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露呈する魂胆

「――というわけで、これまで本当にお世話になりました」


重厚な執務机の上に、用意してきた封筒をすっと滑らせる。

中身は、王宮文官の辞表だ。

実家の家業を継ぐために、この職を辞する。

あらかじめ通していた表向きの理由が、これで正式な文書となったわけだ。


いつもは快活な上司は、机の上の白い封筒を見つめたまま、珍しく何も言わずに黙り込んでしまった。

事前に相談した時は、「あんたが抜けたら大損害なんだけど!」と盛大に引き止められたものだ。

だが、こちらの決意が固いと知るや、彼女は「せめて後任への引き継ぎだけは完璧にしなさい」と、オレの隣の席の同僚を指名してきた。

当の同僚からは「辞めないでくれ! 飲みに行けなくなる!」と本気で泣きつかれたけれど、笑顔で引き剥がして心の籠もっていない声援だけを送っておいた。


正式な手続きを踏み、後任への引き継ぎを終わらせたのが、つい先日のことだ。

今頃、その同僚は虚ろな目で山積みの文書を捌いているはずで、少々申し訳ないとは思うが、これでも熟考した結果なのだ。


今やフィデル家は、事業を通じて王宮や貴族社会そのものと深く結びついている。

しかし、王宮に所属する文官である限り、権限は与えられても行動には制約が付きまとう。


誰と接触するか。

どの案件に関わるか。

何を優先するか。

すべてを自由には選べない。


ならば、王宮の内側に留まり続けるより、家側の人間として外から各所を繋いだ方が、よほど動きやすい。

そう判断した時点で、文官という立場そのものに執着する理由はなくなっていた。


なにより、ただでさえ文官の公務と家の事業だけで、日々の予定は詰まりに詰まって疲労困憊なのだ。

そこにこれから跡継ぎとしての勉強まで加わるとなれば、さすがに体が保たない。

これから佳境に向けて諸々の調整をしなければならない大事な時期だ。

こんなところで過労で倒れるわけにはいかないんだよ、本当に……。


部屋を支配する、静寂。

目の前の上司がじっと沈黙を守るその時間の長さに、少しばかり身構えたその時――。


「……いつでも、戻ってきなさい」


ぽつりと、言葉の重みを噛みしめるように短く言われた。

いつもの口調とは違う、どこか寂しげな声。

そこに、これまでのオレの働きを正当に評価してくれていたのだと伝わってきて、少しだけしんみりとしてしまう。


いや、こういう湿っぽい空気は性に合わない。

オレはその気配を振り払うように、わざと口元を緩めて言葉を付け加えた。


「人手が足りない時はいつでも呼び出してください。必要とあれば、フィデル家の事業の一環として、いつでもお手伝いに参りますから」


「……あんたは本当に、最後までちゃっかりしているわね」


彼女は呆れたように息を吐き、いつもの調子を取り戻して肩をすくめた。

それでも最後は、笑顔を浮かべて、辞表を受け取ってくれた。


それからは次期当主の仕事を覚える日々だった。

王家から管理能力を高く評価されたフィデル家は、いまや伯爵位ながら序列上位に食い込む存在だ。

領地の拡大に加え、王宮直轄地の管理まで委任されたことで、その財政力と、「提出する文書一つで他人の運命が決まる」という無言の発言力はかつての比ではない。

まさに、社交界を揺るがす有力家門への変貌だった。


しかし——どれほど勢力を拡大しようとも、我が家の家格は伯爵のままだ。

なぜなら、フィデル家が手に入れたのは、爵位や公式な権力といった表立った地位ではなく、実利と情報という裏の支配力なのだから。


自分たちが目立ちすぎると、王家から警戒されて潰される。

だからこそ、急成長しても、あくまで事務処理と直轄地の管理をしているだけの一介の伯爵家という顔を崩さない。

周囲の貴族は家を恐れているが、王家から見ればよく働く便利な部下のまま、均衡は崩れないのだ。


だが――そんな事情とは裏腹に、オレの日常は多忙を極めていた。

事業の調整、領地の報告、家臣との打ち合わせ。

兄のように幼い頃から教育を受けていたわけではない。

新参の跡継ぎに、古参の家臣が軽く反発してくることも珍しくなかった。

その日も、家臣の一人が、事務的な手つきで記録簿を机に置いた。


「これは先代の頃からのやり方です。急に変えられては困ります」


言い方は丁寧だが、その視線には次期当主としての器を量るような冷ややかな鋭さがあった。

ひと通り目を通したオレは、顔を上げると、感情を排した声で言葉を返した。


「この管理方法だと、古い記録を探すのに時間がかかる」


「今までは、これで滞りなく機能しておりました」


「事業が大きくなった今は、前提が違う」


オレはあらかじめ、分類を三段階に書き直しておいた棚の構成案を差し出した。


「これに従って再配置すれば、無駄な照合が省かれ、探す時間は半分になるはずだ」


手渡された紙面を凝視したまま、家臣が言葉を呑み、黙り込む。

室内の空気が、ふっと張りつめた。


長年、帳簿を扱ってきた彼だからこそ、その数字と並びが、ただの思いつきではないと理解できたのだろう。

先ほどまで頑なに棘を尖らせていたその双眸から、険しさが引いていく。

新米への侮りは、いつの間にか、未来の主君たるオレへの裁定を仰ぐような視線へと変わっていた。


「……承知いたしました。そのように手配いたします」


家臣は深く一礼し、静かに部屋を退出していった。


一人になった執務室。

ふと視線を落とせば、あの時買ったインク瓶の横に、彼女から貰った三日月のペン置きが並んでいる。

それを見た瞬間、気負っていた心が解け、自然と頬がゆるんだ。

胸の奥が温かくなり、「よし、もうひと頑張りするか」と気合を入れ直して、オレは再び文書を手に取った。


しかし、何もかもが上手くいくわけではない。

押し寄せる記録の山に向かって夜通しペンを動かし続け、気づけば机に頬杖をついたまま、微睡んでいたこともあった。

はっと目が覚めた時には、書きかけの重要な文書にミミズが這ったような文字の羅列。

当然、後からそれを点検した父には、こっぴどく叱られた。


そんな格好悪い失敗を繰り返しながらも、オレは三日月のペン置きに励まされるようにして、怒涛の日々を駆け抜けていった。

実際のところ、今日を乗り切るだけで精一杯で、明日へ繋ぐ余裕なんてどこにもなかったのだ。


だから、気づけなかった。

彼女が驚かないようにと、自分が跡継ぎになったことや縁談のことを遠回しに綴ったあの返書が、手配を済ませたという錯覚の裏で、執務机の引き出しの奥深くに眠ったままであることに。

