エピローグ
――そこで、思考が途切れた。
かすかな衣擦れの音。
焼き菓子の甘い香り。
そして、子供の小さな指が盤を叩く、こつ、という軽い音。
深く潜っていた意識が、ゆっくりと現在へ浮かび上がる。
眩しさに瞬きを繰り返した目の前に、穏やかな灯りと、愛しい家族の姿が広がっていった。
ティアの柔らかな微笑み。
膝の上で眠るルーナの、規則正しい寝息。
しがみついてくるヴェリテの、柔らかな重み。
そして――
「……とうさま?」
目の前で不思議そうに首を傾げる、セオドア。
その声に、ほんの数瞬、あの日々の記憶に囚われていたことに気づいた。
一時の夢想から覚め、いまこの手に触れている温もりを確かめる。
――甘やかな幻影ではない、これは現実だ。
小さく息を吐き、改めて目の前の光景を見渡す。
視界に映るすべてが、あの夜よりずっと先の、自ら選び取った世界の姿だ。
誰に与えられた運命でもない。
オレが望み、足掻いて、この手で手繰り寄せた日常だ。
その事実を改めて自覚するたびに、胸の奥にある重苦しい何かが、少しずつ確かな満足感へと書き換えられていく。
「つぎは、とうさまのばんだよ」
いつの間にか手札を出し終えたセオドアに促され、オレは意識を盤面へと戻した。
そうだ、今はまだ勝負の最中だった。
視線を落とせば、盤上は一進一退の攻防を物語っている。
セオドアは子供らしい大胆さでこちらの隙を突き、かなり際どいところまで詰め寄ってきていた。
だが、あと一歩。
戦術の詰めが甘い。
手元にあるこの一枚を、急所に差し込みさえすれば、僅差でオレの勝利が決まるだろう。
指先でそのカードを弄ぶ。
それを勝利を決定づける位置へと滑らせようとして、寸前で引っ込め、あえて別の札の上にわざと止めてみせる。
置き場の上を、行ったり来たり。
そのたびに、セオドアの表情は面白いほどころころと変わった。
ぱっと明るくなったかと思えば、すぐに曇り。
次の瞬間には、今にも泣き出しそうに目尻が揺れる。
かつて王宮や事業の場で翻弄してきた、あの油断ならない貴族たちとは大違いだ。
彼らを相手にするのとは訳が違う。
オレの指先ひとつに、この子の心は面白いくらい無邪気に振り回されている。
欺き合いの渦中にいたオレからすれば、それは信じられないほどに無防備で。
――あまりにも、素直で。
その危ういほどの無垢さに、思わず目を細めてしまう。
かつて自分が捨て去ったはずの輝きを、目の前の小さな息子に見せつけられたような気がした。
その純粋さに、ほんの一瞬だけ――容赦なく踏み荒らすのを躊躇った。
……まったく、しょうがないな。
喉の奥で、小さく苦笑を飲み込む。
ここで詰ませるのは容易い。
この一手を置けば、次で終わる確信はある。
だが――
……一度だけだ。
今回だけは、例外にしよう。
勝つことと、育てることは別だ。
いま、この柔らかい芽を完膚なきまでに折る必要はない。
昔の自分が『そんなに甘くはない』と突っぱねていたはずの優しい言い訳を内心で並べながら、オレはあえて彼に余地を残す一手を選んだ。
わずかに手を緩め、正解とは別の一枚を、そっと盤上に置く。
使用人たちが浮かべていたであろう、あの仕様のない苦笑いを、今の自分がそっくりそのまま浮かべていることには、気づかないふりをした。
その瞬間だった。
セオドアの瞳が、してやったりとばかりに、きらりと光る。
「――っ、やったあ!」
迷いなく打ち込まれた鋭い一手。
それだけで、有利だったはずの盤面が一気にひっくり返った。
「……は?」
呆然とした声が漏れる。
やられた、と思った時にはもう遅い。
脳裏に、先ほどまでの彼の姿が鮮烈に蘇る。
あのくるくる変わる豊かな表情も、泣き出しそうに揺れた目尻も、惑うような手の仕草も――。
