噛み合わない父と娘
お父様がこの療養地へ来るという手紙を受け取った時、わたくしは半信半疑だった。
多忙を極めるあの人が、まさかこんな遠くまで足を運ぶはずがない。
そう目算していたのだ。
しかし、使用人に案内されて応接室の扉を開けた刹那、わたくしは息を呑んだ。
逆光のなか、正面の椅子に腰を下ろしている影。
その厳格な佇まいは、紛れもなく父だった。
閉ざされた厚いカーテンの隙間から、晩秋の斜光が頼りなく差し込み、磨き抜かれた床に細長い影を落としている。
石造りの室内は、外の深まる秋をそのまま閉じ込めたかのように、冷え切っていた。
父の放つ気配に圧倒されるように、運ばれてきた当初は揺らめいていたカップの湯気も、次第に細くなり、やがて消え失せていく。
言葉を交わすこともなく、ただカチ、カチと規則的に刻まれる振り子時計の音だけが、停滞した時間を支配していた。
何のために、ここまで来たのか。
その問いを投げかけるべきか測りかね、わたくしは既に温さを失った茶を一口含んだ。
父の真意が掴めない。
ただの病状確認にしては、この沈黙はあまりに重すぎる。
ためらいが部屋の空気をいっそう濃くした。
父はしばらくこちらを見据えたまま無言でいたが、やがて、何気ないことのように口を開いた。
「お前に、縁談が来ている」
その一言に、心臓が大きく跳ねた。
わたくしは手元の磁器のカップをソーサーに戻し、微かな音を立てないよう指先に力を込める。
落ち着きなさい、と自分に言い聞かせた。
しかし、療養中の身である自分に、なぜ今。
乱れそうになる呼吸を整え、ゆっくりと父の双眸を見つめ返した。
「それは確定したことなのですか?」
「お前の返答次第だ」
「……わたくしが選んでよいのですか?」
絞り出すような問いに、父は静かに頷いた。
かつて、わたくしの意思など一切介在せぬまま王太子妃候補に据えられた時とは、明らかに違う。
また勝手に運命を決められたのだと身構えていたのに、返答を委ねられるなど。
……一体、どういう風の吹き回しだろう。
思わず自分の耳を疑った。
何か裏があるのではないかという懸念は、どうしても拭えない。
けれど、今はその言葉をそのまま受け取っておくべきだ。
幸い、わたくしには「療養中」という大義名分がある。
この盾さえあれば、家の体面を保ったまま、いかようにも縁談を跳ね返すことができるはずだ。
即座に、拒絶の言葉を紡ごうとした。
けれど、それを遮るように父が淡々と言葉を重ねる。
「相手はフィデル伯爵家の跡継ぎだ。加えて――お前の療養が終わるのをいつまでも待つ、との意向を示している」
なんでよりによって、そこ!?
そして――お願いだから待たないで頂戴。
そんな殊勝な態度は、微塵も求めていないわ。
むしろ、最悪の展開と言ってもよかった。
「療養中につき」と一蹴するはずだったのに、相手が「いつまでも待つ」などと言い出したせいで、盤石のはずだった拒絶の盾を、文字通り粉々に叩き潰されてしまったのだ。
待たれれば待たれるほど、こちらが断るための口実が消えていく。
せっかく用意した「療養」という名の隠れ蓑を、力任せに剥ぎ取られたような気分だった。
わたくしが言葉を失い、ただ静かに見つめ返しているのを、父は「家格の低さに戸惑っている」のだと解釈したらしい。
「驚くのも無理はない。だが、フィデル家は近年、手掛けた事業がことごとく軌道に乗っている。以前とは比べものにならぬほど、王家から重用されているのだ」
お父様、見当違いも甚だしいですわ。
わたくしが驚愕したのは、なぜ格下の家との縁談を持ってきたのかという点ではない。
他でもない、その「特定の一家」の名が父の口から飛び出したことに対してなのだ。
聞けばフィデル家は、優れた事業管理能力を王家から高く評価され、正式な功績評価を受けたのだという。
爵位こそ伯爵のままであるものの、序列は上位へと食い込み、もはや無視できない存在となっていた。
かつての小領地は今や中規模へと拡大され、さらには王宮直轄地の一部の管理までもが彼らに委ねられているのだとか。
財政の安定はもとより、それに伴う発言力の増大。
もはや、勢力図の端に位置していた弱小伯爵家と侮ることなどできはしない。
王家の信頼を背負ったその躍進は、社交界の力関係を大きく塗り替えつつあるという。
