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不測の連鎖

楽しかった時間はまたたく間に過ぎ、気づけば空は燃えるような茜色に染まっていた。

石畳の上には、長く伸びたわたくしとディノ様の影が、寄り添うように静かに並んでいる。


「もう、こんな時間なのですね」


ぽつりと溢れた独り言に応えるように、街灯がひとつ、またひとつと瞬き始めた。

淡い光が、夕闇に沈みゆく街並みを優しく包み込んでいく。


「そういえば、手紙に書いていた『よく通っている店』のこと。ずっと気になっていたんだ」


以前送った近況報告の中で、わたくしはその店のことを「用事があってもなくても、ふらりと寄ってしまう不思議な場所」と書き添えたはずだ。

自作の調合茶を置かせてもらっていることも。


「でしたら、行ってみましょうか」


わたくしの提案に彼が頷く。

一日の締めくくりに、慣れ親しんだ「水鏡の天秤商会」へと赴くことにした。

まだこの場所を知らない彼を導くように、一歩前へ。

夕陽に照らされ、黄金色に縁取られた道を、二人の足音が軽やかに刻んでいった。


やがて見えてきた木製のドアに手をかけ、ゆっくりと押し開いた。

夕闇に沈む外の世界とは対照的に、中は柔らかなランプの光に満たされ、磨き上げられた陳列棚や不思議な薫香の漂いが二人を迎えた。


「いらっしゃいませ」


男女の声が重なり、店内に響いた。

磨き上げられた陳列棚の向こう、机の奥にはキリクが座っていた。


「外回りは終わったのですか?」


わたくしが声をかけると、彼は手元の帳簿を脇へ避け、わずかな疲労の滲む、けれど柔らかな笑みを浮かべた。


「ええ。つい先ほど、戻ってきたところですよ」


傍らでは、商品を並べ終えたラトナが満足そうに頷き、こちらを振り返る。

あの時、あれほど顔色を悪くしていたのが嘘のように、今の彼女はすっかり活力を取り戻し、弾むような足取りで働いている。

……病にしては、あまりにも回復が早すぎるのではないかしら。

単なる一時的な体調不良というよりは、まるで――。


その先を考えがまとまるより早く、キリクとラトナの視線が、わたくしと……隣に立つディノ様を交互に見比べた。

初めて見る「連れの男性」という存在に、彼らの瞳には隠しきれない驚きと好奇の色が混じる。

やがて二人の視線は、わたくしの背後――入り口付近に控えるリリムへと向けられた。

わたくしの位置からでは、彼女がどのような表情を浮かべ、どんな合図を送ったのかは窺い知れない。

けれど、それを受けた二人の反応はあまりにも分かりやすいものだった。

含み笑いを堪えきれないといった様子で、その口角が、あからさまに吊り上がったのだ。


彼らには以前、ディノ様への想い――この片思いについて、相談や助言を仰いだことがある。

すべてを察してニヤニヤと笑うその表情に、わたくしはどうしようもなく居た堪れない心地になった。


「同僚に土産を買って帰ろうと思うんだけど、日持ちのするもので、おすすめはあるかな?」


棚に並んだものを見ながら、彼が尋ねた。

問いかけられたラトナは、待ってましたと言わんばかりに、自信に満ちた笑みを浮かべて答えた。


「それだったら、お嬢サマの調合茶はどう? 売れ行きも好調で、当店の人気商品だよ! 贈り物用には、小さな布袋もつけるよ」


勢いよく差し出されたのは、乾燥させた茶葉を包み、密封したものだ。

キリクに散々ダメ出しをされ、厳しい言葉を投げつけられながら、何度も配合を練り直した試行錯誤の結晶。

それが今、こうして誰かへの贈り物として勧められている。


「お茶は良いかも。美味しかったし」


「……でしたら、家にあるものをいくらでも渡しますのに。ここで買わずとも、わたくしの手元にはまだ在庫がありますわ」


納得したように頷く彼を見て、わたくしは思わず口を挟んでいた。

しばらく会っていなかった彼に、自分の苦労の結果を「買わせる」のが、なんだか気恥ずかしかったのだ。

けれど彼は、優しく、それでいてはっきりと首を振った。


「これも一種の経済貢献だよ。それに……買ったほうが、巡り巡って君の懐も温まる。悪い話じゃないよね?」


彼はラトナから差し出された紙包みを、壊れ物を扱うような手つきで受け取った。


「誰かが対価を払って買うからこそ、また次の新しいものが作れるんだ。ヘスティア嬢がこれからも楽しく続けていけるように、今は一人の客として応援させてほしいな」


