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エピローグ

机の上に置かれた、一通の手紙。

ようやく手元に届いたそれを愛おしく眺めながら、わたくしは事の真相を語った瞬間の、彼の申し訳なさそうな顔を思い出していた。


後日ようやく、届かなかった手紙の行方が明らかになった。

ディノ様は確かに返事を書き上げていたものの、あろうことか、忙しさにかまけて「出したつもり」になっていたらしい。

実際には、机の引き出しの奥深くに眠ったままだったというのだ。

眉を下げて平謝りする彼に対し、わたくしはひとつ条件をつけた。


「出し忘れていたその手紙を、届けてくださるのなら、不手際を許してあげますわ」


「えぇ……? 今更いるの?」


当たり前のことを聞かないでくださいまし。

不思議に思う彼に無言の圧力をかけ、有無を言わさず承諾を取り付けた。


――だってそうでしょう?

わたくしに送るはずだったものは、手元にないだけで、既にわたくしのものですわ。

それを取り戻そうとして、一体何が悪いというのです。


そうして、半ば強引に目の前へと引き寄せた最後の一通。

そこには、彼が跡継ぎとして実家に戻る決意や、そのために文官の職を辞すことが克明に綴られていた。

そして文末には、「驚かせてしまうかもしれないけれど」と前置きした上で、わたくしへの縁談を仄めかす言葉が添えられていたのだ。


……一番肝心なことを、どうして出し忘れてしまうのかしら。


手紙が届かなかったこの一ヶ月、わたくしがどれほど不安に沈み、悩み抜いていたかも知らないで。

けれど、呆れ混じりの溜息とともに、彼のどこまでも誠実な言葉をなぞるうちに、この上ない幸福の明かりが灯っていく。

読み終えた手紙を、これまで届いた数々の便りが眠る、大切な手紙箱のいちばん奥へとそっと仕舞い込んだ。

そして、彼との文のやり取りは、自然に、その後も続いていった。


 * * *


慌ただしい日々がようやく落ち着いてきた頃。

わたくしは約束通りクリスタ様を、そして「あるいは」という淡い期待を込めてお誘いしたペネロペ王女殿下を招き、お茶会を催した。


「フィデル卿と婚約したと聞き驚きました。……おめでとうございます」


こちらの様子を窺うようなクリスタ様の祝辞に、わたくしは心からの笑顔を返した。

この婚約が、本意なのか、それとも押し切られたものなのか、お二人にはまだ測りかねているのだろう。


「ええ、ありがとうございます」


想い人と結ばれ、友人に祝福の言葉を貰う。

毎日が満たされていて、婚約が調った当初は、もうディノ様の周囲にちらつく女性の影に不安がる必要もないのだと、ただ安堵に胸をなでおろしていた。

――けれど、現実はそれほど甘くはなかったのだ。


わたくしは、彼が領地からこちらへやってくる「たまの逢瀬」での一幕を思い出し、心の中で小さくため息をついた。

頻繁に会えない貴重な機会だというのに、我が家の面々は容赦がなかった。


彼が我が侯爵家へ来てくれたときのこと。

楽しく会話している最中、呼び出しがあった。

ほんの少しだけ席を外して、砂時計が落ちきる前には戻ったはずなのに、何故か彼は忽然と姿を消していたのだ。

訊けば、父に捕まって執務室へ連行されたらしい。

きっと意地の悪い問いかけの応酬を余儀なくされているのだろう。

そう思って、廊下でヤキモキしながら突入すべきか悩んでいたら、いきなり目の前の扉が開いた。

丁寧に挨拶をして退出する彼の奥で、父は満足そうに深く頷いている。

彼の無事な姿を見て安心したのも束の間、わたくしに気づいた父は、あろうことか実の娘に対して不審者を見るような目を向けたのだ。

何故わたくしがそのような扱いをされなければならないのか。

――今思い出しても、全く解せないわ。


またある時は、わたくしが少し遅れて応接間へ行くと、やはり彼の姿がなかった。

今度は母に連れ去られ、庭でお茶を共にしているのだという。

