解けないように、絡ませて
五日間にわたる馬車の揺れが、彩り豊かな療養地の気配を薄れさせていく。
窓の外を埋め尽くしたのは、洗練された冷徹さを湛える王都の街並み。
傾き始めた秋の陽光が、白亜の建物群に長い影を落とし、その隙間を煤の匂いを含んだ乾いた風が吹き抜けていく。
その無慈悲さが、ハーブ香る清涼な地との、確かな別れを告げていた。
たった半年の、自由な一人の少女として過ごした飾らぬ日常。
しかし、重厚な紋章を刻んだ侯爵家の正門を仰いだ瞬間、胸に去来したのは息苦しさではなく、抗いがたい懐かしさだった。
あんなに楽しかった日々さえ、今は遠い。
結局のところ、自分は根底からの貴族なのだと思い知らされる。
この壮麗な王都こそが帰るべき場所であり、守るべき誇り。
淑女としての仮面を再び被り、侯爵令嬢としての矜持を身に纏い、わたくしは「我が家」へと足を踏み入れた。
忙しなく荷物を運び入れる使用人たちの喧騒を背に、わたくしは変わらぬ静寂を湛えた屋敷の廊下をゆっくりと進む。
磨き抜かれた床の感触も、壁に並ぶ厳格な肖像画の視線も、すべてがかつての日常を呼び覚ましていく。
そんな中、ふいに前方の曲がり角から一人の男性が現れた。
見紛うはずもない、堂々たる体躯と洗練された佇まい。
そこにいたのは、約三ヶ月振りに再会する兄だった。
「帰ってきたということは……例の縁談を受ける気か」
「それ以外に何があるというのでしょう?」
小首をかしげて見せると、兄の眼差しは一層険しさを増した。
「本当にその判断でいいのか。その腑抜けきった頭で、もう一度考えろ。奴は執着という業だけで理を捻じ曲げ、不可能を可能にした男だ。私の知らないところでも、相当な布石を打っていたはずだ。お前を手に入れるためなら、何年でも待ち、何手先でも読む類の人間だぞ」
兄の切迫した忠告に、わたくしはふっと唇を綻ばせた。
あら。
そんなに想われていたなんて、光栄ですこと。
もしかして、例の「溺愛」というものも体験できるかしら?
今から楽しみですわ。
――なんて、まだどこか浮ついている自覚はあるものの、今のわたくしには、物事を一通り落ち着いて考えるだけの余裕が戻っていた。
縁談が舞い込んだ当初は、文字通り天にも昇る心地で、とても平静を保ってなどいられなかったのだ。
あの時、正面から抱きついてしまった不慮の事故――あの接触こそが、彼がわたくしを選んだ決め手なのだと、思い込んでいた。
けれど、父や兄の口ぶりを思い返すたび、胸の中に小さな違和感が芽生え、それは次第に無視できないものへと育っていく。
冷静になって考えればわかることだった。
わずか三ヶ月という短期間で確固たる地位を築き、後継者としての頭角を現す。
それは、突発的な衝動や、付け焼き刃の立ち回りで成し遂げられるほど容易いことではない。
わたくしがどれほど悩み、考えを巡らせても、一人でこの行き詰まった運命を覆す術など見つからなかった。
だが、耳にした話が真実だとしたら、どうだろう。
――もしや、わたくしが予想するよりもずっと前から、彼は今日という日を迎えるためのすべてを、整えてくれていたのではないだろうか。
正直なところ、健康上の理由で落選したという、明確な瑕疵を背負ったこの身である。
彼のもとへ嫁ぐまでに、いくつもの波乱が押し寄せると覚悟していたからこそ、それを収めるためにどのような手段を講じたかなど、わたくしにとっては些末な問題に過ぎない。
ただ、少なくとも今回の縁談において、彼は真っ正面から、これ以上ないほど誠実な手順で事を進めてくれた。
社交界ではしばらくの間、あることないこと囁かれるだろうけれど、誰にも公に文句を言わせない完璧な形式で、わたくしを迎えに来てくれたのだ。