――どうやら、わたくしがこの地でのんびりと療養生活を送っている間に、社交界は随分と様変わりしてしまったようだ。
それにしても……。
ディノ様の兄――フィデル伯爵家の嫡男の名前は、確か、ノーラン様だったかしら。
薄茶の波打った髪に、琥珀を思わせる黄色の瞳。
優しげな風貌ではあるが、血を分けた兄弟なだけあって、やはり彼と面差しがどこか似ていた。
遠くからその姿を数度見かけたことがあるだけで、まともに言葉を交わしたことなど一度もないはずだ。
――けれど、どうにも腑に落ちない。
詳しく知っているわけではないが、あの方にそれほど上昇志向があっただろうか。
それとも、表に出さないだけで、その胸の内では虎視眈々と上を狙っていたというのか。
そういえば以前、リリムが言っていた。
フィデル家の事業で東奔西走しているのは、ご両親とご長兄なのだ、と。
ならば、動く余力と動機があるのは――。
いくら否定しようとしても、散らばっていた疑惑の破片が形を成し、答えはひとつに収束していく。
やはり、この短期間でフィデル家を押し上げ、この縁談の主として名乗りを上げるだけの「条件」を揃えられるのは、ノーラン様しかいないのだ。
「まさか、あの男が自ら直談判に来るとはな。覚悟を語りに来たのではない。既に覚悟を決め、その上で認めさせに来たのだ。取るに足らない男と侮っていたが、その裏でどれほどの計算を巡らせていたのか……。ああいう手合いは、表に出る頃にはすでに勝ち筋を固めているものだ。ここまで鮮やかにのし上がってくるとは、完全に予想外だった」
父がこれほどまでに他人を高く評価するのを耳にするのは、極めて珍しいことだった。
無能には目もくれず、結果を出した者しか認めない。
誰に対しても等しく容赦のないあの父をここまで言わしめるとは。
人は見かけによらないものだと、わたくしはどこか他人事のように感心してしまっていた。
だが、悠長に構えている場合ではなかった。
確かにわたくしはディノ様の家族にはなりたいけれど、ノーラン様の妻になって「義姉」として収まるつもりなど毛頭ない。
しかし、ここで無下に断るのは得策ではないと思い直す。
今、下手に拒絶してしまえば、将来の義両親となるはずのフィデル伯爵夫妻の心証を悪くしてしまう。
それだけは、何としても避けなければならない。
できれば、あの方々とは良好な関係を築きたいのだ。
……とはいえ、フィデル家の次期当主たるノーラン様との縁を袖にしておきながら、あろうことか三男のディノ様を所望するなど、貴族社会においては前代未聞の不遜というもの。
そのような道理の通らぬ不始末を口にすれば、先方への侮辱となるばかりか、わたくしの評価は地を這い、正気すら疑われかねない。
「格」と「順序」を何よりも重んじるこの世界において、兄弟の間で乗り換えを画策するなど、両家の顔に泥を塗るも同然だ。
到底、周囲の納得を得られるとは思えない。
あちらを立てれば、こちらが立たぬ。
あまりにも無理筋なこの状況に、わたくしは内心で深い溜息をついた。
困りましたわね。
……さて、どうしましょうか。
父を前にして、あまり長考する時間などない。
咄嗟に脳裏を過ったのは――正面から望んで無理ならば、外堀の条件そのものを変えるしかない、ということ。
わたくしが彼を望むのではなく、フィデル家の方が彼を跡継ぎに据えざるを得ない状況を作るのよ。
例えば……兄二人がそれぞれ望む道を見つけ、跡継ぎ候補から退いていただければ、ディノ様は否応なく表舞台へと引きずり出されることになる。
もちろん、存在そのものを消し去るような野蛮な真似をするつもりはない。
そんなことをせずとも、次期当主という肩書が霞んで見えるほどの、甘く抗いがたい「何か」を差し出せばいいだけのことだ。
欲に負け、自ら進んでその席を譲るよう、穏便に退場させる。
その後はディノ様が「強いられた場所」を「選ばれた役目」だと誇れるように、ただ静かに道を作っていく。
言うまでもなく、彼一人にすべてを背負わせるつもりはない。
その隣で、わたくしも共にその重荷を分かち合う覚悟だ。
本来ならば、まず彼の心を射止めてから段階を踏みたかった。
けれど、こんなことになるなんて誰が予想できただろう?
