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奪うはずだった、けど

祝賀の一件により、予定とは異なる形ではあったが、ヘスティア嬢は王太子妃候補から外れて療養地へと移った。

本来であれば、すぐさま王家から新たな縁談が持ち込まれるはずであり、こちらもそれに対していくつか手を打つ必要があると考えていたのだが……。


結果として、その必要はなくなった。

侯爵家側が、本人の療養を最優先するという理由で、先手を打って断りを入れたからだ。

確かに、彼女がこのまま王都に残ったところで、待ち受けているのは面白おかしく捻じ曲げられた噂と、好奇の目だけだ。

さらに、いつ完治するとも知れない体質のまま次の婚約に踏み切れば、相手の家は強力な後ろ盾や持参金を得られる代わりに、次世代の継承問題を抱える危険性を背負うことになる。

その場合、彼女を冷遇するか、裏で愛人を囲うのが関の山だろう。

そう考えると、王都から逃がす形になったあの療養地行きは、やはり英断だったのかもしれない。


遠い地から送られてくる手紙を見る限り、彼女は新たな試みも始め、楽しくやっているように見受けられた。

だが、文字だけならいくらでも誤魔化しようはある。

実際はどうなのか、気になって仕方がなかった。

しかし、オレが療養地へ一人で向かうのは、立場的にも体裁的にも不可能だった。


――ならば、フリードに協力してもらうしかない。

盤上遊戯で打ち負かし、賭けと言う名の細やかな願いで口実を作る。

会いに行ってやれと言ったところで素直に首を縦に振るはずもないあの男を、無理やり引っ張っていくという体にすれば、彼女のもとへ向かう大義名分は立つ。


……もう、王宮という監視の目はないのだ。

これからのことを考えても、少しでも彼女に良い印象を植え付けておきたい、という下心もあった。


結局、王女殿下という思わぬ乱入者により目論見とは少し異なってしまったが、オレは外遊という名目でヘスティア嬢の元を訪ねた。

そうして再会した彼女は、予想に反してずっと元気そうだった。

無理に明るく振る舞っている様子もなく、その自然な佇まいに、心の底から胸を撫で下ろした。


澄み渡る青空の下、微笑む彼女は、王宮にいた頃よりもずっと柔らかな光を纏っている。

いくつか想定外の出来事はあったものの、共に過ごす時間はどこまでも穏やかで、ただ心地よかった。


守りたかったのは、彼女の立場などではない。

この笑顔だったのだと、改めて実感させられる。


陽だまりの匂いと、乾いた風の音。

王宮では決して味わえなかった温かなひとときが、確かにそこにはあった。


 * * *


さて。

ヘスティア嬢に会って十分に気は休まった。

今度は本題に向かう番だ。


最近、貴族たちの間でフィデル家の評判は上向いている。

王宮の文書事業が評価され、王家直轄の案件を処理したことで信頼を得た影響が大きい。

だが、我が家が真に恐れられ、同時に頼りにされている理由は、単なる事務処理能力の高さなどではない。


フィデル家は、すべてを「見ている」。

しかし、そのすべてを「残すわけではない」。


だからこそ、何が記録され、何が闇に葬られたのか――その境界は、外部の誰にも見えないのだ。

膨大な文書を精査する過程で、貴族たちの失態や醜聞、あるいは致命的な弱みとなり得る情報を、否応なしに目にすることもある。

もっとも、そこで我が家が取る選択は、告発でも強請でもない。

そんな危険なカードを切れば、報復でこちらが潰されるだけだ。

ゆえに選ぶのは、「その情報を決して表に出さない」という、完全なる沈黙である。


世の貴族たちがフィデル家を信頼するのは、情報を「握って脅迫している」からではない。

むしろ、「情報を預け、彼らが決してそれを漏らさない」と確信しているからこそ、頼らざるを得ないのだ。


しかし、その沈黙は決して無力と同義ではない。

情報の開示と、秘匿。

膨大な案件をどの優先順位で処理し、いかなる形式で記録に残すか。

それらは一見、些細な事務手続きに過ぎない。

