届かぬ便り、その意味は
滞在期間はわずか一日。
それなのに、あの日の記憶は、数日経った今もなお、わたくしの心を支配し続けている。
ふとした瞬間に、不意を突くような深い感傷が押し寄せる。
静まり返った屋敷の中で独り、あの騒がしくも温かな光に満ちた時間へ戻りたいと、叶わぬ願いを抱いてしまった。
そんな余韻に浸る日々は、しばらく続いた。
このままでは胸が塞いでしまう。
わたくしは気を紛らわせるため、些末な用事を口実に商会へと足を運んだ。
重い扉を押し開くと、使い込まれた木製家具の匂いと、運び込まれたばかりなのか瑞々しい花の香りが混じり合いながら鼻腔をくすぐった。
大きな机の隅では、ラトナが色とりどりの花を手際よく選別していた。
顔を上げた彼女は、こちらに気づくと、親しみを感じさせる柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。顔を見るのは、この前の逢瀬の時以来ね」
その言葉に、わたくしは思わず足を止めた。
あれはあくまで仕事に関わる案内という口実だったはずだ。
けれど、端から見れば逢瀬のように映っていたのだろうか。
胸の奥に灯った微かな嬉しさと、それを上回るほどの気恥ずかしさ。
少し揶揄われたような心持ちで、言い返す言葉を探そうとした、その時。
わたくしが完全に返答に窮しているのを察したのだろう。
その沈黙と気まずい空気を面白がるように、傍らのキリクが面白がるように肩を揺らした。
それまで例の立派な花瓶を丁寧に拭き上げていた彼は、ふと手を止める。
何かを思いついたかのように、ゆっくりと、こちらへ視線を向ける。
「……そういえば、ずっと気になっていたんですけど、一体何がきっかけで、俺らが夫婦だと分かったんです?」
彼の声には、自分たちの関係を鮮やかに言い当てられたことを、どこか愉しんでいるような響きが混じっている。
隠していたわけではなく、ただ言う機会を逃していただけの彼らにとって、それは愉快な答え合わせなのだろう。
わたくしはゆっくりと二人の正面まで進み、その問いに対する答えを胸の中で一度反芻してから、口を開いた。
あれほど体調を崩していたラトナは、見違えるほど元気になっている。
ゆったりとした長衣に体の線は隠れているものの、ふとした仕草にどこか慎重さが混じるのが気にかかった。
――もしや、と思う。
彼女はあのとき、ローズヒップティーしか口にせず、薬草の焼き菓子にも手をつけなかった。
すべてではないにせよ、妊娠初期には避けたほうがよいハーブも多い。
血の巡りを促しすぎるものは、ときに身体へ負担をかけることがあるからだ。
とりわけ濃く煎じたものは尚更である。
そう考えれば、あの体調不良も病ではなく――悪阻だったと見るほうが自然だ。
だとすれば、相手など考えるまでもない。
思い当たる人物は、ひとりしかいなかった。
キリクの指にあった金の指輪。
手のひら側に隠されていた印章は、ローズ・クォーツ。
対して、ラトナの左足首にはペリドットのアンクレット。
どちらも、互いの瞳の色だ。
左足首の装飾は、魔除けと――特定の相手の存在を示すものでもある。
さらに、キリクの横髪の飾りと、ラトナの袖の下に隠されていた腕輪は、同じ意匠で揃えられていた。
ラトナは、本来であれば過剰に庇護を必要とするような人物ではない。
それでもキリクがあれほど気を配っていた理由を思えば、守ろうとしていたのが彼女ひとりではないと考える方が腑に落ちる。
思い返せば、言葉の端々にもわずかな違和感はあった。
けれどわたくしたちが勝手に思い込んでいただけだ。
彼らは確かに「家族」とは言っていたが――兄妹だとは、一度も口にしていない。
「お見事ですね」
