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プロローグ

祝賀の夜から、幾年もの時が過ぎた。

何度も季節が巡り、王宮の空気も、国のかたちも、そしてオレの立場も、あの頃とは様変わりしている。


変わらなかったものがあるとすれば――どうしても捨てきれなかった、この「諦めの悪さ」だけだ。


――その果てに、いま目の前には、ありえなかったはずの光景がある。


「とうさま、つぎはボクのばんだよ!」


机の向こう側から、弾んだ声が飛んできた。

手に数枚のカードを握りしめているのは、長男のセオドアだ。

生まれ持った愛嬌で、誰からも愛されるフィデル伯爵家の人気者。

ついこの間まで、軽々と腕の中に収まっていたはずの小さな体は、いまや一丁前に勝負事へ熱中している。


その隣では、ティア――ヘスティアが息子の手札を覗きこんで、楽しそうに笑っていた。

――あの頃より、ずっと柔らかい顔をするようになった。

かつて王太子妃候補として、隙のない美しさを纏っていた彼女。

だが今は、家族の前であれば、些細なことで嬉しそうにしたり、機嫌を隠さず拗ねてみせたりもする。

そんな彼女の変化を、自分の選択の結果なのだと思うたびに、わずかに息がしやすくなる。


ティアの膝の上では、次女のルーナが天使のような寝顔で眠りについていた。

小さな手が、無意識に母親のドレスをぎゅっと掴んでいる。


少し離れた場所には、静かに子どもたちを見守るリリムの姿があった。

ティアの嫁入りとともにフィデル家へ移ってきた彼女も、今ではすっかりこの家の一員として馴染んでいた。


そして、オレの膝の上には長女のヴェリテ。

ここが最近のお気に入りの場所らしく、気がつくと当然のような顔をしてよじ登ってくる。

いまも、ティアが作った菓子をひとつ摘まんで、もぐもぐと幸せそうに頬を膨らませていた。


――本当に、可愛いものだ。

心の底から、そう思う。


理屈や計算など、そこには一切存在しない。

この手に触れる愛おしさが、今のオレにとっての疑いようのない事実だった。


かつて粘り強く勝ち筋を積み上げていた男が、いまや娘専用のクッションに成り下がっている。

この穏やかすぎる光景を眺めていると、時折、自分でもおかしくて笑えてくるほどだ。


「セオドアがどのくらい強くなったか、見せてもらおうかな」


オレが改めて声をかけると、セオドアは「うん!」と力強く頷いた。

遊びの時間は終わりだと言わんばかりに、小さな勝負師は鋭く、盤の上へと視線を走らせる。

膝の上のぬくもりを感じながら、オレは息子の挑戦を受け止めるべく、次の一手を見守ることにした。


今やっているのは、子供向けに簡略化された盤上式のカード遊戯だ。

とはいえ、ただ手札の強さを競うだけの単純な遊びではない。

場に出された札の状況、相手の手札の傾向、そしてここぞという時の出しどころ。

いくつかの要素を同時に俯瞰して最適解を導き出す、れっきとした“読み合い”の競技だった。


最近のセオドアは、この遊戯で使用人たちに挑んでは連戦連勝しているらしい。

勝てば周囲に褒めそやされ、負ける痛みを知る機会もほとんどない。

だから自分は他の人よりずっと強いのだと、疑いもなく信じ切っている。


……まあ、まだ六歳だ。

無理もない話ではある。

だが、オレはここで彼を甘やかすつもりはない。

ティアならば、きっと別の教え方をするのだろうが。


たぶん、彼女は頭ごなしに負かして終わるような真似はしない。

一度は好きに打たせて、存分にその力を振るわせたあとで、そっと別の道を示すだろう。

「こちらの手もあるわよ」と、あくまで一つの選択肢として穏やかに差し出すのだ。

子供の矜持を傷つけることなく、けれど進むべき軌道だけを正していく。

それが、彼女という女性の導き方だ。


……だが、あいにくオレには、あのやり方はできない。

このまま放っておけば、セオドアは自分の万能感を履き違えたまま育ってしまうだろう。

いずれ外の世界に出た時、手痛い敗北に打ちのめされるのは目に見えている。

ならば、その前に「世の中の厳しさ」というやつを叩き込んでおく必要がある。

そして、その嫌われ役を引き受けるのは、他でもない親の役目だ。


「ほらほら、どうした。もう手が止まっているよ」


わざとらしく、軽く揺さぶりをかける。

するとセオドアの眉が、情けないほど綺麗な「ハの字」に下がり、不満げに頬が膨らんだ。


分かりやすすぎる。

喜怒哀楽のすべてが、隠しきれずにそのまま顔に書いてあるのだ。


それに気づいたのは、向かい合って最初に交わした一手目だった。

盤上の駆け引き以前に、彼は自分の心の内を無防備に晒している。


文官、そして貴族として、腹の探り合いや欺瞞に満ちた世界を生き抜いてきたオレからすれば、そんなものは「どうぞここを突いてください」と急所を差し出しているようなものだ。


