第4話 悪徳貴族の襲来と、最大の鍵
翌朝。
山々は一面の紅葉に染まり、冷たい朝霧がテルマエを包んでいた。
地下施設の歯車は昨夜から止まることなく、ゆっくりと回り続けている。
ゴウン……ゴウン……。
その音は、まるで長い眠りから目覚めた巨人の鼓動のようだった。
リアは朝早くから湯守帳を広げ、地下施設の見取り図を書き込んでいた。
「ここの配管は生きてる……。」
「でも、この先だけ魔力が流れてない。」
昨日調べた場所を赤い印で囲む。
あと少し。
あと少しで、源泉までたどり着ける。
そんな確信が芽生え始めていた。
「リア。」
振り返ると、エリスが湯気の立つ木のカップを差し出していた。
「温かい薬草茶だ。」
「あ、ありがとうございます!」
受け取った瞬間、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
「おいしい……。」
「山で採れた薬草らしい。」
リアは一口飲み、ほっと息をついた。
「温まりますね。」
その笑顔を見て、エリスも自然と肩の力を抜く。
昨日まで他人だったはずなのに、不思議とこの時間は居心地が良かった。
モミジも二人の間に座り、干し木の実を頬張っている。
昨日より毛並みが少しだけふわふわになっていた。
「本当に元気になってきたね。」
リアが頭を撫でると、
「コン♪」
嬉しそうに尻尾を振る。
「温泉の力は偉大です。」
「まだ湯は出ていないぞ。」
「少し流れ始めただけでも違うんですよ。」
リアはモミジの額の霊石を指差した。
「昨日より輝いてます。」
エリスもよく見る。
確かに灰色だった石が、淡い朱色へ戻り始めていた。
このテルマエは、本当に生き返ろうとしている。
そう思えた。
◇◇◇
朝食を終えた二人は、再び地下施設へ潜った。
昨日動かした歯車は、さらに奥の機構まで魔力を送っている。
しかし。
「ここですね。」
リアが立ち止まる。
巨大な石扉。
高さ三メートルはある。
中央には円形の窪み。
その周囲には、美しい古代文字が刻まれていた。
「この先が源泉……。」
エリスが呟く。
リアは文字を読み解こうと目を細めた。
「これは昨日まで光っていませんでした。」
石扉へ触れる。
温かい。
ほんのりと熱を帯びている。
「中には間違いなくお湯があります。」
期待で胸が高鳴る。
「でも……。」
「開かないのか。」
「はい。」
リアは文字を追いながら首を傾げた。
そこには四行の短い文章が刻まれていた。
しかし一部が欠けている。
読めるのは、わずかだった。
“湯は○○を映し”
“心なき者には閉ざされる”
“真に守る者のみ”
“□□□□”
「心なき者には閉ざされる……。」
エリスが繰り返す。
「試練ということか。」
リアは頷いた。
「たぶん最後の一文が鍵です。」
「欠けて読めない。」
「だから開けられなかったんですね。」
二人は石扉を見つめた。
力では開かない。
魔法でもない。
このテルマエは、“心”を試している。
◇◇◇
「コン!」
突然、モミジが耳をぴんと立てた。
「どうしたの?」
狐は入口の方を向き、低く唸る。
今まで聞いたことのない警戒の声だった。
「……誰か来る。」
エリスも表情を変える。
耳を澄ませると、遠くから複数の足音が響いてきた。
ガチャ……。
ガチャ……。
金属鎧の擦れる音。
人が大勢いる。
「地下に?」
リアが息を呑む。
「違う。」
エリスは剣を抜いた。
「地上だ。」
次の瞬間。
ドォン!!
