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最大の壁

フリードが立ち去ってから、どれほどの時間が経っただろうか。

待機を命じられていた客室に、ようやく従者が現れ、オレは応接間へと促された。

いかに身分差があれど、これほど待たされるのは異常だ。

つまり――あからさまな値踏み。


従者が音もなく重々しい扉を開き、オレは一歩、上質な絨毯を踏みしめた。

そこには、逃げ出すことすら許さないほどの重圧を放つ、侯爵の姿があった。


背後で扉が閉まると、室内は不気味なほど静まり返った。

磨き上げられた調度品、寸分の乱れもない配置。

徹底的に管理された空気そのものが、この屋敷の格と、主の冷徹さを物語っている。


ここで軽率な言葉を一つでも零せば、すべてが終わる。


促されるまま席に着き、暴れる鼓動をねじ伏せるように深く息を吐き出した。

机の向こうに座る侯爵は、容姿だけならフリードリヒがそのまま歳を重ねたかのようだった。

だが、放つ威圧感はまるで別物だ。

ただそこに佇んでいるだけで、世界の支配権が彼一人に掌握されていくような錯覚さえ覚えた。


文書に目を落としていた侯爵が、ゆっくりと視線を上げた。

その瞳には驚きも怒りもない。

ただ、静かにこちらの器を測るような色だけがあった。


「フィデル卿。娘との縁談を望む理由を聞こう」


オレは背筋を伸ばし、姿勢を正した。

侯爵が求めているのは「娘を幸せにできるか」という感傷ではない。

「フィデル家に娘を出して損をしないか」「十年後も存続する家か」という打算だ。

ならば、返すベきは数字と構造の話でしかない。


まずは王宮における現在の立場。

文官は辞したものの、直轄地管理への関与や部局長クラスとの私的な人脈により、王宮とのパイプは健在であること。


次いで、我が家の方向性。

今後五年で三倍規模への成長を見据えた、地方領地への事業展開計画。

そして、兄からの家督継承は父の承認も家臣たちの支持も得て、後継移行は完全に終結していること。


怪しい金の流れを警戒する侯爵へ、事業資金は家の蓄えと委託料、および事業収益のみで回しており、借金も不穏な闇金もないことを説明していく。


だが、侯爵の目が本当に変わったのは、オレが文書管理標準化事業の具体的な内容に触れた瞬間だった。

貴族家ごとにバラバラな文書形式や保管規則を、我が家が作成する統一帳票と統一分類番号によって一本化する。

利用する家が増えれば増やすほど、あらゆる情報が、過去の記録が、各家の内部事情が、自然とフィデル家へと集約されていく仕組み。

王宮の実務そのものが、我が家を経由することになるのだ。


――これは、単なる事務事業ではない。

国家の血脈たる情報の流通経路を握る試みだ。


言葉を重ねるごとに、室内を満たす空気が変質していくのが分かった。

侯爵が、オレの意図を完全に見抜いたのだ。

「こいつは名声目当ての無心などではない」、と。

婚姻がなくとも我が家の事業は既に自立しており、王家との取引基盤すら確立している。


一方的な懇願ではなく、将来性を担保にした取引の提案。

伯爵家でありながら、なぜこのオレが侯爵家との婚姻交渉の席につけたのか――その本当の理由を、彼は理解したはずだ。


一通りの説明を終えたオレは、最後に、本丸であるヘスティア嬢について話した。


「――以上の理由により、我が家はさらなる飛躍を確信しております。ですから、私はこの縁を急ぐつもりはありません。オルドリッジ家の御令嬢の療養が終わるまで、いくらでもお待ちするつもりです」