激務の中で「書いた」という事実だけが「出した」という記憶にすり替わり、本物の手紙は、いつしか意識の端へ追いやられていた。


 * * *


それからさらに、どれほどの月日が流れただろうか。

実務の事業はオレが主導していた。

けれど、次期当主としての教養や家を継ぐための学びに関しては別だった。

覚えるべきことは山積みで、最初はただその多忙を極めた日々に振り回されるばかりだった。

それでも折れずに食らいついていくうちに、いつしか家臣たちの視線は冷ややかなものから信頼へと変わり、父に叱られる回数もいつの間にか減っていた。


兄から引き継いだばかりの頃の、ただ目の前の仕事に翻弄されていたオレは、もういない。

次期当主として、一人の男として、彼女を迎えに行く準備がようやく整った。

既に両親には縁談の話をしてある。

父上にも侯爵閣下への正式な申し入れの手続きを進めてもらうことにした。


その間に、オレは伸びていた髪を切った。

朝の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、鏡に向かう。

そこに映る自分は、少しだけ顔つきが変わって見えた。

前髪を手で払い上げると、視界は驚くほどクリアだった。

表情の微かな揺らぎさえ隠せなくなったが、今の自分にはそれが相応しい。

以前のオレなら、長い前髪の裏に本心を隠して逃げていただろう。

だが、これからは違う。

視線を逸らさず、言葉の一つひとつに逃れようのない重みを乗せていく。


それからの数日間は、万全を期すために意識して十分な睡眠をとった。

当日に寝不足で頭が回らないなど、致命的な失態になりかねないからだ。


そうして迎えた、侯爵邸へ赴く前日の夜。

カトラリーが皿に触れる微かな音だけが響く、静かな食堂。

手元で赤ワインのグラスを揺らしていた父は、徐に口を開いた。


「ディノ。一つ、人生の先輩から愛の必勝法を伝授してやろう。明日の申し込みがどう転ぼうと、簡単に諦めるんじゃないぞ。そこで引いてしまえば終わりだが、粘り強く好機を待てば転機が訪れるかもしれない。――現に、そうやって、お前の母親を射止めたんだからな」


