王は、鷹揚に頷いた。

その沈黙は、許しだったのか。

あるいは、憐憫であったのか。


下がってよい、という合図代わりに近衛騎士が一歩前に出る。

再度深く頭を下げ、静かに後ずさる。

王との距離が十分に開いたところで、わたくしたちは音もなく身を翻し、その場を後にした。


次に向かったのは、王妃のもとだった。

王太子妃候補としての教育はすべて王妃の管轄であり、わたくしにとっては厳しくも慈しみ深い師でもあった。


「これまでご指導いただきましたこと、心より感謝しております」


教育への謝辞と、期待を裏切る形となった辞退の詫び。

王妃は、そのすべてを穏やかな表情で受け止めてくださった。


返された言葉は短く、責める響きはひとかけらも混じっていなかった。

それがかえって、胸の奥をちりりと痛ませた。


わたくしは深く、一度だけ頭を下げた。

これ以上この場に留まることは、甘えでしかない。

背後に感じる王妃の視線を振り切るようにして、扉の向こうへと歩みを進めた。


そして最後に――アルフォンソ王太子殿下のもとへ。


形式上、わたくしは彼の婚約者候補の一人であった。

最後の手続きとして、挨拶をせずにこの城を去ることはできない。


殿下は机の前に座ったまま、淡々とわたくしの話を聞いていた。

その瞳は相変わらず、精巧に作られた硝子玉のように無機質だった。

こちらがどれほど言葉を尽くしても、そこに熱が灯ることはないのだと、今はもう知っている。


かつてのわたくしは、せめて彼との間に信頼を築こうと、自分なりに努力を重ねたこともあった。

けれど、感情の起伏が極端に乏しい殿下と、対等な絆を結べる瞬間はついに訪れなかった。

結局、わたくしたちは最後まで分かり合えることはなかったのだ。


辞退の意志をすべて伝え終えたあと。

殿下は瞳を閉じ、ただ一言だけ「そうか」と言った。


たった、それだけだった。

抑揚のないその声からは、わたくしの辞退を惜しんでいるのか、あるいは妥当だと思っているのかさえ分からない。

しかし、それ以上の言葉を期待していたわけでもなかった。

彼が何を考えていようと、わたくしの中では、もうとっくに終わっていたのだから。


……別に、好きでも嫌いでもなかった。

それでも、一度は同じ未来を歩く人だと思っていた相手だ。

彼と一生を添い遂げることは、わたくしにとって愛ではなく義務だった。

だからこそ、その呪縛から解き放たれた今、得も言われぬ開放感が胸を満たしている。

心の奥底で止まっていた時計の針が、音を立てて動き出したかのような、そんな心地だった。


同時に、たった一言で終わる関係しか築けなかったことに、これまで積み重ねてきた月日の空虚さを、改めて突きつけられたような気もした。

あの日、あの時、わたくしが必死に捧げた時間は、彼には何一つ届いていなかったのだ。


――そんな虚しさの果てに、心から言葉を交わしたいと思える相手が、どれほど貴重かを、わたくしはようやく知ったのだ。


挨拶を済ませて部屋を辞すと、父は廊下で足を止め、こちらを振り向いた。


「長く通った場所だ。他の者にも挨拶してくるといい。門で待っている」


それだけ言い残し、父は去っていった。


それからわたくしは、ペネロペ王女殿下のもとへ向かった。

国王陛下たちへの「公的な辞退」とは違う。

彼女は、この冷え切った城の中で心穏やかに言葉を交わせる数少ない方だったから。

形式的な挨拶を済ませ、これまでの思い出を辿るような穏やかな会話を終えたあと――


ふと、ある人物のことが頭をよぎった。

近くにいた侍女にクリスタ様へご挨拶ができるか尋ねると、現在は王妃殿下のサロンにいらっしゃるとの答えが返ってきた。

わたくしは迷うことなくその場へ向かった。

国王や王太子に辞退を告げた時よりも、ずっと確かな足取りで。


サロンの扉を開けると、柔らかな陽光が差し込むなか、クリスタ様は紅茶を口に運んでいた。

