虚実の秤
(※エリーズ視点、前半)
客間に二日間、監視つきで留め置かれていたが、寝台も、温かな食事も与えられた。
けれど、常に誰かの視線に晒され、一歩の外出も許されぬまま過ごしたあの停滞こそが、わたくしの精神を磨り潰すための静かな拷問だったのだ。
王宮の最奥、人影の絶えた回廊の突き当たり。
高官の私室を装ったオークの重扉が開かれ、わたくしはベルベットの椅子に座らされた。
騎士が鉄板を仕込んだ扉を閉めた途端、世界から音が消える。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが早鐘のように鳴っていた。
内側に取っ手のないその扉は、ここが慈悲なき「貴族の檻」であることを物語っていた。
調度品はどれも上品だというのに、肌に触れる空気は妙に冷たい。
装飾を排した石壁は、声を反響させ、逃げ場を塞ぐために存在しているようだった。
黒檀の机と、一脚の椅子。
高い窓の装飾格子から差し込む光は頼りなく、わたくしの足元に細長い影を落とす。
冷たく澄んだ青白い光が石床を浸し、この部屋の静寂をいっそう深いものにしていた。
――取調室。
その単語が脳裏をよぎった瞬間、喉の奥が拒絶するようにきゅっと縮まった。
わたくしの斜め前には、表情を消し、羽ペンを構えた記録役の文官。
背後の扉脇には、壁の装飾の一部に成り果てたかのように、無言の騎士が一人。
そして、目の前。
向かいに座る取調官が、衣擦れの音さえ立てず、静かに公文書の束を開いた。
その紙の擦れる乾いた音が、宣告のように室内に響き渡る。
「これより正式な取り調べを行います。……あらかじめ申し上げますが、虚偽の供述は、それ自体が罪になります。その点はご理解ください」
視線は冷静で、声も穏やかだった。
その突き放すような丁寧さが、かえって恐ろしい。
見れば、その指先だけが、わずかに強く組まれていた。
やがて、机の上に並べられた報告書が、ゆっくりと読み上げられる。
祝賀の杯から検出された成分。
倒れたヘスティア・オルドリッジの体内から検出された同一の反応性物質。
エリーズ・スタイナーの指輪から検出された同じ反応。
そして――エリーズ・スタイナーの後に杯を受け取ったヘスティア・オルドリッジに異変が起きたという経緯。
逃げ道は――ほとんど残されていない。
祝賀の場ではあんなに動揺していたというのに、今は皮肉なほど頭が冴え渡っている。
だからこそ、答えの出ない問いを何度もなぞる。
――どうして、こんなことになってしまったの。
思考は、容赦なく現実的な方角へと滑り落ちていく。
この椅子に座らされた時点で、王太子妃への道は、ほぼ断たれたも同然。
そう悟った瞬間、あれほど執着していたはずの地位が、急激に色彩を失い、他人事のように遠のいた。
代わりに浮かび上がったのは、今この場で取るべき最善の策。
ここで肯定すれば、すべてが終わる。
けれど、否定し続けさえすれば――「何者かの陰謀」という余地を、強引にでも残せるはずだ。
とにかく――認めてはいけない。
わたくしが首を縦に振らない限り、こんな机上の空論、真実にはなり得ないのだから。
だが、研ぎ澄まされた心境は次第に、別の方向へと歪み始める。
胸の奥に、どろりとした焦りと苛立ちが渦を巻く。
自らの選択という事実から目を逸らすように、思考は醜く、他者へと責任を押し付けていく。
けれど、その心の歪みに、わたくしはまだ気づけない。
むしろ、静かに、深淵へと引き込まれていく。
……そもそも、ヘスティア様が予定外に倒れたりするのが悪いのよ。
ほんの少し立場を揺らすだけのつもりだった。
それなのに、あんな騒ぎにまで発展させるなんて。
そして何より――あの男が、余計なことを言わなければよかったんだわ。
そうすれば、わたくしがこんな屈辱的な椅子に座らされることもなかったはずなのに。
……でも。
わたくし一人で沈むつもりなんて、毛頭ないわ。
祝賀の席での振る舞いが重視されるというのなら――あんなふうに無様に倒れ、場を乱したヘスティア様だって、無事では済まないはずよ。
そして、もう一人。
あの男も――無関係にはさせないわ。
そこまで考えを巡らせたところで、頭上から声が降ってきた。
「……以上が、現時点で確認されている事実です」
わたくしはゆっくりと視線を上げた。