付け合わせの野菜を咀嚼しながら、どう返答しようか考えていると、父は勝手に続きを話し始めた。


「実は昔、何度も母さんに振られたんだが……今となってはそれもいい思い出だ。紆余曲折はあったが、結果はこの通り。こうして俺たちは夫婦としてここにいる」


「そうね……本当にしつこかったわ……」


普段の仲睦まじい様子とは裏腹に、当時の苦労を思い出しているのだろう。

斜め向かいの席で、母がどこか遠い目をしながら溜息をついた。


「……なるほどね。肝に銘じておくよ」


父の助言によって分かった真実は、ふたつだけだった。

一つ目は、今も昔も母が苦労しているということ。

二つ目は、オレの往生際の悪さが、紛れもなくこの父譲りだということ。


……できれば、知りたくなかった。

そんな言葉が口から出そうになったけれど、オレはそれをステーキの肉片と一緒に、そっと飲み込んだ。


 * * *


翌日、鏡の前で着慣れない正装の襟元を正し、最後に軽く両頬を叩いて己を鼓舞した。

体調は万全、頭も冴えている。


――さて、行くか。

とうとう、大勝負の日がやってきたのだ。


ガタゴトと揺れる馬車の窓から見えてきたオルドリッジ侯爵家の屋敷は、相変わらず威圧感のある佇まいだった。

王太子妃候補を育ててきた家らしい、隙のない空気が満ちている。

門をくぐる馬車の中で、オレは喉の奥を鳴らし、再び気を引き締めた。


この縁談も、進め方は仕事の交渉と同じだ。

冷静でなければならないし、感情だけでは通らない。

ましてや、相手は侯爵家だ。

少しずつ昔からの風習が薄れてきているとはいえ、厳格な閣下が、愛や恋などという浮ついた話に耳を貸すはずもない。

格下が、ただ想いを訴えたところで、一蹴されるのが目に見えている。

だからこそ、フィデル伯爵家が、オルドリッジ侯爵家にとって有益な存在であると納得させる――そうでなければ、この話は端から成立しないのだ。


やがて馬車が止まり、従者に案内されて屋敷の中へと足を踏み入れる。


その瞬間、隣を歩く父から隠しきれない緊張が伝わってきた。

あの時、あれほど威勢よく「任せろ」と宣言したはずの横顔には、今や余裕の一欠片も残っていない。

大口を叩いた手前、後に引けない重圧がその背中をガチガチに強張らせているのが見て取れた。


父だけが先導され、先に応接間へ向かった。

まずは家同士の挨拶だ。

久々の対面での礼を交わし、体調や近況など、差し障りのない話をする。

そのあとで、ようやく本題――縁談に関する最終確認である、家同士の条件のすり合わせに入る手ずはずだった。


その間、オレは別の客間で待機していた。

調度品の整えられた室内は不気味なほど静かで、壁の時計が刻む規則正しい音だけが小さく響いている。


隣の部屋から漏れ聞こえる声はくぐもっていて、それが成功の足音なのか、あるいは破滅の足音なのかさえ判別できない。

今のオレにできるのは、父の不用意な一言で全てを台無しにされないよう祈ることだけだった。

あの人は緊張すると、妙に正直になる悪癖がある。


気持ちを落ち着かせようと茶に手を伸ばしたが、口に含んでも、その味はほとんど分からなかった。


ふと、自分の呼吸が浅いことに気づいた。

どうやら今のオレは、自分でも驚くほど緊張しているらしい。

部局の会議でも、他家との交渉でも、ここまで落ち着かなくなることはなかったというのに。


書面を交わしての交渉なら、それこそ何度も経験してきた。

条件を整理し、相手に利益を示し、合意点を作る。

やることはいつも同じだ。

貴族相手の駆け引きだって、今更珍しくもない。


だが――今日は違う。


これは、単なる仕事の取引ではないのだ。

失敗すれば、失うのは一つの契約ではない。

彼女の隣に立つ資格、そのものだ。


