祝賀事件
※本作には薬理・医療に関する描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
祝賀当日――
柔らかな光が静かに差し込む室内で、わたくしは鏡の前に座っていた。
背後では数人の侍女が音もなく立ち働き、リリムがわたくしの髪を丁寧に編み上げている。
幾重にも重ねられた編み込みを、控えめな宝飾の髪留めでまとめ、わざとらしくない程度に後れ毛を残す。
隙をつくるための、計算された抜け感。
今日の主役は、あくまで王太子殿下だ。
悪目立ちは避け、されど隣に立って見劣りはしない。
その調和のとれた形を、今夜の装いに選んだ。
首元には一粒の宝石が呼吸に合わせて密やかに瞬き、デコルテを縁取る見事な曲線が、その輝きをいっそう上品に引き立てている。
ドレスは、歩みを進めるたびに、上質な生地の裾が凪いだ海の波紋のように、優雅な軌跡を描いては消えていく設計だ。
仕上げの化粧は、あえて色を重ねず、淡く。
素肌の透明感を活かした頬に、ひとさじの血色を微かに添えて、仕上げを終える。
――鏡の向こうに完成したのは、今日という一日を滞りなく完遂するために用意された、「役目」という名の仮面を纏った一人の女だった。
「完璧でございます、お嬢様」
支度の手伝いを終えたリリムが、背後で眩しそうに微笑む。
今日は、わたくしの人生が大きく変わる日。
緊張で一睡もできないと覚悟していたのに、意外にも昨夜は深く、心地よい眠りに落ちていた。
静かな目覚め。
羽が生えたように軽い身体。
わたくしは案外図太いのかもしれない。
他の侍女たちが退室し、部屋に二人きりになった途端、リリムの表情に不安の色が混じった。
これからわたくしが引き起こす事態が、果たして目論見通りに運ぶのか。
わたくし以上に、彼女の方が気を揉んでいるに違いない。
「心配してるの?」
「……はい。何事もなく終わればよいのですが」
「大丈夫よ。手順はすべて整えてあるわ。倒れる演技だって、令嬢なら息をするくらい簡単なんだから。……持論だけれど」
リリムは一度だけ目を伏せ、それから厳かに言った。
「その御身は、星々が祝詞を降らせて、かたどった奇跡。一雫の傷でさえ、天の星辰の配列を乱す罪に等しゅうございます」
「相変わらず大げさね……」
そして意味がわからない。
「せめて、倒れるときは受け身を取ってください。いいですか。まず、顎をしっかり引き、後頭部を床に打ち付けないように背中を丸めて腹部を凝視します。そして後ろに転がり、背中がつく瞬間に、両方の手のひらと前腕全体で、床を力強くバシッと叩くのです。その反動で衝撃を逃がすことができれば、大怪我は免れます」
「受け身を取りながら倒れる令嬢なんて聞いたことがないわよ!?」
だが、言われるがままに動く自分を想像してしまい、いけないと思いつつも笑いがこみ上げてくる。
最高級のドレスを翻し、華やかな祝賀の場で、顎を引いて床を叩く自分。
……間違いなく、王太子妃選定の行方は悪い意味で揺らぐだろう。
それどころか、積み上げてきた淑女としての印象も、その場の厳かな空気も、一瞬で修復不可能なほど粉々に砕け散ってしまうに違いない。
脳内の自分があまりに奇抜な倒れ方をするせいで、不覚にも肩を震わせてしまった。
けれど、リリムとのそんな突拍子もないやり取りのおかげで、無意識に強張っていた心はいつの間にか心地よく解き放たれていた。
* * *
祝福の名を借りた、選別の夜が始まる。
誰が残り、誰が消えるのか。
その答えを——わたくしはもう、知っている。
さきほどまでの柔らかな余韻を心の奥に仕舞い込み、たおやかな笑みを湛えた。
祝賀という名の、虚飾に満ちた舞台へ。
