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フリードリヒの誤算

(※フリードリヒ視点)


仕事を終え、屋敷へと戻る。

見慣れたはずの玄関口。

そこには、いつも通りの光景が広がっているはずだった。

丹念に磨かれた床と、その中央に横たわる厚手の絨毯。

寸分の乱れもなく配置された、重厚な調度品の数々。

そして、微動だにせず主を待つ使用人たち。

奇妙なことに、誰一人として視線を合わせてこない。

そして本来なら一糸乱れず下げられるはずの頭が、わずかに、ほんの瞬きひとつ分だけ遅れる者がいる。

目に見える不手際があるわけでも、誰かが明らかな不敬を働いているわけでもないのだ。

——だが、何かが決定的に食い違っている。


静まり返った広間に、自分の足音だけがやけに乾いた音を立てて響く。

絨毯が音を吸い込むはずの場所で、耳の奥には、歩みを拒絶するような冷ややかな残響が残った。


自室の重い扉を押し開ける。

迎え入れた従僕に上着を預けたところで、静かにそれは告げられた。


「旦那様が、今夜の夕食にお誘いです」


珍しいことではない。

だが、玄関先で感じた胸の奥のざわつきは、一向に収まる気配がなかった。


食堂へ足を踏み入れた、その刹那。

違和感は、確信へと変貌を遂げる。

卓上を彩るのは、普段の夕食とは明らかに格の異なる料理と、選び抜かれた古酒。

眩いほどに磨き上げられた銀器の列。

そして、空間の隅々にまで行き届いた、微かな香の薫り。


――何かある。


そして、その正体はすぐに提示された。


「……王家より婚約の打診があった。王女殿下のお相手として、お前が選ばれた」


「………」


カルカロフ王国には三人の王女がいる。

……いや、「いた」と過去形で呼ぶべきか。

適齢の王女二人は、既に他国へと嫁いでいる。

だとすれば、私の相手となるのは――。

いまだ幼さの残る、末のペネロペ王女殿下。

消去法で導き出された答えは、あまりに現実味を欠いていた。


思考が止まる。


たしか、王女殿下はまだ十二歳ではなかったか。

私との年齢差は十一。

……どう考えてもおかしい。

相手はまだ、子供ではないか。

この豪華な料理も、磨き上げられた銀器も、すべてはこの異常な縁談を「祝辞」という名の拒絶不能な鎖で縛るためのものだったのだ。


母は上機嫌を隠そうともせず、父は表情こそ変えないものの、年代物のワインを開けている。

その振る舞いだけで、彼らがこの話をどう受け止めているかは明白だった。


両親の中では、すでに結論は出ている。

これは、抗いようのない「通達」だった。


理屈は理解できる。

ヘスティアが王太子妃になれなかった今、我が家が王家との繋がりを維持する手段は、もはや限られている。

この縁談は、家門の序列を守るための、文字通り「望外の好機」なのだ。


しかし、ペネロペ王女殿下は、陛下の「掌中の珠」として知られている。

あれほど溺愛していた末娘を、なぜこの若さで、よりによって私と。

……陛下は一体、何を考えておいでなのだろう。


そこにどんな意図があろうと、拒絶は許されない。

頭では分かっている。

それでも、私の感情だけが激しく抗っていた。


「年齢差が大きすぎます。殿下はまだ人格形成の只中にある子供だ。今は教育に専念させるべき時期。政治的な打算を差し引いても、今回の動きは不自然極まりない。裏があると見るべきでしょう」


口にした反論は、すべて妥当な意見のはずだった。

だが父は、このような事は「些事」だと言わんばかりに、容赦なく切り捨てた。


「それが王家の決定だ。お前が懸念する点など問題ではない。婚約は今だが、婚姻は先だ。その間に時間は流れる。……それで解決する話だろう? ――これ以上に、断る理由があるのか」


正論は、父が突きつける無慈悲な現実を前になす術もなく霧散した。

義務も、家の利益も、痛いほどに分かっている。

だからこそ、私の内側にある倫理だけが、その「正解」をどうしても拒もうとしていた。


「……それとも、お前は王家の決定に異を唱えるつもりか」


父のより一層、低くなった声に、私は言葉を失う。

それはもはや問いかけではなく、逆らうことを許さぬ断罪だった。


ならば――考え方を変えるしかない。


相手はまだ、“女性”ですらないのだ。

心を割く対象ではなく、ただ管理すべき「案件」だと思えばいい。


本来であれば、ヘスティアが王太子妃となり、家門の安泰は約束されるはずだった。

だが、現実は逆転している。

今や私が王女と婚約し、家の存続をその肩に担う立場に引きずり出されたのだ。


……不可解だ。道理が通らない。

私の知る因果律が、わずか一晩で機能不全を起こしていた。


そして、諦めて受け入れた先に、その歪みの正体を決定づける情報が突きつけられた。

この婚約――発端は、ヘスティアだという。


……。


腹の底から、冷ややかな怒りがせり上がってくるのを止められなかった。


あの愚かな妹め……!


