ディノとの出会い
ディノ様との出会いは、今でもはっきり覚えている。
――正確に言えば、彼よりも「お兄様に友人がいた」という事実の方が、はるかに衝撃だった。
約三ヶ月前――
王太子妃教育を終え、屋敷に戻った日のことだ。
季節は冬から春へと、ゆっくりと、だが確実にその装いを変え始めていた。
その日は穏やかで、風の中にぬくもりが混じっていた。
重厚な馬車を降り、いつものように玄関へと歩みを進める。
しかし、そこでわたくしの足を止めさせたのは、日常の景色の中にふと紛れ込んだ、一人の見知らぬ人影だった。
差し込む日差しの角度が変わるたび、その髪は淡い金から落ち着いた茶金へと色を変える。
うららかな空気の中で静かに揺れるその姿に、思わず視線を奪われた。
ふと目が合うと、そのオレンジ色の瞳が表情豊かに輝いた。
見つめ合うこと、一呼吸。
その人物はにこりと微笑み、軽く会釈を返した。
身に纏っているのは、仕立ての良さを感じさせる黒いシャツとクリーム色のベスト。
首元で揺れる控えめなループタイに、落ち着いた濃茶色のトラウザーズ。
その佇まいは、陽だまりのように穏やかだった。
だが、その隣に立つのは、それとは対照的な見慣れた「黒」だった。
シャツも、ベストも、上着からトラウザーズに至るまで、徹底して塗り潰された漆黒。
まるで喪に服しているかのような装いのフリードリヒお兄様が、いつものように険しい顔で腕を組んで立っている。
隣り合う二人の姿は、あまりにも対照的だった。
沈み込むような黒を背景にして、その人物だけが鮮やかに浮かび上がって見えた。
遅ればせながら、わたくしも軽く会釈を返し、視線を兄へ向ける。
「お兄様。そちらの方は……?」
問いかけると、兄は一瞬だけこちらを見た。
「さあな。赤の他人だ」
「それは酷くない!? ちゃんと紹介してよ」
「…………」
どうやら、徹底して無視を決め込むつもりらしい。
その頑なな無言に、隣に立つ青年が困ったように肩を竦めてみせた。
そのまま、淀みのない動きで一歩前へと歩み出る。
右手を優雅に胸へと当て、軽やかに、それでいて礼節を保った仕草で静かに頭を下げた。
「初めまして。ディノ・フィデルと申します。兄君とは、ご懇意にさせていただいております」
兄の頑なな沈黙が支配するこの場で、誰かが動かなければ事態は進まない。
彼はその空気を鋭く察し、自ら役目を引き受けてくれたのだと――そう感じられた。
一瞬の躊躇。
それは、兄を差し置いて口を開くという無礼を自覚しながらも、この場を円滑に収めようとした――彼なりの配慮だったのかもしれない。
名乗る際に見せた控えめな所作には、慎みが滲んでいた。
彼が独断で場を整えようとしてくれた――
その意図に気づいた瞬間、遅れて届いた彼の言葉がようやく意味を成し、わたくしは、はっと我に返った。
「……ごこんい……?」
思わず、復唱してしまった。
お兄様と“ご懇意”という言葉が結びつかない。
それ以外の意味が、わたくしの知識にあったかしら。
――いいえ、思い当たらない。
「ええ、いわゆる“友人”というやつです」
――友人。
友達いない歴=年齢のお兄様に、友人!?
近づく人間はすべて、侯爵家の威光に群がる羽虫か、それに準ずるものとしか思っていらっしゃらないはずですのに。
ほ、本当かしら……?
ちらりと兄の横顔を盗み見ると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。
いつもなら即座に切り捨てるはずの彼が、今はただ、黙ってそれを受け止めている。
否定しないということは……事実、なの?