虚を突かれたように瞬きを繰り返し、わたくしは困ったように頬を緩めた。

この茶葉を仕上げるために、どれほどの時間を費やし、情熱を注いできたか。彼はその過程を知らないはずだ。


それなのに、目の前の品物とわたくしの佇まいから、これを無償で受け取るべきではないと察している。

一人の客として正当な対価を払うことが、作り手への敬意なのだと考えてくれているのだろう。

彼のこういう真っ直ぐな気遣いには、どうしても敵いそうになかった。


三つ購入して代金を支払うと、キリクは品物を包んでディノ様に手渡した。


「購入ありがとうございます。ところで――」


わたくしと目が合った瞬間、その瞳が悪戯っぽく細められる。

キリクは唇の端をわずかに吊り上げ、彼に勝ち誇ったような、どこか意味深な微笑を浮かべた。

その立ち居振る舞いは、まるでわたくしとの間に深い秘め事があるかのように、どこか含みを持たせるような仕草だった。


「お嬢様とは、この三ヶ月程で随分と心だけでなく物理的な距離も縮まったんですよ。だけど、あんなに真剣に、俺と運命を共にする覚悟を語られるとは思わなかったな」


……え?


一瞬、思考が真っ白に染まった。

耳に届いた言葉の意味が、うまく脳に浸透してこない。


運命を共にする?

誰と、誰が?


キリクはわたくしの戸惑いなどお構いなしに、芝居がかった手つきで自身の胸に手を当て、愉悦を隠そうともせずに目を細めた。


「しかも、熱に浮かされたような目で見つめられましたし……ね?」


「ちょっと待ってくださいまし」


……何を言っているのか、分からない。

けれど――“誤解されかねない言い方”だということだけは分かった。


キリクの奇妙な発言を、ディノ様はいつもの笑みで受け流しているように見える。

だが、その微笑の裏側にある真意が読めないことが、かえってこちらの不安を鋭く掻き立てた。

彼が内心でこの戯言をどう咀嚼したのかは分からない。

けれど、万が一にでも「あらぬ誤解」をされていたら……そう思うと、途端に生きた心地がしなくなった。


「そのような言い方は感心しません。ラトナが傷つくでしょう。ディノ様、この二人は夫婦です」


すると、店内の空気がぴたりと止まり、その場にいた全員が意外そうに目を見開いた。

何もその場しのぎの出鱈目を口にしたわけではない。確信とまではいかずとも、積み重ねてきた違和感という名の根拠は十分にあった。


「え、そうなの……?」


ディノ様の声に、これまでにない戸惑い混じる。

すると、それまで余裕綽々だったキリクが、ガリガリと乱暴に頭をかきながら視線を泳がせた。


「……バラすの早すぎません?」


よりによって今、言い当てられるとは思ってもみなかったのだろう。

その隠しきれない困惑ぶりが、わたくしの指摘が事実であることを何より雄弁に示していた。


「従兄妹だから髪色とか面影がちょっと似てて、昔から一緒にいたので夫婦らしさがないんですよ。だから兄妹に間違われるんですけど……よくわかりましたね」


「隠してたわけじゃなくて言う機会を逃しただけなのよ」


二人の言葉が、わたくしの推測に確かな終止符を打った。

……やはり、そういうことのようだ。

悠々自適に暮らしていたが、まだ観察眼は衰えていないようですわ。

これでディノ様の誤解も解けただろうし、この件に関する詳しい「答え合わせ」は、また後日、改めて二人と行いましょう。


満足げにそう締めくくろうとした、その時だった。

わたくしの思考の片隅に、先ほどのキリクの「奇妙な物いい」が不意に浮上した。

そしてその発言にようやく、思い当たる。


……いや、待って。

キリクの言葉が、過去のやり取りを無理やり掘り返してくる。

記憶の糸を辿れば辿るほど、冷や汗が背中を伝う。

あの時、多少それらしい言い回しはした覚えがあるけれど――


もしかして、調合茶の委託販売のやりとり、かしら。

正確に言うならば、キリク個人と運命を共にする覚悟ではなくキリクの商会、だけれど。


そして熱に浮かされたような目とは……おそらく、“指南書の実践”のときのことだわ。

……よりにもよって、こんな形で拾われるなんて。


わたくしは決して忘れておりませんわ。

あの時、貴方はわたくしの戦技を「可愛い」などと――あからさまに馬鹿にして笑いましたわよね?