扉の向こう側で、静かにその時を待つ。
先に会場へと足を踏み入れた二人の、名前と家名、そして並び立つ者のない功績が朗々と読み上げられる。
重厚な扉を透かして届くその声は、まるで遠い世界の出来事のように淡々としていた。
やがて、最後に呼ばれたのは――わたくし。
喧騒に包まれていた広間の空気が、一瞬にして凍りついたように静まり返る。
その沈黙を切り裂くように、名が、高く、厳かに告げられた。
「オルドリッジ侯爵家令嬢、ヘスティア様――ご入場」
一度だけ深く、肺の奥を清めるように息を整えた。
扉が左右へと分かたれ、輝きが溢れ出す。
わたくしは覚悟を宿したその一歩を、今、踏み出す。
会場は、眩いばかりの光に満ちていた。
無数の燭台が星々のように瞬き、見上げれば天井の装飾が金糸の細工のごとく繊細に煌めいている。
王太子の生誕を祝うべく、至る所に活けられた色とりどりの花々。
それらは宴の主役や供される品々を邪魔せぬよう、あえて香りの抑えた種類で統一され、視界を埋め尽くす色彩としてその場を包み込んでいた。
中央へ至る足取りは、波一つ立てず湖面を渡る風のように、どこまでも静雅でなければならない。
背筋を伸ばし、顎を引き、凜と前を見据える。
ドレスの裾を揺らす歩幅は、寸分の狂いもなく、あらかじめ己に課したリズムを刻んでいく。
一点の曇りもない床に映り込む己の影は、まるで完成された舞台の上で演じる役者のよう。
視線、呼吸、指先の角度。
そのすべてに、わたくしは偽りの自分を閉じ込めた。
「オルドリッジ侯爵家、ヘスティア様。王太子妃教育課程首席修了、王宮内務補佐および慈善事業統括補佐歴――」
指定位置につき、読み上げが終わると同時に、わたくしは裾を引き、優雅に一礼した。
「本日はこの名誉ある席にお招きいただき、光栄に存じます」
顔を上げ、候補者の列へ加わる。
クリスタ様がわずかに視線で挨拶を交わし、エリーズ様は端正な笑みを浮かべていた。
「ごきげんよう、ヘスティア様」
「ごきげんよう」
それ以上、言葉を重ねることはしなかった。
求められているのは意思の疎通ではなく、静かな均衡を保つこと。
わたくしたちがそこに並ぶことで、他者の介入を許さない一つの完成された空間が出来上がった。
エリーズ様の装いは、今夜のために整え抜かれていた。
ドレスは上質な布地が光をやわらかく返し、胸元や袖口には細やかな刺繍や装飾が目を引く。
髪には小さな飾りがいくつも編み込まれ、それは優雅に左側へと流されていた。
手には細い指輪、手首には宝石を幾つも連ねた腕輪――どれも控えめながら、視線を集める位置に配されている。
……それにしても、エリーズ様はどこにラディエル抽出液を忍ばせているのだろう。
髪飾りか。
それとも、あの袖口だろうか。
あるいは指輪や腕輪も――疑えばきりがない。
確証を持てぬまま、三人の王太子妃候補が会場中の注視を一身に浴びて立つ。
わたくしは最後にもう一度だけ視線を巡らせ、意識を正面へと戻した。
国王の御座の傍らには王妃、その前方には王太子殿下が座されている。
王女殿下は、それよりもわずかに控えた位置に佇んでいた。
「――以上、三名のご紹介を終えました」
司会の声が静まり返った広間に響き渡る。
ここから先は、言葉ではなく、結果がすべてを語る場。
眼差しを少し転じると、文官席の一角に見慣れた姿を捉えた。
遠くからでも見間違えるはずがない――ディノ様だ。
紺色の文官服は、襟と袖口に控えめな金糸の刺繍が施され、彼の立ち姿によく馴染んでいる。
その手には、進行書らしき紙束が握られていた。
――見ていてくださいませ。
わたくしは、この祝賀の舞台で、誰にも気づかれぬまま全てを終わらせてみせますわ!