母は父の決定に文句こそ言わなかったものの、この婚約に少なからず不満を持っていた。

遠回しにネチネチと嫌味を言われているかもしれないと、慌てて庭へ向かうと――そこには、上機嫌の母とにこやかに雑談する彼の姿があった。

わたくしの登場によってお茶会は終了となったが、母は「子供たちとこれからも仲良くしてやってね。またお話ししましょう」と、彼に微笑みかけて去っていった。

一体あの短時間でどうやって、手強い母を言葉巧みに陥落させたのか。

わたくしは戦慄を禁じ得なかった。


極めつけは兄である。

わたくしが彼と楽しく話している最中、お構いなしに堂々と二人の間に入り込み、当たり前のように彼を連れ去っていったのだ。

困惑しつつも抵抗せず、大人しく拉致された彼に、わたくしは唖然とするしかなかった。

後日、彼がしみじみと「フリードっていい奴だよね。あいつだけは大切にしなきゃいけないって思ったんだ」と言い出したときは、耳を疑った。

二人の間に何があったかは知らない。

知らないけれど……。

それはまさか、婚約者であるわたくしよりも大切に、という意味ではございませんわよね?

「わたくしとの時間を犠牲にしてまで育むべき男の友情とは、一体何なんですの?」と、壁際に追い詰め、逃げ道を塞いだ上で、納得のいく理由をいただくまでじっくりとお話を伺いたい。

――そう、本気で思った。


今まで女性ばかりを警戒していたけれど、こんなに近くに敵がいたとは気づかなかった。

まさか最大の障害が兄だったなんて。

こうして、彼がこちらに滞在するたび、誰にも取られないようにするための、家族との静かな攻防が始まったのである。


――そんな、贅沢でおかしな悩みを思い出しながら、わたくしは目の前のお二人に向け、偽らざる気持ちを打ち明けた。


「とても幸せですわ。婚姻が待ち遠しいくらいです」


結婚してしまえば、このようなやり取りをせずに心置きなく二人の時間を過ごせますからね。

満面の笑顔と本音を混ぜた言葉に、王女殿下とクリスタ様は目に見えてホッと胸を撫で下ろした。

もしかすると心のどこかに、わたくしが王太子妃の座を逃したことへの、消えない懸念があったのかもしれない。


「お二人は、婚約者の方とはどうですか?」


何気なさを装って投げかけたその質問に、王女殿下は優雅に微笑み、クリスタ様はなんとも言えない表情でふっと苦笑した。

やはり一筋縄ではいかないのだろうか。

そんな疑問を抱きながら、わたくしが手元のカップを持ち上げて紅茶で喉を潤していると、王女殿下がどこか楽しげに、声を潜めて教えてくださった。


「実はね、今度フリードリヒ様に、金のコートにサファイアを散りばめた『わたしの色』の贈り物をしようと思っているのです。背中に大きく、彼の生家である侯爵家の家紋を入れるのもいいですわね。きっと桃色のフリルのシャツと合わせても素敵だわ。どうかしら?」


――ゴホッ、と。

危うく、口に含んだ紅茶を吹き出すところだった。

──それは、なんというか……あまりにも斬新すぎる。

あの合理主義の塊で、普段は全身黒づくめのような格好をしている我が兄だ。

上着だけが成金のように眩い金色になり、そこに青のサファイアがギラギラと輝き、背中には巨大な家紋。想像しただけで頭が痛くなってくる。

いくらなんでも、浮く。確実に浮く。


かといって王女殿下からの賜り物を捨てるわけにもいかず、さりとて着用するには凄まじい勇気が要る。

何より、それを見た周りの人間の忍耐力が試されるだろう。

貰ったところで途方に暮れる兄の姿が、鮮明に目に浮かぶようだった。


チラリと視線をやると、クリスタ様も何か言いたげに口を少し開いては閉じ、を繰り返している。

わたくしは素早く笑みを貼り直し、精一杯の声音で提案した。


「……素敵なお考えですが、コートだと季節や用途が限られてしまいますわ。例えば、カフスボタンなどはいかがでしょうか? サファイアに金の台座をあしらったものなら、普段使いもしていただけますし、とても上品だと思いますわ」