父も兄も、そんな彼のことを「食えない男」と警戒しているようだけれど、それが一体何だと言うのだろう。
むしろわたくしは、かつて知っていた「物腰の柔らかな好青年」のままでは、この貴族社会の荒波に呑まれてしまうのではないかと案じていたくらいだ。
そもそも、蹴落とし合いや足の引っ張り合いなど、この貴族社会においては日常茶飯事だ。
そんな欺瞞に満ちた世界で、本性を見せないことなど、生きていくための初歩的な嗜みに過ぎないというのに。
なればこそ、本人が語らぬのなら、裏でどんな策を講じたのか無理に聞き出すほどわたくしも無粋ではない。
誰に何を吹き込まれようと、わたくしの心が揺らぐことなど、絶対にないのだから。
「そのようなお話を聞かされても、惚れ直すことはあっても嫌いになる理由にはなりませんわ。あまり侮らないでいただきたいものです」
わたくしが毅然と言い放つと、言葉の通じない異形のモノでも見るかのように、兄はその端正な顔を歪めた。
「お前も大概、可愛気のない女だな。……あいつとある意味、似た者同士でお似合いだ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
即座に返ってきた吐き捨てるような言葉に、わたくしは心の中で小さく笑う。
――そんなこと、言われなくとも知っていますわ。
「……無駄な時間を過ごした。どうせ断れば、それはそれでさらに厄介な事態を招きそうだからな。お前という『餌』を隣に置いておけば、あいつも余計な真似はしまい。手綱をしっかり握って、暴走させないように見張っておけ」
兄は投げやりにそう吐き捨てた。
これほど容赦なくこき下ろすからには、さぞや彼との縁も切れたのだろうと思い、単刀直入に尋ねてみた。
「それほど酷評されるのなら、もう友人ではないのですか?」
「………」
返ってきたのは、重苦しい沈黙だった。
つまり、散々毒を吐き散らしながらも、未だに友人のままなのだ。
ふと、以前に王女殿下が仰っていた「一度、心を開いたら大切にしてくれそう」という言葉が脳裏をよぎる。
昔の兄なら、気に入らない相手は切り捨てて終わりだったはずだ。
随分と変わったものだ、と可笑しくなる。
かつての氷のような鋭さが消えた兄に、あの時の言葉をそのまま返してやりたくなった。
――お兄様も、丸くなりましたね、と。
* * *
侯爵家の応接間に漂うのは、上質な紅茶の香りと、どこかよそよそしい空気だった。
三ヶ月ぶりに相まみえたディノ様の姿に、わたくしはわずかな驚きを覚える。
肩につきそうだった少し長めの無造作な髪は短く切り揃えられ、見違えるほど洗練された印象に変わっていた。
以前の髪型も彼らしくて好ましかったけれど、今の装いの方が、その整った顔立ちをより引き立てているように思える。
――わたくしがこの縁談に首を縦に振ったことで、今日の席が設けられた。
あとは両家が条件に合意すれば、晴れて婚約が成立する。
領地や経済力、そして人脈といった、この縁談が家々にもたらす「益」の確認は、貴族の婚姻において避けては通れない儀礼だ。
わたくしと彼は、まるで精巧な置物のように静かに座り、その場に満ちる言葉の応酬を、ただおとなしく聞き流していた。
――時折、視線を交わすことさえ憚られるような、張り詰めた空気。
だからこそ、わたくしは家長たちの視線から隠れるようにして、正面に座るディノ様の様子をそっと窺った。
先ほどから、彼はときおり眉間に薄く皺を寄せ、何やら難しい顔をして黙り込んでいる。
まるで目の前の会話を遠くに聞きながら、ひとり深い思索の海に沈んでいるかのようだ。
――まさか、この縁談を後悔している、なんてことはありませんわよね?
