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新生活と恋の予習

オルドリッジ邸から馬車で五日後、療養地に到着した。

ここまで離れれば、王都の騒動も噂も、すぐには届かない。

新たな地にそっと足を降ろし、見渡すと、別邸の庭を細い小川が静かにゆき、その岸辺を季節を繋ぐ花々が埋め尽くしていた。

水のせせらぎと鳥のさえずりが心地よい和音を奏で、風が吹くたび、芳しい花の香りがふわりと鼻先を掠めていく。


王宮では感じられなかった静けさが、ここにはあった。

あの息の詰まるような緊張感が嘘のように、世界が塗り替えられている。

常に誰かの足音が響き、視線に晒されていた喧騒は、もうどこにもない。


ここは、確かな安らぎに守られた場所だ。

けれど、決して外界を拒んで閉じているわけでもない。

人の往来は少ないが、時折、遠方から人が訪れると聞いている。

王都とは異なる価値観を持つ者が紛れ込むこともあるのだとか。


別邸の中はきちんと整えられており、使用人も常駐しているため不便はなさそうだった。

リリムも当然のようについてきているので、身の回りの世話はこれまで通り頼むことになる。

彼女が荷解きをしている間、椅子に腰掛け、ゆっくりと紅茶を口にした。


――ついに、王太子妃候補から抜け出せたのね。


その実感が、じわりと胸の奥へ広がっていく。

ここではもう、わたくしを監視する目はない。

どこまでも自由に過ごせるのだ。

一日中何もせずに、ただ怠惰に過ごしていても許される。

夜更かしをしても、朝寝坊をしても、誰に気兼ねする必要もない。

好きな時に好きなものを食べ、勉強だって強制されない。

心の底から湧き上がる確かな解放感に、わたくしは思わず頬を緩ませた。


侯爵家の独断で続けてきた、毒耐性を作るための薬草摂取。

それも、もう必要ないだろう。

あの日々が当たり前だと、これまでは疑いもしなかった。

しかし今となっては、通常の薬さえまともに効かなくなってしまったのが現実だ。

これまでは健康体であったけれど、今後も安泰とは限らない。

うっかり風邪を引き、そのまま帰らぬ人に――などという結末は迎えないように。

父の命令通り、まずは自分の体を治すことに専念しようと思う。


療養地には、常駐の医師がいた。

名をドリトンという年配の男性で、オルドリッジ家とは古くから付き合いがあるらしい。

穏やかな口調ではあるが、その眼差しには老練な医師特有の鋭い観察眼が宿っていた。

簡単な問診と脈診を終えると、ドリトン先生は静かな声で告げた。


「長期間にわたる毒の摂取により、体内の薬理反応が極めて不安定な状態にあります。幸い、表面上のお体そのものは健やかですから、薬草成分を完全に抜きさえすれば、本来の正常な体質に戻る見込みは十分にありますよ。……ただ、変質してしまった体質を安定させるには、相応の時間が必要でしょう」


一拍置き、先生はわたくしを諭すように見つめた。


「まずは毒を完全に断つこと。しばらくは慎重に経過を観察せねばなりません。日常生活に大きな支障がない程度までは戻せるはずですが、問題は、いつ『完治』したと言い切れるかです」


先生はそこで言葉を切り、わずかに表情を曇らせて付け加えた。


「今のあなたの体は、投薬量の調整が非常に難しい。薬効が過剰に出るか、あるいは十分に作用しないか……その振れ幅が大きすぎるのです。我々が最善を尽くしても、どうしても不確定要素が残ります。焦らず、この体質と根気強く向き合っていく覚悟を持ってください」


先生はそれから、ふっと呆れたように苦笑した。


「侯爵家も、随分と思い切ったことをなさったものです。薬草は便利なものですが、扱い方を誤れば容易に毒へと転じる。分量も調合も、すべては精密な知識の上で成り立つものなのです」