オレは背もたれに体を預け、ゆっくり息を吐いた。

静かな部屋に、時計の針の音だけが落ちる。


――あいつは今頃、どうしているだろうか。

どうせいつかは知られることだ。

事前の根回しも兼ねて、フリードには手紙で報せを送っておいた。

しかし、今日に至るまで返事もなければ、呼び出しの一言もない。

その沈黙が、かえってオレの不安を煽っていた。


怒っているのか、それとも呆れ果てているのか。

あるいは、もっと最悪な事態になっているのではないか――。

そんな想像が頭をよぎった瞬間、いきなり扉が開き、オレの身体はビクッと跳ね上がった。

入ってきたのは、凄まじい仏頂面をしたフリードだった。

いつもより深く刻まれた眉間のシワは、あきらかに機嫌の悪さを物語っている。


挨拶もなく、当然のような顔で部屋へ入り、フリードはそのまま目の前のソファへどさりと腰を下ろした。

そうして、顔を背けたまま足を組む。


まるでこの部屋の主のような態度だ。

……まあ、この屋敷の人間なのだから実際その通りなのだが。

それにしても、ノックくらいはしてほしい。

思わず心の中でそんな毒づきが漏れる。

もちろん、それをわざわざ口に出すことはしなかった。


やがて彼は、こちらを射抜くような鋭い視線をゆっくりと向けてきた。

オレの動揺を見透かそうとするかのように、その目はじっと観察し始める。


手紙の件で怒り狂っているのは、その顔を見れば火を見るより明らかだった。

だが、彼がわざわざこうして足を運んできた理由は、単なる八つ当たりではない。

牽制、そして値踏みだ。


オルドリッジ侯爵家ほどの家であれば、婚姻とは個人同士の問題では終わらない。

王太子妃候補から外れたとはいえ、ヘスティア嬢は依然として侯爵家の将来を左右する重要な存在だ。

そんな妹を託す相手として、オレという男が信用に足る存在なのか。

何を目的に動き、どこまで本気なのか。

彼は、その本質を見極めようとしているのだろう。


今、目の前にいるフリードは友人ではない。

完全に「侯爵家の次期当主」としてそこに座っている。

そしてオレは、その利害の天秤にかけられている立場だ。

自然と背筋が伸び、居住まいを正す。

いつもの軽口ではなく然るべき礼節をもって、対峙せねばならないと直感した。


品定めするような沈黙が流れたあと、フリードは低く硬い声でようやく口を開いた。


「確認だ」


それだけ言うと、瞬き一つせず、オレを射すくめたまま言葉を続けた。


「家格が目的か」


ずいぶん直球な問いだった。

我が家から見れば格上の侯爵家だ。

そう疑われるのは、至極当然のことだった。

オレは一瞬だけ考えて言葉を選び、それから落ち着いた声で答えた。


「家格の補強になるのは事実です。ですが、それが目的ではありません」


フリードは短く鼻で息を吐き、わずかに眉を動かした。

そして、こちらの回答を脳内で弾き始める。


「……ならば金か? いや、今のフィデル家に財の不足はない。宮廷への影響力も既に十分だ。家格でも、財でも、権勢でもない……利益の計算すら合わんとなれば――」


そこまで言って、フリードの動きがピタリと止まった。

次の瞬間、あいつの目が信じがたいものを見たかのように見開かれた。


「……まさか、くだらぬ情だとでも言うのか」


彼の低く、酷く冷ややかな声音が室内に響いた。

その眼差しは、鋭利な刃物のようにオレを射すくめている。

侯爵家嫡男としての絶対的な矜持と、目の前の計算式が狂ったことへの不快感が、その双眸に宿っていた。


「……くだらないかどうかは人それぞれかと。私はどうしてもあの方の手を取りたかった。そのために動いたまでです」


オレはいつも通りの、当たり障りのない笑みを浮かべて返した。