今更、逃げだそうとしても遅いですわ。
鋭い言葉が脳裏をよぎるけれど、それは裏返しの不安でしかなかった。
本当は、三ヶ月という空白の月日を埋めるように、彼へたくさん言葉を投げかけたかったのだ。
けれど、わたくしは唇を固く結んだまま、静寂の一部に徹することにする。
完璧な作法を強いる親たちの、厳格な監視の目。
そこには、娘の本音が入り込む隙など微塵もなかった。
――はあ、それにしても。
久しぶりに身に纏った正装のドレスは、わたくしの呼吸を妨げるほどに、酷く窮屈だった。
誤解のないよう付け加えておくけれど、これは格式高い場にふスわしい、隙のない仕立てゆえの苦しさである。
決して、わたくしの身体が少しばかりふくよかになったせいではない。
確かに、今朝ドレスに身体を滑り込ませる際、多少の苦労と気合いが必要だったのは事実だが、入ってしまえばこちらのもの。
まだ、仕立て直すほどではないはずだ。
容赦のないコルセットの締め付けと、この場に満ちる肌を刺すような緊張感。
その両方が、自由を許さない「貴族の義務」そのもののようで、わたくしは誰にも気づかれないよう、小さく息を潜めた。
話し合いを終え、一行は食卓へと席を移した。
食事という名目で、わずかながら空気が緩むことを期待したのだが――父が重々しく口を開いた瞬間、それが淡い期待に過ぎなかったと思い知ることになる。
「さて――」
父の声音は、一見すれば単なる事実確認をしているに過ぎない。
けれど、その響きの裏には、相手の底を覗き込もうとする鋭い探りが潜んでいた。
表面上は穏やかな会食を装いながら、父はその言葉のひとつひとつを秤にかけ、ディノ様という人間を執拗に値踏みしているのだ。
対する彼は、澱みのない簡潔な答えを返していく。
決して余計な言葉は添えず、過不足なく。
彼自身、自分が今この瞬間も厳しい選別の場に立たされていることを十分に理解しているのだろう。
父が何を問い、その裏で何を求めているのか。
そして、会話の合間に生まれる無言には、いかなる意図が隠されているのか。
彼はその沈黙の深ささえ測りながら、一歩も退くことなく、確かな足取りで言葉を継いでいった。
やがて父はわずかに目を細めたが、それ以上は追及の手を止めた。
――父の中では、もう結論は出ているのだろう。
立ち込める気配の中に横たわるその「答え」を、わたくしは肌で静かに感じ取っていた。
だからこそ、小さく首を傾げてみせたのだ。
「……お父様は、彼をずいぶん気に入っていらっしゃるのね」
場にそぐわないほど穏やかで、それでいて奇妙に核心を突く一言だった。
隣に座る父の眉間に深い皺が寄り、横から鋭い視線が突き刺さる。
わたくしは余裕を湛えた微笑みを返し、それから自然な動作で正面へと顔を向けた。
ちょうど、卓を隔てた先に座るディノ様と目が合う。
それは、言葉にはならないが確かな熱を帯びた視線の交錯。
父はそれを見逃さず、わずらわしそうに小さく鼻を鳴らした。
やがて、食事が終わる。
「――若い者同士、少し歩いてこい」
それは形式的な促しでありながら、同時に。
この場が終わり、父がわたくしたちの関係を「許容」したことを示す、明確な合図だった。
* * *
かつての厳しい日差しは影を潜め、涼やかな風が吹き抜ける侯爵家の庭園。
東屋を彩る蔦が赤く染まり始めているのを眺めながら、わたくしたちはゆったりと歩を進める。
手入れの行き届いた色鮮やかな花々は、いつ見ても完璧に整えられていた。
歴史、外交、複雑な宮廷作法――王太子妃候補として、寸分の隙も許されぬ教育を叩き込まれてきたわたくしにとって、ここは唯一、監視の目から逃れて息をつける場所だった。
けれど今日ばかりは、景色を愛でる余裕などどこにもない。
名目は「お互いの人となりを知るため」という穏やかなものだが、実際には「結婚の合意を最終確認してこい」という、両家からの無言の圧力に他ならなかった。
出会ってからまだ一年も経っていない。
それでも、いつしか一人の男性として、彼に惹かれている自分を止められなくなっていた。
この縁談が彼自身の強い意思によるものだと知った今、長年染み付いた淑女としての自制心の裏側で、胸の内の騒めきはいつになく激しい。
