王宮文官の仕事
(※ディノ視点)
手際よく公文書の束を机で叩いて揃え、迷いのないペン運びで署名欄を埋めていく。
インクが乾くのを待つわずかな間、オレは椅子の背にもたれ、凝り固まった肩を大きく回した。
――ふう。
最近、明らかに扱うべき記録の量が増えている。
いや、「増えている」なんて生やさしい状況ではない。
机の上に幾重にも積み上がった紙の壁は、すでに視界の半分を遮っていた。
崩れる前に処理しなければならないのは分かっているが、いかんせん、その圧倒的な質量を前に再び手を伸ばす気力は削がれている。
「ディノ、最近残業が多いよな」
隣の机から、同僚が呆れたように声をかけてきた。
オレは羽ペンを置き、軽く肩をすくめる。
「前より任される仕事が増えたからな。終わる気がしないよ」
「だよなあ。下処理ばっかりだったのに、今じゃ決裁前の文書まで回ってくるし」
そう言われて苦笑を返した。
数ヶ月前までのオレの仕事といえば、ひたすら数字を集計するか、あるいは既存の記録を写し取るだけ。
部屋から一歩も出ることのない、完全なる裏方専門だったはずだ。
かつては同じ部屋の片隅で単純作業しか任されなかった。
だが、今では上層に近い席を与えられ各部署を繋ぐ調整用の文書や、上層部へ回す直前の最終整理まで任されている。
これが輝かしい出世街道なのか、それとも一歩踏み外せば奈落へ落ちる危うい道なのか。
正直なところ、まだ判断はつかない。
……もう少し見てから決めるとしよう。
「なんか真面目になったよな。いや、不真面目ってわけでもなかったけどさ。心境の変化でもあったのか?」
「まあ……将来のことを考え始めた、ってやつかな」
冗談めかして言うと、同僚は目を丸くした。
「へえ。ずっとこのままでいいって顔してたのに」
「下の立場は気楽だけどさ。いつまでも、ってわけにもいかないでしょ」
口にしてから、わずかな沈黙が流れた。
自分の言葉でありながら、どこか他人事のような意外さを感じていることに気づく。
――将来、か。
あの日まで、そんなことを真剣に考えたことはなかった。
王宮で働けていれば、それで十分。
実家のことは家族に任せて、自分は自由に生きていく。
それでいいと思っていたはずなのに。
考えごとに沈んでいると、ふと視界の端に伸びた髪が入り、指先でそれを払う。
長くなってからは、邪魔にならないよう仕事中はいつも一つに纏めていた。
切る暇もないし、そんなことに時間を割くくらいなら、今は他のことに集中したい。
両頬を軽くペチペチと叩き、浮ついていた意識を無理やり現実に引き戻す。
……よし、おしまい。
考えてもキリがないし。
まとまらない思考なんてものは、伸びた髪と同じで今は邪魔なだけだ。
ひとまず答えの出ない自問自答は放り出し、視線をふたたび公文書の束へと落とす。
まずはこれを片付けないことには、前にも後ろにも進めそうになかった。
ふたたび室内に、紙をめくる音とペンの走る音だけが戻る。
そんな静寂を破るように、隣の席から、同僚が遠慮もなくこちらを覗き込んできた。
「なあ、今日の仕事が終わったら、他部署の女の子たちを誘って飲みにいく計画を立ててるんだけどさ。お前もどうだ? 一緒に来るか?」
オレは動かしていたペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、嫌がらせのように整然と積み上がった未処理の文書が、鎮座している。
「……わあ、嬉しいな。つまり君は、オレがその誘いに乗れるように、これを一緒に切り崩してくれるってわけだ。持つべきものは仕事熱心な同僚だね」
どこにそんな時間があるんだ、と皮肉たっぷりに告げると、同僚は露骨に視線を泳がせた。
彼はわざとらしく数秒ほど天を仰ぎ、薄い顎をさする。
「……ああ、いや。よく考えたら、今日って意外と人数が集まらないかもしれないから、やっぱり無理かも。悪いな、また今度誘うわ」
……その言い方は、一生誘われないヤツだな。
手のひらを返すとは、まさにこのことだ。
同僚は先程のやり取りなど端からなかったかのように、平然と自分の仕事に取り掛かり始めた。
あらためて、明日にはまた増えるであろう紙の束と、一向に埋まらない署名欄を眺めていると、急にどっと重たい疲れが押し寄せてくる。
「……休憩に行ってくるよ」
「いってらっしゃ〜い」
文官室を出て、中庭に面した回廊へと向かう。
この通路は常に人の行き来が絶えず、落ち着いて考え事に耽るには到底向かない場所だ。
だが、今のオレにはその適度な賑やかさが、かえって救いだった。
ちょうどこの時間帯は、王太子妃候補たちの移動とも重なるせいか、いつにも増して人の流れが途切れない。
そのほどよい活気が、煮詰まった思考をうまく散らしてくれた。
公文書の細かい文字ばかりを追っていたせいか、目の奥が重い。
――少し遠くを眺めていた方が、気分も切り替わるというものだ。
そう思った矢先、背後で足音が速まり、すぐそばまで迫ってきた。
「フィデル、待って」
振り返ると、上司が小走りで追いついてきたところだった。
仕事ができて、面倒見がよくて――ついでに、やたらと距離感が近い。
「さっきの文書、確認したけど問題なかったわ。助かった、ありがと。ほんと頼りになるわね」
そう言って――あろうことか、オレの頭を両手でわしゃわしゃと撫で回した。
せっかく一つに纏めていた髪が、一瞬で無惨に乱れる。
……毎回思うんだけどさ。
それ、褒め方として合ってる?