……やむを得ない。予定変更だ。
何しろ、恋愛指南書に記された秘策の数々は、まだその多くが手付かずのまま。
……もう一度学び直し、これから気の遠くなるような時を共に過ごせば、彼がわたくしに振り向いてくれる可能性は十分にある――はず……。
必死に次の一手を練るための、一つ呼吸を置くほどの沈黙。
しかしそれは、お父様の目に「迷い」として映るには十分な時間だったようだった。
「家同士の利を説いた後で、彼はこう付け加えた。……この縁談は家のためだけではなく、お前自身への好意から望んだものだとな。あの凄まじい野心の源が、お前を手に入れたいという私欲であったなら……。ふん、それこそ私の計算違いだったということか」
いや、話した事もないのに好意を持たれても困るのだけれど。
……絶対に人違いではないかしら、それ。
「断るなら、それでも構わん。……だが、食えない男ではあるが、味方である限りこれほど頼もしい奴もいまい。ヘスティアも、交流を拒まなかっただろう。私の目から見ても、お前の嫁ぎ先として、決して悪い縁談ではないと思うがな」
――交流。
その言葉に、わたくしは思わず首を傾げそうになった。
手紙のやり取りどころか、目が合ったことがあるかすら怪しい相手なのだ。
お父様はさっきから、何を的外れなことばかり言っているのかしら。
好意。交流。嫁ぎ先。
一つひとつの単語の意味は、もちろん理解できる。
なのに、あまりの噛み合わなさに、脳が理解を拒絶していた。
一度、乱れた思考を徹底的に整理する必要がある。
まず、彼はフィデル伯爵家の跡継ぎだ。
己の足で立ち、自らの意思で進むべき道を選び取る計算高い男。
その人が、あろうことかわたくしに好意を抱いているという。
しかも、お父様の話では、いつの間にか交流まであったことになっている。
………。
……………?
――いや、本当にどういうことなの?
「……黙っているということは、不満があるのだな。ならば、この話はここで終わりだ。相手がフリードリヒの友人であることは事実だが、それは男たちの私的な付き合いに過ぎん。長男の顔を立てるために、我が家の婚姻を安売りする義務はお前にはないし、私もそれを許さん」
……あら?
お兄様に、二人目の友人が出来た……なんて、そんな奇跡みたいなこと、あるわけないわよね?
多分、ないわ。
いや、絶対ないわ!
お兄様の友人といえば、一人しか思い当たらない。
一瞬、ディノ様の顔が浮かんだ。
しかし、どうしても彼と「跡継ぎ」という大役が結びつかない。
ましてや、損得を弾くような「計算高い男」という評にいたっては、まるで別人の話を聞いているような心地がした。
わたくしの知る彼と、父が語る彼の輪郭が、どうしても重なり合わないのだ。
そもそも、フィデル家の家督継承事情など、療養地にいるわたくしが知るはずもない。
「跡継ぎ」と聞けば、当然ノーラン様のことだと思い込んでいたのだ。
だから父の話を聞いても、端から除外してしまっていた。
――落ち着いて考えてみれば。
わたくしは、早合点して最も肝心なことを問い忘れていたことに、ようやく気がついた。
「あの、その方のお名前は……?」
「ディノ・フィ――」
「――その縁談お受けします!」
父が最後まで言い終えるのを待たず、わたくしは叫ぶように答えていた。
貴族の令嬢としてのお淑やかさも、先ほどまで頭を悩ませていた数々の疑念も、すべて窓から放り投げたような勢いだった。
――お父様!
