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再会と静かな縁

社交界において、人間そのものは後回しだ。

まず「家系図」という品書きで査定され、「利害」という値札で付き合う価値を決められる。


フィデル伯爵家の者が、王太子妃候補であるオルドリッジ令嬢に「はじめまして」と声をかけるなど、本来は許されない。

この世界のマナーが、オレたちを知り合うことさえ禁じられた別世界の住人として切り離している。


だからオレは、本人ではなく、まず「家」を見る。

家を通さぬ限り、彼女個人に辿り着くことは叶わないからだ。


鉄壁の守りにある彼女へ真っ向から挑めば、家柄を汚す無礼者として即座に排除されるだろう。

だが、家系図という名の地図を精査すれば、必ず外へと通じる綻びが見つかる。

女性相手には不敬となる振る舞いも、男同士となれば話は変わるのだ。


オルドリッジ令嬢に兄がいることは、事前に調べていた。

その姓を目にしたとき、わずかな引っかかりを覚え――すぐに答えに辿り着く。


フリードリヒ・オルドリッジ。

王立学舎で同級だった男だ。


兄の紹介という形で彼女に引き合わせてもらう――その段取りさえ踏めば、何一つマナーを違えることなく、堂々と彼女の目の前へ立てるのだ。


守りの固い本丸を狙うより、まずは外堀にいる兄を落とす。

一見すると遠回りに見えるが、それがこの不自由な世界で、彼女の視界に入るための唯一の道。

……たとえそれが、決して楽には歩けぬ獣道であったとしても。


というのも、学舎当時のオレたちが接点を持つことなどなかった。

あちらは名門・侯爵家の嫡男。

文武両道、常に成績優秀。


その権力に取り入ろうと、媚びて近づく身の程知らずは後を絶たなかった。

彼はそんな有象無象を、男女の区別なく冷ややかな一瞬の視線で黙らせる。

群がる羽虫を払うかのように、容赦のない言葉で切り捨てるのだ。

そこには情など一片もなく、他者が付け入る隙も一切存在しなかった。

……しかし、それは単なる嫌悪ではない。

少なくとも今のオレには、己の傍らに立つ価値があるかを測る選別だったのではないかと考えている。


もっとも、その品定めがあまりに容赦ないため、周囲からは、社交を放棄し続ける孤絶した男だ――と見なされていた。

次第に彼の周りだけが、まるで真空地帯のように人が寄りつかなくなったのは、ひとえにその排他的な性質ゆえだろう。


だが、そのような男にも例外はあった。

感情ではなく理屈を武器に食らいついた者だけは、あいつも無視しなかったのだ。


翻って、当時のオレはと言えば、触らぬ神に祟りなし。

関わらないのが最善だと、早々に判断を下していた。


だから当然、まともに言葉を交わしたことのないオレの存在など、フリードリヒの記憶の片隅にすら残っていないはずだ。

その隔絶した世界に生きる彼にとって、オレはとうに通り過ぎた、名もなき景色の一部に過ぎないのだから。


――いや、正確には景色の一部に、自ら好んで成り下がったのだ。


かつて一度、興味本位で成績上位に名を連ねたことがあったが、返ってきたのは賞賛ではなく陰湿な嫉妬と陰口の嵐だった。

自らは努力もしない手合いに限って、他人の足を引っ張ることにだけは心血を注ぐらしい。


結局、目立たないのが、平穏への一番の近道なのだ。

わざわざ中間まで成績を落とし、その他大勢に紛れる。

それが、貴族社会を無難に生きる最適解だと悟った。


余計な波風を立てず、とりわけ格上という名の面倒事には、決してこちらから関わらない。

分不相応な接触もまた、身を滅ぼす火種になると思っていた。


だが――今は事情が違う。

オルドリッジ令嬢に近づくための足がかりとして、今、フリードリヒは最短の位置にいる。

しかし、正面から接触したところで、見向きもされないのは目に見えている。

ならば、あいつが無視できないやり方で、その懐に飛び込むしかない。

理屈で奴を黙らせれば、会話の席は手に入る。

あいつが認めざるを得ない正論こそが、オレにとっての通行証だ。


