その出会いが扉を拓く
窓は、初夏の光を招き入れるように大きく開け放たれている。
手入れの行き届いた部屋には塵ひとつ舞わず、ただ庭園の花の香りだけが濃密に漂っていた。
ドリトン先生は、手元の羊皮紙にさらさらとペンを走らせる。
わたくしの向かいの椅子に深く腰を下ろしたまま、顔色をゆっくりと確かめ、満足げに一度だけ頷いた。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
手を止め、顔を上げた先生の口調は、まるで古い友人の近況を尋ねるかのようだった。
ここに療養に来ていることを忘れてしまいそうなほど、その診察はどこまでも穏やかで、丁寧なものだった。
体調を確かめ、いくらか言葉を交わしたあと、先生は体の回復のためにとハーブティーを勧めてくれた。
ハーブには独特の癖を持つものも多いので、最初であればカモミールがよいとのことだった。
「胃を整え、緊張を和らげてくれます。安眠にも効果がありますから、今のあなたにはぴったりでしょう」
味もやさしく、初めてでも飲みやすいという先生の言葉に、わたくしは素直に頷いた。
翌日、リリムを伴ってハーブティーを買いに行くついでに、ゆっくりと街を散策することにした。
通りでは知人同士が足を止め、朗らかに近況を語り合っている。
その傍らを、子供たちが弾んだ笑い声を上げながら駆け抜けていった。
軒を連ねる店先から繊細な音が響き、思わず足を止める。
小さな硝子工房の窓越しには、職人が熱せられた硝子に命を吹き込む姿が見えた。
そのいくらか先、重厚な木枠の窓に飾られているのは見事な銀細工だ。
さらに少し離れた店先では、刺繍の服や、王都では見かけない装飾が並んでいた。
どれも中に入ることはなかったが、硝子一枚隔てた向こう側にある輝きを眺めるだけで、今は十分に満足だった。
いつかゆっくり見てみましょう。
そう思いつつ賑やかな大通りへ戻れば、今度は色鮮やかな市場が視界を埋め尽くす。
山積みにされた瑞々しい野菜は、朝露の名残を纏ってキラキラと輝き、その隣では香ばしいパンや干し肉が、歩く者の空腹を容赦なく刺激してくる。
急ぎ足で歩く者など、この街には一人もいない。
街全体が、まるで陽だまりのような、柔らかで穏やかな賑わいに包まれていた。
市場特有の、食欲をそそる香辛料の香りを背に受けて、入り組んだ路地へと足を踏み入れる。
二、三度角を曲がると、あんなに濃密だったスパイスの香りが不意に遠のいた。
代わって漂うのは、石造りの壁が放つ冷ややかな湿り気の匂いだ。
そうして建物の合間にひっそりと佇む店――「水鏡の天秤商会」を見つけた。
重い樫の扉を押し開ける。
すると、外のわずかな喧騒までもが嘘のように消えた。
代わりに店内に満ちていたのは、乾いた木箱や紙の匂いに、茶葉の香りがほのかに混ざり合う落ち着いた空気だった。
店の中には、二十歳前後の女性がひとり、控えていた。
キリクと同じ、薄緑の混じった水色の髪は、一筋の乱れもなく滑らかに流れている。
日に焼けた肌に、薄紅色の瞳。
その面差しはどこか似通っており、何らかの血縁があることを予感させた。
「いらっしゃい! あれ、見ない顔だね」
彼女が纏う、独特の紋様が染め抜かれた長衣は、足首を隠すほどに裾が長く、ゆったりとした仕立てだ。
そのたおやかな佇まいは、実によく馴染んでいた。
「はじめまして、ヘスティアと申します。こちらはリリム。先日越してきたばかりで、しばらくこの街に滞在します。どうぞよろしくお願いしますね」