全部、「一度くらい見逃してもいい」と思わせ、あえて手を緩めさせるための、完璧な演技だったのだ。
オレが盤面を見つめたまま、完全に言葉を失っていると――。
セオドアは、ゆっくりと顔を上げた。
そして――にやり、と口端を吊り上げる。
さっきまでの子供らしい幼い顔は、どこにもない。
そこにいたのは、計算と余裕を湛えた、どこか見覚えのある不敵な笑みを浮かべる勝負師だった。
「ボクのかち。『ぜんぶひょうじょうに出てる』って、ユダンしましたね。そんなの、"さくせん"にきまってるでしょう?」
セオドアはやれやれと、いかにも大人びた仕草で肩を竦めてみせる。
一瞬前まで今にも泣き出しそうだったのが嘘のように、その声には確かな勝利の響きがあった。
呆然とするオレを前に、息子は最後にまた、幼い子供のような顔で、にっこりと無邪気に笑ってみせた。
「たのしかったです。また、たいせんしてくださいね、とうさま」
――その言い方。
その「間」、その笑い方。
全部、どこかで見たことがある。
いや、違う。
見たことがあるんじゃない。
ずっと近くで、よく知っている。
――オレだ。
これは、オレにそっくりなんだ。
誰に教わったわけでもないはずなのに。
目の前の息子が浮かべているのは、かつてオレが盤上遊戯で勝利を収めたあと、友人に向けていた表情そのものだった。
淡い茶金の髪に、美しい紫の瞳。
顔立ちはどう見ても、気品あふれるティアにそっくりだというのに。
その皮のなかに詰まっている中身だけは、どうやらオレの血が濃くなりすぎてしまったらしい。
「……一番、駄目なところが似てしまった……」
盤上を見つめたまま、がっくりと項垂れる。
これまで様々な策を巡らせて勝利を拾い上げてきた男が、まさか、実の息子に嵌められる日が来るとは。
恐らく屋敷の使用人たちは皆、セオドアの何かしらの心理戦に引っかかって負けているのだろう。
その光景を想像し、思わず額を押さえる。
すると、膝の上にいたヴェリテが、ぽん、ぽん、とオレの腕を優しく叩いた。
「だいじょぶ?」
「……大丈夫じゃないかな。慰めて〜」
甘えるように頬をすり寄せると、ヴェリテはいやいやと力強く首を振り、するりと膝から降りてしまった。
「おかし、たべる」
娘は冷淡なまでに迷いのない足取りでティアの元へ向かうと、菓子を鷲掴み、ソファによじ登った。
そして何事もなかったかのように甘味をもぐもぐと食べ始めた。
……その反応、酷くないですかね。
父様、いまの仕打ちには本気で傷ついたよ。
その様子を見て、ティアが鈴を転がすような声で楽しそうに笑った。
周りが騒がしかったせいか、彼女の膝の上でルーナが顔を顰めてモゾモゾと動き出す。
ティアはそんな愛娘をなだめるように、頭を愛おしそうに撫でた。
「うちの子、天才ではなくて? セオドアがいればフィデル家は安泰ね」
控えていたリリムも、後ろでうんうんと穏やかに頷いている。
もはや、この部屋にオレの味方は一人もいないらしい。
「……ソウダネー……」
オレは少しだけ遠い目になりながら、棒読みで答えた。
出す手札もしっかりと考えられていたし、そこへ相手の心理を突く作戦を混ぜるなど、立ち回りも見事という他ない。
贔屓目なしに見ても、この歳でこれほど回る頭を持っているのは、確かに賢いと言えるだろう。
だがそれ以上に、何かこう――ひしひしと、嫌な予感がするのだ。
将来が、別の意味で心配でならない。
このまま放っておけば、間違いなく誰の手にも負えない「何か」に仕上がってしまう。
そして何より、父としての威厳を取り戻すためにも、このまま負け越したままではいられない。
次こそは再戦して、完膚なきまでに叩き伏せなければ。
オレは膝の上の虚無感――娘が去った跡を噛み締めながら、心の中でそう固く決意した。
……が。
数年後。