しかし、二人は物言いたげな眼差しを向けてくる。

彼らが何を思い、何を企んでいたのか、その真意さえ理解できぬまま、用件を終えたわたくしたちは店を後にすることにした。

いざ扉へと足を向けた、その時。


「そういえば――」


背後から投げかけられたラトナの声に、わたくしたちは足を止め振り返った。


「さっき見知らぬ強面の黒服男が、天使のような可愛らしい美少女を無理やり引っ張っていくのを見たのよ。あれ、絶対に人攫いよ!」


その特徴には、どこか見覚えがあった――

まさか、お兄様と王女殿下では……!?


「でも安心して、警邏隊には伝えておいたから! 基本的には平和な街だけど、用心するに越したことはないもんね。お嬢サマも、気をつけて帰ってね!」


脳裏をよぎったのは、兄が、不慣れな手つきで王女殿下をエスコートしていた姿だった。

衝撃のあまり立ち尽くすわたくしの横で、ディノ様はこらえきれないといった様子で肩を揺らし始めた。


「あはは、ヘスティア嬢の予想通り本当に間違われてる!」


彼はわたくしの混乱をよそに、災難な兄の境遇を楽しそうに笑っていた。

まあ、護衛もいるし大事にはならないって言ってたものね。

大丈夫よね。……多分。


店を後にすると、扉を開けて待っていたリリムが、周囲に聞こえないよう声を落として話しかけてきた。


「キリク殿も、せっかくフィデル卿の反応を見ようとしておりましたのに……。お嬢様の手際が良すぎて、確かめる間もありませんでしたね」


その言葉に、ようやく合点がいった。

あの場に漂っていた、あの何とも言えない空気。

二人が向けてきた呆れ顔の理由を。


……失敗いたしましたわ。

ディノ様の本心、その一端でも知るための絶好の機会を、わたくしは自ら叩き潰してしまったのだ。

落胆のあまり、視界が地面へと落ちる。

もし時間を巻き戻せるのなら、自らの観察眼に酔いしれて真実を突きつけた、あの「したり顔」の自分を今すぐ黙らせたかった。


帰路を歩む足取りは重い。

まだディノ様との距離を詰め切れていない事実に、内心焦燥感ばかりが募っていく。


もう「はしたない」などと、悠長なことは言っていられない。

……こうなれば、指南書が説く「一発逆転の身体接触」に賭けるしかない。

胸を押し当てるのは難易度が高すぎる。

けれど、腕に少し触れる程度なら、不慮の事故を装えば不自然ではないはずだ。

そう意を決して一歩を踏み出した、その瞬間だった。


運命の悪戯か、歩き慣れたはずの石畳にわずかな歪みがあった。

意識を前方へ、そして「いかに自然に触れるか」という一点に集中させていたせいで、足元への注意が完全に欠落する。


「薄暗くなってきたから足元に――」


折しも、彼が注意を促そうとこちらを振り向いた。

間が良かったのか、それとも最悪だったのか。


「……っ!?」


人は驚きすぎると声が出なくなるというのは、どうやら本当らしい。

制御を失った身体は、抗う術もなく彼の正面へと突っ込んでいた。

ドサリ、という重い衝撃が全身を駆け抜ける。


鼻腔をくすぐる清涼な彼の香りと、ぶつかった箇所から伝わる熱。

細身に見えるけど、わたくしの勢いにわずかによろめきながらも、ぐっと足を踏み込んでその場に踏みとどまった。

反射的に閉じていた目を開けると、視界は上着の生地で塗り潰されている。

彼は何か言いかけて、結局口を閉ざした。


……なんてこと。

これでは、唐突に抱きついた痴女ではないかしら。

淑女として、終わりましたわ……。


以前、不届きにも「その胸に飛び込んで頬ずりしてみたい」などという妄想を抱いたことがあった。

これはその罰が当たったのだろうか。

あまりにも最悪な形で半分だけ願望が叶ってしまった。


あまりの衝撃に頭の中が真っ白になり、理性がどこかへ吹き飛んでしまったのだろう。

わたくしは壊れた人形のように、無意識のうちにその胸板――正確に言えば鎖骨の辺りへと、頬を擦り寄せていた。