王宮の文官室で周囲の同僚たちが忙しなく羽ペンを走らせる音を遠くに聞きながら、オレは厚みのある綴りを机に広げた。


……さて、どう崩すか。

頭の中でいくつもの作戦を並べ、吟味を重ねた末――ようやく、一つの形が見えた。


――糸口は、手元にあるこの台帳だ。

オルドリッジ侯爵家から提出された、公的な文書。

本来なら現侯爵の名があるべき場所に書かれているのは、領地運営を実質的に取り仕切る嫡男――フリードリヒ名義の署名。


父親である閣下は健在であり、その権力はいささかも衰えていない。

それにもかかわらず、これほどの政務が跡継ぎに委ねられているのは……当主が、後継たる資格が息子にあるのかを試しているからかもしれない。


王宮の監査に回されてきたその分厚い帳面の束は、一見すればどこまでも堅実だ。

だが、中身はどうかな。


数頁を捲り、ある一行で指を止める。


……なるほど。

丹念に読み解けば、同一案件にもかかわらず、書式の異なる台帳が並立し、それぞれに別の承認印が求められている。

さらには古い書式までが平然と残っていた。

――非効率だ。


この文書の並びを見ていると、学舎の頃から変わらぬフリードリヒの性質が嫌というほど思い出される。

人間であれ仕事であれ、あの男にあるのは「使えるか、使えないか」という極めて限定的な評価軸だけだ。

目の前の仕組みがどれほど摩耗していようとも、今まで使えていた形式である限り、少なくともそこに積極的に改善を加えようとする意志は見えない。

更に、あいつは自分の領分を正しく理解している相手にしか、一分一秒たりとも時間を割くことはない。


……それなら、いけるか。

あいつが信奉する合理という名の土俵に、この台帳を叩きつけてやる。


改めて、机上の文書を指でなぞり、視線を走らせる。

一見すると厳重な管理だが、その実、制度との間に無視できないズレが生じている。

わざと残しているのか、あるいは単なる慣習で温存されているだけなのかは知る由もない。


オレは羽ペンを握り、その歪みを突きつけるための文面を整え始めた。

指摘するのは、たった一箇所。

すべてを正してしまえば、あいつにとってオレはただの不愉快な敵に成り下がる。


あえて言い切らず、含みを持たせるのだ。

だが、その誘いに乗って逃げた先が、行き止まりであることに後から気づく――そんな構成でペンを走らせる。


ほんの数行で、十分だった。

あいつがこの書面を開くとき、最初に目に入るのは「称賛」、その次に微かな「違和感」、そして最後に――逃れようのない「核心」だ。


書き上げた文面を、最後にもう一度見直す。


『貴家の管理体制は非常に整っており、組織を束ねる統率力は見事であると拝察いたしました。

その上で一点だけ、確認させていただきたく存じます。

提出された複数の台帳において、同一案件に対する承認経路が重複しているように見受けられました。

これは私の読み違いによるものでしょうか。

もし差し支えなければ、ご教示いただけますと幸いです。』


書き終えた文面を眺め、ふっと口角を上げる。

これでいい。

あいつが自分の領分を守ろうとする限り、この問いを無視することはできない。


どこから見ても正当な指摘であり、礼を欠いた箇所など何ひとつない、公文書だ。

オレがこの台帳の欠陥をどの範囲まで読み取っているか、その「底」はあえて隠さなかった。

文字の端々に滲ませた意図を――フリードリヒなら、間違いなく読み取るだろう。


手紙を閉じ、正式な手続きを経て送り出す。

舞台は整った。

あとは幕が上がるのを待つだけだ。

さて、矜持の高いあの男が、どこまで身を乗り出してくるか――。


 * * *


三日の静寂を経て、その呼び出しは来た。

余計な修辞をすべて削ぎ落とした、一筆だけの簡潔な文面。


『文書だけで済ませるな。来い』


短く、ただそれだけ。

こちらの引いたラインに相手が飛び乗った瞬間、思わず口元が歪んだ。


――乗ってきた。

あいつの合理が、顔も覚えていないはずの格下からの挑発に、屈したのだ。


文書だけで片付けておけば、それで終わる話のはずだった。