断られるにしても、せめて「療養中だから」という無難な建前だけは、あらかじめここで潰しておく。

その言い訳さえ封じてしまえば、仮に拒絶されたとしても真の理由を炙り出すことができる。

対処のしようがない門前払いだけは、何としても避けたかった。


一つ、深く息を吐き出す。

言葉を尽くし、すべてを出し切ったはずだったが、それでも喉の奥はわずかに乾いていた。

説明の終わりとともに、部屋にはひどく張り詰めた沈黙が落ちる。

侯爵は腕を組み、ただじっとオレを見つめていた。

こちらの本質を見極めようとする眼差しが、チリチリと肌を刺す。

やがて、彼は重々しく口を開いた。


「……用意が良すぎるな」


一瞬、指先がわずかに冷え込んだが、オレは眉一つ動かさず、平静を保った。

侯爵はそこで言葉を切り、わずかに口元を緩める。


「もっとも――それほどの先見と器量がなければ、侯爵家に手を出そうなどとは思わんだろうがな。だが勘違いするな。私は今初めてお前を知ったわけではない」


ゆったりと、しかし隙のない所作で、侯爵は指を膝の上で交差させた。

彼はただ、手に入れた情報の正確さを確かめるように、動かしようのない事実だけを、静かにこの場に置いた。


「フィデル伯爵家三男。元王宮文官。文書管理標準化事業の発案者。……お前については調べている。だが、事業の構想がここまでとは思わなかった」


淡々と列挙されたに経歴に、息を呑む。

オレの身辺と事業は、口にするより前からすでに掴まれていたのだ。

侯爵は己の圧倒的な情報網を誇るでもなく、平然とした口調で先を続けた。


「娘が王宮に出入りしていたのだ、周囲の人物をあらかじめ調べるのは当然だ。そして――あの気難しいフリードリヒが、妙に親しくしている男。お前が息子に、ひいては我が家に近づいた理由は利害を見据えた打算だろうと察していたが……最後まで、力を一切借りようとはしなかった」


オレの内心の戦慄など興味がないとばかりに、彼は悠然と背もたれに身を預けた。


「すべては、最後に最大の利害――我が侯爵家との縁を求めてここに現れるためか。だが、それで不快に思うほど私は若くない。先ほども言った通り、家格、利益、打算。そんなものはこの世界では呼吸をするように当然だからな」


むしろ、想像以上の牙を隠し持っていた目の前の男を、楽しむような気配さえあった。

椅子に預けていた背を離し、彼は圧をかけるように、ゆっくりと重心を前へと移した。


「ならば、聞こう。なぜ、ヘスティアとの婚姻なのか。我が家と利害を結ぶだけならば、他にもやり方はあるはずだ。わざわざ、唯一の娘という最も重い手札を要求するからには、それ相応の理由があるのだろう」


オレは一度、息を整えた。

すでに利害の面では、フィデル家が有益な存在だと十分に納得させたはずだ。

ここからは取り繕った建前ではなく、本当の動機を告げる時間だった。

オレは真っ直ぐに見据え、はっきりと言う。


「理由は単純です。私は――彼女に惹かれました」


長い沈黙が落ちた。

侯爵はすぐには答えず、静かに視線を巡らせた。


指先の動き。

呼吸の間。

瞬きの速度。


獲物の隙を測る猛獣のように、彼は黙ってオレを観察していた。

その凄まじい圧力から、「なぜ、お前ほどの男がそれほど娘に執着するのか、その本質を答えろ」と、言葉ではなく、そう命じられている気がした。


「家格の補強になるのも事実です。事業にも有利でしょう。ですが、それらはすべて後から付いてくる利益です」


言葉の続きを促すように、侯爵は悠然とした構えを崩さない。

オレは嘘偽りのない本音を言葉に乗せた。


「王宮で言葉を交わしたとき――彼女は自分の立場をよく理解している人だと思いました。感情だけで動かない。だが必要な時はきちんと踏み込む。そういう人間は信用できます。……男としての欲目だけでなく、私は一人の人間として、彼女を深く好ましいと思いました」