最後の最後で、よくも最悪の手を打ってくれたものだ。

お前が放ったその無責任な一手が、私の人生を根底から狂わせる決定打になったのだ。


 * * *


婚約から数日後。

王宮の監査用執務室に、紺色の上着を端然と着こなした文官――ディノが現れた。


「婚約に伴う記録の整合性を確認に来ました。王家関連の案件ですので、一応」


そう言いながら視界に押し込まれた記録。

そこには、すでに王家の印が鮮明に刻印された確定済みの証書がある。

それを眼前にさらけ出す男の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。


……この状況を面白がっている時点で、救いようもなく性質が悪い。


「そう睨まないでいただきたい。貴殿がここ数日、不機嫌を隠さず周囲に険を振りまいておいでだというから、皆、恐れて近寄ろうともしない。おかげでこの役目を押し付けられた私の身にもなってほしいものです」


男はさも迷惑そうに言ってのけたが、その瞳に困惑の影など微塵もなかった。

差し出された手は、引っ込むどころか「早く受け取れ」と言わんばかりに、ずい、と挑発的にその重みを突き出してくる。

逃げ場のない距離で、革紐に締め上げられた羊皮紙の軋む音が、耳元に障る。


「……全く。手間をかけさせてくれる」


ディノは隠そうともせずに呆れた顔をした。

そのまま、私が受け取りを拒んでいた記録の束を強引に机へ置くと、手際よく紐を解いていく。

そして、慣れた手つきで眼鏡をかけた。


「恐ろしく似合っていないな」


「知ってるよ! 同じ部署の同僚に散々揶揄われたし、自分でも馴染んでないと思ってる。だから滅多に掛けない」


軽口を挟みつつも、指先は迷いなく頁の必要な箇所を辿る。


「仕事で来てるから真面目にやって。こちらの記録では――」


それからしばらく何かを問われていたが、視線を窓の外に投げ出したまま、上の空で返していた。

声は耳に届いているはずなのに、言葉が意味を成さず、右から左へと抜けていく。


「ご本人の意向は反映されていますか?」


……されていたら、こんな下らぬ茶番に付き合わされてはいない。


その後も、淡々と質問が続く。


「――となっていますが、相違ありませんか」


証書の上では、すべてが決まっている。

内容を読み上げるディノの声は、塞がれた耳の奥にまで容赦なく侵入し、変えようのない現実を無理やり刻み込んでくる。


「聞いていますか」


「………」


「これは駄目そうだね……」


私の沈黙を答えと見なしたようだ。

奴は小さく息を吐くと、困り果て、諦めの混じった笑みを零した。


このままでは埒が明かないと判断したのだろう。

やがて昼の鐘が鳴ると、奴は待っていたとばかりに眼鏡を外し、上着のポケットへ滑り込ませた。

そして、部屋の奥にある小机を指差す。


「気分転換に盤上遊戯でもやる?」


眼鏡と一緒に、身に纏っていた堅苦しさをどこかへ放り出したのだろう。

男は悪戯っぽく口角を上げてみせた。

この公私の切り替えの速さには、いつ見ても舌を巻かされる。


向かい合って座ると、ディノは慣れた手つきで盤上の駒を整えた。


「じゃあ、始めようか。そっちが先手でいいよ」


出会った当初のような礼節を尽くしたものではない、友人としての砕けた挨拶。

私が最初の一つを進めると、あちらも迷いのない手つきですぐさま駒を返してきた。

小気味よい音を立てて進む盤面。

その軽やかな指先を追ううちに、私の意識は自然と、この男との出会いを思い出していた……。


そもそも王宮文官とは、貴族という血筋さえあれば、無能であっても家柄の力で収まれる職種だ。

ならば、こいつのこの軽薄さも、その「無能な貴族」ゆえの振る舞いなのか。

そう自問して、即座に違うだろうと思い直す。


何の因果か王立学舎で同級だったはずだが、当時、言葉を交わした記憶は皆無だ。


私にとって、世界の人間は二種類に大別される。