「あら、それは名案ですね!」


王女殿下はパッと表情を輝かせ、手を合わせた。


「わたしのことを意識してもらう為にも、常に身につけてくださる方が効果的かもしれませんものね」


満足そうに頷く殿下を見て、心の底から安堵の息を漏らす。

かつて殿下の独特な贈り物を着た兄のせいで、療養地で起きたあの「惨事」が繰り返されるところだった。

お兄様、わたくしのこの外交的機転に、盛大に感謝してくださいませ。


「……ところで、クリスタ様。さきほどから少し元気がありませんが、もしや殿下との仲も、少々難航しておりますの?」


あえて少しだけ声を潜めて尋ねると、クリスタ様はカップに伸ばしかけていた手をぴたりと止めた。

それからそっと持ち手を掴み、困ったように眉を寄せる。


「……そうですね。まあ、最近は顔を合わせる度に、微かに眉を顰められるくらいです」


一口紅茶を味わい、ふう……と憂いを帯びた吐息を漏らすクリスタ様。

だが、すかさず横から気高き声が突き刺さった。


「それは、クリスタ様が『正論』という名の打撃をわたしの兄に毎回お見舞いしているからではなくて?」


「暴力を振るった覚えはありません」


「比喩です、比喩! ですが、あの鉄面皮なお兄様の表情を動かしたのですもの、素晴らしい成果です。いっそそのまま、新しい扉を開くまで言葉の殴打を繰り返してもいいかもしれませんが──」


「……新しい扉、とは?」


クリスタ様が首を傾げる。

新しい扉――それ即ち、厳しい言葉を投げかけられることに至上の喜びを感じる趣向の方々が通る門。

わたくしも恋愛指南書で学びましたから、よく知っていますわ。

心の中で得意気になっているわたくしを置き去りに、王女殿下はクリスタ様の疑問を華麗に聞き流して話を続けた。


「やはり、時には優しさも必要なのです。しかし、与え過ぎてはいけませんわ。クリスタ様は今まで通りお兄様に接して、ほんの気まぐれに労いの言葉をかけてあげるのです。これぞ、『心の陰影効果』ですわ!」


「いんえい……?」


王女殿下は物知り顔で人差し指を立てて、胸を張った。


「普段の淡白さという『影』があるからこそ、不意に見せる優しさという『光』が、深く刺さるのです。この落差による胸の高鳴りに、殿方は生涯、囚われ続けることになるのです!」


「……わかりました。今度やってみます」


半信半疑で頷くクリスタ様に「上手くいくといいですわね」という思いを込めてわたくしは微笑んだ。


……それにしても相変わらず王女殿下はこういう事に詳しいですわね。

ますます以前の疑惑が濃厚になりましたわ。


ひとしきり恋愛談義に花を咲かせ、お茶を新しく淹れ直した頃。


「そういえば、皆さま知っていまして?」


穏やかな談笑が続く中、ペネロペ王女殿下がふと、最近の社交界を騒がせている噂話を口にした。

それは、北の果てを守護する「岩の辺境伯」とあだ名される、屈強で強面な閣下の話題だった。


戦場を駆けることしか知らぬような無骨な彼が、なんと、療養中だったという赤毛の美女と恋仲にあるのだという。

かつては生気を失い、消え入るようだった彼女。

しかし、閣下の「弱音を吐く前に体を動かせ!」という猛烈な根性論と、「戦場で信じられるのは我が精鋭たちとの絆と、鍛え上げられた己の肉体のみ!」という豪快極まる信念に、どういうわけか感銘を受けて元気を取り戻したというのだ。