けれど、あえてそれを選ばなかった時点で、多少は興味を引かれたのかもしれない。

さて、どんな顔をして待っているのやら。


文官棟の廊下を抜け、来客通路へと足を進める。

侯爵家の使いが主を待たせているというその応接区画は、王宮内でも一段と格の高い、重苦しいほどの静けさに包まれていた。


指定されたのは、王宮の一角にある簡素な監査用執務室。

扉の前で一度だけ深く呼吸を整え、衣服の乱れを直す。


さて。

ここから先は、冷たい羊皮紙を介したやり取りではない。

剥き出しの知性がぶつかり合う、対面の場だ。


扉を叩くと、間を置かず「入れ」と低く鋭い声が返ってきた。

室内の設えは、徹底して簡素だった。

虚飾を嫌う主の性質を映したかのように飾りは少なく、積み上げられた文書と台帳、そして部屋の奥には一台の盤が据えられている。

それは単なる装飾品などではない。

そこに座す男の、険しく研ぎ澄まされた知性を象徴するような佇まいだった。


向かいに座る青年の存在感は、記憶にあるそれよりもさらに鋭利さを増していた。

会わなかった数年の月日が、彼をより冷徹な支配者へと変えたのだと、肌に刺さる空気だけで理解させられる。


無駄の一切を削ぎ落とした姿勢。

こちらの価値を測るような、長く重い沈黙。


フリードリヒ・オルドリッジは、手元の文書から視線だけをゆっくりと上げた。

こちらを捉えたその瞳は、波ひとつない鏡面のように静かで、そしてどこまでも冷ややかだった。


「貴様の言う重複とは何だ」


形式的な挨拶も、身分相応の礼儀もそこにはない。

だが、その無作法ですら、想定していた線の上を正確になぞっているに過ぎなかった。

オレは慇懃に一礼し、あくまで穏やかに口を開いた。


「二重承認の問題です。現行法に照らせば一段階で事足ります。恐らくは旧制度の慣習を、そのまま安全策として残されたのでしょう」


「……安全性を削れと言うのか」


低く、突き放すような声。

だが、オレは動じない。


「いえ。削るのではなく、移すのです。責任の所在を人から制度へと」


わずかな沈黙が室内の空気を凍らせる。

フリードリヒの指先が、苛立ちか、あるいは思索か、机を一度だけ硬く叩いた。


「制度は万能ではない」


「重々承知しております。ですから、補助線として残すのです。ただし、工程の中に組み込む『承認』ではなく、事後を確認する『監査』へとその位置を変える」


淡々と容赦なく理屈を積み重ねていく。

――感情で反発させない絶妙な温度を保ちながら、あいつの退路だけを一手ずつ塞いでいくのだ。


「現状は確認のための確認が工程に一段入っています。そこが遅延の原因です」


「……口だけは達者だな」


吐き捨てられた険のある視線を、まるごと包み込むように。

オレはあくまでも柔和な笑みを湛えてみせた。


「オルドリッジ様ほどではございません」


受け取り方によっては、明白な宣戦布告にしか聞こえないだろう。

だが、ここであえて一歩踏み込む。

怒りを買うか、あるいは受けるか――その危険な境界を測る。


室内に、火花が散るような緊張感が走った。

フリードリヒは射抜くような眼差しをオレに固定したまま、次の言葉を飲み込んだ。

オレの提示した論理は、完膚なきまでに正論だ。

だからこそ、反論できず、オレもまた一歩も退く必要はなかった。


やがて、彼はゆっくりと背もたれに身を預けた。

息詰まるような空気が、わずかに弛緩し、より重いものへと変質する。


「……理屈で盤を並べるのが好きなら、実際の盤も読めるのだろうな?」


視線が、部屋の奥に据えられた物へと向けられる。

誘われるように、オレもその軌跡をなぞった。


他人と語らう口実を持とうとしない彼にとって、その盤上こそが最も効率的な、意思疎通の代替物かもしれない。

曖昧な情を排し、ただ論理のみで白黒をつけられるその場所こそが、最も納得のいく決着の付け方なのだろう。


なるほど、言葉を尽くす段階はもう終わりか。

ここからは、より残酷で正確な、貴族の言語――「勝負」で話をつけようというわけだ。


