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彩り満ちる日々

翌朝、手近な書物に視線を落としていると、約束の時刻に違わずドリトン先生が訪ねてきた。

先生はわたくしの顔色をじっと窺い、それから世間話でもするように、何気ない口調で日々の食事について触れた。


「……甘いばかりの菓子よりも、滋養のあるナッツやハーブ、陽の光をたっぷり浴びたドライフルーツ。あるいは、血を巡らせるスパイスを用いた菓子の方が、今の貴女の体にはより良い『薬』になるでしょう」


その言葉に背中を押され、わたくしはお菓子作りに挑戦してみることにした。

最初に選んだのは、ナッツとドライフルーツを贅沢に練り込んだ焼き菓子だった。

ボウルの中で生地を混ぜ合わせるだけの工程は、案外難しくはない。

慣れない手つきながらも、素材が混ざり合っていく感触は新鮮で、どこか心を落ち着かせてくれた。


火と焼き加減だけは、慣れた料理人に任せることにした。

やがてオーブンから漂ってきたのは、香ばしいナッツの香りと、熱を帯びて甘みを増した果実の芳醇な匂い。

運ばれてきた完成品は、初めてにしては驚くほど上出来だった。


「これなら、先生もきっと頷いてくださるわ」


自ら手を動かして作り上げた一皿を前に、わたくしの胸には小さな達成感が灯っていた。


数日が過ぎる頃には、庭のハーブたちもすっかり背を伸ばし、雨上がりのような瑞々しい緑を湛えていた。

わたくしはその柔らかな茎を丁寧に摘み取ると、ひと房ずつ麻紐で束ねて、乾燥させてみることにした。


ハーブの香りは、その小さな細胞の中に閉じ込められている。

使う直前に軽く潰すことで、お湯を注いだ瞬間にその芳香が一気に解き放たれるのだという。

そのための道具――ハーブを挽くための乳鉢と乳棒、そして保存用の瓶。

それらを買い求めるため、わたくしは再びあの商会の扉を押し開けた。


店に一歩足を踏み入れると、そこにはいつものようにラトナが店番をしていた。


「いらっしゃいませ!」


弾けるような元気な声に迎えられ、わたくしも用件を切り出す。


「乳鉢と乳棒と保存瓶はありますか?」


「あるよ。えーっと…何処だったかな? あ! あそこか」


目的のものが高い棚にあると気づくやいなや、彼女は迷うことなく踏み台を引き寄せた。

一段、また一段と足をかけるたび、古い木製の足場が小さく軋む。

彼女はその頼りない音に、片足の踏み込みを確かめるように、慎重に、ゆっくりと体重を預けていく。

見守るこちらの心臓はせり上がり、呼吸を忘れそうになる。

指先を精一杯に伸ばす彼女の背中は、危うく、落ちてしまうのではないかという予感に胸がざわついた。

声をかけるべきか、それとも倒れないよう支えるべきか――。

逡巡が思考を支配したその刹那、背後の扉が開かれた。


「ただいまー……って、おい!!」


静寂を切り裂く怒号とともに、キリクが弾かれたように駆け寄る。

踏み台の上で爪先立つ彼女の姿を捉えるなり、彼は有無を言わさぬ腕力で、その細い身体をさらうように横抱きにした。


「ちょっと! 何すんの!」


「お前は踏み台に乗るなって言っただろ! 危ないだろうが!」


「はあ? ちゃんと気をつけてたし、商品が上にあったからしょうがないじゃん!」


「そんなの棒を使って取るか、後から俺が届ければいいだろ。昔、木から落ちて大怪我したの忘れたのか!」


どうやら過去の出来事が、今の彼にとっては消えない懸念材料として刻まれているらしい。

こんな風に心配されるのは、きっとどこかくすぐったいものなのだろう。

突然自由を奪われたラトナは、空中で足をバタつかせて、気恥ずかしさを誤魔化すように精一杯の声を上げた。


「高さも違うし、子供の頃の話でしょ! おーろーせー!!」


その拍子に、彼女の左足首でアンクレットが小さく跳ねる。

嵌め込まれたペリドットが陽光を弾いてきらめき、しゃらしゃらと軽やかな音を響かせた。


「ちょ、バカ! 暴れるな! 落としたらどうすんだ!!」


慌てふためくキリクの怒鳴り声を聞きながら、わたくしはふとお兄様のことを思い出した。

あの人なら、きっとこんな時でも眉ひとつ動かさず、何事もなかったかのように素通りしていただろう。