そうしていつの間にか、二人は惹かれ合うようになったらしい。

共に鍛錬に励み、夕日に向かって走っていく姿は、傍から見ても当てられるほど情熱的な仲睦まじさだという。

――もっとも、これは閣下を慕う部下たちの証言らしいのだけれど。


そう王女殿下が話を締めくくった瞬間、その場に妙な静寂が広がった。

「療養中の赤毛の美女」という言葉が耳に触れた刹那、同席していた三人の脳裏に、ある一人の顔が過ったに違いない。

もし、その方がわたくしの想像通りの人物なのだとしたら――。


……先程の話は一見、美談に聞こえるが、決して騙されてはならない。

手痛い報いを受け、療養の名目で遠方に追いやられた令嬢が、そう簡単に真逆の純朴さを手に入れられるはずもない。

きっとあの人は、今度は狙いを辺境伯に定め、自らの生存戦略に組み込んだのだ。


あれほどまでに世間を騒がせ、どん底まで堕ちたはずの彼女が、今度は辺境の守護神を射止めて返り咲こうとしている。

不屈の精神……というより、もはや恐るべき図太さと呼ぶべきか。

「転んでもただでは起きない」という言葉さえ、彼女の前では生ぬるく感じられた。

どこへ行こうとも、誰を相手にしようとも、自らの望む幸せを力尽くで手繰り寄せる、底知れないしぶとさ。


わたくしは喉元まで出かかった複雑な思いを、そっと温かい紅茶と共に飲み下した。


……そして、あきれたことに、どこか親近感すら覚えてしまっている自分に気づく。

わたくしもまた、最善の道を見出すべく思考を重ね、できる限りの手を尽くして、ようやく愛する人との幸せを掴み取ったのだ。

どのような状況に置かれようとも、環境のせいにせず、自らの意思で「次」を勝ち取る。

その強かさ、その執念。


もし、あの辺境伯の恋人が本当に「燃えるような赤毛の彼女」なのだとしたら――その生き様だけは、今のわたくしにとって決して他人事とは思えなかった。

不本意だけれど、もう一度彼女への評価を改める必要がありそうだわ。


やはり、わたくしは貴女のことが、どうしても嫌いになれそうにない。


 * * *


やがて季節は巡り、木々が葉を落として厳しい冬が訪れると、物語の舞台は華やかな王都の夜会へと移った。


かつては、遠く離れた場所から、ディノ様の背中を見つめることしかできなかった。

けれど今は、正式な婚約者としてその隣に立ち、音楽に合わせて手を取り合い、誇らしくステップを刻むことができる。

ダンスの最中、繋いだ手から伝わってくる彼の確かなぬくもりが、わたくしの心を温かく、深く満たしていった。


厳しい冬が去り、氷が解け、春の柔らかな陽光が差し込む頃――わたくしは彼の領地へと招かれ、のどかな緑が広がる地を二人で巡っていた。


ここへ至るまでは、少しばかり気を張っていた。

そして何より、密かに心配していたディノ様の二人の兄たちも——拍子抜けするほど元気に、しっかりと生きていたのだ。


普段は家を空けているという次兄のバーナード様も予定を合わせて帰ってきてくださったこともあり、フィデル家では、未来の領主の妻として恥じぬよう、完璧な淑女として振る舞わなくてはと身構えて挨拶に臨んだ。


けれど、お会いした彼のご両親は、明らかにわたくしより緊張しており、どこか余所余所しかった。

やはり身分の差による弊害なのだろうかと、ほんのり悲しくなったその時。

長男のノーラン様が、やおら口を開いた。


「ノーラン・フィデルと申します。これから……いえ、末永くよろしくお願いします」


そのお顔は紅潮し、真剣な表情の瞳には熱まで視える。

未来の弟の妻を迎える、歓迎の挨拶――のはずなのだが、ノーラン様がその言葉を紡いだ先は、わたくしではなかった。

正確に言えば、わたくしの斜め後ろに直立不動で控える、侍女のリリムへ向かって熱烈な視線を固定していたのだ。


……一目惚れである。

誰がどう見ても、一瞬で恋に落ちた男の顔だった。


それを察したお義母様が今にも倒れそうなのを、慌ててご当主様が支え、隣に座っていたバーナード様が、さり気なく、けれど力任せにノーラン様の顔の向きをぐいっとわたくしの方へ修正してくれた。


――けれど、視線だけは未だにリリムに釘付けのままである。

これではまるで、挨拶にかこつけて我が家の侍女に愛を誓っているようではないか。


目の前の光景に、ディノ様が深く頭を抱えて「兄上もか……」と小さく呟いていたけれど、一体どういう意味でしょう?


……まあ、リリムも子爵家の令嬢なのだ。

跡継ぎを降りたノーラン様が相手であれば、身分的な障害はさほどないでしょうけれど。

でも。リリムがその気にならない限り、わたくしの大切な侍女を簡単に渡してあげるつもりはありませんわよ?


