不可逆の選択
あの日、オルドリッジ侯爵家で初めて自己紹介をして以来、ヘスティア嬢とは自然と視線が合い、言葉を交わす間柄になっていった。
当時は仕事が立て込んでいた上に、文官室と監査用執務室は離れており、フリードと顔を合わせる余裕がなかった。
オレと彼女を繋ぐ共通の話題といえば、結局のところ彼の存在くらいだ。
必然的に、彼女から状況を聞くことが増えたが、そうしたやり取りを続けるうちに少しずつ打ち解けていったことは、純粋に嬉しかった。
情報で知っていた姿とは違う、本物のヘスティア嬢は、凛とした聡明さと、人を惹きつける確かな気品を湛えた佇まいで――心理的分析なしでも、誰もが好感を持てる女性だった。
それからしばらく言葉を重ねてみたが、一向に嫌なところが見当たらない。
知れば知るほど、内面の強さに触れることになり、オレは内心で重い溜息をついた。
……いや、あまりにも欠点が見当たらないのは、逆になんだか不自然だ。
それが彼女の真実なのか、あるいは無理を重ねているのか。
余計なお世話だとは分かっている。
だが今度は、心配という別の色が混じった視線でその姿を追い始めていた。
実は、少しばかり期待していたのだ。
彼女の欠点を見つけ、勝手に幻滅し、この胸に芽生えた熱に冷や水を浴びせてやりたい。
「やっぱり勘違いだった」と笑い飛ばして、この感情にケリをつけたかった。
なぜなら、これが恋だと認めてしまったところで、到底叶うはずのない相手なのだから。
だからこそ、いまさら心のどこかで、引き返すための出口を探してしまっている。
……まだ手遅れじゃない。
来た道さえ思い出せれば、すぐにでも戻れるはずだ。
目で追ってしまうのは、ただのお節介と、少しばかりの好奇心のせいにすぎない。
そうやって都合のいい逃げ道を用意しては、無意識のうちに自分との間の境界線を必死に守ろうとしていた。
――それにしても、どうしてだろう。
人の感情を捉える観察力には、それなりに自信があるはずだった。
なのに、なぜかヘスティア嬢だけは上手く読めない。
厳格な王太子妃教育の賜物なのか。
それとも……単にオレが、彼女の前でだけ判断を狂わせているのだろうか。
オレたちの関係は、距離感ひとつ見誤れば即座に瓦解するほどに危うい。
だからこそ、自惚れや慢心は禁物だ。
軽率な振る舞いは、積み上げてきた信頼を一瞬で壊しかねない。
ゆえにオレは常に一歩引いた視点を忘れないよう自分を律してきた。
――踏み込みすぎず、期待もしない。
そうした自制心こそが、この均衡を保つために不可欠だったからだ。
たとえ、彼女の何気ない言動にふと勘違いしそうな瞬間があったとしても。
……それはきっと気のせいだ。
別に、これといって秀でた部分があるわけじゃない。
気の利いた台詞を吐いた覚えだってない。
――彼女がオレに好意を向ける理由なんて、どこをどう探したって見つからなかった。
そうやって思考を凍らせることだけが、オレに残された唯一の防衛策だった。
祝賀まで残り一ヶ月を切り、王宮の空気はひときわ騒がしさを増していた。
順当にいけば、ヘスティア嬢はやがて王妃となり、後世には賢王妃としてその名を歴史に刻むだろう。
国にとっても、本人にとっても、それが正しい道なのかもしれない。
王太子は有能だ。
無表情で無機質なあの男は、私情を排して国を導くだろう。
だからこそ、隣に立つ彼女を「愛すべき伴侶」ではなく、王宮を維持するための「最良の部品」としてしか見ていない。
感傷に左右されない強さは、次期国王としては申し分ない。
だが……どうしても割り切れなかった。
王太子妃という座は、華やかな光の裏で孤独と政略、そして際限のない責務に縛られる檻だ。
このままでは、その心はすり減り、いつか笑い方を忘れてしまうのではないか。
少なくとも、オレが知ってしまった本物のヘスティア嬢には――そうなってほしくない。
そう願うのは、結局のところ独り善がりに過ぎないのだろうか。
けれど、もし――王太子が彼女を一人の女性として、少しでも心を砕いていたなら。
オレだって、もっとあっさりと見送ってやれたはずなのに。
幸福の形は人それぞれだ。
地位を誇りとする者もいれば、平穏を愛する者もいる。
おそらく、彼女は前者ではない――そんな予感はあっても、それが確信に変わることはない。