心の中でそう決意を告げると、やがて国王が開会を宣し、続いて王太子の口から簡潔な挨拶が述べられた。
広間に拍手が波のように満ち、楽の音が一度、柔らかく空気を撫でる。
そうして祝賀の幕は上がった。
候補者たちはそれぞれに周囲と言葉を交わし、場は穏やかな賑わいに包まれていく。
貴族たちの視線は、品定めをするように静かに巡っていた。
――その中で、ただ一人。
わたくしは、何も変わらぬ顔で、その時を待つ。
しばらくして、銀盆に杯を載せた給仕が候補者たちの卓へと近づいてくる。
わたくしは正面を見据えたまま、意識のすべてをエリーズ様の動向へと集中させた。
彼女はいつも通り――いや、心なしか機嫌が良さそうに見える。
自分が選ばれることを、露ほども疑っていない顔だった。
薬を混入させる機会は、そう何度もあるわけではない。
……そろそろ仕掛けてくるはずだ。
差し出された銀盆から、まず最初に杯を手に取るのは、エリーズ様だ。
並んだ杯はすべて同じ形、同じ色。
外見だけで中身を見分けることは不可能だ。
だが、配膳の順序も立ち位置も、この場ではすべて定められている。
どの杯が誰の手に渡るか――その行方を見誤るはずがなかった。
エリーズ様が杯に手を伸ばす直前、ほんの一瞬だけ指を握り込んだ。
――その微かな仕草を、わたくしは見逃さなかった。
おそらくは指輪に仕込んでいた例の薬を、爪先へと移すための密やかな予備動作。
そしてふとした拍子に、隣の杯の縁に指先を掠めさせる。
そのまま、杯の向きをほんのわずかに整え直した。
正面の装飾が、次に手にする者の正面に来るように――すなわち、薬を纏った箇所へ、自然と唇が触れるように導くための計らい。
それはただ整列を正しただけに見える、あまりにさりげない所作だった。
その「特別」な一杯は、次に差し出される位置――わたくしの前へと滑り出る。
……なかなか、見事な手際ですこと。
事前に情報を掴んでいなければ、確実に見落としていたわね。
これほどまでに真っ直ぐな「おもてなし」を無下にするのも、淑女として無粋というもの。
わたくしは迷うことなく、その麗しい杯をそっと手に取った。
指先から伝わる冷ややかな硝子の感触が、これから始まる劇の幕開けを告げている。
――いいでしょう。
お望み通り、飲んで差し上げますわ。
合図に合わせ、列席者が一斉に立ち上がる。
乾杯の宣言を合図に、わたくしは、そっと杯を持ち上げ、果実酒をひと口。
喉へと滑り込ませたその雫が、密やかにその役割を果たす――ことは、やはりなかった。
……何も起きない。
身体の内側は静まり返ったままだ。
予想通り、この薬はわたくしには効かない。
――なら、演じればいいだけのこと。
即座に崩れ落ちるのは不自然だ。
頭の中で砂時計を反転させ、数拍の空白を置く。
呼吸をわずかに乱し、視線を彷徨わせ、指先から力を抜いていく。
「ヘスティア様?」
最初に異変に気づいたのは、隣のクリスタ様だった。
わたくしは、重々しくゆっくりと顔を上げる。
意図的に焦点を外した瞳を作り、足元を一歩、後ろへと引く。
糸の切れた人形のように、身体をふらりと揺らした。
視界の端で、エリーズ様がじっとこちらを窺っている。
平然を装いつつも、注がれる視線には、隠しきれない異様な熱がこもっていた。
けれど、その期待が満たされることはない。
彼女が用意した程度の変化など、これからこの場を支配する「悪夢」に比べれば、あまりに滑稽なものだから。
思わず上がりそうになる口角を隠すように、わたくしはそっと口元に手を当てた。
勝利の予感に瞳を輝かせるエリーズ様をほんの一瞬だけ、慈しむように見つめて。
それから、何事もなかったかのように視線を杯へと戻した。
――エリーズ様。
「……いまの、杯……」
声は絞り出すように。
しかし確かに届く音量で、場の空気に細いひびを入れる。
――さあ。
「順番……最初に受け取ったのは……」
言い切らず、あえて息を詰まらせる。
ここで言葉を濁すことで、確証のない“疑いの形“だけをこの場に残すのだ。
言葉は刃よりも鈍く、しかし、より広く深く突き刺さる。
―― 一緒に、脱落しましょうか。
視界がわずかに揺れ、足首から力を抜く。
重力に導かれるまま、身体は後方へと傾いた。
杯が手から離れる角度を計算しながら、わたくしは形よく崩れ落ちる。
硝子が絨毯の上で鈍く転がる音が、静まり返った広間にわずかな波紋を残した。
「……っ」
捉えた視界の隅で、エリーズ様が驚愕に目を見開いていた。
――どういうこと?