相手を挑発する気も、動揺を愉しむ気もない。

ただ事実を、淡々と述べただけだ。


「理解できん。お前ほどの男が、女一人の情愛などという不確定で、非合理で、見返りの保証もないもののために動くはずがない。私はそう判断していた」


何故そんな考えに至ったのか分からないが、フリードから見たオレは、随分と高尚な合理的実利主義者だったらしい。


「私はお前を正しく評価していたはずだった。フィデル伯爵家の力では、我が侯爵家と婚姻を結ぶ資格など端から存在しない。どれほど知恵が回ろうと、前提となる地盤がなければ意味はない。だからこそ、ヘスティアの近くにいても無害な男だと思っていた」


実際、その通りだ。

彼の見立てに何一つ狂いはない。

貴族の婚姻とは、持てる者がさらに富むための政略だ。

交渉の資本すら持たない弱者がどれほど小細工をしようと、そもそも同じ盤面に立つことすら許されないのがこの世界の秩序だった。


「……だが、お前は実際にここへ辿り着いた。そこまでして、あいつを求めたというのか。……利益の計算でないならば、本当にそれ以外に理由が思い当たらん」


フリードの顔から、張り付いていた余裕が綺麗に消え失せる。

次の質問を投げてくるその声は、先ほどよりも一段と低く、鋭かった。


「いつからヘスティアをそういう目で見ていた」


その問いに、オレは少しだけ考えを巡らせる。

己の気持ちを認めるまでに色々と葛藤はあったが、やはり、あの瞬間をおいて他にはない。

ここは、正直に答えておいたほうが良さそうだ。


「初めて会ったその瞬間から、もう気になっていました」


「侯爵家で会ったときか」


そういう認識になるだろうな、と内心で苦笑する。

フリードは、オレを不用意に家に招いたことがすべての元凶だと、勝手に結論づけているようだが――実情は少しばかり違うのだ。

王宮の片隅で、偶然その姿を捉えたのが最初だった。馬車を降りる彼女の一挙手一投足が、今も鮮明に脳裏に蘇る。

あれからもう一年以上が経っていた。


もっとも、わざわざ今それを訂正して、さらに藪蛇を突く意味はない。

オレは何も言わず、ただ黙秘を貫いた。


フリードは腕を組んだまま、しばらく考え込んでいた。

オレがヘスティア嬢に抱いていた感情と、ここ数ヶ月のフィデル家の急激な変化。

その二つを頭の中で結びつけているのだろう。


「……ならば、なおさら薄気味悪い。以前から妙だとは思っていた。あの能天気そうな当主と嫡男で、あれほど精密な事業運営ができるとは到底思えん。裏で誰かが動かしているのだろうとは考えていた」


その視線が、真っ直ぐこちらへ突き刺さる。


「……そうか。三男だからと、最初から除外していたが――実家をここまで押し上げたのは、お前か」


オレが答えないでいると、フリードは眉間に皺を寄せた。

沈黙を肯定と受け取ったのか、彼の頭の中で点と点が急速に線へと変わっていったのだろう。


「いや、待て……。お前が跡継ぎへ収まって以降、フィデル家は急激に姿を変え始めた。王宮への影響力の伸ばし方も、他家との結び付き方も、それまでとは別物だ。まるで――」


やがて、何かに思い至ったように目を細める。


「……侯爵家に手が届く場所まで、自ら家を引き上げたかのようだ。まさか、当初からヘスティアとの縁談を見据えていたのか?」


オレはすぐには答えなかった。

ただ静かに睫毛を伏せ、短く息を吐く。


――流石、フリード。

見立ては概ね正解だよ。

だが、すべてが最初から計算ずくだったわけではない。


「邪推されるのも無理はありません。確かに、家の方針転換に私が深く関わっていたのは事実です。ですが、端から縁談を見据えていたわけではない。よく思い出してください。事業を始めたのは一年以上前、ご令嬢に会ったのは約八ヶ月半前です。時間軸が合いません」