まだ、終わりではない。
突きつけられた証拠は、すべて状況的なもの。
これはまだ、“可能性”の域を出てはいないのだ。
「また、指輪の溝には獣脂の汚れ、そして例の薬が残っていました。この一連の出来事について、何かご説明はございますか」
落ち着いた問いかけだった。
だが、その無機質な響きゆえに、ここで発する一言一句がそのまま逃げ場のない記録として刻まれていくのだと、肌に刺さるような予感で理解できた。
ラディエル抽出液を獣脂に練り込んで指輪に仕込んだのは、わたくし自身だ。
だが、そんな事実はこの世のどこにも記録されていない。
ただの「偶然の一致」だと主張すれば、それで済む話。
――まだ、崩れるわけにはいかない。
わたくしは喉の奥の渇きを押し殺し、背筋を正した。
「そのようなことを言われましても、はっきりとしたことは分かりかねますわ。わたくしは肌が乾燥しやすくて、いつも獣脂のクリームを手放せませんの。指輪に脂が残っているのは、そのせいでしてよ」
あえて困ったように、けれど優雅に首を傾げてみせた。
「薬が検出されたというのも……まったく心当たりがありませんわ。ただ、先ほども申し上げた通り、わたくしは常にクリームを携帯しておりますの。触れた物や環境によって、何らかの成分が付着してしまう可能性までは否定できませんけれど……。そんな不運な偶然を理由に、わたくしを疑おうとおっしゃるの? あまりに飛躍が過ぎるのではなくて? 根拠のない邪推で人を貶めるのは、いかがなものかしら」
整えた声音で、淀みなく答える。
理屈としては、まだ破綻していないはずだ。
取調官は短く頷き、手元の公文書へと視線を落とした。
文官のペンが、乾いた皮の表面を撫でる微かな音だけが室内に響く。
そして一拍置いて、取調官は新たな問いを落とした。
「では――ラディエル抽出液という名は知っていますか?」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。
ここで無知を装えば、いずれ入手経路という動かぬ証拠を突きつけられた際、言い逃れができなくなる。
知っているという事実だけは認めた方が得策だわ。
「……ええ」
「いつ、どこでお知りになりましたか」
「三週間ほど前、王宮の西の回廊でお会いした方から聞きました。日差しの入る方角ですわ」
「では、その者の名前はわかりますか?」
――名前は、知らない。
興味がなかったから聞かなかった己の不覚が、今になって激しく悔やまれる。
けれど、記憶の底にある顔立ちも、声音も、あの忌々しいほど穏やかな微笑も、鮮明に焼き付いている。
幸いにも、逃げ道はある。
名前は知らずとも、あの男を――情報の起点として、差し出せばいい。
わたくしは、視線を伏せた。
「……存じ上げませんわ。ですが、どのような方だったかは覚えております」
「では特徴を上げてください」
間髪入れずに重ねられた問い。
一瞬の躊躇いの後、わたくしは脳裏の残像をなぞるように、慎重に言葉を紡ぎ出した。
「金髪で、眼鏡をかけた男性でしたわ。髪は少し長めですが、結わずにそのまま流していて……。瞳の色は……」
男がかけていた眼鏡の、その縁や光を反射するレンズの印象ばかりが強烈で、肝心の瞳の色が霧に包まれたように曖昧だ。
それでも記憶を必死に引きずり出し、わたくしは答えた。
「――多分、髪と同じ色。文官の方がお召しになる、あの紺の上着を纏っていらして……。いつも手に文書の束を抱えておいででしたから、お仕事の最中だったのでしょうね」
「その文官の年の頃は」
「二十代の前半とお見受けしました」
取調官が隣の記録係へと鋭い視線を送ると、彼は無言で首肯した。
「その人物を照合いたします。少々お待ちを」
一礼と共に一人が退出し、重々しい音を立てて扉が閉まる。
室内に残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
――待機という名の、空白の時間。
それは、祝賀の前に三度にわたって交わした、あの男との会話を鮮明に呼び戻すには、あまりにも十分すぎた。
* * *
その日の王太子妃教育を終えたわたくしは、王宮の回廊を、ヒールの音を高く響かせながらやや早足で歩いていた。
磨き上げられた石床に、硬く乾いた音が規則正しく刻まれる。