「その名前……もしかして貴族のお嬢サマだったりする? キリクが言ってた。めっちゃ可愛いお嬢サマがあの大きな家に来たって」
そこまで一気にまくし立てると、彼女はハッと何かに気づいた後、途端にバツの悪そうな顔をした。
「……だったらこの喋り方はマズイか。アタシはラトナって言います。水鏡の天秤商会の一人です。こちらこそよろしく……ですわ?」
隙のない美貌と、少しぎこちない物言い。
そのちぐはぐな取り合わせが、彼女の飾らない人柄を際立たせていて、なんとも微笑ましかった。
「そのままで構いませんわ。どうぞ、お気になさらず」
「え、本当? 敬語は苦手だから助かるー!」
彼女は眩いほどの笑顔を見せた。
けれど、その笑みの陰で、一瞬だけ呼吸を整えるように肩が小さく揺れたのをわたくしは見逃さなかった。
「あ、ちょっとごめん。……少しだけ、空気入れ替えさせてね」
ラトナはわずかに顔を強張らせたまま断りを入れると、窓を開け放った。
入り組んだ路地の奥、建物の合間を吹き抜ける風は、驚くほど澄んでいた。
その清涼な空気を肺いっぱいに満たすと、彼女は何事もなかったかのように、再び明るい声を響かせる。
「……アタシのことはラトナって呼んでね。あとキリクのことも呼び捨てでいいよ。アタシが許可しちゃう!」
「ふふ、ではお言葉に甘えて。……今日はカモミールティーを買いに来たのですが、どのあたりにありますか?」
「それならこっちよ。案内するね」
彼女は、素材そのものが詰められた瓶や木箱が並ぶ棚へと案内してくれた。
乾燥させた葉や花、根を砕いたものなど、その種類は驚くほど豊富で、店内に漂う香りの源はここにあるのだと知る。
「産地や収穫時期、それに加工の仕方ひとつでね、味も香りもびっくりするくらい変わるの。だから色々試して、自分だけのお気に入りを見つけるといいわ」
「あら、あちらにはハーブの苗も売っているのね」
わたくしが視線を向けると、彼女は弾んだように身を乗り出して頷いた。
「そうなの! 乾燥した茶葉もいいけれど、苗から育てて淹れるフレッシュハーブティーは香りの強さが段違いだわ。早いものなら一ヶ月、遅くても数ヶ月あれば収穫できるし。もし興味があるなら、自分で育ててみるのも面白いわよ。……あ、もちろん育つまではここで茶葉を買ってもらって。色々と混ぜて自分だけの味を調合するのもおすすめ。まあ、淹れる人の腕次第で味が変わっちゃうから、その分、味の責任は持てないんだけどね!」
流れるようなその口上に、横で聞いていたリリムが小さく呟いた。
「……さすがは商人。両方を勧めるとは、抜け目がないですね」
王太子妃教育の一環として、薬草の名称や効能を詰め込まれたことはある。
けれど、実際に自らの手を動かして調合する機会など、ほとんど与えられなかった。
高位貴族の淑女にとって、薬草の知識は「慈愛と教養」を示すための欠かせぬ嗜みだ。
領地を預かる主の妻として、人々に癒やしを授けるための伝統的な技能でもある。
しかし、王太子妃候補に求められるのは、それ以上に政治や外交、歴史、そして厳格な宮廷作法であった。
あの頃の生活は、すべてが他人の手で決められていた。
口にする食事も、頭に叩き込む学問も、刻一刻と過ぎる時間の使い方さえも。
けれど、今は違う。
何に心を通わせ、どう時間を使うか。
それを決めるのは、わたくし自身なのだ。
幸い、これから何をしようか迷っていたところだ。
頻繁に飲むものならば、自分で育て、調合してみるのも良いかもしれない。
――これまで出来なかったことは、挑戦してみたい。
目の前の青々とした苗を見つめながら、わたくしはそんな希望を抱いていた。