そう考えると、目の前の二人のやり取りはどこか微笑ましかった。

目的のものを取り、落ち着いた後。


「変なものをお見せしました」


自らの挙動を恥じ入るように詫びた後、キリクは気まずさを振り払うかのような手つきで、購入品を手早く包んでくれた。

すべての用件が片付き、ふっと場に安堵が落ちる。


その静寂の中で、わたくしは、ほんの少しだけ足踏みをする。

けれど、思い出せば。

初めてお菓子を作ったあの日も、同じだった。

最初の一歩を自らの手で踏み出さなければ、何も始まらないのだ。

だから。

かねてより胸の奥底で温めてきた想いを、ついに言葉にして打ち明けた。


「あの、もし自作の調合茶が完成したら、この店で販売することは可能でしょうか?」


キリクはすぐには答えず、わたくしの瞳の奥をじっと覗き込んできた。

その真剣な眼差しに、単なる気まぐれや遊びではないのだと悟ったのだろう。

彼は低く、落ち着いた声で返した。


「……お嬢様の頼みだ。試飲して売り物になりそうなら構いませんよ」


キリクはそこまで言うと、ふっと視線を窓の外、まだ見ぬ遠い空へと向けた。

まるでそこにある未来を既に見つめているかのような、熱がその横顔に宿っていた。


「俺らの商会はいずれ旅に出る予定です。世界中を巡り、珍しいものを仕入れる。もしそのお茶が本当に良いものなら、一緒に連れて行くこともできるかもしれない」


その言葉が投げかけられた瞬間、室内の空気が一変した。

「世界」というあまりに壮大な響きに、わたくしの心臓は落ち着きなく高鳴る。

しかし、彼は甘い夢を見せるだけでは終わらなかった。


「ですが、妥協はできません。商売の場に立てば、あなたが貴族のお嬢様であることなど何の意味も持たない。……いいですか、雑貨や道具の不具合なら『修理や交換』で済みますが、茶葉はそうはいかない。客の口に入り、その体を作るものだ」


彼はわずかに身を乗り出し、鋭い眼差しでわたくしを射抜いた。

その瞳には、単なる金儲けではない、一つの店を背負い立つ商売人特有の凄みが宿っている。


「もし不純物が混ざっていたり、品質が悪くて客が体調を崩したりすれば、その瞬間にうちは終わる。金では買えない『安心』という名の暖簾が、貴女の品ひとつで崩れ去るんだ。泥を塗られるのは、それを選んだ俺なんですよ。……さて。この"看板"を背負う重み――うちの命運をすべて引き受けるという覚悟、改めて聞かせてもらえますか」


「……もちろんですわ。その覚悟がなければ、あのような申し出など最初からいたしません。貴方の看板を背負う以上、わたくしはもう後戻りのできない場所に立つということ。その信頼を裏切るような真似は、わたくしの矜持が許しませんわ。……わたくしの今後も、茶葉の価値も、これからは貴方の商会と共にあると心得ております。必ず、その看板に見合う結果をお約束いたしますわ」


その声は、自分でも驚くほど凛として響いた。

品物の良し悪しを見誤ることは、商人にとって致命的だ。

もしお茶が期待外れであれば、恥をかくのは作り手であるわたくしではなく、それを選んだ彼自身の「眼」なのだ。

その重圧を、彼は隠そうともせずに突きつけてくる。


「貴女のその熱意が、うちの店を賭けるに値するものなのか。じっくりと見極めさせてもらいますよ」


好奇を隠そうともしない彼の視線を受け、わたくしの胸のうちは、それに呼応するように熱い期待で満たされていった。


わたくしのお茶が、世界中に……。

彼が突きつけてきたのは、絶望ではなく「責任」の重さだ。

今はまだ、何一つ成し遂げていない。

この店の一角を借りれるかどうかもわからない状態だ。

けれど、この商人の厳しい眼鏡にかない、その絶大な「信頼」に値すると認められたなら――。


港を埋め尽くす帆船、見知らぬ異国の客船、あるいは砂漠を越える商隊。

わたくしの手がけた品が、いつか国境を越え、誰かの喉を潤す日が来るかもしれない。

それはあまりに遠く、眩暈がするほどの高み。

それでも、わたくしは震えそうになる高揚を優雅な微笑みで抑え込み、キリクの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