先生の言葉を聞く限り、思っていたよりも絶望的な状況ではないらしい。

そう理解した瞬間、胸の奥に詰まっていた塊が、わずかに解けた。

けれど――それが決して、楽観できるという意味ではないことも、嫌というほど分かっていた。


それから先生は、回復を早めるためには生活習慣を整えるのが一番だと語った。


毎日、軽い散歩をすること。

栄養の偏りがない食事をとること。

そして夜は、十分に睡眠をとること。


「特別なことは必要ありません。まずはその程度で十分です」


そう言い残し、先生はまた診察に来ると告げて帰っていった。

……どうやら、怠惰な生活と夜更かしは、当分の間お預けになってしまったみたいね。


先生の言葉を反芻しながら、しばらくの間、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

遠くから聞こえてくる鳥の声や、かすかな水の音。

それらの音だけが、この部屋にそっと寄り添っている。

この穏やかな療養地では、考える時間だけは、たっぷりあるのだ。


王太子妃候補という檻からは、ようやく抜け出せた。

けれど、それで問題がすべて消え去ったわけではない。

むしろ――ここからが本当の正念場だった。

自由を手にしたわたくしの前に立ちはだかるのは、残酷なまでの「家格」という壁。


ディノ様は、伯爵家の三男。

継ぐべき爵位を持たない身だ。

そしてわたくしは、今もなお――侯爵令嬢。


彼が相応の地位や爵位を勝ち取るか、あるいはわたくしが侯爵令嬢という肩書きを捨てない限り、この想いを遂げるのは難しい。


その方法としてまず思いつくのは、養子縁組だ。

跡継ぎのいない貴族家へ彼が入り、その爵位を継ぐ。

貴族社会では珍しくない話だが、これには相手方の家門の事情が大きく絡むため、運の要素も強い。


もう一つの道は、婿入りによる分家の創設。

オルドリッジ侯爵家の領地の一部を割き、新しく立てた家の当主として、ディノ様に爵位を与えるのだ。

だが、これには絶対的な権力を持つ父の許可が不可欠となる。


……あの人は、甘くない。

力を示した者には相応の評価を与えるが、結果を出せない者にはどこまでも厳しい。

もし、この体質を利用せずに他の方法で王太子妃を辞退していたら、わたくしもどうなっていたか……。

不本意だけれど、こればかりはエリーズ様に感謝しなければいけないわね。


情では動かず、利で動く。

だからこそ――最も厄介で、そして、最も分かりやすい。


どちらにしても、先程の構想は、わたくし一人でどうにかできる話ではない。

どの道を選ぼうと、最終的にはディノ様自身の意思と、父の容認が必要だ。

何より、父が他人から譲られた爵位で満足するかといえば――正直、無理だろう。

侯爵家に莫大な利益をもたらすなら話は別だが……あの人は、自ら努力も腹芸もできない人間を好まない。


……となると、常識的な方法でこの壁を壊すのは難しい。


駆け落ち。

ふと、その言葉が頭をよぎった。

けれど、即座にその考えを振り払った。


それは違う。

ディノ様に今あるすべてを捨てさせ、茨の道を歩ませるような選択を、わたくしが望むはずがない。

それは彼に対してあまりに酷だし、何より――わたくしの侯爵令嬢としての矜持が、そんな無責任な逃避を許しはしなかった。


ならば。

いっそこのまま、わたくしが「行き遅れ」になるのが、最も現実的なのかもしれない。

適齢期を過ぎても一向に相手が決まらなければ、あの両親とて「社交界で笑われるくらいなら、誰でもいいから早く嫁がせてしまおう」という心理に陥るはず。

その焦りこそが、わたくしの狙い目になる。


――問題は、いつまでここに居られるか、ね。

体が完治して王都に帰ってしまえば、すぐさま次の縁談が用意されるのは目に見えている。

王家が差配するはずだった話を辞退した手前、父もさすがに、療養中の身に貴族の義務を強いるほど無体ではないらしい。

少なくとも「快復するまでは静観する」という名目は、今のわたくしを守る盾になってくれるはずだ。

計画を完遂するためには、どうにかしてこの地に留まり、婚期を逃すほどの長い年月を稼ぎださねばならない。

けれど、それは彼と会えない時間が続くことを意味する。