ともあれ、その凄まじいやらかしのおかげで、ご両親の緊張は一気に吹き飛んでしまったのだろう。

わたくしが「どうか本当の家族のように接していただけると嬉しいです」と微笑むと、その後の挨拶は、最初の辿々しさが嘘のように和やかな雰囲気となった。それはもう温かく丁重にわたくしを歓迎してくださり、無事に受け入れられたのだと安堵したのが、つい先程のこと。


そうして大きな肩の荷を下ろし、ようやく訪れた、二人きりの時間。

ディノ様にエスコートされながらのどかな道を歩き、景色を眺めていると、こちらに気づいた領民たちが親しげに会釈をしたり、手を振ったりしてくれる。

わたくしの生まれ育った侯爵領とはずいぶん違った、素朴で飾らない雰囲気に驚きつつ、笑顔でそれに応える。

その心地よさに身を委ねるうち、ふと、胸の奥にしまい込んでいた記憶が蘇った。


「……本当に、連れてきてくださいましたね」


「ん? 何が?」


不思議そうに首を傾げる彼を、わたくしは少しだけ恨めしげに、じとりと見詰めた。


「いつか二人で、貴方の領地へ行ってみたいと……以前、わたくしが勇気を振り絞って伝えたときのことです。ディノ様は本気にしてくださいませんでしたでしょう?」


ああ、と彼は合点がいったように声を漏らし、苦笑した。


「それはごめん。……でも、あの時の言葉を忘れたことはないし、嬉しかったのは本当だよ。だから、こうして君と一緒にここを回れるのは、オレだって舞い上がるような気持ちなんだ」


そうして何でもないことのように、さらっと真っ直ぐに告げられた言葉に、胸が甘く疼く。

聞き流されたのだと独りで溜息をついていたあの日々が、一瞬で愛おしい思い出へと塗り替えられていく。

彼はいつだって周囲をよく見て、わたくしの言葉も、わたくしへの労いも、何ひとつ忘れずにいてくれる人なのだ。


「……蒸し返すのもなんだけどさ。水鏡の天秤商会を出た後の事故。あれ、勘違いじゃなければ頬を擦り寄せ――」


おっと、それ以上はいけない。

どうやら一番記憶から消し去って欲しかったものまで残っていたようだ。


「――まぁ。今あそこの木の隙間を、とっても可愛い小鳥が横切りましたわ。ディノ様も見ました?」


この話は強制終了だと言わんばかりに、わたくしはエスコートされている手を少しだけ引いて、不自然なほど綺麗に微笑んでみせた。

彼は一瞬、釈然としない表情を浮かべていたけれど、やがてふっと悪戯っぽく口元を緩める。


「君しか目に入っていなかったから、見落としたよ」


「っ……」


そんな甘い切り返しがくるとは思わず、完全に虚を突かれた。

みるみるうちに自分の頬が熱くなっていくのが分かる。

……本当に、この方は口が上手い。

したり顔でこちらを覗き込んでくるディノ様は、黙り込んでしまったわたくしを見て、心底楽しそうに目を細めていた。


季節が夏へ移り変わる頃、わたくしたちの話題はもっぱら、数ヶ月後に迫った婚礼の準備一色になった。

共に選ぶ調度品、新居を彩る花々、そして、これから二人で紡いでいく未来の計画。

目まぐるしく過ぎていく日々の中にあっても、彼からの便りが途切れることは一度としてなかった。


会えない夜の寂しさを埋める優しい言葉や、向かい合っている折には照れて口にしないような真摯な想い。

声として放たれた言葉は消えてしまうけれど、手紙はこうして形に残る。

季節が巡るたびに、わたくしの手紙箱の中には新しい便りと、それ以上の愛おしい思い出が積み重なっていった。


そうして一年が過ぎた。

夏を越え、婚礼の準備もいよいよ整った頃――。


最後に残っていた不安を拭い去るため、わたくしは改めて医師の診察を受けた。

結果は、やはりドリトン先生の見立て通り、わたくしの身体はすっかり完治していたのである。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にわだかまっていた不安は静かに消え去った。