その言葉をきっかけに、わたくしは本格的な調合茶の研究に没頭し始めた。

部屋中が乾いた草花の香りで満たされるほど、夥しい数の茶葉を並べる。

レモングラスの爽やかさを主役に据えつつ、喉の奥に残るわずかな苦みを打ち消すために、ステビアの葉を一欠片ずつ足しては引き、最適な比率を探り続けた。

天秤のわずかな揺れが、味の運命を左右する。

時に抽出の秒数にまで神経を尖らせ、時に麻痺しかけた味覚を戻すための白湯を何杯も飲み干しながら、わたくしはただ、理想の黄金色を求めてポットの底を覗き込み続けた。


……そしてある深夜。

静まり返った部屋で、液体を一口含んだ瞬間、求めていた味が調和を持って喉を滑り落ちた。


「これだわ」


――幾度となく繰り返した試作の果てに、ようやく迷いのない答えが器の中に宿ったのだ。


翌日、完成の喜びを胸に抱いたわたくしは、弾むような足取りで行き慣れた道を進み、店の重い扉を押し開けた。

蝶番が軋む音に、ラトナが、くるりとこちらへ向き直る。


「今日は何がいるの?」


「本日はお買い物ではなく、以前お話しした調合茶の完成品ができたのでお持ちしました」


「それはおめでとう。キリクが試飲して合否を決める手はずになっているから……もうじき戻るはずよ。そこで待っていて」


そう説明する声を聞きながら、ふと違和感を覚えた。

よく見ると、ラトナの顔色は青白く、額にはうっすらと脂汗がにじんでいる。


声をかけようと一歩踏み出した、その瞬間だった。

彼女の膝からがくりと力が抜け、支えを失った身体がその場に崩れるようにうずくまる。


「体調が優れないのですね。寝室まで移動できそうですか?」


「無理……気持ち悪い……」


口元をきつく押さえ、彼女は必死に込み上げるものを堪えている。

一度胃のものを吐き出させてしまった方が楽になるはずだ。

わたくしは背中をそっと擦りながら、焦燥に駆られて辺りを見回した。

だが肝心の「受け皿」になりそうなものがどこにあるのか見当もつかない。


「リリム」


「はい」


名を呼ぶと、意図を瞬時に察した彼女が店内を素早く確認し、手近にあった――多色の装飾が施された、いかにも高価そうな陶器の壺を抱えて戻ってきた。


――ああ、よりによって、そのような一品を選ばなくても……。


とはいえ、今は非常時だ。

キリクもきっと、今回ばかりは許してくれるだろう。


一通り吐き出したことで、ラトナの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

わたくしは彼女を膝の上に横たえたまま、いたわるように背を撫で、乱れた息が整うのを静かに待つ。

その間、リリムには清拭のための布と水の用意、そして――あの高価な壺の処理を任せた。


人の住居に無断で足を踏み入れるのは気が引けたが、今は何よりも安静にできる場所が必要だ。

わたくしはリリムに、奥にあるはずの寝室を確認するよう指示を出した。

呼吸の落ち着いたラトナを二人で支えて運ぼうかとも考えたが、リリムは「一人で余裕です」と事もなげに言い切った。

ならばと、その力強い言葉に甘えて彼女を任せることにした。


ラトナを寝室のベッドへ横たえ、窓を開けて澱んだ空気を入れ替える。

新鮮な風が吹き込むと、彼女の顔色にもようやく生気が戻り始めた。


「迷惑かけて、ごめんね……」


「気にすることはありませんわ。今日はこのままゆっくり休んで、また元気な姿を見せてくださいな」


「それでは、失礼いたします」


リリムと共に静かに部屋を辞した後、わたくしはひとり考え込んだ。

思えば、以前店を訪れた際も、彼女はどこか顔色を悪くしていた気がする。

こうして体調を崩す姿を見るのは、これで三度目。

もしかすると――何か、病を患っているのではないだろうか。

どこか落ち着かないものを感じるけれど、今のわたくしには何もできない。

医学の専門知識があるわけでもなく、友人とはいえ、他人の事情に踏み込むのは無粋だろうと、考えを打ち消す。


そのとき、店の方から扉が開く音がした。