ひとたび、正式に公務に就けば、こうして言葉を交わすことさえ叶わなくなる。
今度こそ、一生手の届かない、雲の上の人になってしまう。
本当は、彼女の本心が知りたい。
けれど、壁に耳がある王宮で迂闊な問いは許されない。
それに何より、あの立場では内心がどうあれ「是」としか答えられないだろう。
閉ざされた心の奥にある正解に触れることはできず、オレはただ、答えの出ない問いに頭を悩ませるしかなかった。
事あるごとに、不吉な光景ばかりが頭をよぎる。
あの瞳から光が消え、精巧な人形へと変わり、ただ言われるままに義務を果たし、二度と声さえ届かなくなる結末を。
たとえ、彼女自身がそれを望んだとしても。
オレは、そんなのは嫌だな。
心の底から、素直にそう思ってしまった。
どうにかして、その、いずれ起こるであろう未来を回避する方法はないのだろうか。
部外者でしかないオレが王太子殿下に直談判するなど、無謀な選択肢は考えるまでもなく却下だった。
ならば彼女の兄フリードを頼るか――……無理だな。
あいつが感情論で動くはずもない。
八方塞がりの現実に、思わず天を仰ぎそうになる。
だったら、一体どうすれば……。
――いや、もしかしたら。
文官であるオレの知識と立場を使えば、不可能な話ではないのかもしれない。
彼女をあの場所に残すのではなく、選定から弾けばいいのだ。
気づけば頭の中で、ヘスティア嬢を王太子妃候補から外すための「最悪な、一つの可能性」が形を成し始めていた。
祝賀の喧騒に紛れ、隙を突けば、「誰かの作為」ではなく「法と秩序の綻び」として処理できるかもしれない。
これまで文官として扱ってきた数々の書状や前例、積み上げられた古い記録。
それらをあるべき場所に正しく並べ直し、誰が検分しても「手続き上そうなる」と思えるように構築する――そうすれば、仕組みそのものが、彼女をごく自然に外側へ押し出すのではないか。
おぼろげに、そんな可能性を思いついた。
だが、それ以上思考を進めるだけの踏ん切りがつかず、結局は立ち止まってしまう。
実際の手順を詰める以前に、オレはまだ、引き返す余地を探しているのかもしれない。
もし、そんな大それたことをすれば。
本人の意志を無視して、未来を強制的に書き換えてしまうことになる。
その歯車を回した瞬間、彼女は二度と王太子妃候補には戻れない。
名誉、婚姻、政治的価値、家族の立場――そして周囲との関係も、例外ではない。
計画が成功する確証もなければ、その後の懸念だって山積みだ。
ここが境界線だ。
一度越えれば、結末を見るまで逃げることは許されない。
――これは、後戻りのできない選択だ。
万が一にも、彼女が王太子妃になることを望んでいたとしたら。
王太子に一抹の恋慕を抱いていたとしたら。
これまで積み重ねてきたであろう、血の滲むような努力が無駄になるだけでなく、その想いまでを勝手に踏みにじることになる。
おまけに、オレはただの文官に過ぎない。
仮に候補から外すという暴挙に出たとして、その後のヘスティア嬢の人生をどう背負えばいいのか。
――正確に言えば、責任を取る方法は、ないわけではないのだ。
然るべき地位を築いた後、婚姻という形で彼女を保護する。
すぐには不可能だが、今仕掛けている事業の成果を目標通り「不可侵の名誉」へと変換することができれば、論理的にはギリギリ、滑り込めるといったところか。
しかし、それを当人が望むという保証はどこにもない。
それに、候補から外す工作も含め、そのやり方は到底「正攻法」とは呼べないだろう。
他者を欺き、傷つけ、自身も相応の業を背負うことになる強行突破だ。
今ここで手を引けば、すべては穏当に収まる。
それが正解であることも、頭では痛いほど理解している。
そうしていれば、何も失わずに済むのだ。
現にフィデル家の事業は軌道に乗り始めており、このままいけば長兄も跡継ぎとして安定していられる。
フリードとの関係も変わることはないだろう。
気の置けない友人とはまた違った楽しさがあるこの付かず離れずの距離が、心地よかった。
だが、ヘスティア嬢を選べば、そのすべてが崩壊する。
跡継ぎの座を奪わなければ、オレが彼女を保護する資格は得られないからだ。
――そして、実家を継いだオレが彼女に縁談を申し込めば、あの聡明なフリードのことだ。
遅かれ早かれ、こちらの意図を見抜かれる。