結局、数種類のカモミールに加えて、調合用の乾燥ハーブ、瑞々しいハーブの苗、さらには薬瓶やスパイス、彩りのドライフルーツまでもが買い物籠に収まった。
それだけに留まらず、薬草の図譜やお茶の淹れ方の手引書まで、ラトナに勧められるままに手に取ってしまう。
道具など必要なものは、その都度揃えていけばいい。
今はただ、この新しい興味の芽を大切にしたかった。
「まいどありぃ〜! お嬢サマ、また来てね!」
会心の商いができたラトナは、弾けるような笑顔で大きく手を振っていた。
本などの嵩張る荷物は、後日キリクに馬車で運んでもらおうかとも考えた。
けれど、隣に控えるリリムが「この程度、余裕で運べます」と事も無げに言うので、その頼もしいお言葉に甘えて、すべて自分たちの手で持ち帰ることにした。
別邸に戻ると、わたくしは早速、活動的な装いへと着替えることにした。
側頭部の髪をひと房ずつ取って丁寧にひねり、小振りな飾りで固定する。
残りの髪は低い位置でゆるく三つ編みにして、そのまま背へと流した。
選んだのは、首元にタイのあるブラウスと、腰元を編み上げで締める仕立てのスカート。
後ろ身頃には幾重もの白いレースが重なり、足捌きの良さの中に、ささやかな華やぎを添えてくれる。
実用的でありながらも、令嬢としての品位を損なわないその装いは、今のわたくしに心地よく馴染んでいた。
リリムの心配そうな制止も聞かず、わたくしは庭の隅にしゃがみ込んだ。
ポットから取り出した小さなハーブの苗を、掘り起こしたばかりの柔らかな土へとそっと移していく。
白い指先が黒く汚れていくのを見つめていると、なぜだろう、胸の奥がかつてないほどの充足感で満たされていった。
その汚れを誇らしくさえ思い、名残惜しさを感じながらも、リリムが差し出した温かな水に指を浸す。
土が落ち、指先がいつもの白さを取り戻した頃、透き通った黄金色のカモミールティーが運ばれてきた。
湯気と共に立ち上る香りを楽しみながら、買ってきた本を一通り読み解き、後日の診察時にはドリトン先生にも教えを乞うた。
それから数日、本と先生から得た知識をもとに、頭の中でいくつもの組み合わせを反芻する。
そうして納得のいく形が定まると、手探りながらも自分自身で少しずつ、実際の調合を試みることにした。
「薬と毒は紙一重ですよ」
先生は真剣な顔でそう言っていた。
実際の薬草でも、量や使い方を誤れば毒に転じるものは多い。
茶葉の組み合わせによっては、せっかくの効能が打ち消し合ってしまうこともあるのだとか。
知れば知るほど、その奥行きの深さにわたくしは魅了されていった。
数あるハーブの中から、特に香り高いものを厳選する。
そうして試行錯誤の末に完成した、わたくしにとって初めての「自作の調合茶」を、まずはリリムに試飲してもらうことにした。
「……美味しいです。ええ、とても。舌に触れた瞬間、ふわりと花の香りが広がって……まるで春の庭に立っているような心地になります。体の奥まで優しく温かさが染み渡っていくようで、このまま天に召されても悔いはありません」
「まあ、本当?」
初めての挑戦だったけれど、一度で成功するなんて。
わたくしには、意外とこの分野の才能があったのかもしれない。
そんな密かな自負を抱きながら、機嫌よく自分でも一口飲んでみる。
「……んぐ、っ、けほっ!」
しかし、それは口に含んだ瞬間、強烈な苦味と独特のえぐみが襲いかかってくる代物だった。
思わず吹き出しそうになるのを、淑女の意地で無理やり喉の奥へと押し込み、吐き出すのだけは何とか踏みとどまる。
ま、不味い……!