いいえ、どうせ痴女扱いされるのであれば、中途半端に身を引くなど淑女の恥。

これが最後になるかもしれないのだから、今のうちに堪能しておきましょう。

今のわたくしには、もう失うものも怖いものもございませんもの……。


現実逃避――という名の暴走を続けていると、彼はビクッと肩を跳ね上げ、やがてゆっくりと、降伏を告げるように両手を上げた。

少し離れた場所で無表情で立ち尽くすリリムにチラチラと視線を向け、一切の無実を訴えるその所作には、「自分からは触れていない」という必死の弁明が滲んでいる。

気まずそうに視線を泳がせるその顔が、赤く見えるのは夕日のせいだろうか。


「え、えーっと……。もしかして、躓いた?」


その困惑した声で、ようやく我に返った。

自分がまだ彼に密着していたことに気づき、弾かれたように身を引く。

彼もまた、ようやく危機を脱したとばかりに安堵した様子で腕を下ろした。


「……は、はい。申し訳ございません。お恥ずかしいところを……。事故、ですものね。ええ、そうですわ、事故……」


突然飛び込んだだけでなく、その後にしでかした自分でも理解不能な奇行。

それらすべてを「不可抗力の事故」という箱に押し込めるべく、必死に言葉を重ねる。

……どれほど無理があろうとも、そうしてもらわねばわたくしの命運が尽きるのだ。


「……うん、事故、だね」


幸いにも、彼はそれ以上問いかけてこなかった。

本当は、腕に少し触れる程度で十分だったはずなのに。

なぜあんな暴挙に出てしまったのか。

わたくしは真っ赤になっているであろう顔を隠すように視線を足元へ落とした。

彼の温もりが消えなくて、令嬢としての作法も落ち着きも、すべてが指先からこぼれ落ちていく。

激しい動揺を悟られぬよう、平静を装って髪を耳にかけたものの、その指先は微かに震えていた。


──思い返せば、先ほどまで彼の胸に押し当てていた耳の奥には、今もまだ、あの早鐘のような心音がこびりついて離れない。

それが聞き間違いではなかったと確かめる術は、今のわたくしにはなさそうだった。


彼の本心ひとつ読み解けない己の未熟さに、目眩がする。

殿方との駆け引きなど、とうに「恋愛の達人」にでもなったような心算でいたのに……。

文字の上で学んだ数々の技術は、本物の恋を前にしては何の役にも立たないのだと、今さらながら、痛いほどに思い知らされた。


 * * *


家に帰ると、兄と王女殿下の姿はまだなかった。

応接室には、わたくしと、ディノ様。

そして、影のように控えるリリムの三人だけ。

心を落ち着かせるようにお茶を手に取り、そっと口に運ぶ。

湯気の向こう側で、先ほどまでの出来事が何度も頭をよぎり、カップを握る指先に思わず力が入った。

伝えたい言葉や、整理のつかない感情が溢れ出しそうになるけれど――上手く整えて、普段通りにしなくては。

わたくしはその熱を帯びた感情に、幾重もの鍵をかけて心の奥底に封じ込めた。

そうしてようやく、心は凪いだはずだった。


「ただいま、戻りましたわ。そして、見てくださいませ!」


しかし、応接室の扉が開いた瞬間、その安寧はあっけなく崩れ去る。

現れた王女殿下に促され兄が後から足を踏み入れた。

並び立つ二人の姿が視界に入った瞬間、わたくしの心は先ほどとは違う意味で激しくざわめき始めた。


兄の装いは、一言で言えば「惨事」だった。

いつもの洗練された漆黒の貴族服。

そこまでは……まあ、良い。

しかし、その頭上には純白の中折れ帽子が場違いに鎮座し、首元には猛獣の牙を鎖で繋いだ野性味溢れるネックレスが揺れている。

さらに、肩に羽織った毛皮の上から、金属の鋲がびっしりと打ち付けられた無骨な飾帯を力任せに締め上げるという、あまりに「あべこべ」な重装備。


に、似合わない……!

野性的な裏社会の頭目みたいになってます……!