そう問いかけたげに、表情を強張らせている。
咄嗟にクリスタ様が腕を伸ばしてくださったが、地に引かれる力に抗いきれず、わたくしを抱えるようにして床へ膝をついた。
わたくしはその腕に半ば身を預けるようにして――そのまま、完全に力を抜いた。
「ヘスティア様、しっかりしてください」
クリスタ様の声は、どこまでも冷静だった。
自身のドレスが床で汚れ、乱れることなど、今は全く気にしていない。
ただ迷いのない手つきでわたくしの身体を支え、即座にその安否を確かめてくれる。
その凛とした、淀みのない介抱。
彼女のその真摯な振る舞いこそが、周囲の者たちに事態の深刻さを正しく分からせることとなった。
騙してごめんなさい、クリスタ様。
けれど――後は、お願いしますわ。
あなたは冷静で、誰よりも場を読む。
最善を選び取れる人だ。
わたくしの放った言葉の意図を正確に拾い、この状況でどう振る舞うのが正しいかを、即座に判断してくれるはず。
「あっ……ま、まあ。ヘスティア様、大丈夫ですの!?」
何の反応もしないのは不自然だと判断したのか、エリーズ様もこちらへと駆け寄ってくる。
しかし、その声には隠しきれない動揺が混じり、明らかに震えていた。
一方で、王太子殿下が席を立つ気配はなかった。
この場がどれほどざわつこうとも、彼はただ淡々と、そこに座している。
この場で不用意に動くこと自体が、判断の誤りとなる――そう理解している者の静けさだった。
表情ひとつ変えず、ただ候補者卓を眺めている――その視線が、倒れたわたくしを捉えているのか、あるいは何も見ていないのか。
その意味を確かめる術は、今のわたくしにはない。
――直後、空気を震わせて場を支配したのは、国王の威厳ある声だった。
国王自らが指示を飛ばし、やがて侍医が駆けつける。
わたくしは侍女たちに支えられ、困惑と好奇の視線が混ざり合う広間を移動させられた。
閉じたまぶたの裏で、遠のいていく喧騒を冷静に聞き流す。
背中に残る、心配を装った熱と、冷ややかな詮索。
それを感じながら、わたくしの意識は闇の中へ沈んだ体を装い続けた。
* * *
ざわめきは波のように広がったが、誰一人として声を張り上げる者はいなかった。
広間の空気は芯まで凍りついていく。
その重苦しい静寂を切り裂いたのは、凛とした澄んだ声だった。
「――陛下」
クリスタが、一歩前へと出る。
ドレスの裾を引き、深く一礼してから静かに顔を上げた。
「恐れながら、申し上げます」
王座の上の国王が、厳かに視線を落とす。
広間中の視線もまた、一斉に彼女へと集まった。
「ただの体調不良とは断定できかねます」
わずかな沈黙。
言葉の重みが、ゆっくりと場に沈んでいく。
「この場を保存し、供された杯の検分をお許しください」
ざわめきが、一段低く唸るような地鳴りとなって広がった。
クリスタは視線を伏せることなく、まっすぐに言葉を続ける。
「順に杯が配られた後の出来事にございます。倒れる前のヘスティア様の挙動は、自然なものとは到底思えません。不測の事態である以上、王家の名のもとに、疑いを残すべきではないかと存じます」
王家の祝賀の席で、供された飲料に異物混入の疑い。
それだけで、看過できる問題ではない。
周囲が混乱に呑まれる中、令嬢の放った言葉だけが、凍てついた刃のように鋭く広間を貫いた。
国王はしばし黙したまま、その理知的な眼差しを真っ向から受け止めていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「――よかろう」
短い一言が、絶対の決定となって広間に落ちる。
「場はそのままにせよ。給仕は動くな。直ちに医官を呼べ。杯はすべて回収し、記録の上で調べよ」
国王の命が下ると同時に、衛兵が機械的な動きで展開し、給仕たちはその場で動きを封じられた。
ただ、整然とした軍靴の音だけが虚空に響き渡る。
国王はさらに言葉を重ね、この場での祝賀中止を厳かに宣言した。
音楽は断ち切られるように途絶え、広間にはただ、静まり返った空気の中で揺れる灯火の影だけが残される。
しんと冷え切った中、クリスタの鋭い視線がエリーズを射抜いた。
一切の感情を排した、無慈悲なまでの観察。
対するエリーズは、ただうつむいたまま激しく身を震わせていた。
弁明の言葉すら紡げず、溢れ出しそうな恐怖を耐えるように、ただ沈黙に縛り付けられていた。
* * *