後から追いかけてくる強烈な渋みが、舌を刺すような刺激に変わってくる。
良かれと思って厳選したはずのハーブたちが、お互いの悪いところだけを引き出し合い、凶悪な味へと変貌を遂げていた。
もったいないとは思うけれど、これをもう一度口に運ぶ勇気は、逆立ちしても出てこない。
もし全て飲み干してしまえば、リリムとは別の意味で天に召されてしまいそうだった。
彼女は普段通りのすまし顔を装っているが、よく見ればその瞳はどこか虚ろで、視線はあらぬ方向を彷徨っている。
……どうやら、この上なく気を遣わせてしまったらしい。
今度からは、不味い時は正直にそう言うよう、お願いしておかなければ。
王都へと送る手紙の中にも、この地で新しく始めた出来事を少しずつ書き添えるようになった。
診察に訪れるドリトン先生が、体調の管理だけでなく、健康的な生活の知恵や薬草の効能までも教授してくださること。
『水鏡の天秤商会』という店で、キリクとラトナという快活な商人と知り合ったこと。
そして、庭の隅に小さなハーブの苗を植えたこと。
朝に夕に土を覗き込み、毎日少しずつ芽が伸びていく様子を見守るのが、思いのほか楽しいのだと。
それから――自分でお茶の調合を始めたことも。
まだ失敗ばかりで、リリムを困らせてしまうこともあるけれど、それでも新しい何かを試すのは、胸が躍るほどわくわくするのだ。
そんな日々のささやかな彩りを、わたくしは慈しむように手紙の中へと綴っていった。
書き終えて封を閉じたあと、ふと考える。
美味しく作れるようになったなら、このお茶を誰かにも飲んでもらいたい。
そう思ったとき、心の中に自然と一人の顔が浮かんだ。
このお茶の調合がもっと上手くなり、自信を持って差し出せるようになったなら――その時は、ディノ様にも飲んでいただこう。
……彼は、どんな顔をするだろう。
驚くだろうか、それともいつものように優しく微笑んでくれるだろうか。
ふと、そんな未来を想像して、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
それからというもの、わたくしは日を忘れて様々な組み合わせを試した。
最初はあまりの不味さに、リリムと一緒に悶絶することも少なくなかった。
鼻をつくような独特の臭いや、舌を刺す強烈な苦み。
思わず顔をしかめてしまった失敗の記録を、ありのまま羊皮紙に書き留めていく。
どの草花が互いに響き合い、どれが喧嘩をしてしまうのか。
膨大な組み合わせの中から、正解へと繋がる道筋を一つずつ、手探りで絞り込んでいった。
診察に訪れるドリトン先生は、その没頭ぶりを柔和な笑みで見守ってくれていた。
「失敗はすべて糧になりますよ。心と体は表裏一体ですからね。こうして何かに心を注ぐことは、精神の健やかさだけでなく、生きる活力の源にもなるのです」
その言葉に背中を押されるようにして、わたくしはもう一度、慎重に茶葉を量り直す。
ほんのわずかな分量や、蒸らす時間の違いだけで、味も風味もまるで別物へと変わってしまう。
今まで当たり前のように享受していたあの一杯が、調合師や使用人たちの確かな腕に支えられていたのだと、身をもって痛感した。
「今まで、どれほど贅沢なものを頂いていたのかしら。改めて感謝しなくてはいけませんね」
そんな反省を口にしながらも、わたくしの足は自然と外へと向く。
商会までは散歩の距離としても丁度良く、足を運ぶ頻度は日に日に増えていった。
気がつけば、ラトナやキリクとも気兼ねなく言葉を交わす仲になっている。
彼らとの会話には、貴族特有の回りくどい言い方がない。
裏表のない率直なやり取りは、投げられた言葉をそのまま素直に受け取ればよく、それが今のわたくしには何よりも心地よく、気が楽だった。
そんな穏やかな日々の中、ふと手に取った本に、ハーブを用いた軟膏の作り方が紹介されているのを見つけた。