――本当は合っているんだけど、そこは黙っておく。


「地位の底上げに奔走した理由は、自分の人生の停滞を壊したかったからです。周囲に適応して何もせず終わるより、何かを成し遂げたかった。どうせ動くなら、家の利益にもなる形にしたかったのです」


――それと同時に力のないフィデル家では、ヘスティア嬢に近づくことすらできなかったからだけど、それも黙っておこう。


オレはゆっくりと顔を上げ、彼の鋭い視線を正面から受け止めた。


「ですから、最初から、そこまで見越した計画があったわけではありません。ただ、過ぎ去る日々の中で、私の気持ちが引き返せないところまで変化してしまった。だから今あるものを最大限に使っただけです」


「――計画ではない……?」


「ええ。縁談の為に事業を始めたのではない。彼女を諦めきれなくなったから、後から帳尻を合わせたに過ぎません」


「ただの一過性の好意のために、それほどの手間と危険を冒したとでも言うのか? 馬鹿げている」


フリードは苦々しげに目を細めた。

侮蔑と、それ以上の不気味なものを凝視するような、棘を含んだ眼光がオレを射抜く。


「感情など、愚者が足元をすくわれるだけの脆弱さに過ぎん。あれほど保身に長けたお前が、家を破滅させかねない泥濘に、自ら飛び込むはずがない。……お前がその危険を冒すのは、それを補って余りある、相応の見返りがある時だけだ」


フリードの言葉は、酷く論理的だった。

人は利のために動く。

権力のために動く。

それが彼の思考の根幹だ。

だからこそ――割に合わない代償を払い、見返りもなく突き進む感情など、最初から計算式の外に置いていたのだろう。


オレの口元から、ゆっくりと愛想笑いの温度が剥がれ落ちていく。


「一つ言うならば、貴方は感情というものの性質を、少しばかり見誤っておいでだ。それは、人を愚かにし、判断を狂わせるだけの足枷だけではないのですよ。こと『情念』においては、時に人を動かす凄まじい源動力になる。理を捻じ曲げ、あり得なかったはずの未来を手繰り寄せるほどにはね」


静まり返った室内で、フリードの眉間の皺がさらに深く刻まれる。


「当時の私には、あなた方と対等に渡り合える条件など何一つありませんでした。ですが、足りないのなら、自ら手札を積み上げればいいだけのこと。あなたが『計算不可能な不純物』として切り捨てたそのくだらぬ情こそが、私をここまで這い上がらせた唯一の理由です」