「なるほど……家格や政略のためではなく、純粋に人として望むのか」


「はい。その隣に立つ場所を、他の誰かに譲るつもりはありません。そのためにすべてを揃え、ここまで上り詰めてきたのですから」


決定権が侯爵家にあることなど百も承知だ。

格下の不遜な大言壮語だと一蹴されるかもしれない。

だが、オレはあえて不敵に、最後の問いを突きつけた。


「……私以上の利害と誠意を同時に差し出せる男が、他にいますか?」


再び訪れた静寂は、以前よりも重みを増していた。

侯爵は微動だにせずこちらを見据えている。

己の領域に踏み込んできた若者の器を、その値打ちを、冷徹に見定めんとするように。

時計の刻む音が幾度か響き、ようやく、彼はその唇を割った。


「……もう一つ聞こう。娘は王太子妃候補だった女だ。それを側に置くということが、周囲にどう見られるか――理解しているのか」


低く響いた声が、室内の空気を容赦なく引き締める。

ヘスティア嬢を妻に迎えるということは、単に最高位貴族との繋がりを得るという意味だけではない。

それは、王宮からの羨望や邪推、そして有形無形の政治的圧力を、すべてその身に背負うということだ。

一歩間違えれば容易く狙い潰されかねない、権力闘争の標的にされる。


だが、オレの腹はとっくに決まっていた。

その程度の嵐に怯えるくらいなら、最初からこの部屋に足を踏み入れてはいない。


「理解しています」


躊躇のない一言。

オレの瞳の奥にある覚悟をじっと見据えていた侯爵は、やがて、探るような視線を緩め、わずかに頷いた。


「では、もう一つ聞こう。娘は今、療養中だ。社交界にも出ていない。王太子妃の座も失った。それでも望むと言うのか」


低く、重い問いかけだった。

先ほどヘスティア嬢を「最も重い手札」と評した男が、今度はあえて世間の冷ややかな現実を突きつけてくる。

こちらの覚悟の底を覗き込み、揺さぶりをかけるような沈黙が横たわる。

だが、オレは正面からそれを受け止め、些かの迷いもなく言葉を返した。


「はい。むしろ――今だからこそ、です」


喉元に突きつけられた無言の圧力を跳ね除け、オレは自分の意志を叩きつけるように、その理由を口にした。


「かつての彼女は王太子妃候補であり、私にとっては雲の上の存在でした。知人として言葉を交わすことはできても、それ以上の深入りなど分を弁えない愚挙。我が家や周囲が許すはずもなかった。――ですが、今は違う。彼女の立場が変わったからというわけではありません。私がようやく、この縁談を申し込める場所まで来たからです」


侯爵は親指と人差し指で自身の顎に深く指を当てた。

思案するように数回そこをさすると、やがて、何気ない口調で言った。


「……確かに、今のお前ならその資格はある。だからこそ、選べる選択肢も他にあるのではないか? 仮に、だ。娘ではなく、別の縁談を勧めたらどうする? 有力な公爵家でもいい。あるいは、国王陛下の側近や眷族に近い家でもいい。家格も利益も、今より遥かに大きい縁だ。それでもヘスティアを選ぶのか?」


