第7話 紅葉舞う混浴と、湯気の向こうの視線
モミジのあとを追い、二人は源泉のさらに奥へ進んだ。
岩肌を伝う温かな湯が、小さなせせらぎとなって流れている。
その流れをたどるように歩くこと数分。
目の前の景色が、一気に開けた。
「……!」
リアは思わず息をのんだ。
地下にいるとは思えないほど広い空間。
天井は大きく口を開け、そこから夕暮れの光が差し込んでいる。
紅葉した木々が崖の上を彩り、風が吹くたび、赤や金色の葉がひらひらと舞い落ちる。
その中央には、天然の岩をそのまま生かした巨大な露天風呂があった。
白い湯気がゆらめき、水面には夕焼け空が映っている。
「ここが……祝福の湯。」
エリスが静かに呟く。
岩壁には、初代領主の紋章と、狐の姿が美しく刻まれていた。
その下には古代文字。
リアはゆっくりと読み上げる。
「――『この湯は、人と人との絆を祝福する湯。心を偽る者には温もりを与えず、心を通わせた者には永遠の恵みを授ける』……。」
「絆を祝福する湯、か。」
エリスは少し照れたように視線を逸らす。
リアも頬を赤らめた。
なんとなく、二人だけで入る意味が分かった気がした。
露天風呂の脇には、小さな脱衣所のような石室があった。
中には、新しい湯あみ着が二着。
昨日見つけたものより上質で、刺繍まで施されている。
「これも昔の湯守さんが?」
リアがそっと布を広げる。
淡い紅葉色の女性用。
紺に銀糸で狐が刺繍された男性用。
まるで今日使われることを待っていたかのように、傷一つない。
「試し湯と違って、これは祝福の儀式なのかもしれない。」
エリスが静かに言う。
「儀式?」
「昔、祖父から聞いたことがある。」
少し懐かしそうに目を細めた。
「テルマエを復活させた湯守と領主は、最後に祝福の湯へ入る。」
「それで初めて、霊泉は完全に街へ流れ始めると。」
「そんな伝承が……。」
リアは驚いた。
「だったら。」
エリスは真っ直ぐリアを見る。
「最後まで付き合ってくれるか。」
一瞬だけ、時が止まる。
夕日に照らされた銀色の髪。
穏やかになった青い瞳。
初めて会った日の冷たさは、もうほとんど残っていなかった。
リアは優しく笑う。
「もちろんです。」
しばらくして。
二人は湯あみ着に着替え、それぞれ別の入口から露天風呂へ入った。
「……。」
「……。」
妙に静かだった。
広い湯船なのに、どこか落ち着かない。
湯気が二人の間をゆらゆらと漂っている。
「いい、お湯ですね。」
沈黙に耐えきれず、リアが口を開いた。
「ああ。」
エリスも短く答える。
「柔らかい。」
「はい。」
「身体が軽くなる感じがします。」
「……そうだな。」
また沈黙。
モミジだけが湯船の端で気持ちよさそうにぷかぷか浮かんでいる。
「コン~♪」
そののんびりした姿に、リアは思わず笑った。
「ふふっ。」
「モミジ、気持ちよさそう。」
「私たちより落ち着いているな。」
「ですね。」
二人の緊張も、少しずつほぐれていく。
湯船の中を歩き、リアが少し深い場所へ足を踏み入れた、その時だった。
「あっ。」
つるり、と足が滑る。
「きゃっ!」
身体がぐらりと傾く。
「リア!」
エリスがすぐに手を伸ばした。
ぱしゃん、と湯が跳ねる。
リアの手は、エリスの手をしっかりと掴んだ。
「大丈夫か?」
「はい……。」
握られた手は温かい。
湯の温もりだけではない。
指先から伝わるぬくもりに、リアの鼓動はまた速くなる。
エリスも同じだった。
細い指。
柔らかな手。
――どこか懐かしい。
昔も、こうして手を繋いだことがあるような。
そんな感覚が胸を締めつける。
リアは思わず、小さく笑った。
「私、昔からよく転ぶんです。」
その言葉を聞いた瞬間。
エリスの脳裏に、ひとつの光景がよみがえった。
夕焼けの坂道。
制服姿の少女。
転びそうになった彼女の手を、とっさに掴んだ自分。
そして笑いながら言われた一言。