室内を満たした沈黙の中で、フリードの呼吸が一瞬、止まったのが分かった。

――情に溺れた愚者ではない。

そう感じとったのか、彼の顔は急速に、感情を削ぎ落とした鉄面皮へと戻った。

そこから向けられたのは、こちらの本性を無理矢理にでも透かし見ようとするかのような、冷徹で鋭い視線だった。

フリードは押し黙ったままオレの反応を値踏みしていたが、やがて最も避けたかった問いを突きつけてきた。


「……お前が私に近づいたのは、何か明確な目的があってのことか。それとも、ただの偶然か。……まさか、それすらも『情』の仕業だなどとは言わせんぞ」


こちらの奥底を見透かそうとするフリードの眼光を受け止めながら、オレは内心で冷や汗をかいていた。

確かに、情念が人を動かすと言った直後だ。

彼がオレのあらゆる行動に意図を疑うのも無理はない。


……困ったな。

その質問だけは、素直に答えるわけにはいかないんだよ。

ヘスティア嬢に初めて挨拶した時には、既にフリードとの付き合いは始まっていた。

だからこそ、あいつの認識では「後から諦めきれなくなって帳尻を合わせた」という説明で辻褄が合っている。

少なくとも、オレが最初からヘスティア嬢を目的に動いていたとは、まだ結びついていないようだ。

そこはいい。


彼との縁を利用して近づいた自覚はオレにだってある。

だからこそ、これ以上あいつを騙し、「ただの偶然だった」と都合のいい嘘で片付ける気にもなれなかった。

かと言って、本当のことを話して、芋づる式に余計なことまで暴かれるのだけは避けたい。


……ならば、取るべき手段は一つだ。

ここは論点をずらして、この話を畳ませてもらおう。

狡いのは分かっている。

だが、今はこれが精一杯だ。


オレは小さくため息をつき、今度はあえて、いつもの落ち着いた苦笑を浮かべた。


「あなたほど合理的な人が、今更そんな不可逆な過去の動機に固執するとは思いませんでした」


「何?」


「仮に私に何らかの意図があったとして、あなたや侯爵家から、一体何を得ましたか? そちらの力を借りた事など一度としてないはずだ。……違うでしょうか」


「………」


フリードの言葉が途切れる。

彼は頭の中で、過去のオレとのやり取りを急速に遡り、その言葉や行動を精査しているのだろう。

オレは少しだけ声音を和らげ、言葉を重ねた。


「……あなたが私の変化に不気味さを覚え、疑うのも仕方ないと思っています。ですが、過去をどう解釈しようと、共に過ごした時間そのものまで偽りだったわけではありません。少なくとも、これまでの付き合いで損得勘定をしていた記憶はない。むしろ、あの日々は、そうした計算を脇に置ける数少ないひとときでした。……それを今更切り分けて、何の利益があるのです?」


数秒ほど、部屋の空気が凍りついたかのような重い沈黙が落ちた。

フリードはオレの目をじっと見つめ、その言葉の奥にある真実を測るように眉をひそめる。


――これ以上の深追いは、お前にとっても無意味だろ。

頼むから、これで矛を収めて、それ以上は勘繰るな。


その瞳に無言の圧を込めて、真っ直ぐに見つめ返す。

おそらく納得していない部分もあるはずだ。

これまでの返答に嘘はついていないものの、核心だけは隠しているのだから。


合理的に考えて、これ以上の詮索は水掛け論であり、得られるものは何もない。

そう判断したのだろう。

フリードはこめかみを押さえ、重いため息をついた。


「……全く。お前という男は」


それ以上は続かなかった。

やがて、わずかに肩の力を抜くと、その問いへの興味をなくしたかのように、あっさり次の質問を投げかけてくる。


「もう一つ聞く。もし、ヘスティアがこの縁談を望まなかったらどうする」


「一度や二度の拒否で折れる覚悟なら、最初からここには来ません。拒絶は終わりではなく、自分に何が足りないのかを知るための判断材料です。それに――状況が変われば、人の答えも変わる」