驚きのあまり、あんぐりと口を開けそうになり、慌てて口元を手で覆った。
深く吸い込んだ空気で、乱れかけた心を律する。
指先でスカートの端を軽く摘み、流れるような動作で形式に則った浅いカーテシーを取った。
「ヘスティア・オルドリッジと申します。兄がお世話になっておりますわ」
――過不足のない礼。
相手の立場が定まらない今、それ以上でも、それ以下でもない振る舞いだった。
声、震えていなかったかしら。
いついかなる時も冷静に対処せよ、という教えが、今にも吹き飛びそうだった。
「挨拶など不要だ。早く帰れ。私はお前みたいに暇人ではない」
「オレだって、フリードが思ってるほど暇じゃないよ」
……今、お兄様を“フリード”と愛称で呼んだ?
礼を終えて顔を上げた瞬間、脳裏を支配したのは信じがたい言葉の響きだった。
家族か、あるいはごく限られた者しか許されないはずのその愛称。
それを、さも当然のように口にしたのだ。
その後、二人は少し言葉を交わしたが、お兄様の失礼で尊大な態度にも、ディノ様はまったく気にした様子がない。
会話の主軸は兄に向けられていたが、彼はときおりこちらにも視線を向け、話の流れを確認するように、ささやかな同意を求めてきた。
その言葉遣いは終始丁寧で、節度を保っていた。
兄に対するあの砕けた口調とは、明確に、そして意識的に切り分けられている。
それは、余所余所しい冷たさなどではない。
わたくしの立場を尊重し、令嬢として遇しようとする、細やかな気遣いのように感じられた。
兄の棘を含んだ態度を正面から受け流し、この場の空気が瓦解せぬよう繋ぎ止めているのは、紛れもなくディノ様の方だった。
兄の言葉の裏にある意図を読み取れないわけではない。
むしろその毒を正しく理解した上でいなす余裕は、単なる慣れというより、深い包容力がなせる業かもしれない。
……この方、海よりも心が広いのでは?
それとも、お兄様への耐性が異常に高いだけ?
もしディノ様に愛想を尽かされたら、兄の人生は利害と打算にまみれた人間関係だけで完結してしまいそうだ。
それなのに、その本人には“友人”を気遣うという視点が、決定的に欠けている。
どうか、彼だけは大切にしてほしい。
わたくしはそんなことを、内心ハラハラしながら考えていた。
「それじゃ、帰るよ。またね」
そう言って、ディノ様はお兄様に軽く手を振った。
「……ふん」
――ふん、じゃないでしょう。
親しき仲にも礼儀あり、という言葉を、お兄様はまだ習得していないのだろうか。
そんな態度だから、友人ができないのです。
「オルドリッジ令嬢、本日は失礼いたします」
「はい、ごきげんよう……」
門の外には文官用らしく、飾り気のない王宮の共用馬車が止まっていた。
それに乗り込み、ディノ様はそのまま去っていった。
ふと横を見ると、お兄様は馬車の姿が完全に消えてなくなるまで、見送っていた。
あれほど邪険に接していたのは、一体どこの誰だったかしら。
あまりの不自然さに、得体の知れない不吉な予感さえ込み上げてくる。
……明日は、槍でも降るのでは?