「お相手いただけるのですか?」


「勝てば発言を認める。負ければ、二度と姿を見せるな」


有無を言わさぬ、傲慢なまでの条件提示。

だが、そんなものに応えるのに、迷いなど微塵もなかった。


「光栄です」


やはり、理屈は通る。

感情に左右されず、ただ眼前の優劣のみで価値を判断する。

この男と繋がることさえできれば――いつか、迷いは晴れるはずだ。


 * * *


盤面はすでに整えられていた。

対局者を待つ駒たちは、冷えた空気の中で鋭く光を弾き、静かに開戦の時を待っている。

机を挟んで向かい合い、互いに指先を伸ばせば届くような至近距離に、あいつはいた。


「お手合わせ願います」


「…………」


……なんか言えよ。

丁寧に挨拶をしたのだから、せめて会釈の一つくらいしたって罰は当たらないはずだ。

これではまるで、石像を相手にしている気分である。


……こいつ、相変わらずだな。

令嬢のことを調べるついでに、お前の惨状は嫌というほど耳に入ってきているんだ。

学舎を卒業してなお友人が一人もできないのは、例の選別だけでなく、間違いなくそういう態度のせいだぞ。


オレは内心の毒を飲み込み、盤面へと意識を切り替えた。


フリードリヒが先手を取る。

速い。そして、力強い。

その指し手に迷いは一切なく、一手ごとに盤面そのものを無理やり押し広げてくるような、暴力的なまでの圧があった。


対してオレは、ただ静かにそれを受ける。

応じ、受け流し、自身の形を整える。

相手の勢いに逆らって削ぐのではなく、その熱量をそのまま盤へと流し込んでいく。


勝利への詰めの一手は、もう見えている。

だが、それを放つには――もう少しだけ泳がせておく必要がある。


――まだだ。まだ、早い。


さらに数手。

盤上の膠着をわずかに乱すように、オレは一つの駒を前へ突き出した。

それは、差し出したようにも見える、不用心な位置。

フリードリヒの指が止まった。


心臓の鼓動が耳元で跳ねる。

……あいつが、この駒を無視して攻め込んでくれば、詰むかもしれない。


わずかな間を置き、フリードリヒは盤面を底から読み直す。

そして――迷いを断ち切るように、その駒を取った。


――かかったな。

その一手を引き出すために、どれだけの布石を潜ませてきたと思っている。


一瞬、盤上の均衡が崩れ、空気が軽くなる。

オレは次の一手には触れず、静かに、独り言のような低さで言葉を零した。


「駒にはそれぞれ、与えられた役割があります」


目は伏せたまま。

だが、その微かな響きは、冷えた部屋の静寂に確かな波紋を広げていく。


「けれど、真に勝敗を決めるのは……どの駒を動かすかではなく――」


一手。

音もなく、逃れようのない場所へ駒を置く。


「“動かさない駒”を見抜くことです」


そこからは、もう迷う必要はなかった。

勝利へと続く一本道を、ただ確実になぞっていくだけだった。

数手先を見越した収束。

網を絞るように、逃げ場のない終局へとあいつを突き進めていく。

次々と閉じていく退路を前に、フリードリヒの眉がわずかに動いた。


そして――


チェックメイト。

にわかに訪れた沈黙のなか、盤の上で完全な決着がついた。


……ふう、と深く溜まった息を吐き出す。

久しぶりに指したけど、案外なんとかなるものだな。


そう強がってはみても、背中には嫌な汗がじわりと滲んでいる。

たった一度の「正解」を拾い上げ続ける作業に全神経を研ぎ澄ませていたせいで、対局を終えた瞬間に重い疲労がどっと押し寄せてきた。


「……最初から、この盤面を読んでいたな」


対局の熱を逃がすように、オレはわずかに首を横に振った。


「途中で、確信しました。こうなることを」


勝利に酔うつもりなど毛頭ない。

ここで提示すべきは、脚色のない事実のみだ。


重苦しい沈黙が、二人の間に落ちる。

フリードリヒは、完全に詰んだ盤面を数秒間だけ見つめ、その後、感情の読み取れない手つきで駒を横に置いた。


「……時間は有限だ。無駄な慣習に付き合うほど、私は暇ではない。その『重複』、貴様の案通りに削れ。明日までに修正案を私の机に置いておけ。一字一句、滞りなくな」