わたくしの姿を認めると、彼女は穏やかな微笑みを向けた。


「クリスタ様。先日は、本当にありがとうございました」


祝賀の夜、倒れたときに支えてくださったこと。

そして、混乱のなかで迅速にその後の手配をしてくださったこと。


わたくしは深く膝を折り、最大級の敬意を込めた挨拶を捧げる。

クリスタ様は、ただ真っ直ぐにわたくしを見つめ、その重みを受け止めるように静かに頷いた。


「当然のことをしたまでです」


その落ち着いた声音に、嘘偽りはない。

彼女は利害も立場も抜きにして、手を差し伸べてくれたのだ。

わたくしが王太子妃候補を辞退し、療養のために遠く離れた場所へ赴くことを伝えると、クリスタ様はふっと表情を曇らせた。


「それは……淋しくなりますね」


その言葉を聞いた瞬間、わたくしの口元からは思わず小さな笑みがこぼれた。

少し前までなら、決して交わすことのなかった類の会話。

わたくしたちは王太子妃候補として、長い時間、同じ場所に立ってきた。

その立場にいた頃は、どれほど取り繕っても、互いを競うべき相手としてしか見ることができなかったのだ。


けれど、今は違う。

すべての枷を脱ぎ捨てた今、ようやく一人の人間として、クリスタ様と向き合える気がした。

正式な発表こそまだだが、おそらく王太子妃は彼女になるのだろう。

強さと優しさを兼ね備えたクリスタ様なら、きっと良い国母となる。


――どうか、あの窮屈な場所で上手くやっていけますように。


去りゆく者の勝手な願いかもしれない。

けれど、わたくしの胸には、そんな祈りが浮かんでいた。


「……もし失礼でなければ、手紙を差し上げてもよろしいでしょうか」


クリスタ様が躊躇いながら言葉を紡ぐと、わたくしは柔らかい笑みを返した。


「ええ、ぜひ。王都に戻ることがあれば、その時はお茶に付き合っていただけますか?」


「喜んで」


互いの実力を認め合い、同じ過酷な立場を経験した相手。

火花を散らす好敵手としてではなく、対等な友人として――彼女となら、きっと良い関係を築いていける。

そんな確信にも似た予感を胸に、軽やかな歩調でサロンを後にした。


その後、わたくしはリリムと共にゆっくり、噛み締めるように王宮を歩いた。


やがて辿り着いたのは見慣れた中庭だった。

石造りの回廊と、整えられた花壇。

何度も見てきた景色なのに、今日は少し違って見える。

誘われるように、そこにある椅子へ腰を下ろした。

王太子妃候補として過ごした月日の中で、わたくしは何度ここへ足を運んだだろうか。


苦楽を共にした記憶や、交わした新しい縁。

そのすべてがこの王宮に刻まれている。

過ぎ去った時間を思えば、この場を去るのが少しだけ惜しいと思ってしまう。


けれど――もう二度と、ここへ戻ることはないかもしれない。

そう思うと、不思議と胸の奥がざわめいた。

この場所は「現在」ではなく「過去」になっていくのだ。

他の誰でもない、わたくし自身がその道を選び取ったのだから。

込み上げる感傷を振り払うように、わたくしは深く、一度だけ息を吐いた。


その吐息をさらっていくかのように、頬をなでる柔らかな風が、あの人の優しい声を運んできたような気がして。

このまま黙って立ち去るには、あまりに心残りが大きすぎた。


もう一人だけ、どうしても会いたい人がいた。

その名を胸の奥でそっと呼ぶだけで、鼓動が少しだけ速くなる。

けれど、今この瞬間も職務に励んでいるであろうその人を、わたくしの都合で訪ねることも、ましてや呼び立ててその手を止めさせることも、到底許されることではない。


できることなら、最後に一度だけ——

言葉はなくてもいい、近づけなくてもいい。

ただ遠くからその姿を一目だけでも、と願わずにはいられない。

そう思って立ち上がった、その時だった。


「ヘスティア嬢?」