だが、フィデル家がペンを一払い動かすだけで、ある貴族の失態は歴史の闇に葬られ、またある者の功績は王家の記憶へと深く刻まれるのだ。


法や武力に頼るまでもない。

ただ情報の扱い一つで、貴族たちの社会的立場をどうにでも操作することができる。

これほどの強大な権力を掌握していながら、決して表舞台には立たない。

貴族の命運を裏で左右するその手腕に、人々も薄々気づき始めていた。


――「凡庸な家」から。

「将来性と、底知れぬ実務能力を持つ家」へ。


潮目は変わった。

王宮の廊下を行き交う視線も、母経由で耳に入る茶会の噂話も、以前とは明らかに質が違っていた。

軽視ではなく、底の浅い値踏みでもない。

――そこには明確な「期待」が混じり始めている。

利用できる流れだ。


ならば、そろそろ動いてもいい頃合いなのかもしれない。

跡継ぎの座を奪う覚悟は、とうにできている。

兄を押しのけることに、躊躇いなど毛頭なかった。


今更、情に流されるつもりはない。

彼を失脚させる算段なら、すでにいくつか用意してある。

失点を拾い上げ、判断力の欠如を周囲に示し、父の不安を煽る。

時間をかければ、自然にその座は空くだろう。

その程度のことは、容易い。

それでも今日まで実行に移さなかったのは、ただ、機が熟すのを待っていたからだ。

風向きが変化した今、本当に動くべき瞬間が訪れたのか。

その確認も兼ねて、オレは実家へと一時帰省したのだが――。


屋敷の中に入った瞬間、奇妙な違和感を覚えた。

なんだか、妙に慌ただしい。

本来のフィデル家は、いつもどこか気さくで、形式に囚われない空気が流れている。

使用人たちも気後れせずのびのびと働いている、そんな風通しの良さが我が家の持ち味であり、ある種の秩序だった。

それが今、どこか落ち着きを失っている。

胸の奥で、嫌な予感が静かに波紋を広げた。


廊下を行き交う使用人たちの足取りは、目に見えて浮き足立っている。

すれ違いざまに声をかけると、彼らは救世主でも見つけたかのように、ほっとした顔で言ってきた。


「丁度よいところにお帰りくださいました。お疲れのところ大変申し訳ないのですが……ディノ様に、助けを求めてもよろしいでしょうか?」


いつもはもっと気安く接してくる彼らが、これほど切羽詰まった様子で助けを求めるなど、やけに引っかかる。

内談室へ、と急き立てられるようにして廊下を進む。

目的の部屋の前に辿り着き、扉に手を掛けた――その瞬間だった。

中から、ガタガタと物が激しくぶつかり合うような異音が響き、指先に緊張が走る。


ただならぬ雰囲気に意を決して、扉を開けた瞬間――オレは言葉を失って、その場に固まった。


部屋の中は、完全に荒れ放題だった。

クッションは床に散乱し、机は傾き、花瓶は横倒しになっている。


そして――母はソファにぐったりと倒れ込み、長兄は窓枠に両手を突いて、片足を掛け、今にも外へ飛び出そうとしていた。

それを父が後ろから羽交い締めにして、必死の形相で止めている。


……何この地獄絵図。


唖然として、声も出ない。

半開きになった窓からは冷たい夜風が吹き込み、カーテンがばたばたと激しく揺れていた。

その向こうに見える夕空が、兄の行動が洒落や冗談の類ではないことを物語っている。

本当に飛び出すつもりなのだ。


「あら……ディノ、帰ってきてたの……」


母がこちらに気づき、今にも消え入りそうなかすれ声を漏らす。

その瞬間だった。

兄が父の腕を強引に振りほどき、矢のような速さでこちらへ突進――いや、猛烈な勢いで飛びついてきた。


「ぐえっ!?」


避ける暇さえなかった。

正面から直撃した衝撃で肺の空気をすべて絞り出され、我ながら情けない声が出る。

それでもよろめく足を踏みしめ、どうにか転倒だけは免れた。


「ディノぉ……! もう無理……!」


「ちょっ、近い近い! 離れて!」


兄と自分の身長がほぼ同じであることが、今日ほど災いしたことはない。

涙と鼻水でとんでもない有様になった顔が、視界のすべてを塞いでいる。

一体何なの、この状況。

男に全力で抱きつかれても嬉しくないんだけど!


