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ヘスティアとの出会い

フィデル伯爵家が治める領地は、中央の喧騒から程よく離れ、かといって不便を強いるほどの僻地でもない、穏やかな土地だった。


歴代の当主たちは、政治の荒波や派閥争いに背を向け、一貫して「現状維持」を選び続けてきた家だ。

両親も兄たちも、野心とは無縁の性質で――。

権力を追い求めるよりも、領民と静かな生活を送ることを愛するような人だ。


伯爵という地位は持っているが、どの派閥にも属さず、他家に利を運ぶこともない。

毒にも薬にもならない――そんな立ち位置の家だった。


そんな中で、三男であるオレの立場はどこか中途半端だった。

家督を継ぐ義務もなければ、期待される役目もこれといってない。

継承順位の枠外に置かれた身空では、できることなど自ずと限られていた。


決して放っておかれていたわけではないが、跡継ぎである兄――ノーランがすべてにおいて優先されるのが、この家の「当然」だっただけだ。

望んだものはまず兄の手に渡り、オレの元へ届くのは、いつもその残りのようなものばかりだった。


そういうものなのだと、いつしか疑うことさえしなくなった。

望んだところで、手に入ることはない。

――諦めるという行為は、気づけばオレの日常に溶け込んでいた。


けれど、それを不遇だとは思わなかった。

兄は「一番」を手にする代わりに、家の重圧を一身に背負い、退屈な勉強に時間を奪われている。

それに比べれば、残り物を与えられる代わりに、誰にも期待されず、好きな本を読んでいられるオレの立場は、十分に割に合っていると思えたのだ。

「手に入らない」ことを嘆くより、「責任がない」気楽さを選ぶ。

そうやって、自分の居場所を自分なりに納得させていた。


それでも、胸の奥に残る、埋まらない空隙だけは、どうしても消えてくれなかった。

だからオレは、誰にでも愛想よく振る舞い、機嫌良く笑みを貼り付けた。

そうしていれば、使用人たちは構ってくれる。

埋まらない隙間を埋めるには、それで十分だったんだ。


――どうすれば、好かれるのか。

――どうすれば、相手を不快にさせずに済むのか。


他者の表情の微かな動きや、無意識の癖を読み取り、その場にふさわしい自分を演じ分ける。

それはいつしか、息をするのと同じくらい、オレにとって自然なことになっていた。

気づけば、自分の立ち位置というものをわきまえるようになった。


当主の座なんて、最初から無縁の場所にある。

婿入りという選択肢もなかったわけじゃない。

けれど、必死に相手の顔色を窺い、取り入ろうとする周囲の姿を見て、どうにも性に合わないと悟った。


領地の経営、社交、それに義家族との神経を削るような付き合い――。

正直、煩わしいことばかりだ。

そんな苦労を背負い込むくらいなら、気の置けない友人と笑いながら、穏やかに過ごすほうがずっといい。


王宮文官という職を選んだのも、別に深い理由があったわけじゃない。

ただ、給金が良さそうだったからだ。

出世への興味もなければ、野心だって欠片もない。

ただ無難に働き、無難に生きる。

オレの人生はそれで完結しているつもりだった。


いずれは家柄なんて気にしない、肩の力を抜いていられる相手と結婚して、静かに暮らす。

そんな、ありきたりで穏やかな未来を、なんとなく思い描いていた。


――そのはずだったのに。

運命の悪戯か、あるいは神様の気まぐれか。

オレの立てた平穏な予定は、音も立てずに狂い始める。


ある日の王宮の文官室。

部屋の片隅で、山積みにされた報告書を前に、オレはいつものように手慣れた動作で文書の整理を進めていた。

内容ごとに分類し、紐で縛る。

単調で、しかし一分の隙も許されない、退屈な作業をしていると不意に背後から声が飛んできた。


「フィデル、ちょっといい?」


振り向くと、上司が腕を組んで立っていた。

仕事の邪魔にならぬようまとめられた髪に、いつもと変わらない、さっぱりとした表情。

だけど、なんとなく嫌な予感がした。


「寄贈品の台帳、あんたの担当でしょ。今回は例外よ。帳簿だけじゃなくて現物も確認してきてほしいの」


「現物、ですか?」


「搬入口に来てるわ。数が合わないと後で帳尻を合わせるのはこっちなんだから、ちゃんと見てきて」


「了解しました」


オレは表向き、気持ちよく引き受けたふうを装って、微笑みながら頷いた。

内心では「ひどく気が進まない」と溜息をついていたが、そんな色は微塵も顔に出さず、席を立つ。


向かったのは、文官棟の裏手へと続く回廊だ。

搬入口に直結しているその通路は、普段から人目が少ない。

行き交うのは、山積みの文書や荷箱を運ぶ使用人くらいのものだ。


だが、角を曲がったところで、オレの足は止まった。

本来なら正門に回るはずの、格式高い造りの馬車がそこに控えていたからだ。


扉が開き、侍女の手を借りて、ひとりの令嬢がゆっくりと地を踏んだ。


――その瞬間、オレの思考は完全に停止した。


淡い光を吸い込んで揺れる髪、そして控えめながらも気品に満ちた礼装。

ただそこに佇んでいるだけで、彼女の周囲だけが別世界のように透き通って見えた。


周囲のざわめきが遠のき、時間の流れさえも鈍く引き伸ばされていく。

止まった足は動かず、吸い寄せられた視線は、彼女から離れない。


本来なら、すぐに目線を落とすべきだった。

凝視など無礼に当たる。

そんなことは嫌というほど分かっていたはずなのに――どうしても、目を逸らすことができなかった。


「急ぎましょう」


短いひと言だった。

なのに、妙に耳に残る。

静かで余計な力がなく、それでいてよく通る、どこまでも澄んだ声だった。


向けられる視線など、受け流すのが当たり前のように育ってきたのだろう。

彼女は隅に立つオレの存在など露ほども気に留めず、侍女を伴って歩き出す。

やがてその背中が視界から消え、そこでようやく、止まっていた時間が動き出した。


心臓がやけに早く打っている。

その騒がしい鼓動を力ずくで押さえ込むように、オレは胸元の布を強く掴んだ。


……今の令嬢は、一体誰だ?