診察に訪れたドリトン先生に尋ねてみると、ラードとミツロウさえあれば家庭でも簡単に作れるのだと教えてくれる。
それならぜひ試してみたい。
そう思い立ったわたくしは、材料を買い揃えるべく再び商会へと足を運んだ。
店に入ると、今日はキリクが一人で店番をしていた。
辺りを見回してみても、あの太陽のような笑顔の持ち主の姿は見当たらない。
「あら、ラトナはどうしましたの?」
「ああ……。あいつ、今日は体調を崩して奥で休んでいるんですよ。様子を見に行けば行ったで『さっさと仕事に戻れ』と怒られる始末でして。それでこうして、大人しく店に立っているわけです」
その時のやり取りを思い出したのか、キリクは苦笑していた。
「昔は『お兄ちゃん』なんて呼んで、後ろをちょこちょこ着いて回っていたんですけどねぇ。それが今じゃ、遠ざけようとする。あーやだやだ。一体いつの間に、あんなに可愛気がなくなってしまったんだか」
大袈裟に肩をすくめて嘆いてみせるが、その声には隠しきれない優しさが滲んでいる。
「……お嬢様にこんなことを頼むのは、失礼を承知の上なのですが。もし街に来る用事がありましたら、たまに寄ってやってくれないでしょうか。あいつを一人にしておくと、どうにも落ち着かなくて。お嬢様のような話し相手がいれば、ラトナも大人しくしているでしょうから」
「買い物のついででよろしければ、構いませんわ」
わたくしがそう微笑んで了承すると、彼は安心したように目を細めた。
どうやらキリクは、彼女に対してかなりの過保護らしい。
ふと、合点がいった。
初対面の折、彼がわたくしを試したのは、単なる客の選別ではなかったのだ。
商会やラトナの傍に置くべきか、その害の有無を見極めていたのだろう。
もし権力を笠に着るような人物なら、大切なものを守れないと踏んだに違いない。
気さくな態度の奥にある、情に流されぬ誠実さ。
彼は彼なりのやり方で、守るべき領分を厳しく峻別しているのだと、改めて感じた。
そんなわたくしの内心を見透かしたわけではないだろうが、彼は続けて、今後のやり取りについても現実的な提案を口にした。
荷運びや交渉で街を回ることも多く、別邸へ直接足を運べるのは数日に一度。
もし急ぎの用があるならば、邸で待つよりも商会へ直接来た方が話が早いのだという。
それならば、これから幾度も商会へ足を運ぶことになりそうだ。
健康のための散歩がてら、キリクとの約束も果たせるのだから、わたくしにとってはまさに一石二鳥といえる。
そう思うと、これからの外出が少しだけ楽しみになった。
別邸に戻ると、さっそく手荒れに効くという軟膏作りに着手した。
火にかけた鍋の中で、白く固まっていたラードとミツロウがゆっくりと熱に解け、透明な液体へと変わっていく。
そこに刻んだ薬草を加え、成分をじっくりと抽出した。
ヘラで混ぜ合わせるだけの工程は、思っていたよりもずっと簡単で、実験をしているような楽しさがある。
熱を冷ますと、液体はぽってりとした柔らかな乳白色に固まった。
わずかに混じった薬草の色が、それを淡い若草色に染めている。
「……うまくいったのかしら?」
わたくしは完成した軟膏を小瓶に詰め、使用人に手渡した。
「今度、使い心地を教えて」と伝えると、彼らは驚きながらも、どこか嬉しそうに深々と頭を下げた。
一仕事を終え、外の気配を感じたくて庭へ出た。
そこでは、以前植えたハーブたちが驚くほどすくすくと育っていた。
ふと、土の隙間から顔を出したばかりの小さな芽を見つける。
その健気な姿を目にした瞬間、胸の奥に淡い灯火が灯ったような、不思議な温かさが広がった。
「ただの植物なのに……どうしてかしら」
今までわたくしがいた場所では、結果や効率ばかりが求められていた。
けれど、ここでは、ただ土に触れ、見守る。
その何気ない積み重ねが、こうして確かな形となって現れる。