オレの嫌な予感は見事に的中していた。
しかも、想定外の角度から凄まじい追い打ちを食らう形で、だ。
恐るべき才能の片鱗を見せていたのは、なにも長男のセオドアだけではなかったのだ。
その証拠に、長女のヴェリテは、いつの間にか人の懐に入り込む術を完璧に覚え、時折ぞっとするほど計算高い一面を見せるようになった。
次に、末っ子のルーナは、天真爛漫な笑顔を振りまきながら、気づけば言葉巧みに周囲を自分の望む方向へと誘導している。
そしてやはり……セオドアは、相変わらず――いや、当時よりもさらに磨きのかかった策士へと成長を遂げていた。
オレやティアが笑ってあしらうからか、彼らの遊び相手と言う名の標的は別の世代へと移っていった。
敷地内の離れで隠居生活を送る――オレの両親だ。
孫たちに甘い父上は、見ていて可哀想になるくらい、手の上で完璧に転がされ、いいカモにされていた。
母上に至っては「老化防止になるわね」と微笑んで応戦してはいるものの、時折、魂が抜けたような虚ろな目で遠くを見つめている。
――かつては平凡を自認していた我がフィデル家は、いつの間にか、油断すれば足元を掬われるような魔の巣窟と化していた。
そんな我が家の惨状に、心の中で深く頭を抱える。
目の前で、揃って楽しげに笑い合う三人の姿を眺めながら、オレはようやく、ある一つの事実に気づいてしまった。
――なんか、おかしくないか?
一人ならまだしも、三人とも、か。
なぜ、揃いも揃ってこれほどまでに頭脳派で、目的のためなら手段を選ばない性質をしているんだ。
ティアのあの落ち着き、穏やかさ、そして深い慈愛。
そういった美徳は、どうして子供たちに受け継がれなかったんだ?
その疑問をティアにぶつけてみると、直前まで柔らかく微笑んでいたはずの彼女が、真顔になって、ふいと視線を逸らし――一瞬だけ、知らない女の顔をした気がした。
……今の反応は、一体どういう意味なんでしょうか。
その時、記憶の底からひょっこりと、ある男の言葉が浮上した。
いつだったか、フリードが言っていたはずだ。
――ティアは、“したたかな女”だ、と。
彼女がそんな素振りを見せたことなど一度もなかったので、今の今まで完全に忘れていたが。
……なるほど。
もし彼女の中に、オレと同等かそれ以上の何かが眠っているのだとしたら、この現状にも説明がつく。
もっとも――今さら、その正体を確かめようとも思わない。
ティアがオレの愛する伴侶であることに、何一つ変わりはないのだから。
今はただ、この幸せを守り抜くことの方が、オレにとっては、ずっと大事なことだ。
ただ手を伸ばすだけでは何も掴めないような世界で、ここまで辿り着くために、オレは持てる知略のすべてを尽くしてきたのだから。
世間ではこれを奇跡と呼ぶが、断じて違う。
オレは、ティアが王妃となるはずだった未来を退け、自らの手で正解を書き換えたのだ。
――その結果として、この子たちがここにいる。
これ以上、正しいことなどこの世にはない。
だからこそ、オレの選択がもたらした三つの宝に、最大の意味を込めて名付けた。
セオドア――盤面を覆して手に入れた、至上の贈り物。
ヴェリテ――運命をねじ伏せた末に掴んだ、一つの真実。
ルーナ――かつての闇を照らし出す、唯一の光。
無理やりこじ開けたこの幸福が、どうか泡沫の夢で終わらぬように。
朝が来れば必ず太陽が昇るように、ただ当たり前の日常として、これが永遠に続いてほしい。
ヘスティアも、家族も、今この瞬間も――
すべては偶然などではなく、オレが選び取り、ここに手繰り寄せたものなのだから。
もう二度と、指の間から滑り落とさせはしない。
この幸せが、一秒でも長く続くように。
そのために必要なら、どんな手でも躊躇わず取ろう。
大切なもののために――これからも。