表へ戻ってみると、ちょうどキリクが帰ってきたところだった。

わたくしは彼に、先ほど起きた事の次第を伝えた。


「……そうでしたか。お嬢様たちが居てくれて、本当に助かりました。ありがとうございます」


いつもの商売人としての鋭さは影を潜め、その声には彼女の身を案じる一人の男としての、切実な響きが混じっていた。


「礼には及びませんわ。調合茶の試飲はまた後日でも構いません。今はどうか、ラトナの側にいて差し上げてください」


「……何から何まで、本当に。感謝してもしきれません」


キリクは少しの間、沈黙を守りながら何かを懸命に整理していたが、やがて自身の勝手な願いを恥じるように、小さく頭を下げた。


「予定を変更して、明日は店を離れないことにします。本来ならば、こちらから伺ってお礼を申し上げるべきところを、一方的に呼び立てるようで心苦しいのですが……。もし明日、お時間があれば、例の調合茶の判定をさせていただきたい。もう一度、店に来ていただくことは可能でしょうか?」


「ええ、喜んで。では、そのようにお願いいたしますわ」


扉へ歩み寄ろうとしたその時、「お嬢様」とリリムに静かに呼び止められた。

窓際に逆さまに立て掛けられた、その場にそぐわないほど水浸しの「物」へ、彼女は冷ややかな一瞥をくれる。

それから「これは、どうされますか」と、視線だけでわたくしに問いかけてきた。


……そういえば、重要なことを伝え忘れていたわ。

わたくしはキリクの方を向き、ごく何気ない素振りで窓際を指し示した。


「先ほどの処置の際、あちらの壺を……その、使わせていただきましたの。洗浄は済ませてありますから、売り物にはならずとも、花瓶くらいにはなるかと思いますわ」


キリクは壺を見た瞬間、彫像のように固まった。

ほんのわずかに、その端整な口元が引きつっている。


「あ、あー……はい、あれを、使ったんですね……。まあ、仕方ない……ですね、はは……」


思ったよりもあっさり、許しは得られた。

少し声に覇気がなく、視線がどこか遠くを彷徨っていた気もするけれど……これ以上の深読みはやめておきましょう。


翌日、再び店を訪れると、ラトナは店の奥にある椅子に腰掛けていた。

昨日のぐったりとした様子が嘘のように表情は明るいが、よく見ればまだ顔色は薄く、本調子ではないことが窺える。

わたくしの姿に気づくと、彼女は待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。


「聞いてよ。キリクってば、ベッドから出るなって厳命するわ、食事まで口に運ぼうとするわで。さすがに過保護が過ぎて、鬱陶しいったら! 病人扱いするなっていうのよ」


頬を膨らませて不満を訴えているが、その声音には隠しきれない甘えが混じっている。


「……まあ、心配してくれるのは分かるし、感謝もしてるんだけどさ」


唇を尖らせてそっぽを向き、指先をそわそわと遊ばせる。

その仕草がどこか愛らしく、わたくしは思わず口元を緩めた。

その台詞、そのまま本人に伝えてあげれば、どれほど喜ぶことでしょうね。


ラトナの様子を見ながら、胸の奥にほんの少しだけ羨ましさが芽生えた。

そこまで心配された記憶が、自分にはなかったからだ。


やがて店の奥からキリクも姿を見せ、昨日の約束通り、ついに試飲の刻が訪れた。

用意してきた調合茶を慎重にポットへ淹れ、立ち上がる湯気と共に、澄んだ琥珀色の液体をカップに注いで差し出す。

彼は無言のまま、その静かな手つきでまずは香りを確かめ、それからゆっくりと一口、含んだ。

張り詰めた空気の中、しばしの沈黙が流れる。

やがて、審判を下す厳格な商人の口から、静かに結論が告げられた。


結果は――不合格だった。


キリクはもう一杯、カップへ茶を注ぎ、口元へ運ぶとわずかに眉を寄せる。


「味は悪くない。だが、これを売り物にするなら条件があります。誰が淹れても同じ味になること。買い求める客は毎回違う人間です。腕の差で味が変わるものは――商品とは呼べません」