内心で苦笑を漏らす。

これほど隙だらけの攻め筋で、この息子がこれまで「連戦連勝」してこられた理由が、一瞬で理解できた。

盤上を数手進めただけで、周囲の大人たちがどれほど彼に手加減し、その勝利を演出してやっていたか。

その舞台裏が、オレには手に取るように分かってしまったのだ。


皆、彼に勝たせてやっていたのだ。

理由は、考えるまでもない。

この愛嬌の塊のような少年が可愛いから。

ただ純粋に、彼を褒めてやりたいから――。


その親切心も、今のオレには痛いほど理解できてしまう。

使用人たちも、この無垢な笑顔を曇らせたくなくて、つい手を緩めてしまったのだろう。

だが、それは教育ではない。

甘やかしという名の、優しい逃避だ。

だからこそ、ここで止める。


オレは、手元のカードを扇状に広げる。

彼らが守ろうとした「自信」が、薄氷の上に立つ危ういものであることを、今ここで残酷に証明してやらなければならない。

相手は、喉から手が出るほど欲した女性との間に生まれた、最愛の息子だ。

だからこそ、オレは誰よりも厳格な父として、彼の前に立ちはだかることに決めた。


セオドアは指先でカードを軽く弾いてみせると、どこに置くべきか迷うように、場の上でひらひらと小さな手を揺らした。

彼なりに、オレを惑わそうと策を講じているのだろう。

ちらりとこちらの顔色を窺うその瞳には、「騙してやろう」という稚拙な企みが透けて見えている。

しばらくそうして悩む振りを続けたあと、セオドアは「ここだ!」と言わんばかりに、得意げな顔で一枚のカードを場に叩きつけた。


「ここにだしたら、こまるでしょ」


勝ちを確信したセオドアが、弾んだ声で言い放つ。

盤面を見れば、一見して息子の優勢だ。

使用人たちが相手なら、ここでお手上げを認めて「お坊ちゃまの勝ちです」と降参し、彼の勝利を祝って終わる流れなのだろう。

だが、それはあくまで予定調和な“遊び”の範囲での話だ。


「……そうかな?」


オレは手元から静かに一枚、カードを盤上へ滑らせた。

ただ、それだけだ。

派手な音も立てず、ごく淡々と置かれたその一枚が、形勢を真逆へと反転させる。


さっきまで勝ち誇っていた少年の瞳が、目の前の信じがたい光景――自分の絶対的な優位が崩れていく様を捉え、表情から余裕が消えた。


「……あ」


驚き、焦り、悔しさ。

そのすべてが一瞬で顔に出て、彼は慌てて表情を引き締めた。

自分の内側を隠そうとする意志はあるようだが、もちろん漏れ出ている。

年齢のわりに大人びたところはあるものの、やはりまだ幼い面が勝っている。


そんな息子の拙い「背伸び」を眺めながら、ティアの調合茶を啜る。

かつての自分なら、こんなにも穏やかで、けれど温かな時間を過ごすことなど想像もできなかっただろう。

こうしたひとときも、今ではすっかり日常になった。


ふっと口元に苦笑を漏らし、内心で思う。

なりふり構わず動いた、努力の先に、この景色があるのだな――と。


――その象徴が、いま目の前で盤面を睨んでいる息子であり、オレの膝の上やティアの傍らにいる娘たちだ。

本来ならば、この世に存在しなかったはずの、三人の命。


あの夜。

盤上にすべてを並べ、引き返す道を自ら断ったあの瞬間。

オレは、あらゆる手段を使って歪めてでも――と決めた。

その選択に、後悔はない。


ただ――互いの心が通じ合っていたと知った今でさえ、あの強引な介入が彼女にとって本当の望みだったのかは、分からないままだ。

当時のオレには、正攻法で彼女を望めるだけの条件など何一つ揃っていなかった。

この決断が正しかったと、胸を張って言い切ることなど到底できない。


そして何より――この話は、誰にもできない。

たとえ、最愛のティアにすら。


一度でも触れてしまえば、いまの幸せの形が崩れてしまう気がする。

だから、オレはあえて何も問わない。

あれほどの不遜な事をしておいて、いまさら臆病になるのも笑える話だが――。

それでも、オレは答えを知るのが怖いのだ。


セオドアが次の手を考えあぐね、場にわずかな静寂が訪れる。

その中で、オレの意識はゆっくりと、深い過去の底へと沈んでいった。


ヘスティアとの、あまりに鮮烈だった出会い。

その兄、フリードリヒと結んだ奇妙な関係。

そして――すべてを賭けて盤上に巡らせた、策のこと。


彼女をこの手に落とすまで、オレが何をしてきたか。

そのすべてを――忘れたことなど、一度もない。

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