わたくしがここで時を稼いでいる間に、彼は「遠くにいる友人の妹」のことなど忘れ、身近な誰かと愛を育んでしまうかもしれないのだ。


……それは、あまりにもまずいわ。


結局のところ、まずは振り向かせることから始めるしかないのよね。

彼の瞳にわたくしが映っていないのであれば

いかなる場を用意したところで空しいだけ。

今、想いを告げれば、家の力を背景に、彼は断ることすら叶わないでしょう。

心を置き去りにして、形ばかりの隣に座ることに、一体何の意味があるというのか。


家格の差も、父の許しも、すべては彼と心が通じ合った後の話だ。

その先の困難は――その時になってから、また向き合えばいい。


それと同時に、わたくしが背負っている貴族としての義務についても、既存の形に縛られない「別の果たし方」がないか、ゆっくりと時間をかけて考えていこうと思う。


近年、貴族の間でも少しずつその在り方、考え方は変わりつつある。

たとえ古い価値観からすれば「体面に傷がつく」と言われるような振る舞いになろうとも、その傷はわたくしが甘んじて受ける。


伝統を守ることだけが正解ではないはず。

彼との未来も、義務への誠実さも、どちらも諦めない方法を一つずつ探していかなければ。


――と、そこまで思考を巡らせたところで、わたくしはあまりにも根本的な事実に突き当たった。


「そういえば、ディノ様の女性の好みも、これまでの恋愛遍歴も知らないわ」


そもそも彼がどのような女性に心動かされるのか、その基礎知識すら持っていなかったのだ。

今更ながら己の準備不足に愕然とするしかなかった。


その口走った本音を有能な侍女は聞き逃さなかったのだろう。

荷解きを終えたリリムが、どこか誇らしげに、少しだけ得意げな顔をしてわたくしの前にさり気なく立った。


「いつお嬢様に問われてもよいように、その種の情報は既に把握しております」


「……聞きたいけれど、怖いわね。もし、恋人が五十人もいて、隠し子までいたらどうしましょう」


仮にそれ以上いても諦めるつもりはないのだけれど。

惹かれた理由はいくつも挙げられる。

けれど今はもう、そんな言葉では説明しきれないほど強固に、わたくしの心が「あの人でなければ駄目だ」と言い張っているのだ。


「お嬢様……それは、いささか想像が過ぎます。もしフィデル卿が本当にそれほどのクズでしたら、私は嫌われるのを覚悟してでも、全力でお止めしております」


「……それなら、尋ねても大丈夫かしら?」


自分に言い聞かせるように呟き、意を決して問いかける。

すると彼女はためらう素振りも見せず、事務的に事実関係を並べ立てた。


学舎時代に二度。

文官になってから一度。

いずれも女性側から告白されて交際を始めたが、どれも長くは続かず、別れを切り出したのはすべて彼からであったという。

そして現在は一年以上、特定の交際相手はいない、と。


「やっぱり……過去にそういう人は、いらっしゃるのね……」


分かっていたはずのことなのに、思わず肩を落とした。

振り返ってみれば、王太子妃候補として過ごした歳月は、わたくしにとって色恋の入り込む隙などない、義務に塗りつぶされた日々だった。

あの方を想う時間だけが唯一の色彩で、当然、他に心を寄せるような特別な人など、一度として現れなかった。


「……私はむしろ、もっと多いと思っていました。明るく人当たりも良く、客観的に見て器量も優れておいでです。ですが、フィデル家そのものが中央では目立たない存在ゆえ、名家への輿入れを望む令嬢たちからは、最初から候補外と見なされていたのかもしれません」


それでも、もし彼が嫡男であったなら、今頃はとうに婚約、あるいは結婚していただろう。

そう考えると、己を売り込む余地のある「三男」という立場であったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。


「ただし、女性の好みまでは絞り込めませんでした。過去にお付き合いされた三人は、年齢も容姿も不一致でしたので」


「あら……それは、対策の立てようがなくて困ったわね」


「ですが、ご心配には及びません。お嬢様は星の運行のように、見た者の視線を自然と導く方です。微笑めば春の訪れを思わせ、静かに佇めば湖面の月のように心を落ち着かせる。その存在は、人の感情を穏やかに整える力すらあるのです」