利用価値のある「道具」か、あるいは視界に入れる必要さえない「塵芥」かだ。

その明快な選別基準に照らせば、この男は真っ先に排除されるべき存在だった。

だというのに、あの日以来、私の計算は狂い続けている。

発端は、実務の場だった。

あろうことか、この不届き者は私を理屈で黙らせ、あまつさえ宣戦布告とも取れる不遜な言葉を投げつけてきたのだ。

ならば曖昧な情を排し、純粋な論理のみが支配するこの盤上で、完膚なきまでに叩き伏せてやる。

暴力よりもなお鮮やかに屈服させてやろうと誘い込んだはずが――この男は、決定的な一手をもって、この私に遅れを取らせた稀有な存在となったのである。


他の有象無象と盤を挟んでも、数手先には結末が透けて見える。

確定した未来をなぞるだけの作業など、退屈以外の何物でもない。


だが、この男だけは測りから零れ落ちる。

誰にでも愛想を振りまくあの低俗な処世術に反して、こちらの思考を正確に解体し、誤魔化しもせず対等に打ち返してくる。

英才教育も受けていない三男坊が、これほど渡り合えるという不合理。

その一点だけは、今もって理解の範疇を超えたままだ。

とはいえ、その知性に免じてならば、多少の時間を割き、言葉を交わすこともやぶさかではない。


しかし、なぜ「友人」という、利害も実利も伴わない不確かな関係に奴を置いているのか。

その問いに対する解だけは、計算式のどこを探しても、導き出せずにいる。


私から見た、ディノの印象をあえて挙げるなら――

かつて王立学舎の掲示板で見た、あの不可解な成績表の推移そのものだった。

ある時は学年上位に食い込み、ある時は示し合わせたように凡庸な中間層へと引き返す。

それは実力不足などではなく、格上の貴族に睨まれぬよう、自身の立ち位置を「中の上」に保つための精密な帳尻合わせだった。

あの頃と同じく、こいつは今も「無害な背景」であろうとしている。


そのあまりの徹底ぶりに、思考を止めていた。


「おーい。目開けたまま寝ちゃってる?」


目の前でひらひらと手が振られ、私は反射的にその手を叩き落としそうになった。

視界には、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべるディノがいる。


「フリードの番だよ。まだ始まったばかりなんだからそんなに長考しなくてもいいんじゃない? 気楽にやろうよ」


自分が盤上を放置して考え込んでいたことに気づき、わずかに舌打ちして駒を掴んだ。

指先に伝わる冷たい感触が、高ぶった思考を無理やり現実に繋ぎ止める。

駒を進め、目の前の男を、忌々しげに見据える。


本来であれば、ヘスティアの周囲に群がる羽虫は一匹残らず排除すべきだった。

余計な雑音にその心を乱され、進むべき道を違えることのないように。

だがこいつだけは、例外として野放しにしていた。


理由は単純だ。


ディノがもし、どこかの跡継ぎであったり、あるいは実力で地位を築く法服貴族であったなら、私も相応の警戒をして二人を遠ざけていただろう。

だが、奴は平凡な一介の文官に過ぎない。

対して妹は、王太子妃候補という重責を担う身だった。

政略の天秤にすら載らぬ男など、比較の対象にすらならない。

仮に分をわきまえぬ情が芽生えたとしても、残酷な身分差がそれを圧し潰すだろう。

現に、互いに一線を越えぬよう礼節を保っており、懸念していたような「情」の兆しは見えない。

その平穏な様子に、私は監視の優先順位を外した。

王宮の事情に精通した父上でさえ黙認している案件に、わざわざ私が手を下すまでもない。


――そう判断していた。


だが、盤上に向かった瞬間、その印象は一変する。

いつもヘラヘラと締まりのない顔をしている男だが、盤を挟んだ途端、その瞳に宿る熱量が変わるのだ。

口元に浮かぶのは、心底この場を楽しんでいる、不遜なまでの薄笑い。


この手の遊戯に長けているのか、あろうことか盤上の勝敗は常に拮抗――いや、実のところ私は、通算の戦績において奴に「一歩」の遅れを取り続けている。