その言葉に、わずかに肩の力が抜ける。
……どうやら、見立ては当たっていたらしい。
わたくしは満足げに目を細めて一つ頷くと、自分の商品を選ぶついでに、棚に並ぶつがいの燭台を示した。
「――では、この品を。それと、あちらの木彫りの燭台も二つ、別々に包んでいただけますか?」
控えていたリリムが手際よく代金を支払い、包みが整えられるのを待つ。
彼女が荷物を受け取ろうとするよりも先に、わたくしは丁寧に彫り込みがなされた一対の燭台だけを、そのまま机の向こう側へと押し戻した。
「二人の家を明るく照らす一助に。……末永く、お幸せに」
意図を察した二人は、一瞬驚いたように目を見開いた。
それから、どちらからともなく顔を見合わせて、少し照れくさそうに笑った。
その帰り道、胸の内には不思議な充足感が残っていた。
誰かの幸せを祝えたことが、なぜだか自分のことのように嬉しかった。
* * *
それからというもの、あの日、ディノ様が選んでくれた茶匙を眺めるのが、いつの間にか習慣になっていた。
銀色の光沢を瞳に映すたび、記憶は鮮やかにあの時間へと引き戻される。
その余韻をかき消さないよう、わたくしは祈るような心地で茶葉を混ぜ合わせた。
彼を想いながら、一さじずつ丁寧に。
創作する調合茶には、以前よりもずっと、熱がこもるようになっていた。
手紙の遣り取りもしていた。
他愛もない日々の報告ばかりだったが、それでも彼の筆跡を見るたびに、胸の奥が温かくなった。
――だからこそ、それが途絶えたときの違和感は、あまりにも大きかった。
外遊から二ヶ月ほど経った頃、これまでは二週間に一度ほどの頻度で受け取っていたディノ様からの便りが届かなくなって、わたくしの心には不安が兆し始めた。
かといって、返事も待たずに手紙を重ねるのも淑女として気が引ける。
いっそお兄様に状況を尋ねるべきかと考えもしたが、すぐさまその思考を打ち消した。
あの人が、妹の切実な問いにまともな答えを返してくれるはずがない。
返答の代わりに届くのは、「なぜそれを知る必要があるのか」、「どういう意図があるのか」、といった詰問と論理の羅列に違いないのだ。
かといって王女殿下やクリスタ様に近況を聞くのも不自然すぎる。
――もしかして、最も恐れていたことが現実になったのではないか。
華やかな王都で、彼は新しい恋に落ちたのかもしれない。
遠い療養地にいるわたくしのことなど、とうに忘れてしまうほど魅力的な誰かと……。
一度抱いた疑念は、夜の帳のように音もなく、心を浸食していった。
そんな八方塞がりのわたくしに、リリムは言い淀み、済まなそうに視線を落とした。
指先を組み替え、何かを打ち明けるべきか深く悩んだ末に、ようやく重い口を開く。
「実は外遊の折、王女付きの侍女の一人と……『賄賂』という名の交友を深めておりまして」
それは、ずいぶんと悲しい友情ね……。
「万一の際は報せるよう、それなりのものを握らせておいたのですが、彼女の立場では詳細までは掴めなかったようです。ですが、文面には一つだけ。――フィデル卿はすでに、文官の職を辞しているとのことです」
「辞めた……? どういうこと?」
驚きに目を見開くわたくしに、彼女はさらに申し訳なさそうに肩を落とした。
「それさえも、不明なのです。なぜ辞めたのか、今はどこにいるのかすら……。このような中途半端な情報では、お嬢様を余計に混乱させてしまうかと思い、今日まで黙っておりました。お力になれず、本当に申し訳ございません」
王宮を離れる理由など、そう多くはない。
少なくとも、何の前触れもなく選ぶようなものではないはずだ。
では、なぜ、彼は辞めてしまったのだろう。
王宮文官という職は、誰もが羨むほどの安定と高額な給金が約束されている。