何より、すべてを諦めて虚無を宿した兄の表情が、見る者の腹筋を容赦なく刺激する。


「黒一色は味気ないかと思いまして、わたしなりに趣向を凝らしてみましたの。いかがかしら?」


満足げに胸を張る王女殿下。

どうやら彼女は、あまりに独創的すぎる感性をお持ちのようだ。

けれど、ここで笑うわけにはいかない。

それは国家規模の不敬にあたる。


ふと横を見れば、控えるリリムは自身の手の甲を強く抓って明後日の方向を見つめている。

一方のディノ様は、肩を小刻みに震わせながら、上がっていく口元を必死に横へ引き伸ばして不自然な咳払いを繰り返していた。

わたくしは、これ以上兄を直視すれば理性が死ぬと悟り、薄目を開けて遥か遠くの壁の一点を見つめる。


「と、とっても……ふっ、お似合い……です……あははっ!」


完全に笑ってますわよ、ディノ様。

もう一度大きな咳払いをして必死に誤魔化している彼を、わたくしも言葉を添えて手助けしたい。

けれど、人の心配ばかりしていられる状況でもなかった。

今この唇を開けば、間違いなく彼の二の舞になる。

兄のすべてが、全方位からわたくしを総攻撃してくる。

この場に留まることは、もはや限界だった。


「お、お花を摘みに行ってまいります……!」


わたくしは両手で顔を覆い、脱兎のごとく部屋を飛び出した。

これは逃げではない。

尊厳を守るための戦略的撤退である。


自室に駆け込み、枕に顔を埋めてひとしきり笑い転げる。

ふと考えてみれば、かつて王太子妃候補として血の滲むような教育を受けていた頃のわたくしなら、これくらいの事態、鉄の意志で微笑みを貫けたはずなのだ。


……心が、緩みきってしまったのかしら。

あの頃の緊張感は、今のわたくしにはもうない。

穏やかな日々が、淑女としての仮面をこれほどまでに脆くしてしまったのだ。

いや、単にお兄様のあの格好が破壊的すぎただけかもしれないけれど。


ようやく息を整え、仰向けになって天井を仰ぐ。

それにしても、いつもの兄は、まるでお通夜にでも行くかのような全身黒ずくめの装いだ。

妹のわたくしから見ても、正直に申し上げて華がない。

何よりその格好のせいで、元々鋭い目つきの威圧感に拍車がかかってしまっている。


もし、あのように独創的な感性を持つ王女殿下が側にいてくださるのなら――お兄様の喪服のような衣装に、多少なりとも鮮やかな色合いが加わる日も、そう遠くはない……のかもしれない。