私が勝つこともあれば、逆に屈することもある。

文字通り一進一退の攻防だ。

だが、十局積み重ねれば、最後に白星が多いのはいつだって奴の方だった。

こちらの渾身の一手を、いつも紙一重のところで凌いでみせる。

……この埋まらない僅かな溝は、本当に、たったの“一歩”なのだろうか。


盤上の戦術には、その者の本性が剥き出しになるものだ。

だとするなら、これまでの「無害な姿」すら奴の計算か。


今のところ、奴が妹に対して不実な動きを見せたことは一度としてない。

それだというのに、なぜこれほどまでに言いようのない違和感が押し寄せるのだ。

表面上の平穏が、かえって底知れぬ不気味さを煽る。


先ほど、一見無意味に見える一手があった。

利もなく、圧もない。

だがそれは次の手で盤面全体の均衡を崩すための布石だった。


ディノが好んで用いるのは、獲物をじわじわと袋小路へ追い詰める「囲い込み」、そして勝利のために犠牲を厭わない「捨て駒」の戦術だ。

しかも性質の悪いことに、この男はこれらを戦況に応じて使い分ける。

たとえ薄氷を履むような危うい一手であっても、そこに相応の見返りがあると踏めば、己の直感と計算が弾き出した「正解」を、迷わず盤上に刻み込む。

勝利のために今、何を切り捨て、何を拾うべきか。

その瞬時の判断は、恐ろしいほどに合理的だ。

普段の緊張感の欠片もない弛みきった相好に騙されてはいけない。

勝負どころで見せるあの驚くほど大胆な踏み込み。

あいつがその微笑みの裏で何を考えているのか――あるいは、本当に何も考えてなどいないのか。


「そういえば——駒を一つ無駄にしたついでに聞くけどさ」


手を動かしながら、ディノが事もなげに声をかけてくる。


「ヘスティア嬢の療養中の様子はどう? 順調に回復してる?」


「知らん。生きているのなら問題ない」


「手紙は? まさか、一度も会いに行っていないの?」


「必要性を感じない」


「たった一人の妹でしょ。どうにか時間作って行ったほうがいいよ。フリードは冷た過ぎる。あんなに可愛い妹が居たらオレなら放っておかないのになぁ」


可愛い、だと?

ふてぶてしいの間違いだろう。

あれを可愛いと評する感性が理解できない。


ヘスティアの話題を出された瞬間、あの婚約を仕組んだあいつの澄まし顔が脳裏をよぎる。

激しい怒りが思考をかき乱し、駒を掴む指先に、思わず力が加わった。


「あ、そうだ。まだ王女殿下と婚約祝いの言葉を贈ってなかったね、おめでとう!」


……こいつ。


確信犯だ。

わざと地雷を踏み抜き、こちらの平静を乱しにきている。

正常な判断力を奪い、盤上の均衡を崩すための――心理戦。


「いやー、ついにフリードに婚約者かぁ。面白……じゃなくて、安心したよ」


策を理解していても、散らされた意識を完全には繋ぎ止められない。

そして、集中力が途切れたわずかな隙を、奴は逃さなかった。


「チェックメイト」


勝敗は決した――盤上の理を嘲笑うかのように、この小癪な策士の毒が回った。


計算と余裕を含んだ笑み、そして、やれやれとディノは肩を竦める。


「今日はまったく手応えなかったね。君が上の空なのをいいことにちょっと本気出しすぎたかな? まあ、今更何を言っても勝敗は覆らないけど」


奴は少しだけ首を傾げると、無邪気ささえ感じさせる顔で、にっこりと笑った。


「あの賭け、忘れてないよね?」


この男は時折、こうして神経を逆撫でする。

こちらの屈辱などどこ吹く風といった、その平然たる笑顔が、たまらなく癪に障る。


いつからか、この盤上遊戯には取り決めが加わっていた。

金銭ではなく、勝った側が負けた側へ「些細な願い」を一つ聞き届けさせるというものだ。

「賭け」とは、そのことを指している。


「きっと寂しがっているから、ヘスティア嬢に会いに行ってあげなよ。機密でないものなら馬車の中でも仕事はできる。全部フリードがやらなきゃいけないわけでもないでしょ。他の人に分担、調整すれば何とでもなる」