もし守るべき恋人ができたのだとすれば、その肩書きは手放しがたいはずだ。
――まさか、どこかの裕福なマダムの元へ身を寄せ、働く必要すらなくなってしまったのだろうか。
すっかり迷走し始めたこの胸の内をリリムに打ち明けてみると、彼女は酷く真面目な顔で首を横に振った。
「お嬢様……勉強を重ねてなお、行き着く先がそこでございますか。マダムに飼われる殿方は経済の話などなさいません。……多分。彼女たちが望まれるのは、景気の変動に左右されない『変わらぬ美貌』と適度な愚かさ……失礼、『純真さ』だけでございます」
「それはそれで初耳だわ……」
もう、これは当事者あるいは事情を知る者にでも聞かない限り、いくら頭を捻ったところで正解には行き着きそうにない。
それでも結局、頭に浮かぶのはディノ様のことばかり。
以前目にした恋愛指南書の「駆け引き」という言葉が、今の状況にあまりに合致していて笑えなかった。
確か、そこにはこう記されていたはずだ。
急に素っ気なくすることで、相手は「なぜ態度を変えたのか」と理由を探し始め、あなたのことを考える時間を強制的に持たされる。
人は手に入らないと思うものほど執着し、そのことばかりを考えてしまうもの。
こうして相手が勝手に不安を募らせる時、あなたの存在感はかつてないほど膨れ上がります。
沈黙は、どんな愛の言葉よりも強く、あなたの存在を相手に刻みつけるのです。
まさに今、自分はこの状態だ。
彼という存在はかつてないほど巨大に膨れ上がり、わたくしは自身の想いの深さを嫌というほど思い知らされていた。
けれど、彼が計算でこんな駆け引きを仕掛けているとは到底思えない。
心配と不安で手元はおろそかになり、淹れる茶はいつしか、最初の頃のような不味いものに戻っていた。
行方も知れぬ彼を想い、数えるのを諦めるほどのため息を吐いては、ただ空白を眺める時間ばかりが増えていく。
そんな折――
ふいに、脳内で何かがぷつりと切れた。
そして何を血迷ったか、今ここにはいない父と兄の姿が脳裏に浮かび――何の脈絡もないはずなのに、「余計なことを言うな!」という言葉と共に、その頬へ渾身の平手打ちを叩き込んでやりたい衝動に駆られた。
………。
い、一度落ち着きなさい。わたくし……。
こんな理不尽極まりない八つ当たりを思いつくなんて、大分気が滅入っている。
いえ、情緒不安定かしら……。
ここまで一人のことで思い乱されるなど、これまでのわたくしにはなかったことだ。
それから十日という月日が流れ、いつまでも塞ぎ込んでウジウジしているのは自分らしくない、とようやく前を向き始めた頃だった。
こうなれば一度、身を隠すようにして王都へ戻り、自らの手で情報を集めるべきではないかしら。
そうやって具体的な計画を巡らせていた矢先のこと、「お手紙が届きました」という朗報が、わたくしの元へ舞い込んできた。
もしかして……!
弾む鼓動を抑えきれず、淡い期待を胸に差し出された書面へ視線を落とす。
けれど、そこに記されていた差出人の名は——お父様からだった。
期待が大きかった分、指先に込めた力が紙をくしゃりと歪ませる。
思わずその場に叩きつけたい衝動に駆られたが、辛うじて理性がそれを踏みとどまらせた。
それにしても、お父様から手紙など珍しいこともあるものだ。
訝しみながら封を切ると、そこには父自らがこの療養地を訪ねてくるという、予想だにしない一筆があった。
ドリトン先生からの診察結果は定期的に届いているはずなのに、それ以外に一体何を確認しに来るというのだろう。
拭いきれない疑問とともに、じわじわと不穏な気配が胸を侵していく。
静かに過ぎていたはずの日々が、再び動き出そうとしている。
――そんな予感がしてならなかった。