本来なら、数歩後ろに侍女が控えているのが貴族としてのマナーだ。
けれど、周囲を見渡しても人影ひとつ見当たらない。
――父が、気を利かせてくれたのだろう。
その計らいのおかげで、今はただ、隣を歩く彼の存在だけを近くに感じることができた。
もはや、二人の結婚は既定路線として決まったも同然だ。
あとは、この沈黙を破り、どちらかが「最後の一歩」を踏み出すだけだった。
「……一応、聞いておきたいんだけど」
静寂を破ったのは、ディノ様の少し戸惑ったような声だった。
「縁談を受けてくれたっていうことは、その……多少は期待してもいいのかな、なんて」
謙虚すぎるその問いかけに、思わず足が止まる。
「一応だなんて……。わたくし、ずっと前からディノ様をお慕いしておりましたのよ。ですから、この縁談は奇跡のようなお話でしたわ」
真っ直ぐに想いを告げると、彼はあからさまに驚いた表情を浮かべた。
そういえば、父や兄からは彼の並々ならぬ執着――もとい、一途な想いについては聞かされていたけれど。
肝心の彼の口からは、まだ何も聞いていないのだ。
わたくしは立ち止まったまま、じっと見つめてその先を促してみる。
彼はその意図を察したように、気恥ずかしげに視線を彷徨わせた。
けれど、やがて意を決したように、ゆっくりとこちらへ距離を詰めてくる。
迷いながらも伸ばされた、大きな手。
わたくしも吸い寄せられるように、そっと自らの手を伸ばした。
かつては触れることも、距離を縮めることも決して許されなかった。
王太子妃候補という高い壁に阻まれていた、あの日々。
けれど今、重なり合った手のひらから伝わる熱に、ようやくここまで辿り着いたのだという実感がじんわりと込み上げてくる。
もう、わたくしたちの間に隔たりなど存在しなかった。
澄み渡る日差しの中、さらさらと心地よい風が吹き抜けていく。
短くなった彼の髪は、以前のようにその表情を隠すことはない。
彼は逸らすことなくわたくしの目を真っ直ぐに見つめ、もはや逃げ場のない、確かな言葉を紡ぎだした。
「――オレは、ヘスティア嬢を手放すつもりはないよ。守るとか、そんな綺麗なことを言うつもりもない。……オレが地獄に行くなら、君も一緒にいることになる。一人で綺麗に終わる、なんて形にはならないだろうね」
大きな手が、繋いだ指先を優しく、けれど、決してほどけない形で絡めとる。
「面倒なことや必要なことは、すべてこっちでやる。君は好きにしてていい。――どこへ行こうと、最後はオレのところに帰ってくるようにしておくから」
明るい声音とは裏腹に、その双眸は真剣そのものだった。
ただ見つめられているだけで、わたくしの行く先が、いつの間にかこの方の手のひらへと心地よく収まっていくような――抗うことすら思い浮かばない感覚が、胸の奥に静かに広がっていく。
「――ねえ、それでも、離れるつもりはない?」
自由を許すようでいて、その実、退路だけは断たれている。
彼の言葉が途切れた途端、わたくしは、しばし瞬きを繰り返した。
あら、まあ。
とっても熱烈な愛の告白ね。
「はい、何があっても側に置いておいてくださいませ。たとえどんな場所でも、貴方の隣であれば構いませんわ」
煌びやかな城で安穏と過ごすよりも、たとえ茨の道であっても、彼の手を取って歩んで行きたい――。
その迷いのない決意を微笑みに託すと、ディノ様は憑き物が落ちたような顔をした。
長く息を吐き出し、安堵に染まった彼の頬に、ようやくいつもの柔らかな笑みが戻った。
「……実は、さっきの言葉。縁談を申し込みに行った際、フリードにずいぶん手厳しい苦言をもらってね。それと同時に、君の知らなかった一面も色々と教わって――その点を自分なりに反芻して、ようやく導き出した答えだったんだ」
彼は困ったように眉を下げて笑った。
両家の家長が顔を合わせ、厳かな儀式が進んでいたあの時。
彼が難しい顔をして黙り込んでいたのは、縁談を後悔していたからではない。
兄から突きつけられた問いに対し、自分はどうあるべきか、その誠意を必死に言葉にしようとあがいていたらしい。
――それにしてもお兄様、一体彼に何を言ったのかしら?