「……つまり?」


「殿方が魅了されるのは、むしろ自然の摂理と言えるでしょう」


それなら最初から苦労なんてしてないのだけど。


そのとき、不意に夜会で見かけた光景が脳裏をよぎった。

洗練された未亡人や、酸いも甘いも噛み分けたマダムたちが、妙に親しげに彼を囲んでいた一幕だ。

彼は誰に対しても礼儀正しく、崩れぬ笑みを湛えている。

けれど、あの時彼女たちに向けていた顔は、わたくしに見せる表情よりもずっと柔らかく、どこか隙があったような気がしてならない。

あんな様子を見せられては……ディノ様も、彼女たちの厚情を案外、満更でもなく受け入れていたのではないか。

そんな疑念が胸をかすめる。


「――もしかして、年上がお好きなのでしょうか」


それは、少し困る。

……いや、かなり困る。


化粧や装いで大人びた風を装うことはできても、年齢という経験値ばかりは、どうしたって誤魔化しがきかない。

なぜ、あそこまで彼女たちの懐に自然に入り込めるのか。

考えてみれば、彼は文官として実務をそつなくこなす、しっかりとした部分も持ち合わせている。

けれど、その根っこにあるのは、やはり末っ子としての気質なのだろう。

本能的な部分で、誰かに甘えたいという欲求が燻っているのではないか。

あの飾り気のない人懐っこさは、淑女たちの母性本能を確かに射抜いてしまう。

もし、彼が成熟した余裕を持つ女性……すなわち、自分を丸ごと包み込んでくれる「お姉様」のような存在を求めているのだとしたら、わたくしの入り込む隙など、どこにあるというのだろう。


「……いえ、まだ負けてはいませんわ。年下だからといって、甘やかすことができないなんて決まっておりません。どうしても熟成された女性がいいと仰るなら、十五年後くらいに期待していただくしかありませんわね!」


わたくしの独り言に、また妙な方向へ考えが逸れかけていると察したのか、リリムがそっと声をかけてきた。


「……フィデル卿が年上好きかどうかは分かりかねますが、どうやらお嬢様には恋愛知識が足りず、思考が極端になっていることだけは確かでございますね」


その言葉に、わたくしは雷に打たれたような衝撃を受けた。


なんてこと……!