本気でそう思い、わたくしは内心で震え上がった。
* * *
――後になって思えば。
お兄様とディノ様は、見た目も性格も立場も正反対だ。
オルドリッジ侯爵家の嫡男として、幼い頃から厳しく当主教育を受けてきた兄と、そうした重圧を背負う立場ではない、フィデル伯爵家の三男。
社交性というものをどこかに置き忘れてきたお兄様と、自然と人の心を掴んでしまうディノ様。
二十三歳という年齢を聞き、お兄様と同い年だと知ったときは、少し驚いた。
お兄様は――老け顔……いえ、失言ですわ。
ただ、年齢以上に落ち着いて見えるだけ。
一方で、ディノ様は表情が柔らかく、どこか若々しい印象だった。
整った顔立ちで、客観的には十分に格好いい部類だろう。
けれど、表情がくるくると変わるせいか、わたくしの中では、格好いいというより、どこか可愛い印象のほうが強く残った。
王宮で文官をしているというが、同じ場所に身を置いていたなら、どこかで目にしていたはずだ。
それでも――あの日まで、わたくしの意識が彼という存在を拾い上げることは、一度もなかった。
――もっとも、当時のわたくしは、周囲の人間を気にする余裕などなかったのだけれど。
いつの間にか、わたくしの人生はすべて決められていた。
学ぶことも、振る舞いも、目指す未来も。
王太子妃になる。
それは疑う必要すらない未来だった。
けれど、ふとした瞬間に思うことがある。
その人生の中に、本当の「わたくし」はいるのだろうかと。
幼い頃から、両親はわたくしを王太子妃にする気満々だった。
年頃の男性は近づけられず、周囲にいたのは――
厳しい父、冷徹なお兄様、感情の読めない王太子殿下。
ディノ様は、そのどれとも違っていた。
あまりにも印象深かったせいか、それ以降、王宮で時折、彼の姿が視界に入るようになった。
お兄様の友人を無視するのも失礼かと思い、会釈をすると、彼も同じように返してくれる。
それ以上、踏み込むべきではなかったはずなのに。
それでも、王宮で姿を見かけるたび、なぜか視線がそちらへ向いてしまった。
忙しさのせいでなかなか兄に会えないためか、ディノ様はいつも、わたくしに兄の様子だけを、さりげなく尋ねていた。
そうしたやり取りを重ねるうちに、いつしか、他愛のない会話も増えていった。
仕事や休憩の合間に交わす、ほんの数言のやり取り。
それだけで、どこか気が緩むのが不思議だった。
それでも、彼は一線を越えなかった。
最初に名乗ったときと同じ、あの一瞬のためらいを、いつもどこかに残したままで。
人としての距離は近いはずなのに、彼は最後の一歩を刻むことだけは頑なに拒み続けた。
言葉を選び、どこまでも「良き知人」として振る舞う。
気づけば、お兄様と同じように親しげに話してほしくなり、敬語をやめてほしいと、思わず頼んでしまっていた。
会話を重ねるうちに、彼の存在は当たり前のように心に入り込んできた。
いつしか、考える前に姿を探していた。
そんな自分に気づいたとき、胸の奥で小さな疑問が芽生えた。
一度きりの人生を、誰かに言われるがまま歩むことが正しいのか。
そんな疑念が、ディノ様に出会ってから胸に居座り続けていた。
これまで出会った人たちは皆、わたくしを侯爵令嬢として、あるいは王太子妃候補として見ていた。
「あなたは、どうしたいんですか?」
そう問われたとき、わたくしは――少しだけ言葉に詰まった。
王太子妃候補という立場にあれば、本来、個人の望みなど尋ねられない。
求められるのは常に「何ができるか」であり、「どうあるべきか」という役割だけだった。
けれど、彼は違った。
その問いは、義務を強いる重石ではなく、凍りついた心をそっと解くような響きを帯びていた。
ただ一人の人間として、わたくし自身を見て、言葉を紡いでくれる。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
地位も名誉も、わたくしの心を動かすことは一度もなかった。
けれど――
彼の側にいたいと願うことだけが、生まれて初めて手にした自分自身の「意志」だった。
――ならば。
もう、答えは出ている。
王太子妃候補としての道を、自ら手放すことに、迷いはなかった。
王太子妃教育も終盤に入り、わたくしがあまりにも従順だったせいか、お兄様は油断したのだろう。
――妹を王太子妃にし、家を安泰にする。
その計画の途中で、年の近い男性を屋敷に招くという、軽率な行動に出たのだ。
でも、恨むなら自分の迂闊さを恨んでほしい。
もし王太子妃に正式に決定した後に、ディノ様と出会っていたなら――
わたくしは、きっと諦めていた。
遅すぎた初恋に、すべてを投げ出したと非難されようとも、愚かだと笑われようとも。
貴方と出会えたことを、わたくしは、決して後悔しない。
――けれど、この出会いは。
後に、わたくしの機転により、お兄様はその責を一身に背負うこととなった。
家の安泰と引き換えに、お兄様本人のあずかり知らぬところで、そういう結末へと至ってしまったのだ。
両親もまた、それを是とした。
……だからこそ。
本来わたくしが負うべきだったものを、あなたに押し付けてしまった不実を。
どうか、許してほしい。