「ありがとう。私、昔からドジなんだよね」
「……っ!」
エリスの瞳が大きく見開かれる。
胸の奥で、忘れていた記憶が激しく脈打ち始めた。
しかし、まだ決定的には思い出せない。
「エリス様?」
リアが不思議そうに見上げる。
「どうかしましたか?」
「……いや。」
エリスは小さく首を振る。
だが、握った手は自然には離せなかった。
祝福の湯は静かに湯気を立て、二人を優しく包み込んでいた。
リアとエリスの手は、まだ湯の中で重なったままだった。
熱い。
湯のせいなのか。
それとも胸の鼓動のせいなのか。
二人とも分からない。
「……すみません。」
先に口を開いたのはリアだった。
少し照れながら、そっと手を離そうとする。
しかし。
エリスの指先が、無意識にその手を包み込んでいた。
「……エリス様?」
「あ……。」
ようやく我に返り、エリスは慌てて手を離す。
「すまない。」
「いや……その。」
普段冷静な彼らしくない姿に、リアは思わずくすりと笑った。
「今日は、謝ってばかりですね。」
「そうだな。」
エリスも少しだけ笑う。
その笑顔を見た瞬間、リアの胸がきゅっと締めつけられた。
(やっぱり……。)
(この笑顔、どこかで……。)
思い出せそうで、思い出せない。
もどかしい感覚だけが残る。
そのとき、モミジが湯船の中央へ泳いでいった。
「コン!」
尻尾で水面を軽く叩く。
すると、祝福の湯が淡く金色に輝き始めた。
「えっ?」
リアが目を丸くする。
湯気がゆっくりと渦を巻き、二人の周りを包み込む。
やがて水面へ、一枚の映像が映し出された。
まるで鏡のように。
そこには――。
制服姿の少年と少女。
秋の夕暮れ。
学校帰りの坂道。
笑いながら並んで歩いている。
「これ……。」
リアの瞳が揺れる。
少年が言う。
『今度の休みにさ。』
『温泉、行ってみたいな。』
少女が笑う。
『いいね!』
『絶対一緒に行こう!』
その笑顔。
その声。
リアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……思い出した。」
エリスも映像を見つめたまま動けなかった。
そうだ。
あの日。
伝えられなかった。
本当は。
温泉へ行きたかったんじゃない。
一緒にいたかっただけなんだ。
翌月。
事故で離ればなれになり、そのまま二度と会えなかった。
だから。
約束だけが心に残り続けた。
「リア……。」
その名前が自然と口からこぼれる。
リアも涙をぬぐいながら頷いた。
「うん。」
「私も思い出した。」
「エリくん。」
その呼び方。
前世で、彼女だけが呼んでいた愛称。
その瞬間。
エリスの記憶が一気によみがえった。
「……リア!」
胸の奥で止まっていた時間が、ようやく動き出す。
祝福の湯がさらに強く輝く。
岩壁に刻まれた古代文字が、最後の言葉を浮かび上がらせた。
『約束は時を越え、想いは世界を越える。』
その文字が光となり、二人を優しく包む。
同時に、地下全体へ温かな振動が広がった。
ゴォォォォ……。
源泉から流れ出た霊泉は、街中の湯船へ行き渡る。
冷えていた浴場。
宿の露天風呂。
足湯。
すべてへ温かな湯が流れ始めた。
街の人々は突然立ち上る湯気を見上げる。
「温泉だ!」
「テルマエが復活したぞ!」
「奇跡だ!」
歓声が山々へ響き渡った。
リアとエリスは、その歓声を遠くに聞きながら顔を見合わせる。
「約束……。」
リアが小さく笑う。
「やっと守れましたね。」
「ああ。」
エリスも優しく頷く。
「ずいぶん遠回りをした。」
「でも。」
「今度はもう離さない。」
そう言って、今度は迷わずリアの手を握る。
リアも握り返した。
その温もりは、前世で果たせなかった約束を、ようやく現実へ変えてくれた。
紅葉が風に乗って舞い落ちる。
祝福するように。
優しく。
静かに。
そして二人は、新しく生まれ変わったテルマエを眺めながら、最後の一歩を踏み出す。