もう未来を恐れる理由はなかった。


やがて街並みは乾いた秋の気配に染まり、わたくしたちはついに約束の日を迎えた。


嫁ぐと同時にディノ様が当主となったため、最初の数ヶ月は義母から手ほどきを受けながら、女主人の仕事に奔走した。

屋敷中の在庫管理や使用人の差配、そして家計簿の整理。

教わるそばから溢れ出てくる実務をこなすだけで、精一杯の日々だった。

ディノ様はわたくしに何も強制しないし、いつでも自由に過ごさせてくれる。

「無理をしなくていい」と気遣ってくれるけれど、これは義務だからではなく、自分の意志で手がけたい大切な仕事なのだ。


幸いにも、義両親はわたくしを実の娘のように温かく見守ってくださった。

使用人たちも、お二人のお人柄を映したかのように親しみやすく、それでいてきちんと敬意を払って接してくれている。

……ただ、ノーランお義兄様はまだリリムを諦めていないようで、たまに怖いくらいに熱い眼差しを送っている。

けれど、向けられている当の本人は我関せずで、いつも通り淡々と振る舞っていた。

実家に帰る気など、これっぽっちもなさそうな様子で。

もう一人の兄であるバーナードお義兄様は、底抜けに明るく気さくな方で、時折届く手紙には楽しい旅の様子が綴られている。

残念ながら、次に帰ってこられるのはまだ先のことになりそうだけれど。


やがて屋敷の差配も滞りなく回せるようになり、婚礼から幾年かが過ぎた頃。

わたくしは公務の合間を縫って庭の片隅にハーブ園を作り、再び「調合茶」作りに没頭するようになっていた。

もちろん――彼から贈られたあの茶匙を、大切に使いながら。


かつて縁のあった商会――『水鏡の天秤』との交流も、未だに深く続いている。

最近では新たな調合茶の委託販売を彼らに任せるなど、今や信頼のおける良き仕事仲間として絆を深めていた。

その茶は、キリクとラトナ、そして時折同行する愛娘のスザナが海を越え、世界各地を巡りながら時には王侯貴族へと紹介してくれたことで、いつしか『奇跡の香茶』として世に広く迎えられるようになっていた。


おかげで注文は引きも切らず、かつてはのどかで平凡だった領地には、茶葉の栽培や加工に携わる人々の活気と、生き生きとした笑顔が溢れるようになった。

わたくしが趣味として始めたものが、今やこの領地の一部を支える、立派な産業へと成長を遂げたのだ。


振り返れば、そこに至るまでの軌跡のすべてを、わたくしはいつもディノ様と共に歩んできた。

胸に溢れるほどの幸福を抱きしめながら、この命が尽きるその時まで、この温かな日々を彼と分かち合っていくのだろう。


バルコニーから見下ろす領地には、今日も賑やかな営みが広がっている。

ふと、かつてあったかもしれない別の未来を思った。もしあのまま、王太子妃になって国を動かす立場になっていたら――


――いいえ。

わたくしには、この愛おしい領民たちの声を聞き、大切な夫の隣で小さな奇跡を育てるこの暮らしこそが、何より肌に合っている。

やはり、あの時の選択は間違っていなかったのだ。

気がつけば、夫婦二人だけだった日々も、今では遠い思い出のよう。

子供たちが生まれてからというもの、屋敷は無邪気な笑い声で満ちるようになった。

わたくしは、わたくしだけの幸せを、確かにこの手で掴み取ったのだから。


「何をそんなに真剣な顔で見つめているの?」


不意に背後から伸びてきた腕に、優しく抱きすくめられた。

驚いて振り返るまでもない、大好きなディノ様の香りと、ほのかな熱、そして甘い声。


「ふふ、この領地が大好きだな、と」


彼の胸に身を委ね、腹部に回された手に自身の掌を重ねる。

わたくしは心からの笑顔を返した。

その時――トトト、と軽やかな足音が響き、小さな影がスカートにしがみついた。


「ずるい! ルーナも、ぎゅー!!」


「あー……。大変、申し訳ありません……」


後ろからは、自由奔放に駆け出す子供を抑えきれず、二人の時間に割って入ってしまったことを悔やむリリムと、その横からソワソワしながらこちらの様子を伺うもう二つの小さな影があった。

その姿に、わたくしたちはどちらからともなく吹き出してしまった。


「よしよし、こっちおいで」


ディノ様が愛おしそうに娘のルーナを抱き上げ、こちらに手を差し伸べる。

改めて繋ぎ直した場所から伝わる確かな体温。

そして家族の笑顔。

その愛おしさのすべてを抱きしめて、わたくしたちはこれからも、この世界を共に歩んでいく。

ヘスティア編はこれで完結です。

次の話からは、ここに至るまで何をしていたかを書いたディノ編になります。

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