あの立ち居振る舞い、どう見てもどこかの貴族の令嬢だ。

だが、なぜ王宮の、しかもこんな目立たない場所に?

どこの家の者だ?


無意識に、視線が残された馬車へと向く。

そこに刻まれた家紋には、見覚えがあった。

文官として幾度となく目にしてきた紋章の記憶が、意識の端にわずかに引っかかる。

……いや、あったような気がする、という程度だ。

記憶の隅をかすめるだけで、どうしても確信には至らなかった。

それでも、なぜだか妙に胸にざわつきが残り、どうしても無視することができなかった。


深く息を吐き出し、ようやく足を動かす。

鼓動はまだ速いままで、さっきの光景だけが現実から切り離されたように、どこかふわふわと浮いている。


仕事中だったことを思い出し、本来の目的である確認作業へと向かった。

けれど、どれだけ機械的に手を動かしていても、意識は何度も、あの場面へと引き戻されてしまう。


おかしい。

ほんの一瞬の出来事だ。

なのに、網膜に焼き付いた残像が、やけに鮮明で消えてくれない。

この得体の知れない落ち着かなさの原因が分からないままなのが、どうにも、たまらなく不快だった。


後日、王宮に出入りする家の紋章録を当たってみたところ、その正体はすぐに判明した。

あの令嬢は、オルドリッジ侯爵家の令嬢――ヘスティア・オルドリッジ。

王太子妃候補の筆頭と目され、成績優秀、品行方正。

社交界では非の打ち所がないと、もっぱらの評判を独占している人物だった。


そこまで知ってしまえば、もう考えるまでもない。

どうあがいたところで、手の届かない相手だ。

本来なら、物語はここで幕を閉じるはずだった。

冷静に考えずとも、二人の間に接点など生まれようはずがない。

そもそも、同じ社交の場に立つ機会すら、オレの人生には用意されていないのだから。


爵位のない三男に、個人的な夜会の招待状が届くことなんてありえない。

これまで父に社交界へ連れ出されそうになっても、適当な理由を並べては、器用にそれを回避してきたのだから。


「ヘスティア・オルドリッジ」という名前くらいは、どこかで耳にしたことがあったのかもしれない。

だが、社交を徹底して避けてきたオレにとって、王太子妃候補の情報なんてものは、真っ先に切り捨ててきた類のものだ。

自分には一生関係のない世界の話だと、無意識に蚊帳の外へ追い出していたのだろう。


諦めるしかない。

いや、諦めるまでもなく、最初から始まってすらいない。

そう結論づけて、思考を打ち切ったはずだった。


それなのに、数日が過ぎても彼女の姿は頭から離れてくれなかった。

いつもなら三日もあれば、興味も薄れていく。

なのに、今回ばかりはどうしても勝手が違った。

忘れようと意識すればするほど、記憶の残像は鮮明さを増していく。

それは胸の奥に、深く刺さった棘のように残り続けていた。


長く見つめていたわけじゃない。

時間にしてほんの数秒、せいぜいそれくらいのことだったはずだ。

だが、無作法だと知りながら視線を切らなかったのは、他でもないオレ自身だ。

その分だけ、印象は無駄に、そして深く焼き付いてしまったのだ。


仕事中ですら、ふとした拍子に彼女の姿が脳裏をかすめる。

光を繊細に拾い上げる髪の色や、鼓膜を静かに震わせるあの声。

目が合ったわけでも、言葉を交わしたわけでもない。

それでも、彼女という存在は確かにそこに刻まれていた。


これまでの歳月を経て、手に入らないものは最初から望まないようにしてきた。

心の奥底に蓋をして、とっくに捨て去ったつもりでいたのだ。

なのに、一番深い場所へ押し込めていたはずのものが、今さらになって猛烈に息を吹き返している。

眠っていたはずの感情が、これほど鮮明に舞い戻ってくるなんて、考えもしなかった。

オレは額を押さえ、熱を逃がすように小さく息を吐いた。


――ああ、面倒くさいな。


冷めた自分が、そう呟いた。

それがどれほど割に合わないことか。

分不相応な望みが、どれほどの不都合を自分にもたらすか。

そのすべてを理解した上で、それらを上回るほどに――「欲しい」と思ってしまったのだ。


あの日、あの場所で見かけたその瞬間から、自分は逃げ場のない袋小路に迷い込んでいたのだと。

認めがたいその衝動を、ようやく、そして絶望的に理解してしまった。


その瞬間、オレがこれまで築き上げてきた「妥当な人生」の設計図は、跡形もなく崩れ去った。

損得勘定で自分を納得させ、波風を立てぬよう生きてきたはずなのに。


身体の奥底で、どろりとしたモノが回るのを感じる。

毒にも薬にもならないはずだったフィデル家の三男は、あの令嬢に目を奪われた瞬間に――自分自身が「劇薬」へと変貌するような、そんな取り返しのつかない変容を遂げてしまったのだ。


……とても、困ったことになった。


――引き返すなら、今のうちだ。

理性がそう警告しているのに、その声はどこまでも虚しく響くだけ。


きっと、まともな手段では届かない相手だと、どこかで分かっていた。

それでも。

何もしないまま、完全に諦めてしまうという選択だけは――今のオレには、どうしてもできそうになかったのだ。

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