「離れたら逃げるでしょ!?」


「……逃げないから、まずは落ち着いて。ひとまず応接室へ移動しよう。話はそこで聞くから」


兄は不満げな顔をしながら、ようやく少し距離を置いた。

しかし、その細い腕のどこにそんな力があるのかと驚くほど、オレの手首を掴んで絶対に離さなかった。


まるで、連行されていく犯罪者にでもなった気分だ。

……オレ、まだ計画を何ひとつ実行に移していないはずなんだけどな。


父母も連れ立って、全員で応接室へと移動する。

できることなら、この騒ぎの元凶から一番遠い席に陣取りたかったが、手首をがっしりと掴まれたままではそれも叶わない。

オレは諦めて、促されるまま隣のソファに腰を下ろした。


「いい加減、離して。逃げないから」


「……わかった」


兄は素直にオレの手首を離した――代わりに、今度はベストの裾をぎゅっと摘んできた。

……場所移動させただけじゃないか。


乱れた息を整え、ようやく本題に入ろうとしたその時、兄の目からまたしても静かに涙が溢れ出した。

これでは埒が明かない。

オレはため息をぐっと飲み込み、仕方がなく懐からハンカチを差し出した。


「ありがとう、洗って返すね」


「……ん」


しんみりと涙を拭い、平常心を取り戻した――と思った次の瞬間。

兄はハンカチを鼻に押し当て、ズビーーッと豪快に噛み鳴らした。

そして、ふう、と実にスッキリした顔で息を吐く。


おい、人の私物で何やってくれてんだ。

涙を拭うのは許したが、鼻水まで許可した覚えはない。


「……やっぱりそれ、返さなくていいから、いい加減状況を説明してくれない?」


鼻をすするのも落ち着き、ようやく人心地ついたのか、兄は今度こそ深く頷いてみせた。

これでまともに本題に入れるというのなら、我がハンカチの尊い犠牲も報われるというものだ。


「跡継ぎの責任は……僕には、重すぎるんだ……」


返ってきたのは、ひどくしわがれた鼻声だった。


「僕は人と向き合う仕事は好きだ。社交の場に出るのも、みんなの相談に乗るのも苦じゃない。でも、今のフィデル家の次期当主として、家を左右するような重い判断を下すなんて無理だよ……」


兄は震える声で、その繊細すぎる胸の内を語り出した。


「うちの家は、細々と小さな領地を守ってきただけだったじゃないか。あの頃なら、僕だってのんびり跡を継げたよ。なのに、新しく始めた事業で、急に王宮や他家との関わりが大きくなりすぎたんだ。 扱う案件の規模も、背負う責任も、昔とは比べものにならないよ……」


兄の言う通りだった。

我が家が始めた「情報の流動を操る」という事業は、今や貴族たちの力関係すら揺るがしかねない規模に膨らんでいる。


「もし僕が正式に跡を継いだあと、王宮の交渉で騙されて、不利な文書に署名をしてしまったら? 我が家が破滅するだけじゃない、そのシワ寄せは全部、昔から守ってきたあの小さな領地へいくんだ。僕の失敗一つで、領民たちが生活できなくなるかもしれない。そう想像するだけで、怖くて、夜も眠れなくなるし、ペンを握る手さえ震えそうになるんだ……!」


いずれは表の当主として、すべての責任の矢面に立つ。

たとえ実務の仕組みはオレが裏で動かしていようと、表舞台で最後に自分の名前を書き込むその一筆には、領民全員の命運がかかっている。

その「やがて背負うことになる、署名の重み」に、兄の心は完全に悲鳴を上げていた。


「それから、ずっと胃が痛くて……。このままだと本当に、胃に穴が空いて死んじゃうよ……」


「そうなのよ。もう、癇癪を起こした子供みたいに暴れるし、手はつけられないし……。挙句に『跡継ぎなんて降りる』だなんて言い出すものだから、私は心痛のあまり気が遠くなってしまってね……」