最初から名前を言ってくださいませ!
あ、危なかった。
もう少しで断ってしまうところだったわ……。
前のめりになったわたくしに、父が酷く冷めきった視線を向けているのが分かった。
わたくしは我に返り、ひとつ、わざとらしい咳払いをして姿勢を正す。
スカートの皺をそっと伸ばし、一瞬にして、いつもの淑やかな深窓の令嬢へと戻ってみせた。
「お父様、ありがとうございます。ようやく我が家の力になれる機会をいただけて、大変嬉しく思いますわ。何一つ異論はございません。喜んでお受けいたします」
それから二、三、事務的な言葉を交わして話し合いは終わり、父は翌日にここを発つことになった。
できることなら、わたくしも父と同じ馬車に飛び乗り、一刻も早く王都へ戻って彼に会いたかった。
あの父と二人きりの道中が、どれほど息苦しく気まずいものになるかは想像に難くない。
けれど、今のわたくしにとっては、その程度の苦痛など早く帰れる利点に比べれば些末なことだった。
――しかし、それとなく訴えてはみたものの、父の返答は冷淡なものだった。
医師から「正式な許可」という名のお墨付きをもらわぬ限り、この療養地から出ることは断じて許さない、と。
もどかしさに胸を焦がしながら、リリムに支えられてふわふわとした足取りで自室へと戻る。
事務的な会話の中で、父から聞いた「事の真相」を思い返す。
――あんなに最悪の事態まで想定して、気が気でなかったというのに。
ディノ様はただ、平然と実家へ戻っただけだったのだ。
文官を辞めたのも、何かの事件に巻き込まれたわけではなく、単に実家の『文書管理標準化事業』に専念するためと、次期当主としての勉強のためだったらしい。
結局、何がどうなって、なぜこんな状況になっているのか。
依然として分からないことだらけだけれど、今のわたくしには、そんなことはどうでもよかった。
重要なのは過程ではなく、結果なのだ。
何より……彼はわたくしを「家格を上げるための道具」としてではなく、一人の女性として好意を寄せてくれていたというのだから。
やはり、外遊の時の身体接触が効いたのかもしれない。
――……あの出来事は、不可抗力の事故だったのだけれど。
でも、もしもあれが本当に「一発逆転」のきっかけだったのだとしたら、運命というのは案外、したたかに生きるわたくしに味方してくれたのかもしれない。
「リリム、ディノ様から縁談が来たのよ。これって、本当に夢ではないのよね……?」
嬉しさのあまり心躍らせるわたくしに、彼女は至高の聖画を仰ぎ見るような瞳で、祈るように胸元で手を組んだ。
「夢などという、泡沫の幻影ではございません。お嬢様という天上の光を宿した絶対の引力に、フィデル卿という星があえなく囚われただけのこと」
「確かに!」
「あの日、あの御方の運命の天秤は完全に傾きました。この縁談は、彼がお嬢様という奇跡の僕となることを誓った証にございます」
「そうね……!!」
リリムが何を言っているのか、昂ぶった頭では正直全く理解できなかったが、とにかく最大級に褒められていることだけは分かったので、わたくしは力強く頷いておいた。
そうして調子に乗っているうちに、ますます幸福感が膨れ上がり、逆に現実味が持てなくなってくる。
そこでわたくしは、冗談めかして彼女に頼んでみた。
「夢か現実か確かめるために、わたくしに一発平手打ちを食らわせてくれないかしら?」
その刹那、さっきまで微笑んでいたリリムが、一瞬で真顔になった。
「……お嬢様。それが貴女様のご意志とあらば、やむを得ません」
彼女は憂いを帯びた表情で深く頷くと、あろうことかスカートの中から手早く鈍く光る暗器を取り出し、愛おしそうに撫でた。
「ですが……お嬢様の美しい顔に傷をつけた罪、この命で贖うことをお許しください」
なぜそうなるのよ。
慌てて暗器を仕舞わせた後、仕方なく自分で自分の頬を力いっぱい抓ってみると、鮮烈な熱が走った。