所在なく過ぎ去るだけだった時間が、気づけば庭の木洩れ日のように、わたくしの内側を淡く彩り始めている。
そんな、今まで知るはずもなかった穏やかな感覚が、心をほどいていく。
しゃがみ込み、柔らかな葉を指先で軽く揉んでみる。
指の間から、甘く爽やかな香りがふわりと立ち上り、午後の柔らかな光の中に溶けていった。
数日後、ハーブティー用の蜂蜜を切らしてしまった。
再び「水鏡の天秤商会」へ赴こうと身支度を整えていると、リリムが思い出したように軟膏の話題を持ち出した。
「お嬢様の軟膏、使用人たちの間でなかなか好評のようです。一晩で劇的に治るわけではありませんが、塗った後は肌が柔らかくなり、水仕事の痛みも和らぐのだと喜んでおりました。皆、毎日続けてみると張り切っています」
「まあ、それはよかったわ。また無くなったら作るから、遠慮なく教えてちょうだい」
調合茶の出来栄えは未だ迷走中だが、軟膏の方は喜んでもらえたらしい。
自分のしたことが誰かの役に立ったというささやかな充足感に、目的地へ向かう足取りも自然と軽くなった。
店内は思いのほか静かだった。
昼下がりの柔らかな光が窓から差し込み、壁際の棚に並ぶ硝子瓶や木箱の縁を、照らし出している。
空気の中には、乾いた茶葉の清涼感と、異国の香辛料の匂いがゆるやかに混ざり合い、この店特有の穏やかな香りが満ちていた。
店番をしていたラトナは、わたくしの姿を認めると、大きな木机の向こうで軽く手を上げて迎えた。
「いつもありがとうございまーす! この間も来てくれたんだってね。キリクから聞いたよ」
「体調を崩したと伺いましたが、もう動いても大丈夫なのですか?」
わたくしが問いかけると、彼女は一瞬だけ表情を曇らせた。
「……いまは、平気」
どこか歯切れの悪い答えだった。
けれど、ラトナはすぐに視線を窓の外――活気ある人々が行き交う通りの風景へと向ける。
「ここは空気が美味しくて騒がしくないでしょ。休むにはぴったりなの。この街に来てよかった。思ったより大丈夫よ」
彼女はそう言って明るく振る舞ったが、それ以上自身の体調に深く触れるつもりはないようだった。
拒絶というよりは、心配をかけまいとするような、軽やかな話題の転換。
この商会は、時間や曜日によって波があるらしく、今はちょうど客足が途切れる凪のような時間帯のようだった。
「せっかく他にお客さんもいないんだし、もし急ぎの用がないなら、お茶でも飲んでいかない?」
「ええ、是非」
ラトナの誘いに、わたくしは背後に控えたままのリリムを振り返った。
彼女はいつものように影のごとく静かに立ち、一糸乱れぬ姿勢を崩そうとしない。
「リリム、貴女も座りなさい」
わたくしが促すと、リリムは困惑したようにわずか一歩、後ずさった。
「いえ、私は……そのようなわけには――」
「座らないというのなら、次からはお留守番を命じます」
その一言に、リリムは「それだけは、ご容赦ください……」と消え入るような声でこぼした。
彼女は使用人としての分をわきまえない振る舞いをするのと、付き添いを禁じられるのを天秤にかけ、苦渋の決断を下したらしい。
観念したはずなのに、まるで壊れ物に触れるかのような慎重さで、椅子の端に申し訳程度に腰を下ろした。
主従のやり取りが一段落したのを見計らい、ラトナは悪戯っぽく微笑んで、背後の棚を振り返った。
「何か飲みたいものはある? 店にあるものなら、どれでも好きなのを選んでいいよ」
「……それは、売り物なのではなくて?」
当然の疑問を口にすると、彼女は案ずるなと言うように手をひらひらと振ってみせた。
「少しくらい足りなくても、適当に誤魔化しておくから。大丈夫、大丈夫!」
ラトナにならキリクは呆れつつも許しそうだな、と思いわたくしは口元を綻ばせた。
彼女の厚意を辞退するのも野暮というものだろう。
「では――、それをいただこうかしら」
わたくしが選んだのは、心を落ち着かせてくれるレモンバームの茶葉だった。