その時、オレたちはもう、前と同じ友人ではいられないだろう。
――どう考えても、何もしない方が得策なのに。
なのに、何故オレは、まだこんなことで悩んでいるのだろうか。
思考は同じ場所をぐるぐると回り、迷路から抜け出せずにいる。
今のオレは、二択という名の断崖絶壁に立たされていた。
留まれば孤独へ見送り、進めば彼女の人生を壊す。
どちらへ踏み出したところで、多分、いつか後悔するのだ。
熱に浮かされたような意識の混濁が、確かな現実感を奪い去り、頭の冴えをじりじりと削り取っていく。
……疲れているな、と自覚する。
文官としての職務をこなしながら、実家の事業にも目を光らせ、外との付き合いも増えて息をつく暇さえなくなっていた。
ふとした瞬間、判断が鈍る。
その自覚が、さらにじわじわと自分を追い詰めていく。
肉体的にも精神的にも、とうに限界を迎えていた。
いっそ、すべてを投げ出してしまいたくなるほどに。
――もう、どちらに転んだって構わない。
誰でもいい。
オレの背中を、ほんの少し、軽くつついてくれたなら。
その勢いのまま、何処までも落ちていけるのに。
回廊を歩きながらも、意識の比重はとうに現実を離れ、脳内の深奥へと沈んでいた。
視界に入る人影も、行き交う足音も、すべてが遠い世界の出来事のようだった。
朦朧としているなか、誰かとすれ違った気配がした。
だが、振り返って確かめる気力さえ、今のオレには残っていなかった。
数歩進んだところで、背後からわずかな衣擦れの音が重なった。
立ち止まった誰かが、こちらを見ているのかもしれない。
それでも、オレの足は止まらなかった。
「……ディノ様」
鈴の鳴るような声に名を呼ばれて、ようやく、現実に引き戻された。
足を止めて振り返った先にいたのは、ヘスティア嬢だった。
彼女は静かな歩みで、ゆっくりと距離を縮めてくる。
そこには慌てるような気配も、焦った様子もない。
ただ、いつも通りの穏やかな近づき方だった。
その時になって初めて、さっきすれ違ったのがヘスティア嬢だったと気づく。
そんな簡単なことにも思い至らないほど、オレの頭はまともに回っていなかった。
「申し訳ございません、お呼び止めしてしまって」
穏やかに一礼しながらも、その視線はこちらを気遣うように揺れている。
「……その、少しお顔の色が優れないようにお見受けいたしましたので」
その言葉に、オレは絶句した。
そんな風に見えていたのか。
表情を、己の内を隠し通す余裕すら、今のオレにはなくなっていたのか。
彼女は一瞬だけためらうように目を伏せ、それから慎重に言葉を選び直した。
「出過ぎたことでしたらお許しくださいませ。ですが……もし、何かわたくしにできることがございましたら、どうか遠慮なくおっしゃってください。少しでもお心が軽くなるのでしたら、ご一緒に考えさせていただけたらと……あまりお一人で抱え込まれませんように」
どこまでも柔らかな声音だった。
踏み込みすぎず、けれど確かに寄り添う距離。
その絶妙な均衡に、心臓を直接撫でられたような感覚に陥る。
「……あ」
思わず、声が喉元まで出かけた。
大丈夫、問題ないよ。
いつも通り何事もない顔をして、当たり障りのない返答を返せばいい――頭ではそう分かっているのに、その一言が、どうしても形にならない。
ここで言葉を返してしまえば、またいつもの文官と王太子妃候補という、正しい距離に戻ってしまう気がした。
この瞬間だけは、彼女に対して嘘を塗り重ねたくない――。
そんな、無防備な願いが胸をかすめる。
けれど、すべてを打ち明けることも、今のオレにはできなかった。
結局、言葉はどこにも落としどころを見つけられないまま、重く喉の奥へと沈んでいく。
わずかな沈黙が流れた。
だが、彼女はそれ以上を問い重ねることはしなかった。
言葉にならないオレの葛藤を、そのまま受け止めてくれたかのように、ただ頭を下げた。
「お忙しいところ、お引き止めしてしまい失礼いたしました。どうか、ご無理はなさらないでくださいませ」
それ以上は何も言わず、その身を引いた。
喧騒の中へと戻っていく後ろ姿を、オレは見送るしかできなかった。
静けさが戻った場所には、柔らかな言葉の残響と、先ほどよりも一層ひどくなった体のだるさだけが残った。