母がソファに倒れていたのはその所為だったらしい。


「すべてを投げ出して窓から逃げようとしていたのを必死に止めていたところへ、お前が帰ってきたんだ」


兄を羽交い締めにしていた理由を語った父が、酷くやつれた顔でそう締めくくった。


それは相当、精神的に弱っていたみたいだな。

また半泣きになり始めている兄を見ながら、オレは内心で静かに理解した。


――ああ、この人は。

人の上に立つ器ではない。


むしろ、善良すぎるのだ。

非情になりきれず、誰かを犠牲にするくらいなら、自分が傷つくほうを選ぶ人間。

だからこそ、現場の人々は彼を慕い、ついていく。

だが、それだけではこの家は維持できない。

守り抜くには、時に冷酷でなければならないのだ。


現場での彼は間違いなく優秀だ。

農地復旧の指揮を執り、素晴らしい成果を上げて評価されているのも知っている。

人と直接関わる仕事は得意。

だが、全体を統括し、非情な決断を下すことはできない。


周囲の評価も同じだろう。

兄は良い上司にはなれても、良い当主にはなれない。

人の良さが武器であり、同時に限界でもある人なのだ。


「僕はこう見えて、すごく繊細なんだよ……。ディノみたいに図太くて鋼の心臓を持っているわけでもないし、肝が据わっていて世渡り上手でもないんだ」


……何だその、長所と短所が表裏一体になった、褒めているのか貶しているのか判然としない微妙な評価は。


「だからお願い、跡継ぎを代わって! 僕は当主じゃなくて、『現場の要石』として家に貢献する方が向いてるって、やっと分かったんだ!」


またしても全力で飛びついてきそうな兄の顔面を、手のひらでぐっと押し返しながら、オレは内心で素早く状況を整理し始めた。


今日、もし彼が自らその座を降りなければ、いずれオレが裏から手を回して追い落としていた。

――もっとも、兄そのものを憎んでいたわけではない。

ただ、切り捨てる覚悟を決めていただけだ。

その意識は確かにあったし、準備も進めるつもりだった。

だが今、彼はその重荷を自ら手放そうとしている。

ならば、わざわざ手荒に奪い取る必要などどこにもない。


現場に立って人々の信頼を繋ぎ、実務を回す者。

そして、裏から全体を統括し、冷酷な決断を下す者。

この家に必要なのは、その両方なのだ。

そして――後者を担うべきなのは、間違いなく自分の役目だろう。


「父上と母上は、今回の件についてどう思っているの?」


オレの問いかけに、母が最初に小さくため息をついて口を開いた。


「そうね……。貴方が承諾してくれるなら、私はその方がいいと思うわ。バーナードは学問を追い求めて異郷でふらふらしているでしょう? 無理に連れ戻したところで、どうせまたすぐにどこかへ消えてしまうもの」


「ノーランはなぁ……この様子じゃ、とてもじゃないが当主は厳しいだろう」


父が長兄を見やり、苦虫を噛み潰したような顔をする。


「あいつにあの重圧は耐えがたいものだったみたいだ。残念だが向き不向きがある。――それにだ、あの事業はもともとお前の提案だったろ? 結果的にノーランが追い詰められたのも事実だ。だったら責任取って、お前が跡を継げ!」


「その言い分が通るなら当主権限で許可した貴方も同罪ではないの?」


「そうだった……!」


母の鋭い突っ込みに頭を抱えて撃沈した父だったが、瞬時に再起すると、あからさまな平静を装い姿勢を正した。


「……いや、その、ディノがなってくれたら父さんは嬉しいかなぁ、なんて。息子が三人もいて、誰一人として跡を継がないとなると、さすがにご先祖様にも申し訳が立たないし、普通に困るんだよ……」