確かに、わたくしには恋愛について誰かに教えを乞うたことも、実践経験もない。

そう突きつけられてしまえば、己の無知が恐ろしくなり、このまま立ち止まっているわけにはいかないという焦燥がこみ上げてくる。


リリムの言う通り、今のわたくしには、冷静な分析も、彼を惹きつける駆け引きの札も足りていない。


それならば、恋のいろはを先人の知恵――すなわち指南書から紐解くことに決めた。

戦に臨む前に、まずは盤上の予習が必要だというもの。


ディノ様と結ばれる方法は、他にも考える必要がある。

けれど、今はまだ焦らなくてもいいはずだ。

少なくとも、この静養という名目で得た「猶予」は、わたくしにとって大きな味方となるだろう。

まずは心身に本来の平穏を呼び戻してから、ゆっくりと答えを探せば良い。

時が巡れば、事態が望ましい方向へと好転する可能性も、決して否定はできないのだから。


とりあえず――しばらくは、身を休めることにしましょう。


それからわたくしは、ディノ様、クリスタ様、そして王女殿下へ宛てた手紙をしたためた。

……ついでにお父様にも、無事到着したことだけは書き添えて、知らせておくことにした。


旅の疲れもあり、最初の数日はゆっくり過ごした。

体調が落ち着いてくると、ふらりと街へ出て店を覗いたり、陽光の下を散歩したり、あるいは別邸の書庫に眠る古い本を捲ったりした。

そうして穏やかな時間に身を任せているうちに、あっという間に日は過ぎていく。

やがて、待ちわびていたディノ様からの返信が届いた。


封を切る前から、すでに分かっていた。

きっとあの人は、変わらない。

飾ることなく、常に相手を慮る温かい言葉を選ぶのだろう。

だからこそ、安堵し――そして同時に、ほんの少しの物足りなさを覚えてしまうのだ。


ペーパーナイフを滑らせて丁寧に封を切り、取り出した手紙にそっと目を落とした。


療養地に無事到着したとの知らせを受け取り、安心いたしました。

王都は相変わらずの喧騒で、静養には到底向かぬ場所だと改めて感じております。

そちらは今、花がもっとも美しい時期だと聞き及んでいます。

もし散歩をされるなら、決して無理はなさらず、その光景を楽しまれてください。

王宮の方は大きな変わりはありません。

こちらのことは気に留めず、どうか今は心ゆくまで体を休めてください。

またお手紙をいただければ、これほど嬉しいことはありません。


特別なことは何も書かれていない。

それでも、わたくしは何度も、何度も読み返し、その日は一日中、頬が緩みっぱなしだった。

たった数行の便りなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

ただの日常が、彼からの言葉ひとつで、これほどまでに特別な日に塗り替えられてしまうなんて。

わたくしは、この手紙が色褪せないよう、お気に入りの箱の中へそっと、宝物を扱うように仕舞い込んだ。


それからさらに数日が過ぎた。

療養地での生活は、つい先日までいたはずの王都での日々が、どこか遠い記憶のように感じられるほど、少しずつ肌に馴染んできている。


小鳥たちの賑やかなさえずりに誘われるように、ふと視線を横へ向けた。

窓の外に広がる庭園では、朝露をまとった木々が朝日に透け、まるで宝石のように瞬いている。

そんな穏やかな陽光の中で、ゆっくりと朝食を終える。

最後の一口の紅茶を喉に滑らせ、ひと息ついたその時だった。

傍らに控えていたリリムが、静かな声で用件を伝えた。


「頼まれていた恋愛指南書は、本日の午前中に配達予定です」


「では、そろそろ届く頃合いかしら。裏口に行ってみましょう」


この別邸では、あらゆる荷物の搬入は裏口で行われることになっている。

正面玄関の華やかさとは無縁の、石造りの冷たい勝手口。

その殺風景な場所へ主を立たせるわけにはいかないと思ったのだろう。

わたくしが椅子から立ち上がろうとした瞬間、彼女は制するように一歩前へ出た。


「でしたら、私が確認してまいります」


「これも散歩だと思えばいいわ。一緒に行きましょうか」


そう告げると、彼女はわずかな沈黙を置いてから「はい」と短く応じ、席を立つわたくしの背後に音もなく回った。


穏やかな時間がこのまま続くのだと、どこかで思っていた。

けれど――現実は、そう簡単に静まり返ってはくれないらしい。


裏口へ向かうと、そこにはすでに馬車が停められており、使用人たちが慌ただしく荷を運び入れている最中だった。

積み上げられた木箱や麻袋が通路を塞ぎ、正面玄関の静寂が嘘のような喧騒に包まれている。

荷の分類を的確に指示している者たちの中に、見慣れない青年が一人混じっていた。


その長身の影は、この辺りではまず見かけない異国情緒を漂わせていた。

年齢は二十代半ばといったところだろうか。

日差しをたっぷり浴びたような小麦色の肌に、銀にも似た水色の髪がよく映えている。

その髪にはわずかに薄緑色が混じり、揺れるたびに複雑な色合いを見せていた。

がっしりとした逞しい体格からは男らしさが溢れ、その顔立ちの中で黄緑色の瞳が静かに光を湛えている。

何より目を引くのは、この地方の様式とは明らかに異なる紋様の装束と、右の横髪に飾られた大きな星形の装飾だ。

その立ち居振る舞いも含め、彼が遠い他国からやってきた者であることは疑いようもなかった。


こちらの視線に気づくと、彼は気負う様子もなく穏やかに会釈をし、自ら名乗った。


「はじめまして。名はキリクと申します。商人をしておりまして、この邸へ物資を運ぶ大役を仰せつかっております。……ああ、貴女が噂の、この屋敷のお嬢様ですね。どうぞ、以後お見知りおきを」