彼はもはや、オレを「排除すべき無礼者」ではなく、「使えなくはない文官」として認識したのだ。


「……もう一局だ」


その声音から、先ほどまでの刺々しい苛立ちは消えていた。


「喜んで」


二局目は、先ほどよりもさらに雑味を削ぎ落とした、深い静寂の中で始まった。

フリードリヒは、もう無理に踏み込んではこない。

不用意に陣形を崩すことなく、虎視眈々と機会の到来を待っている。

攻め急ぐことをやめたその姿勢は、先ほどの一局でオレの性質を正しく見極めた結果なのだろう。

その判断の速さと柔軟さに、思わず口角がわずかに上がった。


――的確だな。

強者としての矜持を保ちつつ、敗北から即座に学びを得ている。


オレもまた、あいつと同じ速度で応じる。

不用意に揺さぶりをかけることはせず、相手の組み上げる形に呼応するように、盤面を整えていく。

互いに余計な一手を一切打たないまま、濃密な沈黙だけが盤上に積み重なっていった。


やがて盤面は、どちらからも決定打を欠いたまま、ゆるやかに収束へと向かう。

完全なる均衡。

どちらが勝つでも、どちらが崩れるでもない。

張り詰めた糸がそのまま形を成したような、美しい引き分けで終局を迎えた。


一局目で叩きつけた回答を、奴はわずか数分で飲み込み、この二局目で見事に己を律してみせた。

その底知れぬ修正能力に、背中を心地よい戦慄が走る。

互いの理知が火花を散らし、削り合い、最後に残ったのがこの清冽な平局だった。

この男の領域で、理屈の果てに互角に並び立つ。

それがどれほど困難な試みであったか。

盤上に残された均衡こそが、何よりも雄弁にそれを語っていた。


指先を止め、盤を見つめたまま、フリードリヒが静かに口を開く。


「……明日、修正案を持参しろ。その際、盤の用意も忘れるな。多少なら貴様という人間に割く時間を、私の予定に組み込んでやる」


さっきは「机に置いておけ」と言っていた男が、今度は「持参しろ」だ。

――おまけに、盤の用意も忘れるな、ときた。

どうやらオレはあいつの選別を、ほんのわずかに踏み越えることができたらしい。


フリードリヒの言葉に、これ以上の説明はなかった。

それが職務上の呼び出しなのか、あるいは個人的な対局の誘いなのか――その正解をあえて限定しない、余白を残した言い方だった。

当然のように次があることを前提にした、不器用な歩み寄り。


「仰せのままに」


椅子を引く音さえ立てず、そっと立ち上がる。

付け入る隙のない礼法を保ったまま扉へと向かうその背に、いつもの落ち着いた、けれど先ほどまでとは明らかに温度の違う声が追ってきた。


「フィデル」


――初めて、この男に名を呼ばれた。


一瞬だけ、ほんのわずかな意外性を覚えながら振り返った。

その名が記憶の底にあったのか、あるいは今この瞬間に文書で確認したのか。

そんなことは瑣末な問題だ。

重要なのはそこではない。

ただ呼ばれた――その事実だけで、足を止めるには十分すぎる理由だった。


「何でしょう」


フリードリヒは視線を盤上に落としたまま、淡々と言い放つ。


「次は、最初から全力で来い」


相変わらず、突き放すような口調だ。

だが、そこに混じった微かな熱を、聞き落とすほどオレの耳は鈍くない。

抑えきれない高揚を隠すように、オレの口元がわずかに緩んだ。


「――承知いたしました」


今度は、本心からの笑みを添えて。

軽く一礼し、部屋を辞す。

重厚な扉が閉まり、廊下に出た瞬間、空気がわずかに緩んだ。

肺の奥に溜まっていた熱を、吐息とともに逃がす。


望んでいた「対等」という名の席は、力ずくでこじ開けた。

あの男との間に引かれた不遜な境界線を越え、ようやく純粋な実力で距離を縮めたのだ。

あとは余計な波風を立てず、このヒリつくような緊張感を信頼へと書き換えながら、必要な場所へ駒を進めていけばいい。

布石は、すでに打ち終えている。


それからしばらくの間、呼び出しの理由はもっぱら実務となった。