カップを置き、感情を排した声で淡々と続けた。


「湯の温度、量、蒸らす時間……そのどれか一つでも狂えば、この繊細な調和は崩れる。店で出すならまだしも、客の手に委ねる形では成立しません」


きっぱりと言い切られ、思わず言葉を失った。


「だからうちで“看板として出す物”は、店で淹れるか、誰が扱っても狂わない形にしている」


有無を言わせぬ口調で言い放った後、キリクはふっと息を吐くと、手元のカップをソーサーに戻した。

硬質な磁器が触れ合う小さな音が、静まり返った店内に冷たく響く。

彼は何かを測るように、こちらの出方をじっと見つめていたが、やがて「この話はここまでだ」とでも言うように、わずかに肩の力を抜いた。


「……もしお時間があるのなら、昨日のお詫びに、お茶でもいかがですか」


不合格という結果に胸は疼いたけれど、深く息を吐き出して自らを落ち着ける。

彼の指摘は、わたくしの甘い見通しを鮮やかに射抜いたものだった。

八つ当たりなどお門違いだと分かってはいても、心の内に澱むこの釈然としない情動までは、すぐには拭い去れそうになかった。

けれど、味そのものは悪くないと言ってもらえた。

理想への距離が、正しく測れたと思えばいい。

少しずつ、けれど着実に、わたくしは「答え」の核心へと近づいている。

彼の厳しい言葉は、次に進むための新しい指針にすぎない。

さあ、わたくしも気持ちを切り替えなければ。

この燻るような悔しさを熱量に変えて、また、前を向くのだ。


「ええ、喜んで。いただきますわ」


「では、少し待っていてください」


頷いたキリクは、先ほどまでの険しさが嘘のように、いつもの調子に戻っていた。

そのまま店の奥へと姿を消し、しばらくして、心地よい湯気を立てるカップをいくつか携えて戻ってくる。

その足取りはどこか軽やかで、和やかな時間の始まりを告げているようだった。


用意されたのは、ラベンダーティーにたっぷりと蜂蜜を溶かしたものだった。

わたくしとリリムの前に置かれたカップからは、甘くやさしい香りがふわりと立ちのぼり、先ほどまでの緊張を解きほぐしてくれる。


キリクは自分用に清涼感のあるミントティーを、そしてラトナの前には鮮やかな色味のローズヒップティーを置いた。

さらに、薬草を練り込んだビスケットやドライフルーツのケーキまで並べられ、テーブルの上は一気に華やぎを見せる。


「お前はこれな」


そう言って、キリクが迷いなくケーキを取り分けラトナの前へ押しやると、彼女はすぐさま眉を吊り上げた。


「ちょっと、勝手に決めないでよ!」


「お前はこのビスケット、食えない癖に文句を言うな」


「う……。それは、そうだけど……」


相変わらずの、遠慮のないやり取り。

それを見守るうちに、わたくしの口元も自然と緩んでいた。

どうやら今日も、二人はいつも通り仲が良いらしい。


ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃、はたと思い出したようにキリクがこちらを見た。


「そういえば――『恋愛術』の勉強の方は、どこまで進みましたか?」


その言葉に、別邸で初めて彼と会った時の光景が鮮明に脳裏をよぎる。

あの時、彼は恋愛指南書をこれ見よがしに掲げ、「もちろん商品だけでなく、こういった相談にも乗りますよ」……などと、不敵な笑みを浮かべていたのだ。


「すべて頭に叩き込みましたわ。ですから、もう完璧です」


わたくしが自信たっぷりに胸を張って答えると、彼はわずかに目を細め、どこか面白がるような顔で、こちらをじっと眺めた。


「では、さっそく実践してみてください」


突然の振りに一瞬たじろいだが、わたくしは指南書に記されていた一節を必死に手繰り寄せた。

確か――


『会話の途中で、わざとらしく彼の唇をじっと見つめなさい。彼がこちらに気づいたら、熱に浮かされたように、そっと視線を逸らすのです。』


わたくしは意を決し、キリクの唇を熱心に見つめてから、教え通りにすっと視線を泳がせた。

店内を支配する、数秒間の奇妙な沈黙。

だが、彼は動揺するどころか眉ひとつ動かさず、どこまでも穏やかに微笑んだ。


「可愛いですね」


その声には、慈しみよりも、どこか微笑ましい珍獣でも眺めるような響きがあった。


……それ、絶対に褒めていなくてよ?