やがて、わたくしとリリムの前に温かなカップが差し出される。
立ちのぼる湯気とともに、レモンに似た瑞々しく爽やかな香りがふわりと広がり、店内の穏やかな空気の中に溶け込んでいった。
ラトナは自分用のお茶を別に用意すると、わたくしたちの向かいに腰を下ろした。
お茶を飲むのに邪魔にならないよう、彼女が髪を耳へ掛けると、広がったラッパ袖の奥から星形の腕輪が覗き、しゃらりと澄んだ音を立てる。
穏やかな昼下がりの静けさの中、その硬質な響きは妙に軽やかで、心地よく耳に残った。
わたくしがカップを手に取ろうとしたとき、リリムが先に己の茶を口に含んだ。
異常がないことを確かめ、毒見を終えたことを知らせるように、彼女はわたくしへ目配せして深く頷く。
ここは王宮ではない。
ラトナが毒を盛るような人ではないと分かってはいたが、形式を重んじ、何があろうと主を守らんとするリリムの忠義を無下にするわけにもいかない。
わたくしはただ、致し方ないというように小さな苦笑を漏らすにとどめた。
改めて、茶を一口含む。
驚くほどに口当たりがまろやかで、レモンバーム特有の爽やかさと、ほんのりとした草の甘みが舌の奥に心地よく残った。
「美味しい……」
思わず零れたその一言は、湯気とともに穏やかな空気の中へと溶けていった。
しばらくは、穏やかで他愛のない話が続いた。
『水鏡の天秤』――その商会名の由来を、ラトナは誇らしげに語ってくれた。
揺らぎのない水面がありのままの姿を映し出すように、静かに、けれど正確に物の価値を見極める。
偽物や珍品に惑わされることなく真実を射抜く鋭い鑑定眼と、正当な対価を測るという商人としての矜持。
この名には、彼らのそんな誠実な信念が込められているのだという。
やがて話題は自然と、ラトナとキリクの出身地へと移っていった。
「やはり、お二人は他国の出身なのですね」
わたくしが問いかけると、ラトナはカップを置いて頷いた。
「うん。熱帯の国だよ」
そこでは水が極めて貴重で、時には硬貨よりも価値を持つのだという。
この街では雨が降ると人々は「天気が悪い」と嘆くけれど、彼女のいた土地では違う。
雨が降れば、人々は神に感謝を捧げる。
雨は空からの慈悲であり、命を繋ぐ何物にも代えがたい恵みだからだ。
さらに風が吹けば、砂が道を埋め尽くし、昨日まであった道が消えてしまうことも珍しくないという。
だからこそ旅人は風を読み、夜空の星を唯一の地図にして歩くのだ。
話題は、店内に漂う香辛料の話にも及んだ。
この国ではスパイスは高価な嗜好品だが、彼女たちの故郷ではもっと生活に密着している。
お茶に入れたり薬にしたり、防腐剤として使ったりと用途は多岐にわたる。
強い香りのスパイスには病魔や邪悪な精霊を追い払う力があると信じられており、それ自体がお守りのような意味も持っているのだという。
「あっちでは硬貨よりも物々交換が主流だったから。人と交渉して、手を取り合うのが当たり前。だからかな、みんな気さくな人が多かったよ」
懐かしむように、楽しそうに語った。
語られる鮮やかな文化の違いに、わたくしとリリムは何度も驚かされ、ただ感嘆のため息を漏らすばかりだった。
ラトナは手元のローズヒップティーを一口飲み、カップを木机に置くと、今度は頬杖をついて瞳を輝かせながら言葉を紡いだ。
「でも、数年ほどはこの街に滞在することになるかな。アタシもキリクも旅と珍しいものが好きでさ。いつか家族で世界中を巡るのが夢なのよ」
その声には、まだ見ぬ異国の地への純粋な憧憬と、未知の景色を追い求める旅人らしい高揚が宿っていた。
それからも、彼女が投げかける軽快な冗談や他愛のない世間話に、わたくしは幾度も口元を綻ばせた。
店内に漂うスパイスの香りと、窓から差し込む柔らかな光。
別邸での静寂とはまた違う、賑やかで穏やかな時間は、砂時計の砂がこぼれるようにゆっくりと過ぎていった。