丁寧な言葉選びではある。

けれど、そこに込められた敬意は、あくまで「上等な顧客」へ向けられたものだ。

仕草が妙に洗練されていることから、貴族相手の商売にも慣れているのだろう。

権威に気圧されるような初々しさは微塵もなく、その瞳には血筋や地位を畏れる色など欠片も見当たらなかった。


一通りの口上を述べ終えると、キリクは手元の荷へと視線を落とした。

積み上げられた品々の中から、彼は一冊の書物を迷いなく抜き取る。

その背表紙には、事もあろうに「恋愛指南書」と、大きく、はっきりと記されていた。

それを掲げてみせると、キリクは隠そうともせずニヤリと唇を吊り上げた。


「もちろん納品だけでなく、こういった類のご相談にも乗りますよ。お嬢様?」


「なんて無礼な……!」


背後に控えていたリリムの気配が、一瞬にして刺すような鋭さを帯びた。

スカートの下、太ももに隠し持つ、彼女らしい護身用の暗器へと指を伸ばしたのを肌で感じ、わたくしは瞬時に右手を斜め後ろへと動かした。

振り返ることもなく、ただ優雅に宙を舞ったその白い指先が、「控えなさい」と無言の圧力を放つ。


リリムの殺気を含んだ静寂と、キリクの不遜な微笑みが、石造りの勝手口で火花を散らす。

わたくしは動揺を微塵も見せず、まっすぐに商人を見据えた。


別に腹を立てるほどのことでもなかった。

これまで幾多の貴族を相手に、毒を含んだ言葉の応酬や腹の探り合いを繰り返してきたのだ。

目の前の男性——おそらく平民であろう彼の、若さゆえの不敵な揺さぶりなど、積み重ねてきた経験に比べればどこか微笑ましささえ感じてしまう。

それに、わたくしは豪胆な方は嫌いではないわ。


おそらくこれは悪意ではなく、こちらの器を試したに過ぎないのだろう。

怒るような相手なら、彼は即座に頭を下げて謝罪し、深入りせずに距離を取るはずだ。

商人は何よりも、客の機嫌を損ねて商機を逃すことを嫌うものだから。


そうでないなら――

もう少し踏み込んでくるだろうか。


「では、そのうちお願いすることもあるかもしれませんわね」


わたくしが余裕を湛えた笑みでさらりと受け流すと、キリクは意外そうに、そしていっそう興味深そうにじっとこちらを見つめてきた。


「その時を楽しみにしております。今はこの地で『水鏡の天秤商会』という店を営んでおりましてね。普段はラトナという女性に預けていますが、近隣までお越しの際はぜひお立ち寄りください。ここでは手に入らない品も取り寄せられますので」


「ええ、近いうちに寄らせていただきます」


「ぜひ。たとえ欲しい物がなくても構いません。商人は客と語らうのも仕事のうちですから。それにお嬢様のような方は、いいお客になってくださりそうだ」


商人は饒舌さの裏で、その瞳は鋭くわたくしの器を推し量っている。

それはまるで、宝石の価値を見極める鑑定士のような、値踏みの視線だ。


軽妙な振る舞いと、それを支える底知れない胆力。

キリクの第一印象は――どこか掴みどころのない男性、かしら。


わたくしは、彼が恭しく差し出した指南書を受け取った。

どうやらこの療養地には、王都のそれとは異なる、一筋縄ではいかない出会いがまっていたらしい。


荷下ろしの検品を終えると、彼は羊皮紙――納品書の端に赤い蝋を垂らした。

ふい、と指先で金の指輪をくるりと回す。

手のひら側に隠されていたのは、ローズ・クォーツの印章だ。

宝石が、熱い封蝋の上へ鮮やかに商会の紋章を刻み込んだ。


すべての手続きを終えると、わたくしたちは目的の本を大切に抱え、自室へと戻った。

先ほどのキリクとの探り合いは、わずかなさざ波を心に残したけれど。

今は深く考えるまでもないだろう。


わたくしは逸る気持ちを抑え、さっそく届いたばかりの『恋愛指南書』を開き、その技巧を学ぶことにした。


……けれど、頁をめくる指がすぐに止まる。

そこに記されていたのは、わたくしが想像していた「心の通わせ方」とは、似ても似つかぬ策略の数々だった。


――視線の送り方。

――さりげない褒め方。

――身体接触……いわゆるスキンシップ。


目次に並ぶ章の題名を一瞥しただけで、言いようのない不安がこみ上げてくる。

わたくしは耐えきれず、そっと本を閉じた。


……恋愛とは、こんな戦術の応酬だったの?