しばらくして、扉を叩く音が響いた。

迎えに来たリリムの顔は、驚くほど晴れやかで、まるで憑き物が落ちたかのような清々しさを湛えている。


「お嬢様、若旦那様は通常の装いに戻られました。フィデル卿が上手く場を整えてくれましたので、もう応接室に戻られても問題ございません」


あの凄惨な現場に最後まで残り、あまつさえ王女殿下の機嫌を損ねずに着替えの段取りまでつけるとは……。

ディノ様に対する尊敬の念が、一段と強まっていくのを感じる。

彼の心を射止めねばならぬ身でありながら、募っていくのは、わたくしから彼への好意ばかりである。

……前途多難だわ。


その後、わたくしは何食わぬ顔で茶を運ぶリリムと共に応接室へ帰還した。

そこには、いつもより心なしか険しい表情を浮かべた兄の姿があったけれど、わたくしたちは先程の話には一切触れないという暗黙の了解のもと、穏やかな茶会を再開した。

普段の漆黒に包まれた兄の姿に、これほど安心感を覚える日が来るとは……。

ひとときの歓談を楽しんだ後、わたくしたちはようやく、各自割り当てられた部屋へと戻ったのである。


予想外の出来事がいくつかあったけれど、それでも――。

間違いなく、人生で一番幸せな日だったわ。

胸の奥に残る温かな残り火を愛しむように、わたくしはそっと目を閉じる。


――そういえば。


ディノ様は今、この屋敷の一階下の客室に滞在している。

つまり、わたくしたちは今まさに「一つ屋根の下」で夜を明かそうとしているのではないかしら。

ネグリジェ姿のまま偶然を装って会い、彼の動揺を誘う……なんて作戦も一瞬頭をよぎったけれど、即座に打ち消した。

いつ現れるかも知れない彼を捕まえるために、夜の廊下をうろつくなんて、それではただの不審者だ。

恋を叶える前に、人としての尊厳を失うわけにはいかない。

わたくしは溜息をついて、浮ついた考えを振り払った。


夜も更けた頃、控えめなノックの音に扉を開けると、そこには廊下の灯りに縁取られた王女殿下が立っていた。


「寝る前に少しお話ししませんこと? あなたとお会いできたら、お手紙には書けなかったことを沢山語り合いたいと、ずっと楽しみにしておりましたの」


「ええ、喜んで。ちょうどわたくしも、もう少しお話ししたいと思っておりましたの」


快く招き入れると、彼女はふわりとドレスを揺らして椅子に腰を下ろし、小さくため息をついた。


王女殿下は、わたくしが穏やかに過ごしているようで心から安堵した、と慈しむような眼差しで告げた。

それから、以前よりもクリスタ様と仲睦まじくされているというお話を聞き、わたくしまで自分のことのように嬉しくなってしまう。


兄との療養地での散策は、三度も姿を現した警邏隊によって、いささか騒がしいものとなったらしい。

……まさか、手配していたのがラトナだけではなかったなんて。


そうして旅の思い出話に花が咲き始めた頃、不意に心臓に悪い話題が飛び出した。


「道中、フィデル卿からフリードリヒ様のことを詳しく伺いましたの。そのうえ、ずいぶんと細やかな気遣いも受けまして……」


まあ、流石はディノ様。

その振る舞いが容易に目に浮かぶようですわ。


「もし、わたしに婚約者がいなかったら、うっかりフィデル卿に惚れてしまうところでしたわ」


それだけは、それだけは駄目です!

お兄様でどうか我慢してください……!


喉元まで出かかった叫びを飲み込み、思わず身を乗り出しそうになったわたくしを見て、王女殿下は悪戯っぽく微笑んだ。


「ふふ、冗談ですわよ?」


その後は、最近読んだお勧めの本の感想や、他愛もない雑談に時を忘れた。

ひとしきり笑い合った後、王女殿下は満足そうに「また明日」と告げて、軽やかな足取りで自身の部屋へと戻っていった。


翌日、賑やかだった三人がいよいよ帰路に就くことになった。

つい先ほどまで邸を満たしていた喧騒が消え、胸の奥には冷たい風が吹き抜けるような寂しさが残る。

名残惜しく挨拶を交わしていると、ふいに兄が、わたくしの顔をじっと覗き込んできた。

何事だろうと首を傾げた刹那、彼は事もなげにこう言ったのだ。


「お前、丸くなったな」


……は?


その言葉に、わたくしの全身が凍りついた。

……確かに、心当たりはある。

王太子妃候補だった頃は、美貌を保つためという名目のもと、食事制限を課せられていた。

けれど、この地に来てからは出される食事がどれも美味しくて、毎回完食してしまっていたのだ。

明らかに摂取量は増えている。

自覚がないわけではない。


けれど……!

それを、よりによってこの別れの瞬間に指摘するなんて、あまりに配慮というものが欠落しているのではないだろうか。


「あ、あら……お兄様ったら……ふふ、ふ……」


引き攣りそうになる口角を必死に抑えていると、横からディノ様が慌てて割って入った。


「あ、いや! 今のはその、雰囲気が穏やかになったという意味で、決して容姿の肉付きを言ったわけでは……!」


……やっぱり、この人は優しい。

そういうところが、ずるい。


必死に弁解してくれる彼に対し、失言の主である兄は、何が不味かったのかを理解する気すらないようで、未だにわたくしをジロジロと観察している。

そのあまりの不躾さに、呆れを通り越して、取りなそうとしてくれたディノ様に申し訳なさを感じてしまうほどだった。


やがて三人を乗せた馬車が動き出す。

先ほどの無遠慮な言葉の余韻で、胸に残っていた寂しさは、いつの間にか形を変えていた。

わたくしはその姿が見えなくなるまで、静まり返り始めた空の下で見送り続けた。

この寂しさこそが、彼らと共に過ごした時間が本物であった証なのだと、自分に言い聞かせながら。


――余談ですが。

例の「仲良くなる絵本」を、お兄様に手渡そうとすると、叩き落とされる可能性があるので、荷物にそっと紛れ込ませておいた。

しっかり読んで、人との付き合い方を学んでくださいな。

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