わたくしのいない場所で、思わず平手打ちをしたくなるような「余計な事」を口にしていないでしょうね?
彼の前では、いつだって非のうちどころのない淑女でいたいのよ。
「そういえば……」
ふと思い出した疑問を口にすると、彼は優しく穏やかに耳を傾けてくれた。
「父から縁談の話と一緒に、跡継ぎの件も伺って驚きました。できれば、事前に知らせて欲しかったのですが」
責めるつもりはなく、ただ純粋な問いとして口にすると、ディノ様は意外そうに目を丸くした。
「……おかしいな。そのことは、手紙に書いたはずだよ」
「そのような内容のものは届いておりませんわ。そもそも……わたくしが療養地を発つ一月ほど前からは、貴方からの便りそのものが途絶えていましたもの」
「届いていない? そんなはずは……」
二人は同時に首を傾げた。
彼が綴ったはずの言葉は、一体どこへ消えてしまったのか。
その行方を知る術は、今の二人にはなかった。
……けれど、お手紙が迷子になっていたのであれば、わたくしのあの「拒絶」も仕方のないことでしょう。
「実は……縁談を持ちかけられた時、お相手は長兄のノーラン様だと思い込んでいたのです。お父様から色々とお聞きして、お話ししたこともないのに好意を持たれても困るわ、なんて思ってしまいましたのよ」
「うっ……ごめん……」
わたくしがいたずらっぽく打ち明けると、ディノ様はなぜか大きくよろめき、胸を押さえて引き攣った顔で謝ってきた。
彼は、手紙さえ無事に届いていればこんな行き違いは起きなかった、と悔やんでいるのかもしれない。
「元はと言えば父が最初に名前を伏せていたのが原因です。もしかしたら、わたくしは試されたのかもしれません。限られた情報だけで、真実に辿り着けるかどうかを」
「あー……うん、本当にゴメン……。会話って……そうだね、大事だね……」
どこか遠くを見つめる彼の瞳に、深い後悔の色が混じる。
独り言のようなその呟きに、わたくしはほんの少しだけ、首を傾げた。
「……これだけ食い違っていたんだ。オレに、聞きたいことが沢山あるでしょ?」
見透かしたような彼の言葉に、わたくしは「当たり前です」と心の中で即座に返した。
聞きたいこと、確かめたいこと、確認しておかなければならないこと。
胸の奥には、数え切れないほどの問いが溢れかえっている。
けれど、わたくしはその中から最も根源的な疑問を一つだけ選び取った。
「……どのような経緯で、跡継ぎになられたのですか?」
問いかけると、彼はぴたりと動きを止めた。
一秒、二秒……。
息が詰まるほどに長い沈黙が、二人の間に横たわる。
たっぷりと間を置いてから、彼はようやく唇を開いた。
「………………色々、あったんだ」
返ってきたのは、あまりに簡潔で、あまりに不自然な答えだった。
……その間に何を思い出したのです?
貴方のお兄様お二人は、ちゃんと五体満足でご存命ですわよね?
お父様とお兄様が彼のことを散々曲者扱いするものだから、わたくし、少しだけ不安になってしまいましたわ。
繋いだ手の温もりを確かめ合うように、わたくしたちはゆっくりと歩みを進めた。
積もる話は山ほどあり、空白の時間を埋めるように言葉を尽くして語り合う。
いくら話しても足りないほどだったが、焦る必要はもうどこにもない。
これからは、誰の目を気にすることもなく、堂々と愛を囁き、他愛のない話に花を咲かせ、同じ時を重ねていける。
こうして、わたくしたちの縁談は――案じていた苦難を飛び越え、確かな絆とともに、新たな未来へと歩み出した。