それは、恐ろしい誘惑だった。

オルドリッジ侯爵家の権力をもってすれば、さらなる巨万の富と地位をもたらす縁談など、容易く用意できるのだろう。

上昇志向の強い男なら、間違いなく飛びつく破格の条件。


――試されている。

利益ではなく、ヘスティア嬢その人を選ぶというオレの言葉が、本物かどうかを。


「はい」


オレは間を置かず、即座に答えた。

火花を散らすような、無言の攻防。

だが、一歩も引く気はない。


「家格も利益も、確かに魅力的です。ですが――それで得られるものは、本当に欲しいものではありません。私が望んでいるのは、御息女ただ一人です」


侯爵は黙ってその言葉を聞いていた。

すべてを見透かすような冷徹な眼差しのまま、オレという男の器を、その意志の純度をじっと測っている。

やがて、もう一つ問いを重ねる。


「……もしヘスティアが子を成せなかった場合、それでも妻として迎える覚悟があるのか」


その問いは、これまでのどんな揺さぶりよりも冷酷で、現実的なものだった。

現在の彼女が社交界を退いている理由。

その体質は、次世代へ血を繋ぐという、貴族の婚姻においてもっとも重い期待に応えられない恐れがあることを意味していた。

侯爵は、それでも受け入れるのかと、問いかけている。


「問題ありません。フィデル家の跡継ぎなら他の方法でも用意できます」


「……ほう。君はそれほどヘスティアを愛しているのか」


低く、探るような声。

その瞬間、胸の奥で複雑な思いが交錯し、オレは一瞬、言葉に詰まった。


愛、か。

そんな美しい一言で片付けられるような、綺麗な感情ではない。


最初は、人生を変えてしまったことへの責任や、保護という情も混じっていたのだと思う。

だが――もう、そんな言葉だけでは説明がつかない。

今、胸の深層からせり上がってきたのは、他の誰かに彼女を手渡すことなど耐えられないという、身勝手な独占欲と執着だった。


その濁った本音を理性の奥へ押し込み、オレは喉につかえた塊を、無理やり言葉へ変えて吐き出した。


「……はい。純粋な愛ばかりではありませんが――彼女を我が家に迎え、その隣にいられるのなら、オレは生涯その手を離すつもりはありません」


言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が完全に凍りついた。

侯爵は動かない。

瞬きすらしないまま、ただじっと、オレの魂の底を覗き込むように見つめていた。


時が止まったかのように、濃密な静寂が部屋を支配する。

その圧倒的な重圧に、知らず知らずのうちに背中を冷たい汗が伝った。

侯爵は思考の海に沈むように目を閉じ、やがて、憑き物が落ちたように小さく息を吐き出した。


「……なるほど。少なくとも、綺麗事を並べる男ではないらしい。娘の周囲には――そういう耳障りの良い言葉しか届かないようにしてきた」


侯爵は少しだけ椅子に背を預け、オレを見つめたまま言った。


「――君はなかなか計算高い男だな」


こちらの腹の内を、最初からすべて見透かされていたかのような感覚。

若造がどれほど不敵にカードを切り出そうとも、この老練な政治家の手のひらの上だったのだ。

その底知れなさに一瞬だけ肌が粟立ったが、侯爵はそんなこちらの気後れなど無視して、淡々と言葉を重ねる。


「だが、計算が出来る男は嫌いではない。そんなことも出来ずに家を潰すどこぞの当主候補より、よほど信用できる」


呼吸が、わずかに詰まった。

侯爵の瞳から先ほどまでの冷徹な拒絶が消え、オレを厄介な交渉相手として認めるような、鋭い光が宿るのを感じた。


「フリードリヒと友人になり、ヘスティアも君を避けてはいなかった。それにフィデル伯爵も、君のことを話す時は実に機嫌が良い」


侯爵はすべてを量るような沈黙でオレと対峙し、そこで一度、言葉を区切った。


「君は――」


再び訪れた重苦しい静寂が、部屋の空気を支配する。

それが、宣告を待つための時間だと理解した瞬間、オレの全身の筋肉が緊張で強張った。


「……味方である限りは頼もしい男だな」


侯爵は一度、力なく唇の端を上げた。

その仕草は、先ほどまでの貴族としての仮面を剥ぎ取った、ただの父親のものだった。

彼は何かを断ち切るように肩の力を抜くと、自嘲気味にこう告げた。


「家の存続や利益も無論あるが、我々は……最高の地位へ押し上げ、ゆくゆくは王妃に就かせることこそが娘の幸せだと思っていた。だが、フリードリヒから届いた療養地での様子を記した報告書を読み、私は気づかされた。それは傲慢な考えだったのかもしれない、とな」


侯爵の目は、過去の自分自身を振り返るかのように閉じられた。

その表情には、少しの悔恨と深い思慮が混ざっている。


「ヘスティアにとっては、決して良い親ではなかった。この十八年、王妃の器たらんとする娘に厳しく接し、多くのものを制限してきた。……挙げ句、あのまま体質に気づかずにいれば、あの子の未来は完全に閉ざされていたかもしれない。我らの判断の誤りが、取り返しのつかない結果を招くところだった。……だからこそ、王太子妃という重荷を降ろした今は、少しでも心が安らぐ場所に居させてやりたいのだ」


言葉を区切るように、侯爵はゆっくりと目を開けた。

そこには一人の娘の行く末を案じる父親の眼差しだけがあった。


「……今まであの子の未来を縛ってきた私が言えたことではないかもしれないな。だが、一つだけ訂正しておこう。先ほどから君は娘を娶るつもりで話を進めているようだが――ヘスティアは、誰かに品定めされ、選ばれるだけの娘ではない。最終的に未来を選ぶのは、あの子自身だ」