期待していた反応とはあまりに違うその言葉に、わたくしは言いようのない屈辱感と、少しばかり馬鹿にされたような、釈然としない想いを抱くのだった。


二人のやり取りを傍観していたラトナが、急に身を乗り出そうとして――ハッとしたように小さく上体を引いた。

しかし、その瞳は期待に輝いている。

どうやら、恋の話題に興味を惹かれたらしい。


「ねえねえ、勉強するってことは、お嬢サマには好きな相手がいるんだよね? それってどんな男性?」


「まだ片思いですけれど……明るくて、気遣いのできる素敵な方です」


そう答えると、彼女は不満気に顔をしかめた。


「ふーん。お嬢サマになびかないなんて、その人、枯れてるんじゃないの?」


その言葉に、なぜかリリムが隣で深く、深く頷いている。

しかし、ラトナは納得がいかない様子で、考えるように顎へ指先を当て、うーんと首を傾げた。


「それか、他に好きな人がいるとか」


その言葉に、不意に頭を殴られたかのような衝撃が走った。

思わず手にしていたカップを落としそうになり、慌てて両手で持ち直す。


一年以上、特別な人はいないと聞いていた。

だが――それは単に交際をしていないというだけで、実は心の奥に秘めた想い人がいたとしたら……?


「おい、余計なことを言うな」


キリクが慌ててラトナの口を押さえる。

しかし、彼女はその手を無造作に振り払うと、まったく気にした様子もなく言葉を継いだ。


「いい? 男なんて単純なものよ。ちょっとソレっぽいこと言えば、案外、簡単に落ちるんだから。過去に実践済みだから保証するわよ!」


その言葉は指南書に書いてあったことと、どこか重なる部分がある。

ということは……まだ、巻き返せる可能性があるということだろうか。

やってみる価値はあると信じたかった。


ふと、キリクに視線を向ける。

彼はといえば、なんとも言えない微妙な表情でラトナを見つめていた。

呆れているのか、あるいは掛けるべき言葉が見つからないのか。

どう反応すればいいのか困り果てているその姿は、いつもの余裕をどこか失っているようだった。


その日から、迷いや雑念を振り払うように、わたくしは調合茶の試作に没頭した。

ある葉を一摘み減らし、別の花をほんのわずかだけ増やす。

指先に乗る程度の僅かな違いが、抽出された液体の味を劇的に変えてしまう。


キリクに試飲を頼むたび、無情な宣告が下された。

二度目の試作は「味がぼやけている」と切り捨てられ、

三度目は「これではわざわざ仕入れる意味がない」と一蹴され、

四度目には「保管の問題か、湿気で香りが飛んでいる」と指摘された。


そのたびに配合を練り直し、また振り出しから作り直す。

何度繰り返しても、彼が求める商品には届かない。

混迷する思考の中に、キリクの声が静かに割り込んできた。


――「売り物にするなら、誰が淹れても同じ味になること」


積み上げた試作の山を前にして、その条件が、どうしても引っかかっていた。

茶を振る舞う際は、ポットや鍋でまとめて作り、それを各々のカップに注ぎ分けるのが一般的だ。