台帳の整合性を問い、制度の歪みを擦り合わせ、運用の細部を詰め切る――。

互いの意見は幾度となく激突したが、そのたびに導き出される結論は、より鋭く、より無駄のない形へと研ぎ澄まされていった。


数度の往復の後、ようやく互いの思考の癖が見えてきた頃――。


やがて、二人の間には実務のやり取りだけでなく、当然のように盤が挟まるようになった。

最初は、白熱した議論を冷ますための、気休めの一局。

それが休憩のたびに一局、また一局。

いつしか、形ばかりの雑談を交わす延長線上で、自然と盤を広げるのが二人の習慣となっていた。


勝敗に応じて、ささやかな「賭け」も生まれた。

といっても、無粋な金銭などではない。

勝った側が、負けた側にひとつだけ無理のない願いを聞かせる――ただ、それだけの遊戯。


この気安い口調も、彼をフリードと呼ぶ権利も、すべてはその盤上で勝ち取ったものだ。

ある一局でオレが勝利し、「苗字ではなくディノと呼んでほしい」と願ったとき、彼は露骨に顔をしかめた。

しばしの沈黙の末、渋々それを飲み込んだときのあの不服そうな表情は――今思い出しても、なかなかの見ものだった。


もっとも、勝敗は常に拮抗していた。

せっかく勝ち取った呼び名や距離も、次の一局であっさり取り消され、またその次で奪い返す。

そんな不毛で、けれどどこか心地よい応酬を何度か繰り返した末、いつしかフリードは細かい条件を口にしなくなった。


呼び出しの頻度も、次第に仕事の枠を越えていった。

相談事だと称しては盤を並べ、気まぐれに呼びつけては他愛のない雑談に付き合わせる。

ついには、文官風情が立ち入るはずのないオルドリッジ侯爵家へ出入りすることさえ、許されるようになった。


……ただし。

あいつは妙に徹底して、いつも「彼女」のいない時間を選んでオレを招いた。


偶然にしては、あまりに出来すぎている。

侯爵邸を訪れるたび、彼女は必ず不在だった。

偶然予定が重ならないのか、あるいは――意図的に会わせないように仕組まれているのか。

確かな証拠はないが、少なくとも自然な流れとは言い難い。


意図があるなら、そこには必ず理由があるはずだ。

それが彼女を外敵から守るためなのか、あるいは何かから遠ざけるためなのか。

今のオレには、まだ判別がつかない。


その後も、オルドリッジ令嬢と顔を合わせる機会は、ただの一度も訪れなかった。

このまま、ただ時間だけが過ぎていくのかと思っていたが――。


その日は、少し事情が違った。

用件だけ済ませて、長居せずに立ち去るつもりで訪れた侯爵邸。

玄関口でフリードと短く言葉を交わしていると、背後で馬車が止まる重厚な音が響いた。

従者が恭しく扉を開け、そこから一人の少女がゆっくりと降りてくる。


――オルドリッジ令嬢だ。

ようやく、その姿を捉えた。

にこりと微笑んで軽く会釈を送ると、彼女もまた、柔らかな仕草で同じように返してくれた。

友人になったはずなのに、未だに挨拶すら無視するフリードとは、月とスッポンほどの違いだ。


「お兄様。そちらの方は……?」


鈴を転がすような問いかけ。

それを受けたフリードは、一瞬だけ彼女へ冷ややかな視線を向け――すぐに、それを外した。


「さあな。赤の他人だ」


「それは酷くない!? ちゃんと紹介してよ」


今さらになって、妹に男を近づけたことへの警戒心が芽生えたのか。

あるいは、説明することさえ面倒になっただけか。

どちらにせよ、このまま挨拶も交わさず立ち去るのは、あまりに礼を欠く。

そして何より――こちらの目的からすれば、これ以上の損失はない。


「…………」


フリードは沈黙を貫き、本気で口を開く気はないらしい。

オレは微かに苦笑をにじませて肩をすくめると、一歩、彼女の方へと踏み出した。

右手を左胸に当て、流れるような動作で頭を下げる。


「初めまして――」


ようやく、君の視界に入った。

遠回りした時間も、積み重ねてきた幾多の奔走も。

すべては今日、この一歩を刻むためにあったのだ。

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