「ちょ、やめてくださいって」
「いいじゃない。減るものでもないし」
楽しそうに笑い、用は済んだと言わんばかりに踵を返す。
そのままひらひらと手を振って、上司はさっさと行ってしまった。
……相変わらず嵐のような人だな。
残されたオレは、大きなため息を吐きながら、ぐちゃぐちゃにされた髪を整えるため紐を一度解く。
手櫛で整えようとするが、広がるし跳ねるし、くせ毛の扱いは一筋縄ではいかない。
これだから直すのが大変なんだ。
内心でぼやきながら、再び歩き出そうとした――そのとき。
不意に、空気がやわらいだ気がした。
「あら、ディノ様。ごきげんよう」
思いもよらぬ声に、ぴたりと足が止まった。
――うわ、よりにもよって、こんなひどい状態のときに。
声のした方へゆっくりと体を向けながら、あくまで動作の一部であるかのように、指先で髪を梳く。
乱れた毛先を滑り込ませるように整えるその手つきは、不自然ではなかったはずだ。
これ以上手を加えたところで、きっとそう変わりはしない。
……変じゃないかな?
一抹の不安を胸の奥に押し込めて、髪から手を離すと同時に、真っ直ぐに相手を見つめた。
「ヘスティア嬢。ごきげんよう。今日も王太子妃教育だったの?」
「王太子妃候補として、最後のお茶会でしたの。ところで――」
そこで言葉が途切れ、一瞬の間が置かれる。
その視線が、立ち去った上司の方へ向いていることに気づく。
「今の方は、どなた?」
柔らかな声に、にこやかな微笑み。
非の打ち所がない完璧な淑女の佇まい――だというのに、なぜか周囲の空気がぴりりと張りつめていく。
ヘスティア嬢の目が笑っていない……気がする。
さらには、後ろに控える侍女――リリムさんだったか。
彼女からも感情を排した冷たい刃が飛んできて、思わず背筋を冷たいものが駆け抜けた。
……何かしたっけ、オレ?
その気迫にたじろぎ、咄嗟の返事が遅れる。
「今の、方は、どなた……?」
先ほどよりも、こころなしか低い声。
逃げ場を塞ぐように同じ問いを重ねられ、回廊の空気がいっそう重く沈んだ。
……あれ?
何か、機嫌悪い?
一瞬の沈黙の中で思考を巡らせ、はっとする。
そういえば、さっき「最後のお茶会」と言っていた。
王太子妃候補たちが一堂に会する茶会――
そこが、一瞬たりとも気を抜けない戦場であることは、城内の誰もが知るところだ。
もしかすると、そこで何か不愉快なことでもあったのかもしれない。
だが、ここで深く踏み込むのは違う気がした。
高潔な彼女のことだ。
心中を悟られたり、同情されたりするのは、きっと本意ではないだろう。
オレは努めて素知らぬ顔を装い、ヘスティア嬢の問いに淀みなく答えた。
「上司だよ。さっき仕上げた仕事のお礼を言いに来ただけ」
念のために言っておくと、先程の女性は既婚者だ。
身分ある貴族だが、この界隈では珍しい恋愛結婚で、夫婦仲もすこぶる良好――職場で惚気話を聞かされるくらいには。
……正直、羨ましい。
そんな幸せを見せつけられれば、オレだって恋愛結婚に憧れを抱かないわけじゃない。
だが――この立場で、この環境で、そんな春が来ると期待するのは、そう簡単な話でもないだろう。
一世代前からは貴族の女性も職務に就き、恋愛結婚に踏み切る者も少しずつ増えてきている。
昔に比べれば幾分か自由にはなった。
だが、それでも家格が上がるほどに「女性は家を守るもの」「結婚は家同士を繋ぐ措置」という旧態依然とした考えは、今なお根強く残っている。
そんな貴族社会のしがらみや、複雑な人間関係に思いを馳せていると、なんだか無性に辟易してきた。
オレは沈みかけた気分を強引に切り替えようと、あえて軽口を叩いた。
「実家の犬に似てるとかで、たまにああやって撫でられるんだ。失礼だと思わない?」
「ふふっ」
同意を求めたつもりだったが、返ってきたのは小さな笑い声だった。
……え。
まさか、ヘスティア嬢までオレを犬に似てると思ってる?