茶葉を量り、決まった湯を注ぐ。

それだけのことのはずなのに、どうして人が変われば味まで変わってしまうのか。


……ふと、手が止まった。


どうして「人」に任せようとするのかしら。


――最初から、量を決めて固定してしまえばいいのではないかしら。


わたくしは手元にあった小さな布を手に取った。

薄いリネンの端に茶葉を少量乗せ、こぼさないようそっと包み込む。

四隅を寄せて、細い麻紐でキュッと結ぶ。

小さな巾着のようになったそれをカップへ落とし、湯を注ぐ。

すると、布の隙間から琥珀色の成分が溶け出し、ゆっくりと香りがほどけていった。


茶葉はあらかじめ、一回分ずつ袋に詰めておく。

あとはカップ一杯分の熱い湯を注ぎ、砂時計が落ち切るまで待ち、袋を取り出すだけ。

この簡潔な手順さえ提示すれば、誰が淹れようとも、淹れ方による味の揺らぎは極限まで抑えられるはずだ。


「これなら、熟練の技術も、繊細な感覚も必要ありませんわ。……あとは、中身をもう一度考えましょう」


カップから立ち上る豊かな風味に目を細めながら、わたくしは静かに頷いた。

手順という器は用意できた。

あとは、肝心の調合を極めれば、キリクの求めていた「商品としての形」になる。


――これからは、配合の妙を追求しなければ。

主材には抽出が穏やかな乾燥果実やハーブを選び、そこに熱に強い根や木の実を少量混ぜ込む。

そうして、多少の時間のズレすら許容する「黄金比の調合茶」を完成させるのだ。


数日に渡り、幾度となく調合を繰り返す。

舌が痺れるほどの試行錯誤の果てに――納得のできる調合茶を創り上げた。


――これなら、もしかすると。


そして、五度目の挑戦。


キリクは湯気の立つカップを手に取り、まずはその香りを深く吸い込んだ。

それからゆっくりと一口含み、目を閉じて、静かにその調和を確かめる。


「……なるほど。こう来ましたか」


彼はカップを置くと、傍らに添えられた小さな布袋を見つめた。


「茶葉をあらかじめ包んでおくとは。これなら湯さえあれば事足りる。旅先でも重宝するでしょうし、何より特別な道具も淹れ手の腕もいらない――実に見事、理にかなった形です」


キリクの言葉に、わたくしはさらに言葉を重ねた。


「ええ。それに、このリネンの小袋をさらに蝋引きの紙で密封すれば、湿気や光を遮り、香りを長く閉じ込めておけるはずですわ。これなら長期の遠征でも、最後の一杯まで鮮度を損なわず楽しめる……と思うのですが、いかがでしょうか?」


わたくしの提案に、彼は手元の試作をもう一度眺め、深く、確信を込めて頷いた。


「……正直に言いましょう。これは売れます。いや、俺が売ってみたい。おめでとうございます、お嬢様。文句なしの合格だ。さっそく契約の話に移るとしましょうか」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥でずっと強張っていたものが、温かな湯気に溶けるようにふっとほどけていった。