父はバツが悪そうに視線を泳がせながら、こちらの出方を慎重に探ってきた。


ここで頷けば、もう後戻りはできない。

家を背負い、あらゆる選択の責任をすべて引き受ける立場になる。

それは、これまでの身軽な立場を手放すということでもあった。

――だが。

自由を天秤にかけてでも欲しいものは、とっくに決まっている。


当主としての権限。

家の未来を決めるだけの裁量。

そして、侯爵家と対等に渡り合えるだけの強固な立場。

それさえ手に入れば、ヘスティア嬢を迎える道は確実に開ける。

――二度と、彼女を誰かの都合で傷つけさせないための力に、ようやく届くのだ。


ここで尻尾を巻いて逃げ出したら、彼女の隣に立つ資格など永遠に失われるだろう。

そもそも、オレに断るという選択肢など最初からなかったのだ。


本来なら力尽くで奪い取るつもりだった座を、今、兄は自ら差し出している。

だからといって、これで胸のわだかまりが綺麗に消えたわけではない。

彼を失脚させようと裏で画策していたという事実は、何一つ変わらないのだから。

だが――これ以上、実の兄を追い詰めずに済んだという事実に、どこかで深く安堵している自分がいるのも確かだった。


「いいよ、やる」


オレの短い返答に、両親はあからさまに安堵の息を漏らした。

本来なら、これは歓喜の瞬間のはずだった。

張り巡らせた策略が実を結び、計画通りに望んだ座をこの手に収める――思い描いていたのは、そんな歪んだ達成感だったはずだ。


なのに今、胸の奥にあるのは高揚感などではなく、静かな納得だった。

それは、敵から強引に勝利を勝ち取った感触ではない。

フィデルという家のすべてを、自らの肩へと引き受けた重みそのものだった。


「そうと決まれば、ディノには良い縁談を探してやらねばな! ノーランは自分で相手を決めると言い張ったきり、結局誰も連れてこなかったからなぁ」


「そのことで話があるんだ。相手なら、もう決めてある」


家族全員が、不意を突かれたようにいっせいに口を閉ざした。

予想もしなかったオレの言葉に、ただ戸惑いの視線だけが返ってくる。


……刺さるような沈黙が、耳の奥を圧迫する。

自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていたが、不思議と心は凪いでいた。

オレはゆっくりと顔を上げ、ずっと前から自分の中で育ててきた答えを、飾らない言葉で一文字ずつ置いていった。


「ヘスティア・オルドリッジ侯爵令嬢だよ」


本来の帰省目的は、兄をその座から引きずり下ろし、自分が跡継ぎに収まるべきかを見定めることだった。

だが、それとは別に、いつかは自分からこの話を切り出すつもりでもいたのだ。

遅かれ早かれ、家名を背負う覚悟はもう決めていた。

ならば、家の許しがなければ始まらないこの「縁談」を認めさせるために、正面から家族との交渉に臨むのは、最初から避けては通れない道だった。


ヘスティア嬢に出会う前のオレは、領地の手伝いも、面倒な社交もすべて放り出して、自由に生きるつもりでいた。

だが、彼女が隣に居てくれるのなら、それらすべてを喜んで引き受けていいとさえ思えたのだ。

だからこそ、オレが跡を継ぐ条件として、これだけは絶対に譲るつもりはなかった。


「それって元王太子妃候補の? 確か今、療養中だったよね? そこまでして家格を上げようとしなくてもいいんじゃない?」


「家格のためじゃない」


「オルドリッジ令息と友達だというのは聞いていたけれど、いつの間にご令嬢に懸想してたの?」


兄は急に頬を染め、胸の前で指を組んで瞳を輝かせ始めた。

心底楽しそうに話の続きを促してくるけど……。

なんで身内にオレの恋愛事情を事細かに話さなきゃいけないんだよ。


しかし、兄とは対照的に、両親は互いの手をがっちりと握りしめ、小刻みに震えていた。


「お、お前……なんて命知らずなことを言うんだ! 相手は侯爵家だぞ!? 無茶を言えば縁談どころか、家同士の関係に決定的な亀裂が入る! こっちが一方的に潰されるのは目に見えているだろう!」


「気がついたら、うちの家名だけが国の帳簿から綺麗に消え去っていたりしないかしら? 心配だわ……」


まあ、無理もない。

数ヶ月前までの我が家は、どこにでもある平々凡々な伯爵家に過ぎなかったのだ。

そんな自分たちが、あろうことか由緒正しき侯爵家へ縁談を申し込むなど、彼らの常識では想像すら及ばない暴挙なのだろう。

その怯えようも仕方のないことだった。


「フィデル家はまだ中堅だが、将来性と実績は十分にある。侯爵家の令嬢の嫁ぎ先としては、今やむしろ現実的で、これ以上ない良縁だ。それに、フリードが王女殿下と縁を結んだ以上、家同士の勢力均衡を考えれば、彼女まで高位貴族に嫁がせる可能性は極めて低い。だから心配はいらないよ。家が消されるようなことにはならない」


無謀ではない。

十分に勝算のある交渉だ。

――あくまで理論上は、だが。


「もちろん、いきなり押しかけたりはしない。段階はすべて踏む。非公式の打診、釣書の交換、そこからの正式交渉……その段階までは、当主である父上に頑張ってもらわなければならない。ただ、実際の交渉には途中からオレも同席して、直接、侯爵閣下に我が家の価値を提示するつもり」


これまでの王宮での実績、侯爵家側の内部事情。

そして――あの偏屈なフリードにとって、オレが唯一の友人であるという事実。

使える手札はすべて揃っている。


「跡継ぎの座はオレが引き受ける。だから父上も、どうか覚悟を決めてほしい」


父の拳は膝の上で固く握りしめられていたが、やがてそれがゆっくりと解かれていった。

その顔からは、先ほどまでの情けない迷いは綺麗に消え去っている。

一族を束ねる長としての、鋭い眼光がその瞳に戻っていた。


「……わかった。お前の心意気、しかと受け止めた! そこまで言うなら、この父に任せておけ!」


拳をぐっと握りしめ、父は勢いよく立ち上がった。

――が、その膝は生まれたての小鹿のようにガタガタと震えている。


……本当に大丈夫だろうか。

正直なところ、ものすごく不安だ。


こうして。

兄を蹴落としてでも奪うつもりだった跡継ぎの座は、思いがけず穏便な形でオレの手に転がり込んできた。


これまで、目的のためなら必要とあらば何でも利用してきた。

人には決して言えないような策も、使ってきた自覚はある。

だからこそ、だ。

今回は、誰からも奪わずに済んだことに――。

そして、自分がまだ、実の兄を踏み潰して笑える人間ではなかったことに。

胸の奥でほんの少しだけ、安堵していた。

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