地上から大きな衝撃音が響いた。
天井から砂埃が舞い落ちる。
「何!?」
「入口を破壊している。」
エリスの瞳が鋭くなる。
「来たか……。」
リアは不安そうに見上げた。
「知ってる人ですか?」
「おそらく。」
エリスは静かに答えた。
「グラディウス伯爵。」
「この土地を何度も買い取ろうとしてきた男だ。」
リアは眉をひそめる。
「断ったんですよね?」
「ああ。」
「温泉を潰して鉱山にするつもりだからな。」
その言葉に、リアの胸が熱くなる。
「そんな……!」
「温泉を壊すなんて……!」
怒りで拳を握る。
その姿を見て、エリスは少しだけ目を細めた。
(本当に温泉が好きなんだな。)
自分のためではなく。
街のためでもなく。
温泉そのもののために怒っている。
そんな人間を初めて見た。
◇◇◇
二人が地上へ戻ると、テルマエの前庭には十数人の兵士が並んでいた。
中央には豪華な馬車。
そこから一人の男がゆっくり降りてくる。
紫色の外套。
太い金の指輪。
脂ぎった笑み。
「久しぶりだなぁ、エリス殿。」
男は両手を広げた。
「まだそんな廃墟にしがみついていたとは。」
エリスは一歩前へ出る。
「帰れ。」
「つれないな。」
伯爵は笑う。
「今日は良い知らせを持ってきた。」
「この土地を五倍の値で買おう。」
「断る。」
「十倍でもいい。」
「断る。」
伯爵の笑みが消える。
「……噂を聞いてな。」
鋭い視線がリアへ向く。
「温泉が動き出したそうじゃないか。」
リアは思わず息を呑む。
もう情報が漏れている。
「なるほど。」
伯爵はリアを上から下まで眺め、不快そうに笑った。
「貴様が新しい湯守か。」
「小娘一人で秘湯を復活させるとは笑わせる。」
リアは真っ直ぐ見返した。
「笑っていてください。」
「必ず復活させますから。」
一瞬、場が静まり返る。
兵士たちまで驚いた顔をしていた。
伯爵はゆっくり口角を上げる。
「面白い。」
「ならば一週間待ってやろう。」
そう言って杖を地面へ突いた。
「だが復活できなければ、この土地もテルマエも全て私のものだ。」
その宣言とともに、冷たい風が紅葉を巻き上げる。
リアはエリスと視線を交わした。
一週間。
残された時間は、あとわずかだった。
伯爵の馬車が去ると、辺りは静けさを取り戻した。
だが、その静けさは重苦しいものだった。
兵士たちの足跡だけが、紅葉の積もる石畳に深く残っている。
「……一週間。」
リアは小さく呟いた。
「短すぎますね。」
エリスは答えない。
ただ、握った拳に力が入っていた。
二十年間守り続けた場所を失うかもしれない。
それだけではない。
もし伯爵の手に渡れば、このテルマエは鉱山として掘り返され、二度と温泉として蘇ることはないだろう。
「エリス様。」
リアがそっと隣へ立つ。
「諦めません。」
その一言に、エリスはゆっくりと顔を上げた。
「私もだ。」
短い言葉だった。
だが、その瞳には昨日までの諦めはなかった。
二人は再び地下へ戻る。
巨大な石扉の前。
モミジは扉の前で丸くなり、じっと古代文字を見つめていた。
「コン……。」
「モミジも気になるんだね。」
リアは石壁を丁寧に調べ始める。
指先で文字をなぞる。
欠けた部分。
削れた跡。
何か違和感がある。
「……変。」
「どうした?」
「この欠け方です。」
リアは壁へランタンを近づけた。
「自然に壊れたんじゃありません。」
「人為的?」
「ええ。」
文字だけが削られています。
周囲の石は綺麗なのに、一番大切そうな一文だけが削り取られていた。
「誰かが、わざと読めなくした。」
エリスは眉をひそめる。
「なぜそんなことを。」
「源泉を守るため……。」
「あるいは。」
リアは静かに続ける。
「誰にも開けさせないため。」