「痛い……。やっぱり現実なのね」
夢ではない喜びを噛み締めていた、その時だった。
「――――ッ!!!」
わたくしの赤くなった頬を見たリリムが、この世の終わりを目の当たりにしたような絶望の表情を浮かべ、声なき叫びとともにその場に崩れ落ちた。
――ちなみに彼女は倒れる直前、祝賀の前に伝授してくれた「受け身」を鮮やかに取っていた。
おかげで怪我の心配はなさそうだと安堵したものの、そのあまりの異質ぶりには、喜びも吹き飛ぶほどの驚愕を禁じ得なかった。
床に美しく、かつ戦略的に横たわる彼女を眺めているうちに、わたくしの浮ついていた心は少しだけ落ち着いた。
* * *
一夜明けて。
昨夜リリムのおかげでいくらか取り戻せたはずの冷静さは、朝の光とともにどこかへ消え去っていた。
胸の奥は相変わらず色とりどりの花が咲き乱れているかのような、甘い喜びで満たされている。
目を閉じれば、愛しいあの人の面影が浮かんでは消え、思考がどこまでも高く飛んでいってしまいそうになる。
──認めましょう。
わたくしの頭の中は、昨日から一歩も進まず「お花畑」のままだ。
だが、だからこそ一刻も早くあの人のもとへ帰らねばならない。
のんびりと夢想に浸っている時間など、一分一秒たりとも惜しかった。
あの父からの忌々しい命令……『医師のお墨付き』をもぎ取らなくてはならないのだ。
そう思い至るや否や、わたくしは逸る気持ちのままに、すぐさまドリトン先生を呼び寄せた。
まずは自分の体がどこまで回復しているのかを検査し、客観的な診断という名の通行証を手に入れるためだ。
胸の奥に咲き乱れる花畑からひとまず立ち去り、わたくしは意識を完全に落ち着かせる。
やがて診察を終えた先生は、手元の羊皮紙から顔を上げ、感銘を受けたように深く頷いた。
「驚きました。この半年間、あなたが健康的な生活を送ってこられたのがよく分かります。脈打つ力も、肌の色艶も、以前とは見違えるほどです。体内の澱みもだいぶ払拭されていますよ」
安堵で胸をなでおろすわたくしに、先生は穏やかな笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「この調子なら、婚姻まで一年以上の期間があるとしても、その頃には健康な体に戻っている可能性は高いでしょう。完治に近い状態になると見て差し支えありません」
「本当ですか?」
「ええ。よほど早くお帰りになりたいようですね。あなたのその意欲も、回復を早める要因になるかもしれません」
先生はわたくしの切実な表情を察したのか、さらさらと書状をしたため始めた。
「今の診断結果と、婚姻時までに完治の見込みであることを、私の方からも侯爵閣下に詳しく書き記してお送りしておきます。これなら閣下も、安心してお迎えの準備ができるでしょう」
窓の外の青空を見上げながら、わたくしはまだ見ぬ再会の日を想う。
あの人のもとへ、帰る日は、もうすぐそこまで来ている。
荷造りを終えた部屋は、来た時よりも広く、どこか他人の場所のように冷えて見えた。
お世話になったドリトン先生、品物を融通してくれたキリク、そしていつも笑顔で迎えてくれたラトナ。
一人ひとりに別れの挨拶を済ませると、この地で過ごした日々の重みが改めて胸に迫る。
この半年間、ここでは新しい挑戦と発見の連続だった。
貴族としての義務も、型に嵌まった儀礼もない。
ただ一人の人間として呼吸し、笑い、驚く。
そんな夢のような日々が、今日で終わる。
王都に戻れば、再びあの息苦しい社交界と、仮面を被るような日常が待っているだろう。
けれど、不思議と足取りは重くならなかった。
愛する人のもとへ帰れるのなら、不自由な鎖など羽のように軽い。
――きっと、すべてがうまくいく。
自分に言い聞かせるように小さく呟き、わたくしは一度だけ思い出の詰まった屋敷を振り返ってから、馬車へと乗り込んだ。