遠ざかる背中にかける声も見つからず、かといって、再び歩き出す気力も湧いてこない。
オレはただ、その場に立ち尽くしていた。
『お一人で抱え込まれませんように』
先ほどかけられた言葉を、ぼんやりとした頭で反芻する。
思い返されるその柔らかな声音に、オレは呆れに近い感情を覚えた。
――人のことを、気にしている場合か。
今まさに、取り返しのつかない未来に飲み込まれようとしているのは、ヘスティア嬢の方だというのに。
このまま「檻」に入れられれば、彼女は自分という存在さえ、義務の裏側に埋没させてしまうだろう。
思考は飽和し、並べ立てた懸念事項が頭の中で黒い染みのように広がっていく。
損得、倫理、責任、未来。
喉元まで出かかった「やめておけ」という理性の声を、しかし、別の自分が冷ややかに黙らせた。
つまるところ、どれほど言葉を尽くして自分を説得しようとしても、彼女のことを「仕方ない」の一言で切り捨てることなど、オレにはできなかった。
さっきは声も出せず、ただその後ろ姿を見送るのが精一杯だった。
だが、このまま黙って見届けるような真似は、もう二度と御免だ。
そう確信してしまった時点で、オレの前に選択肢なんて残っていない。
これは善意でも救いでもない。
ましてや、それが彼女の望みかどうかなんて、もうどうでもいい。
ただ、オレがそんな未来を認められない。
それだけだった。
結局、割に合わないと分かっていながらこれほど悩んでいた時点で、答えは最初から出ていたのだ。
「誰かが軽くつついてくれたなら」なんて、他力本願で構えていたけれど……。
崖っぷちに立っていたオレを奈落へと蹴落としたのは、皮肉にも慈愛に満ちた彼女自身だった。
あれほど抗っていたけれど、これは恋だと認めるしかない。
そう自覚したときには、オレは既に帰路を忘れていた。
どこをどう歩いてここへ辿り着いたのか、どうすれば彼女のいないあの日常へ帰れるのか、もう何も思い出せない。
あのさりげない言葉に、堰を切ったように感情が溢れ出した。
あんな、施しのような少しばかりの情けでは、もう、足りないのだ。
一度は立ち止まったが、結局は自分の心に従うと決めた。
ヘスティア嬢はオレに見つかった時点で――運は尽きていたのかもしれない。
あの日、オレがいつも通りに部屋に閉じこもって仕事をこなしていれば。
あるいは彼女が正門を通っていれば。
ほんの些細な食い違いさえあれば、こんなことにはなっていなかったはずだ。
ならばもう、諦めてもらうしかない。
間違っていることくらい、分かっている。
その代わり――罪も、非難も、彼女の未来も、その行き先も、すべて背負う。
手段は選ばない。
ただし、彼女の命と家名が致命的に損なわれない範囲で、だ。
そのためには、もっと綿密に策を練らなければならない。
王太子妃候補の座から降ろす具体的な方法、その後の身の振り方。
そして最終的に、彼女の行き先を整えるために。
外へ押し出すだけでは意味がない。
その先まで責任を持ってこそ、初めて意味を持つ。
だが、この身に引き受けたからといって、別に妻としての勤めを果たしてほしいなんて言うつもりはない。
静かに、誰にも脅かされず、ヘスティア嬢が自分らしく自由に過ごせばいいのだ。
――そうと決まれば、周りに気取られないよう、今以上に慎重に動かなくては。
決意はすでに終えている。
心の天秤は、もう揺るがない。
大きく傾いた側へとこの身を預け、あとは実行へ移すだけだ。
* * *
回廊の空気は、やけに澄んでいた。
例の人物がこの場所を通る時間は、すでに把握している。
そこで交わす、ほんのわずかなやり取り――それが事態を一段階進める引き金になる。
彼女の人生もまた、どちらへ転ぶかは分からない。
だが、いずれにせよ、これまでとはまったく異なる形へと変わっていくはずだ。
覚悟を決め、一度目を閉じる。
一拍置いて、ゆっくりとその瞼を開いた。
その瞬間、すべての私情は削ぎ落とされた。
髪紐をほどき、眼鏡をかける。
温和な文官の仮面を纏い、西の回廊へと足を踏み出した。
中庭のざわめきが遠くに滲み、ここだけが世界から切り離されたように静かだ。
回廊の床に落ちる格子の影を踏み越え、一歩ずつ、光の帯へと進んでいく。
まるで祝福のように――あるいは断罪の光のように。
差し込む陽光に照らされ、オレの髪と瞳が、金の煌めきを宿した。