不意に聞き慣れた声が届き、弾かれたようにそちらへ顔を向けた。

そこにいたのは、ディノ様だった。

彼は報告書の束を抱えたまま、二歩ほど近づいてきた。

祝賀の後処理に追われ、息つく暇もないのだろう。

間近で見るその顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。


「上の回廊から見知った姿が目に留まったから……もしかして、と思って来てみたんだ」


仕事中という身でありながら、それでも声をかけてくれた。

その優しさに、言葉にできないほどの多幸感に包まれた。


「身体は大丈夫?」


「はい、ご心配をおかけしました」


療養地にいけば彼とも暫く会えなくなる。

彼と出会い、恋を知ったことで、決められた道を走る自分に疑問を抱くようになった。

これからは、自分の人生を自分の意志で切り拓いていこうと思えるようになった。


「今日は挨拶回りに来ておりました。最後にお会いできてよかった。実は……療養地へ行くことが決まったのです」


「そうなんだ……」


ディノ様はそう言ったきり、少しだけ視線を落とした。

それが、ほんのわずかな寂しさを隠す仕草のように見えた。


穏やかだった陽だまりが、急に陰ったような錯覚に陥る。

不意に、一陣の風が、わたくしたちの間を強引に通り抜けた。

乱れる髪を手のひらで抑えながら彼を仰ぎ見たけれど、なびいた前髪がその瞳をすっかり覆い隠してしまう。


ほんの一拍、空白の沈黙。


風が止むと、彼の纏う空気は元通りに戻っていた。

見えなかった目元も、今は優しく細められている。

隠されていた瞳に、あの時どんな感情を宿していたのか。

喉まで出かかった問いは、答える者のいない風の中に溶けて消えていった。


手を伸ばせば触れられるところにいるのに、二人の溝は一向に埋まらない。

王太子妃候補という重枷を外したところで、今度は侯爵令嬢という身分が、越えがたい境界線を引き直してしまう。

相手の立場を考えれば考えるほど、この一歩が踏み出せない。

結局、わたくしたちが律儀に守り続けてきたこの「節度」が、これほどまでに残酷な壁として、目の前にそびえ立つとは思わなかった。

ただの数歩の距離が、今は——あまりに、遠い。


「向こうに行ったら、侯爵令嬢なんて肩書きも一旦お休み。……なんて、オレが言っていいことじゃないかもしれないけど。でも、背負ってるものは全部ここに置いていって。心と体をゆっくり癒やすことだけを大事にして」


「……はい」


言いたいことは、まだたくさんある気がするのに――

どれも言葉にならなかった。


これが図々しい願いではないか、独りよがりな押し付けではないか。

わたくしは沈黙の中で、自問自答を繰り返した。

けれど、言葉を飲み込んでしまえば、何の約束もない状態で、ただお別れを迎えてしまう。

そのまま関係が過去へと押し流されることを恐れるように、わたくしは意を決して、続きを口にした。


「療養地は、とても静かな場所だと聞きました。ですから……お手紙を書いてもよろしいでしょうか?」


ディノ様は不意を突かれたように瞬きを繰り返したが、すぐにその瞳にいつもの快活な色が灯る。


「うん、待ってる。ヘスティア嬢からの手紙なら、どんなに忙しくても返事を書くよ。……楽しみにしてるね」


その言葉に、胸の奥が温かくなった。

ああ、やっぱり――

わたくしはディノ様が好きなのだと、再確認した。


常に身構えるのが当たり前だったわたくしにとって、彼の屈託のない笑顔を見るたびに、強張っていた肩の力が抜け、自分がどれほどその存在に救われているかを痛感させられた。


自分の人生を自分で選びたいと思えたのも、この人と出会ったからだ。


それは――

これから先の道を選ぶ理由として、もう十分すぎるほどだった。

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