フリードの眉が、わずかに動いた。

そこで初めて、彼はオレの引き返す気のない本気を値踏みするように、目を細める。

それを受け止めながら、言葉を重ねた。


「加えて今の私は諦めるより、手段を考える方が得意なので」


気づけば頬が緩み、場にそぐわないほど穏やかな声が出ていた。

自分では完璧に笑っているつもりだったが、目の前の男は、底の知れない怪物と対峙したかのように、その顔をかすかに歪めた。


張り詰めた空気が、ふっと弛緩した。

フリードの瞳に、深い憐憫と、どこか蔑むような色が浮かぶ。


「……ヘスティアも、こんな執念深い男に目をつけられるとは不運な奴だ」


うるさいな。

いちいち言われなくても、そんなことは自分が一番よく分かっている。


「……質問は、他にもありますか」


オレが促すと、フリードは腕を組んだまま、トントンと指先で肘を叩いてリズムを刻み始めた。

ほんの数秒の間。

だが、緩みかけた空気は、その一瞬で再び鋭く研ぎ澄まされていく。


「ヘスティアを娶った後、もし、フィデル家が没落したらどうするつもりだ?」


「家がどうなろうと――彼女の身の安全と生活だけは、何に代えても守ります」


その瞬間、フリードが鼻で笑った。


「守る? 驕るな。お前もヘスティアの外面に騙されている口か。オルドリッジ侯爵家に、そんな軟弱な人間はいない」


フリードの視線が、ほんの一瞬だけ遠くを見た。

そして静かに言った。


「あいつは守られる側に収まる女じゃない。いざとなれば、一人でも生きていける。それくらい、したたかな女だ」


その言葉が、胸の奥に落ちていく。

オレの知っているヘスティア嬢の姿と、フリードの語る妹の姿が、頭の中でゆっくり重なっていく。


「本当に娶るつもりなら、守るなんて大それたことは考えるな。対等に、横に並べ。落ちるときは道連れにするくらいでちょうどいい。どうせ一人でも這い上がってくるような奴だ。ただ愛でるだけの飾りが欲しいなら、他を当たれ。あいつはそういう器じゃない。でないと、お前が確実に持て余すぞ」


それは、妹の真の性質を誰よりも知る、兄としての結論なのだろう。

その言葉で、オレの中でいくつかの疑問が氷解していく。


そういえば、ペネロペ王女殿下との縁談の裏にも、ヘスティア嬢が一枚噛んでいたと聞いた。

彼女がどんな意図で手を回したのかは知らない。

だが、本来の我が家では、彼女の家へ縁談を打診できたとしても、有力候補になれる保証などなかったはずだ。

それが彼女の立ち回りによって、我が家は『悪くはない候補の一つ』から、『最も現実的な選択肢』へと押し上げられたのだ。


――なるほど。


少なくとも、彼女はただ守られるだけの令嬢ではない。

自ら盤面へ手を伸ばし、必要ならば状況そのものを動かす側の人間なのだろう。

フリードが「横に並べ」と言った理由も、ようやく理解できた。


突きつけられた、ヘスティア嬢の知らなかった一面。

けれど、それによってオレの気持ちが揺らぐことはない。

だが、あえてそれを教えてくれたフリードの誠実さは理解できた。

ならば、オレも自分の中で、これ以上ない筋の通った答えを出さなければならない。


短い沈黙が落ちた。

フリードがゆっくりと立ち上がる。


窓の光を背にして立つ彼の影が、机を挟んで長く伸び、座るオレの足元にまで達した。

てっきりこれ以上の対話は拒絶されるものと踏んでいたが、彼はその場に縫い留められたように動かない。

重苦しい静寂の中、無機質な声が上から降ってきた。


「その縁談に固執するなら勝手にしろ。最終的に引導を渡すのは父上と本人だ、私の知ったことではない。……だが」


フリードは一度言葉を切り、低く冷徹な気配でオレを射抜いた。


「……最悪の展開を想定しながら、なおも食い下がるその図太さだけは認めてやろう。壁を前にして、早々に逃げ出すような腰抜けではないという一点のみ、最低限の及第点を与えてやらんでもない」


突き放すような言葉を投げ捨て、彼は迷いのない歩調で扉へと向かう。

そのまま部屋を立ち去るかと思われたが、ドアノブに手をかけたところで、背を向けたまま再び口を開いた。


「ディノ。勝ち逃げはさせんぞ」


主語はなかったが、その意味はすぐに分かった。

いつも二人で興じていた、盤上遊戯のことだ。

ちなみに通算の勝率は、オレのほうが少しだけ高かった。


「……受けて立つよ」


弾かれたように、短く答える。

フリードはそれ以上何も言わず、今度こそ部屋を出ていった。


バタン、と静かに扉が閉まり、元の静寂が戻る。

オレは背もたれに深く体を預け、たまっていた息をゆっくりと吐き出した。


あんな話をして、本当に愛想を尽かされたのではないか。

その恐ろしさに、実は先ほどから気が気ではなかった。

だけど、あいつは。

まだ、盤を挟んで向かい合う未来を捨てずにいてくれた。


どうやら――オレたちの友情は、まだ壊れていなかったらしい。

その事実に気づいた瞬間、張り詰めていた緊張が解け、目の奥が焼けるように熱かった。

だからオレは誰もいない部屋で、しばらく顔を伏せていた。


やがて、その熱を確かな覚悟へと変えて、オレはゆっくりと顔を上げた。

これで、憂いは一つ減った。


深く息を吐き出し、胸に残る余韻を振り払うように思考を切り替える。


――次はいよいよ、本番だ。

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