淑女としての矜持を問われるような、あられもない文言。

察するに、これはあまり表立って語られることのない類の指南書のようだ。

本当に、貴族令嬢が教育の一環として読んでよい本なのだろうか。


だが、どうしても続きが気になり、再び本を開く。

そこには、基本的な教育では決して語られることのない、過激なまでの「秘策」が綴られていた。


【視線の送り方】

会話の途中で、あからさまに彼の唇をじっと見つめなさい。

彼がその視線に気づいた瞬間、熱に浮かされたかのように、伏せ目がちにそっと逸らすのです。


【さりげない褒め方】

耳元で囁くように、「そんな顔、私以外に見せないでくださいね」と独占欲を煽りなさい。

彼はあなたを自分だけのものだと錯覚します。


【身体接触】

重い荷物を持ってもらう際、彼の腕に胸が触れるほど寄り添いなさい。

事故を装って少し当てても構いません。

いや、むしろ押し付けなさい!

これで彼は陥落したも同然よ!!


こ、これは……少々はしたないのではないかしら?


震える手で本を握りしめたまま、言葉を失った。

けれど、そこに記されているのは、わたくしの培ってきた常識を根底から覆す、けれど理にかなった「恋の兵法」。

未知の技術がもたらす衝撃に心臓は激しく鐘を打ち、頬に昇った熱はやがて耳の裏まで真っ赤に染め上げていった。


もし、この指南書のようにしたなら……。

脳裏に浮かぶのは、驚きに目を見開いたあの方の顔。

そこまで考えて慌てて振り払った。


……けれど、視線を落とした先にある文字が、甘言のようにわたくしをまた、空想の中へと引きずり戻していきそうになる。


先人の技術に「あわあわ」と取り乱していると、リリムが聖母のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、音もなく別の本を差し出してきた。


「……お嬢様には、先ほどの書物は少々刺激が強すぎたようですね」


その手に握られていたのは、あろうことか幼児向けの、それも可愛らしい動物たちが「仲良くする方法」を説いた絵本だった。

もはや恋愛の「れ」の字も掠めてもいない。

わたくしが求めたのは、想い人の「心を奪い去る秘策」であって、仲良く手を取り合うような「お友達」になる方法ではないのだ。


わたくしは表情を一切消し、その絵本が最初からこの世に存在しなかったかのような手つきで、静かに脇へ除けた。


……今度、お兄様にでも差し上げることにしよう。

あの不器用な兄なら、きっとこれくらい低年齢な教本から始めた方が、世のため人のため、そして何より本人のためになるに違いない。


気を取り直し、再び恋愛指南書へと意識を向けた。

頁を捲るごとに飛び込んでくる、淑女の常識を鮮やかに裏切る手管の数々。

最初はあんなに狼狽えていたはずなのに、気づけばその理論的かつ大胆な記述に、時間を忘れて読みふけっていた。


リリムが傍らで茶菓子の用意を整え、甘い香りが漂い始めたことにも気づかないほど、わたくしの集中力は研ぎ澄まされていた。


「……なるほど、駆け引きとはこういうことですのね」


書かれた助言を心の中で何度も反芻し、その真意を深く、深く噛み締める。

一見して破廉恥に思える行動さえ、そこには相手を翻弄し、その心を独占せんとする執念にも似た計算が潜んでいる。


わたくしは確かな手応えを感じていた。

この調子でいけば、数ヶ月後には、「恋愛の達人」と呼んでも過言ではないくらいになっているはずだ。

そのためにはもっとしっかり読み解き、自分なりの解釈を深め、この技術を血肉に変えなければいけない。


いつか――

意中の人に、この「戦術」を披露するその日のために。

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