会いに行ったところで、何になる。

あいつのことだ。

表面上は淑やかに笑って出迎えながらも、その瞳の奥では冷ややかに「何しに来たのか」と問いかけてくるに決まっている。

そんな、吐き気のするような再会が目に見えるようだ。


決定的な敗北を突きつけられた以上、承諾は免れない。

だが、あっさりと頷いて相手を満足させるのも業腹で、冷ややかな拒絶を視線に込めて黙殺する。


「もう、まどろっこしいな。だったら首根っこを押さえてでもオレが連れて行くしかないか」


返答しかけた、その時。

ディノの言葉に応じるように、背後から別の声が重なった。


「いい案ですね。わたしもヘスティア様に会いたいので、一緒に行きたいです」


視線を向ければ、そこには最も来てほしくない種類の来訪者――ペネロペ王女殿下がいた。


「ノックをいたしましたのに、お気づきにならないようでしたから、勝手に入らせていただきました」


即座にディノが椅子を引いて立ち上がる。

深々と頭を下げ、殿下が言葉を発せられるまでその姿勢を維持する。

文官としての模範的な、そして隙のない沈黙の敬意。


「顔を上げなさいな。今は婚約者としてここに来ているのでそんなに畏まらなくてよくてよ」


予告なき訪問への不快感もさることながら、殿下が提示した「ヘスティアに会う」という案。

それは今の状況をまるで考えていない発言であり到底受け入れられる範疇を超えていた。


「王女がそう簡単に出歩けるはずがない」


「そんなの外遊名目にすればよいのです。王女の教育の一環として地方視察、将来のための見聞を広げる旅。その、"ついで"にヘスティア様を見舞う、ということにすれば問題ありません」


ただの愚直な訴えではなかったようだ。

彼女の意外な立ち回りの巧さが、この場においては何より難儀だった。


「もちろん、婚約者として付き添ってくださいますよね?」


微笑みながら放たれたその問いに、実質的な拒否権など存在しない。


この王女は扱いに困る存在だ。

一歩引けば「不実」、一歩寄れば「不埒」、更に放置すれば「不敬」と見なされる。


……一体、どうしろというのだ。


婚約者として甘い顔を見せる語彙も技術も、そして何よりそのための心も、私は持ち合わせていない。


陛下にとっては国宝よりも価値ある愛娘なのだろうが、私にとっては違う。

我が侯爵家に莫大な利益を運ぶ存在でありながら、取り扱いを一歩間違えればすべてを吹き飛ばしかねない、厄介な劇物なのだ。

唯一の救いは、気まぐれに癇癪を起こす暴君ではないことくらいか。


「……オレは部外者みたいだから、帰ってきたらたっぷり話を聞かせてね」


王族という名の厄介事を嫌ったか、ディノは謙虚な体を装いつつ、どこまでも呑気に小声でそう言った。


自分だけ安全圏へ逃げ込もうとは、随分と虫がいい。

先刻、「首根っこを押さえてでも連れて行く」と言い放ったのはどこの誰だ。

今さら降りるなどという身勝手な論理、私の前で通用するはずがないだろう。

……安心しろ。

お前の望み通り、目的地まで引きずって行ってやる。

――私の手でな。


「王女の外遊には記録、調整役が必要だ。臨時随行文官、視察記録、地方との調整、行程管理があるだろう。お前も同行しろ」


「それは名案ですね。フィデル卿はフリードリヒ様の御友人とお聞きしていますし、ぜひ色々なお話を聞かせていただきたいです」


「……仰せのままに。精一杯努めさせていただきます」


逃げ道を断たれた男は、観念して一歩を踏み出し礼をした。

だが、頭を下げたまま、私に向けて何か言いたげな、視線を投げつけてきた。


結局、この件は王女の見聞を広めるための小規模な外遊、という名目で押し通されることになった。

婚約者である私も同行を命じられ、記録官としてディノが随行する。


療養地で過ごすヘスティアに向け、この外遊に乗じて接触を図る旨を認めた。

ペンを走らせるうちに、この状況を招いた元凶への苛立ちは募り、気づけば便箋は執拗な罵倒で埋め尽くされていた。

まともな近況報告と呼べるものは、一行も残らず、最後には紙が破れんばかりの勢いで封を閉じた。


……私の人生設計には、一点の狂いもなかったはずだ。

然るべき教育を受け、然るべき功績を挙げ、やがては家を継いで平穏と繁栄を享受する。

そんな、緻密に積み上げたはずの未来が、誰のせいとも断定できない状況で音を立てて崩れ落ちていく。


——どこで、何を間違えた?

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