侯爵は視線を逸らさず、静かにオレの反応を見定めていた。

重厚な空気の中で、張り詰めていた肩の険しさが、ほんのわずかに解れていく。


「だから、この婚約は家や私の判断だけで決めるものではない。ヘスティア自身の意思を確認し、あの子が君を受け入れると言うのなら――その時は、二人の婚約を認めよう」


 * * *


侯爵邸からの帰りの馬車の中。

父は完全に燃え尽きたように、背もたれにぐったりと身を沈めている。

侯爵との話し合いの最中、本当はオレの口を塞ぎたくなる場面が何度もあったはずだ。

しかし、父は最後まで何も言わずに大人しくしていた。

……いや、ただ単に、雲の上の存在である侯爵の威圧感に固まっていただけかもしれないけど。


何にせよ、あの部屋にいた間は、おそらく生きた心地がしなかっただろう。

いま声をかけてもまともな返事は返ってきそうにないので、そっとしておくことにした。

そんな父の向かい側で、オレは壁にもたれ、流れていく景色を無言で眺めていた。


フィデル家は、立ち上げた事業によって貴族社会で一目置かれる存在になった。

そしてヘスティア嬢は、王太子妃候補の座から外れた。

もし先ほどの対峙で侯爵が「娘はやらん」と一言突っぱねていれば、すべては水の泡になるところだったのだが――その局面を、どうにか乗り越えた。

しかし、安堵の感情が湧き上がるより先に、オレは己の心に言い聞かせる。


――まだ、終わってはいない、と。


そもそも、貴族の結婚とは親が決めるものだ。

だから、侯爵さえ頷かせれば、この縁談はそれで決定だと思い込んでいた。

肝心のヘスティア嬢の心は、その後にでも少しずつ射止めればいい、と。

だが、それはオレの都合のいい大誤算だったようだ。

……マズイ。完全に、手順を履き違えた。


この縁談における最大の壁は、あの老練な侯爵などではない。

ヘスティア嬢本人が、承諾するかどうか。

それだけだ。


「そんな目で見たことはなかった」と、一言で切り捨てられるか。

それとも、兄への義理ゆえに波風を立てぬよう、この想いを諦めとともに受け入れるのか。

あるいは、オレの想像もつかない別の答えが待っているのか。

……そればかりは、蓋を開けてみるまで誰にも分からない。


既に、賽は投げられた。

彼女の唇が動いた瞬間、オレの世界は否応なしに形を変える。

それが残酷な拒絶であれ、兄を慮る優しい嘘であれ――オレはそのすべてを、逃げずに受け止めるしかないのだ。


ヘスティア嬢のいる療養地は、王都の喧騒がなかなか届かない遠い場所にある。

彼女の意思を確かめ、その答えが再びこの王都へ戻ってくる。

その当然の猶予さえ、今のオレには酷く残酷な時間に思えた。

やり場のない思いを宥めるように、そっと目を閉じる。


……いっそ返事をもらわない方が、淡い夢の中に一生浸っていられるのかもしれない。


自嘲の笑みを浮かべ、深く吐き出した息とともに、縋るような期待を無理やり心の奥底へと押し込んだ。

結局のところ、結論が出るまでの間、オレに許されているのは待つことだけなのだ。

たとえそれが、見えない真綿で首を絞められるような、生殺しの苦痛であったとしても。


――だが、オレの焦燥感など置き去りにして、容赦なく時は流れていく。


そうしてまた忙しい日常へと戻り、けれどふとした瞬間には、出口のない迷路を彷徨うように彼女のことばかりを考え込んでしまう。

そういえば、ここ最近はオレが送った手紙への返信も滞っていることに気づいた。

もしかしたら、この沈黙こそが答えなのかもしれない……。

などと最悪の結果を恐れては悩み抜き、胃をキリキリと痛ませる日々が続く。

正式な結果が出るまではただひたすらに、己の神経をすり減らしていた。


しかし。

オレが勝手に『最大の壁』と恐れていたその障害は――数ヶ月前、彼女が療養地へ向かった時点で、すでに木っ端微塵に砕け散っていた。


――この時のオレは、まだそれを知らない。

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