その時だった。
モミジが急に立ち上がり、壁を前足で引っかき始めた。
カリ、カリ、カリ。
「コン!」
「そこ?」
リアが近づく。
壁にはツタが張り付いていた。
軽く引っ張る。
すると。
パラパラ……
乾いたツタが剥がれ落ち、その奥から細長い石板が姿を現した。
「隠し部屋……?」
石板を押すと、小さな収納棚が開いた。
中には一冊の古びた本が収められていた。
革表紙は色褪せているが、大切に保管されていたことが分かる。
リアはそっと取り出した。
「これは……。」
表紙には古代文字。
その下には、現在使われている文字で小さく書かれていた。
《初代湯守の日誌》
「日誌……!」
リアの瞳が輝く。
「これなら文字の意味が分かるかもしれません!」
近くの石机へ本を広げる。
ページは黄ばんでいたが、文字はしっかり残っていた。
最初のページには、こう書かれている。
『湯とは、人の心を映す鏡である。』
リアは思わず息を呑む。
「……鏡。」
ページをめくる。
『技術だけでは湯は守れない。』
『力だけでも守れない。』
『守ろうと願う心があってこそ、霊泉は応えてくれる。』
エリスは黙って読み進める。
祖父から何度も聞かされた言葉に似ていた。
しかし、続きは知らない。
さらにページをめくる。
そこにはテルマエ全体の見取り図が描かれていた。
「これ!」
リアが身を乗り出す。
「地下通路の続きがあります!」
今いる場所からさらに奥。
細い一本道。
その先には赤い丸印。
横には小さく文字が添えられている。
《試練の間》
「試練……。」
リアが地図を見つめる。
「やっぱり最後の鍵があるんです。」
エリスは日誌の最後のページを開いた。
そこには一文だけ、大きく書かれていた。
『最後の扉は、大切な者との約束を忘れぬ者にのみ開かれる。』
二人は顔を見合わせる。
「約束……?」
リアは胸がざわついた。
秋の夕暮れ。
放課後。
『いつか一緒に温泉へ行こう。』
前世の記憶が、ふいに蘇る。
(まさか……。)
そんなはずはない。
偶然だ。
そう思おうとしても、胸の鼓動は速くなるばかりだった。
一方、エリスも頭を押さえていた。
誰かと交わした約束。
夕日に照らされた笑顔。
温泉。
どれも霞がかかったように思い出せない。
「……誰だった。」
無意識に漏れた声。
リアはその横顔を見つめた。
(エリス様も……。)
何かを思い出しかけている。
その時だった。
地下全体が突然、大きく揺れた。
ゴゴゴゴゴッ!!
「きゃっ!」
天井から砂が落ちてくる。
モミジがリアの肩へ飛び乗った。
「コン!」
「地震じゃない!」
リアが叫ぶ。
「誰かが上で何かしてる!」
エリスは険しい表情で地上への階段を見る。
「伯爵か……!」
二人は急いで駆け上がる。
地上へ出た瞬間、目の前の光景に息を呑んだ。
テルマエへ続く唯一の石橋が、大きく崩れ落ちていた。
谷の向こうには、遠ざかる伯爵の兵士たちの姿。
「はははっ!」
兵士の一人が振り返り、大声で笑う。
「これで誰も助けには来られん!」
橋は完全に落とされていた。
街からテルマエへの道は断たれたのだ。
リアは崩れた橋を見つめ、唇を噛む。
だが、エリスは静かに剣を鞘へ収めた。
「……いい。」
「え?」
「橋が落ちても構わない。」
彼はリアへ向き直る。
「地下通路がある。」
リアははっとする。
そうだ。
日誌に描かれていたもう一つの道。
それは源泉へ続くだけでなく――
この山全体へ繋がる、古代テルマエの秘密の通路なのかもしれない。
二人は同時に頷いた。
敵は橋を落としたつもりでいる。
だが本当の道は、まだ誰も知らない地下に眠っている。
そして、その先には最後の謎と、霊泉復活の鍵が待っているのだった。