その音はまるで、わたくしの焦りを嘲笑っているかのようだった。
――また、ヘスティア。
どこへ行っても、その名ばかりが耳に飛び込んでくる。
王宮のあちらこちらで囁かれる、「次期王太子妃はヘスティア様こそが相応しいのではないか」という声。
淑女として完璧、家柄も申し分なく、気品さえ備わっている――。
飽きるほど聞かされたその称賛の言葉は、今のわたくしにとって、呪いの言葉と何ら変わりはなかった。
……うるさいわね。
だから何だというのよ。
それと“選ばれるかどうか”は、別の話でしょう。
胸の奥で黒く渦巻く苛立ちを強引に押さえ込み、わたくしは歩調をさらに速める。
高い位置にあるこの回廊からは、庭園の全景がよく見えた。
午後の陽光が惜しみなく降り注ぎ、壁際を白く染めていた。
眩しさの中へ、目を細めながら踏み込んだ、その瞬間――
「――っ!」
不意に、肩へ強い衝撃が走った。
「――失礼いたしました」
鼓膜を揺らしたのは、低く、落ち着いた響きの声だった。
思わず顔を上げると、そこには見覚えのない青年が立っていた。
深い紺の官服を隙なく着こなした、整った身なりの男だ。
その胸元には、分厚い文書の束が抱えられている。
脇に抱え直されたその紙束の端が、衝撃でわずかに乱れていた。
どうやら、向こうも相応の急用を抱えていたらしい。
――何処を見て歩いているのよ!
刺々しい言葉が喉元までせり上がったが、わたくしは辛うじてそれを飲み込んだ。
人通りは疎らとはいえ、ここは王宮の回廊。
公の場での振る舞いは、常に品位を問われる。
「私の不注意です。お怪我はありませんでしたか?」
先に、それもこれ以上なく冷静な調子で請われてしまえば、こちらが強く出る隙などなくなってしまう。
「ええ、こちらも前方を見ておりませんでしたわ」
淑女の仮面を被り、定型的な謝罪を返す。
それで終わるはずのやり取りだった。
だが、彼は一歩下がって改めて頭を下げた後、ふと視線を上げて――ほんの僅かに、微笑んだのだ。
「王太子妃候補のエリーズ・スタイナー伯爵令嬢でいらっしゃいますね。近くで拝見するのは初めてですが……寛大にお許しくださり、その所作も穏やかで――噂以上に落ち着いた方だ」
一瞬、言葉の意味を測りかねて立ち尽くす。
けれど、すぐに気づいた。
それは、よくある媚びや、打算的なお世辞の類ではない。
ただありのままを、目の前にある事実だけを掬い上げたような、極めて平坦な言葉。
彼はただ、自身が観察した結果を、飾ることなく口にしただけなのだ。
――ああ、そう。
分かる人間もいるのね。
胸の奥で燻っていた不快な熱が、少しだけ引いていくのが分かった。
ずっと強張っていた全身の芯が、不意にほどけるような感覚。
改めて見れば、目の前の青年はそれなりに整った顔立ちをしていた。
けれど、その造作がどこか優男めいているのが惜しい。
わたくしの好みは、あくまで騎士のように逞しく、男らしさを絵に描いたような御方だ。
――もっとも、芸術品のように中性的で、浮世離れした美しさを纏うアルフォンソ様は、理想とはまた別の地平にいらっしゃるけれど。
ええ、それはそれ、これはこれだわ。
ともあれ、人を見る目があるという一点においてのみ、この男を認めてやってもいい。
わたくしが応えを留めたまま視線を投げても、彼はそれ以上踏み込んでくることはなかった。
あくまで礼節を重んじ、わきまえた距離を保ったまま、穏やかに言葉を添える。
「お時間を取らせてしまいました。どうか、お気をつけてお進みください」
柔らかな声音とともに、もう一度、深く丁寧な一礼。
その無駄のない所作には、指先の先まで洗練された節度が宿っていた。
彼はそのまま静かに踵を返すと、回廊の奥へと歩み去っていった。
整った足取りは最後まで乱れることがない。
ふたたび文書へと視線を落としたその横顔は、先ほどのやり取りなど、日常のほんの一幕に過ぎなかったと言わんばかりに淡々としていた。
その背を見送りながら、わたくしは小さく息を吐いた。
先ほどまで内側を焦がしていた苛立ちは、いつの間にかどこかへ消え去っている。
――少なくとも、ああいう目を持つ人間がまだ王宮にいるのなら。
この場も、捨てたものではないのかもしれない。
そんな思いが、かすかに胸の奥に残った。
※後半に続く