それは地味に傷つくんだけど。
オレは自嘲混じりの笑みをこぼし、小さく息をついた。
まあ、彼女にいつもの笑顔が戻ったのなら、良しとするしかない。
ふと、妙な沈黙が落ちる。
どうやら、オレの犬扱いに思わず吹き出し、あまつさえ共感までしてしまったことが、彼女には少々気まずかったらしい。
ヘスティア嬢は小さく咳払いをして、ふっと表情を和らげた。
「そういえば、聞いてくださる? お兄様ったら酷いんですのよ」
彼女は話題を変えるように、楽しげに続けた。
先日、真夜中に廊下でフリードと遭遇した話――
闇に溶け込む黒装束、そこから顔だけが浮かび上がる恐怖体験。
……ああ、その光景は容易に想像がつく。
夜中に全身黒ずくめで現れたら、オレだって悲鳴を上げかねない。
ちなみに――
会うたびあまりに黒一色なので、もしや大切な誰かを亡くして、今も喪に服しているのではないか。
そう勘ぐって、以前、かなり遠回しに探りを入れたことがある。
けれど返ってきた答えは、拍子抜けするほど単純だった。
本人に深い事情はなく、ただ服装に無頓着なだけらしい。
だが、あの目つきと黒一色の装いが合わされば、威圧感は否応なく増す。
そんなことを思い出していると、ふと、ヘスティア嬢の視線がオレの目元に留まった。
「この前より顔色は良くなったようですが、まだ目の下に隈がありますわ。休憩は取れていますか?」
……鋭いな。
一週間ほど前、同じ回廊で声をかけられた時のことが脳裏をよぎる。
あの時のオレは極限状態で、あろうことかヘスティア嬢に気づかず通り過ぎてしまったというのに。
それでも彼女は、何事もなかったかのように、ただこちらの身を案じてくれている。
そんな純粋な気遣いに、後ろめたさがある身としては、どうしても居心地の悪さを覚えてしまう。
「はは……。仕事とか……色々忙しくてね」
「まあ、そうでしたの。お引き留めしてしまって申し訳ありません」
「休憩中だから大丈夫だよ。それに、ヘスティア嬢と話したら、ちょっと元気出た」
そう返すと、彼女はホッととしたように表情を和らげた。
たかが一文官に過ぎないオレと話したところで、何の得もないはずだ。
それだというのに、彼女はいつだって穏やかに接してくれる。
高位貴族の中には、格下の相手を前にあからさまに眉をひそめ、不快感を隠そうともしない者も少なくない。
――その傲慢な姿が、自然と一人の人物を連想させた。
彼女の兄、フリードリヒだ。
一応、オレとあいつは友人ということになっているはずだが、向こうの態度は相変わらず冷淡そのものだ。
そんな調子だから、これ以上なく付き合いづらい奴ではある。
だが、特権階級にありがちな弱みに付け込む卑劣さも、陰にこもった執念深さも、あいつにはない。
せいぜい、吐く言葉が棘だらけで、態度が悪いだけだ。
……いや、改めて考えてみれば、とてつもなく面倒な男かもしれない。
あれが許されているのは彼が侯爵家の嫡男だからという一点に尽きる。
もしオレが同じ振る舞いをすれば、その瞬間に社会的に抹殺されるだろう。
そんな男なので、目の前の彼女と同じ血が流れているとは、到底思えなかった。
あの澄んだ紫色の瞳を除けば、共通点など何一つ見当たらない。
いっそ赤の他人だと言われたほうが、よほど納得がいくというものだ。
そのとき、背後に控えていた侍女のリリムさんが、そっと一歩前に出て、控えめに時刻を示す仕草をした。
それに気づいたヘスティア嬢は、はっとしたように瞬きをする。
「あ……もう戻らないと、ですわね」
名残惜しそうに小さく呟いてから、彼女は居住まいを正してこちらを向き直った。
「ディノ様、兄が寂しがっておりますので、お時間が許すときに、会いに来てやってくださいませ」
……うん。
それは、いくらなんでも無理のある社交辞令ではないだろうか。
あの男が寂しがるなんて、天変地異が起きてもあり得ない。
まあ、この笑える怪談に、この際、乗せられておこう。
ついでに、今度会った時のからかいの材料にさせてもらおうかな。
「そのうち、お邪魔するよ。フリードに相談したいこともあるし」
「ええ。お待ちしておりますわ」
そう言って、ヘスティア嬢は淑やかに会釈し、侍女を伴って去っていった。
王太子妃候補という立場上、これ以上の長話は叶わないのだろう。
ほんの短い語らいに過ぎなかった。
それなのに、不思議と胸の奥が軽い。
独りになり、静かに息を吐き出す。
やるべきことは山ほどある。
家のことも、仕事のことも――
そして何より、一番頭を悩ませているあのことも。
いつの間にか、まともな休憩を取る時間は消えていた。
楽しい会話の代償だと思えば、安いものか。
オレは一度腕を伸ばして凝り固まった体をほぐすと、髪を一纏めに括り直し、再び仕事部屋へと足を進めた。