この「小袋」という形態は、扱いやすさだけでなく携帯性にも優れている。

彼はこれなら市場で十分に通用するという確信を得たようで、その場で一つの提案を口にした。


「これを、うちの独占商品として扱わせていただけませんか」


他所へは一切卸さないという条件の代わりに、提示された報酬は売上の七割をわたくしが受け取るという、破格の内容だった。


「これほどの品が他所へ流れ、安売りされるようなことがあっては、商品としての価値そのものが薄れてしまう。そうなる前に、どうしても自らの手で押さえておきたいのです」


そう語る彼の眼差しには、この商品を育て上げ、守り抜こうとする商人としての鋭い勝負勘が宿っていた。

利益の大部分を譲ってでも、この「唯一無二」を独占する。

キリクの並々ならぬ覚悟がその数字には表れていた。

わたくしもまた、彼のその確信に応えるべく、深く頷き契約を交わした。


それから十日程、わたくしは心ここにあらずといった様子で落ち着かない日々を過ごした。

キリクはああ言っていたが、自分の持ち込んだ品が、本当に見知らぬ誰かの目に留まることなどあるのだろうか。


期待と不安が入り混じった半信半疑のまま再び店を訪れると、彼はわたくしの姿を見つけるなり、笑顔で呼びかけた。

そして棚の奥から、使い込まれた革製の小さな袋を取り出し、前へ差し出した。


「お待たせしました。これが、お嬢様の取り分です」


差し出された袋は、見た目の小ささに反して、ずっしりとした確かな重みがあった。

受け取る際に中で硬貨同士が触れ合い、チャリン、と澄んだ音を立てる。

リリムがわたくしの代わりにそれを受け取り、恭しく中身を確かめた。


「お嬢様の真心がこもったお茶ですから、これほど売れるのは、当然の結果です」


彼女は驚くどころか、わたくしが成し遂げた成果を誇らしげに受け止めていた。

その揺るぎない肯定が、何よりも心強い。

これは、わたくしが誰の助けも借りず、ただ自分の知恵と指先だけで初めて手にした、正真正銘の「報酬」だった。


……もしディノ様がこのことを知ったら、一体どんな反応をなさるかしら。

そんな考えが、ふと頭をよぎる。

不甲斐なさに胸を痛めたあの日とは違う。

自分の力で勝ち取った結果を携えて彼と向き合う自分を想像してみる。

きっと彼は、あの穏やかな眼差しをわずかに細めて――。


『……頑張ったね』


そう、静かに、けれど包み込むような優しさで褒めてくれる。

そんな気がした。


初めて手にした報酬は、自分のためではなく、ずっと支えてくれたリリムのために使いたいと思った。

欲しいものはあるかと尋ねても、彼女は「お嬢様のお側にいられるだけで」と遠慮して首を振るばかり。

そこでわたくしは、彼女が気兼ねなく普段使いできそうな、小ぶりながらも品の良い髪飾りを贈ることにした。


これまで飾り気のなかった彼女の横顔。

その左のこめかみに、複雑な幾何学模様が施された髪留めを添えると、驚くほどしっくりと馴染んだ。

鏡を覗き込み、顔を綻ばせる彼女を見て、わたくしの胸も温かな喜びに満たされる。


それからも、定期的に店に顔を出しては茶の売れ行きを確かめ、時にキリクの助言を受けながら新しい配合を試す――気づけば、それが当たり前の日常になっていた。


だが、そんな平穏とは裏腹に、わたくしの内側ではせめぎ合いが続いていた。

ここに来てからの最初の数ヶ月、体に現れた薬理反応は決して芳しいものではなく、とてもではないが快方に向かっていると断言できる状態ではなかった。


――変化が訪れたのは、そんな焦りさえも通り過ぎた頃だった。


この地の空気に馴染んだのか、凍りついていた心身が解けるように、症状はゆるやかな改善の兆しを見せ始める。

ほどなくして下されたドリトン先生の診断も、その微かな変化を裏付けるように、これまでの停滞を拭い去る順調な快復を告げるものだった。


キリクの店を訪れると、彼は窓際を定位置とした例の陶器の壺に、わたくしの提案通り花を生けていた。

高価な古美術品を本来の用途とは違う形で使うことに、どこか惜しむような哀愁を背中に漂わせてはいたが――。


「……これほどの逸品を花瓶にできるほど、うちには財力がある。それを他所に知らしめ、格の違いを見せつけるための演出だと言い聞かせていますよ」


以前は、少し苦い言い訳を力なくこぼしていたものだ。

けれど、たまに店を訪ねれば、柔らかな布で表面を磨き上げている彼の姿を、幾度となく目にすることになった。

それでも、日を追うごとに瞳に力が戻り、体調が安定していくラトナの姿を見て、彼は何よりも深く、静かに安堵しているようだった。


そんな風に過ごすうちに、いつしか三ヶ月という月日が流れていた。

ここに来たのは、ただ療養するためだったはずなのに。


庭のハーブたちは見違えるほど大きく育ち、カモミールの小さな白い花が初夏の風に揺れている。

あんなに細かった苗が、今では手のひらいっぱいに健やかな葉を広げ、力強い生命力を湛えていた。

そして、街の店では――。


「あの袋入りのお茶を、もらえるかな」


わたくしの調合した茶を指名する客が少しずつ増えていた。

それまで腰を下ろしていたラトナだったが、ゆっくりと立ち上がると、店の奥から聞こえてくる注文の声に弾んだ声で答えた。


「はいはい、今包むわね! 淹れ方は前と同じ。お湯を注いで待つだけだから、簡単でしょ?」


自分で考え、包んだお茶が、今日も誰かの日常に溶け込んでいく。

それを思うだけで、かつて空っぽだった胸の奥が、陽だまりのような温かさで満たされていくのだった。

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