侍女たちが音もなく退室すると、白を基調とした広い医務室には、わたくしと一人の医師だけが残された。
淡い灯りが清潔な壁に柔らかく反照し、鼻腔をくすぐる微かな消毒薬の匂いがほんのり漂っている。
横たわる身体を包み込むシーツの感触は心地よく、柔らかな敷布へと沈む感覚とともに、わずかな安堵が胸に広がった。
わたくしは、ゆっくりと、密やかにその瞳を開く。
そして、傍らに控える――すでに買収済みの医師へと、柔らかな笑みを向けた。
「分かっていますわね? 診断は、くれぐれも、正確にお願いいたしますわ。――事前の取り決めに沿って」
それは、甘やかな脅迫ではなく、退路を断つような宣言であった。
周囲の思惑や外圧に左右されず、見たままを、曖昧にせず断じよという要求。
医師は一瞬だけ視線を伏せ、やがて静かに頷いた。
その節度ある仕草だけで、彼が自身の成すべき役割を正しく理解したことが伝わってくる。
しばらくして、夜の静けさを破るように、兄フリードリヒが医務室に現れた。
扉が開いた拍子に廊下の灯りが差し込み、逆光の中に彼の険しい輪郭を浮かび上がらせる。
「意識が戻ったようだな」
「はい、ご迷惑をおかけしました。……お父様とお母様はどちらに?」
「お前の“失態”を弁明する為に陛下のところへ向かった」
「そうですか」
こんな時でも優先されるのは、王太子妃になれるかどうかであって、娘の体調など二の次なのだ。
――分かっていたことではあるけれど。
それにしても、お兄様がこの場に現れたのは少し意外だった。
兄は、極めて実利的な人だ。
侍女や医官の報告という、他者の主観が混じる情報だけでは、事態の正確な把握には不十分だと判断したのかもしれない。
わたくしが本当に使い物にならなくなったのか、それともまだ利用価値があるのか。
その進退を冷徹に見極めるために、自身の目で直接「検分」しに来た――そう考えるのが、彼という人間には一番しっくりくる。
その徹底した合理主義が、結果として、陛下への根回しに奔走する両親よりも早く彼をこの部屋へ届けたのだろうか。
兄はいつものように腕を組み、睨みつけるような鋭い視線でわたくしを見下ろしている。
決して優しい言葉をかけてくれるわけではない。
けれど、その頑なな沈黙は、わたくしの容態に異変がないかを探っているようにも見えた。
「ありがとうございます、お兄様」
「何がだ。お前の意味不明な感謝など何の価値もない。どうやら倒れた拍子に頭も打ったようだな。そこの医者に精々診て貰え」
突拍子もないわたくしのお礼に、兄はわずかに顔を背け、辛辣な言葉を叩きつけた。
たとえそれが利己的なものであったとしても、職務として控える医師以外の、身内が一人そこに居てくれるということ。
その事実に、わたくしはほんの少しだけ、救われる気がした。
* * *
数日間にわたる、微細な経過観察と薬理分析。
その果てに下された診断は、あらかじめ用意されていた台本をなぞるように、予定通りの言葉で下された。
薬理作用に著しいばらつきが見られる体質。
将来の医療処置、とりわけ出産時の安全が担保できない恐れがある。
改善の可能性はあるが、その見通しは立たない――
ゆえに、王太子妃としては不適格。
……これで、ようやく終わりましたわね。
宮殿の医務室を後にし、用意された馬車へと向かう。
これから辿る帰路を思うと、わずかに足取りが重くなるのを感じた。
数日後には、両親との避けては通れない話し合いが待っているだろう。
それを思うだけで、ひどく気が滅入る。
元を正せば、この状況を招いたのは両親の失策だ。
命を守るためと称し、毒を強いてまで植え付けた耐性が、最大の誤算となった。
その独断が招いた結果である以上、いくら厳格な二人とて、わたくしを一方的に見限ることはできないはず。
――因果応報、とでも申し上げましょうか。
わたくしは、あの方々にとっての「不測の事態」を、望む形で利用したまでのこと。
すべて筋書き通りに事は運び、約束されていたはずの未来を、わたくしは自らの手で書き換えたのだ。
そうして今、胸の奥には、凪いだ水面のような奇妙な平穏が横たわっている。
後悔など微塵もない。
そこにあるのはただ、澄み渡るような心地よさだけだった。
ひとつ、深く、長く息を吐き出す。
重く沈んでいた心に、今は確かな力が宿っている。
わたくしは、自らが引き寄せた新しい現実へと踏み出すべく、ゆっくりと馬車の扉に手をかけた。




