第3話 湯のからくりと、距離の縮まる二人
黄金色の光は、石室の壁一面へゆっくりと広がっていった。
古代文字が一本ずつ輝き始める。
まるで誰かが火を灯しているようだった。
「きれい……。」
リアは思わず息を呑む。
モミジも「コン」と小さく鳴き、壁を見上げている。
エリスは剣に手を添えたまま周囲を警戒した。
「罠ではないのか。」
「違います。」
リアは壁へ近づく。
「これは起動しただけ。」
「起動?」
「地下施設が私たちを認識したんです。」
壁の中央には円形の石盤。
その周囲を取り囲むように、古代文字が刻まれていた。
リアは文字を指でなぞる。
「これは……読めない。」
「読めないのか。」
「でも意味は分かります。」
「え?」
「温泉施設って世界が違っても考えることは同じなんです。」
リアは笑った。
「危険な設備ほど、誰でも分かるような作りになっています。」
石盤の下には三本の石製レバー。
それぞれ違う紋章が刻まれていた。
炎。
水。
葉。
「三つのレバー……。」
エリスが呟く。
「どれかを動かせということか。」
「たぶん違います。」
「なぜ?」
「一つだけなら三本も要りません。」
リアはしゃがみ込み、床を調べ始める。
石の隙間。
削れ方。
足跡。
そしてレバーの根元。
「あ。」
「どうした?」
「この葉っぱ。」
小さな紅葉が一枚、レバーの根元へ挟まっていた。
リアは拾い上げる。
「まだ乾いてない。」
「つまり?」
「最近ここへ来た誰かがいる。」
エリスの表情が険しくなる。
「侵入者か。」
「それとも……。」
リアは視線を落とす。
モミジだった。
狐は葉っぱを見て「コン」と鳴く。
「君がここにいたの?」
モミジはこくりと頷くように首を動かした。
「そうか。」
リアは優しく頭を撫でる。
「君はこの場所を守ってたんだね。」
モミジは目を細める。
その表情は少しだけ嬉しそうだった。
「試してみましょう。」
リアは石盤を見つめる。
「でも順番を間違えると?」
エリスが問う。
「……たぶん失敗します。」
「ずいぶん曖昧だな。」
「説明書がないので。」
リアが苦笑すると、エリスも思わず肩を震わせた。
「ふっ。」
短い笑い声。
リアは驚いて顔を上げる。
(今、笑った……。)
本人も気付いたらしい。
エリスは少し気まずそうに咳払いをした。
「……悪い。」
「いいえ!」
リアは嬉しそうに笑う。
「笑ったほうが素敵です。」
「……。」
その一言で、今度はエリスが固まった。
誰かにそんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
家臣は恐れるだけ。
街の人々は頼るだけ。
領主としてしか見られてこなかった。
だから。
一人の男として向けられた笑顔が、妙に胸へ刺さる。
その時だった。
モミジが突然レバーの前へ座った。
「コン!」
前足で一番左のレバーを叩く。
「炎……?」
リアは首を傾げる。
「違うよね?」
モミジは首を横へ振る。
「じゃあ真ん中?」
また横へ振る。
「右?」
また違う。
「全部違うの?」
するとモミジは三本のレバーを順番に見つめた。
左。
右。
真ん中。
「……順番?」
リアの目が輝く。
「そういうこと?」
モミジは尻尾をぶんぶん振った。
「なるほど!」
リアは石盤を見つめ直す。
三本の紋章。
炎。
葉。
水。
「秋。」
彼女は小さく呟いた。
「秋に必要なのは?」
紅葉。
山。
そして温泉。
「違う……。」
考える。
温泉を沸かすには。
まず熱。
次に水。
最後に循環。
「……!」
リアは石盤の外周に刻まれた模様へ気付いた。
葉の紋章だけ、蔓のような線が他の二つを繋いでいる。
「分かった!」
彼女は振り返る。
「これは自然の循環を表してる!」
「炎で温める。」
「水が流れる。」
「植物が命を育てる。」
「そしてまた水へ還る。」
エリスも石盤を見る。
「つまり順番は。」
「炎、水、葉じゃない。」
「葉、水、炎でもない。」
リアは深呼吸した。
「自然はまず命があり、水が巡り、最後に地熱で温められる。」
「だから——」
彼女は一番右の葉のレバーへ手を掛けた。
「最初は葉です。」
カタン。
静かな音が響いた。
部屋全体がわずかに震える。
「正解……?」
続けて中央の水。
最後に左の炎。
カチリ。
三つ目を動かした瞬間。
石盤中央に淡い光が灯り、どこか遠くで水が流れる音が聞こえた。
さらさら、と。
ほんのわずかだが、地下配管のどこかで止まっていた流れが動き始めたのだった。
そして、リアの足元に一滴、また一滴と温かな湯が落ち始める。
「やった……!」
リアが振り返ると、喜びのあまり足を滑らせた。
「きゃっ——!」
崩れた石床が砕ける。
その先は、暗い配管用の縦穴だった。
「リア!」
エリスは咄嗟に腕を伸ばし、落ちかけた彼女の身体を強く抱き寄せる。
二人の距離が、一気に縮まった。
「リア!」
力強い腕が、リアの細い腰をしっかりと抱き寄せた。
「きゃっ……!」
落ちかけた身体が、ぐいっと引き戻される。
次の瞬間、リアはエリスの胸へ飛び込む形になっていた。
どくん。
心臓が大きく跳ねる。
近い。
あまりにも近い。
見上げれば、銀色の前髪がさらりと揺れ、その向こうに青い瞳が映る。
「怪我は?」
低く落ち着いた声。
「だ、大丈夫です……!」
リアは慌てて答えた。
けれど、腰に回された腕はまだ離れない。
エリスも、自分が抱き寄せたままになっていることに気づき、わずかに目を見開く。
「あ……。」
二人は同時に距離を取ろうとした。
しかし。
リアの靴裏が濡れた石に滑る。
「またっ……!」
「危ない!」
今度は肩を支えられ、二人ともその場にしゃがみ込む形になった。
その様子を見ていたモミジが、
「コン、コン!」
と鳴きながら尻尾を揺らす。
まるで笑っているようだった。
「……笑われてる?」
リアが頬を赤くすると、モミジはさらに尻尾をぶんぶん振る。
エリスは小さく息を吐いた。
「どうやら、そのようだ。」
今度こそ、本当に口元がほころぶ。
ほんの少し。
けれど確かに笑っていた。
その笑顔を見たリアは、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
(やっぱり……。)
(笑った顔のほうが、ずっと素敵。)
落ちかけた場所を改めて見下ろく。
石床の下には、深い縦穴が口を開けていた。
穴の中では、太い石管が幾重にも交差している。
「危なかったな。」
エリスが慎重に縁へ近づく。
ランタンを掲げると、地下のさらに奥まで光が届いた。
「これは配管ではない。」
「え?」
「通路だ。」
リアも覗き込む。
確かに、配管の横には人が歩けるほどの細い足場が続いている。
「点検通路……。」
リアは目を輝かせた。
「ここを通れば、一番奥の源泉まで行けるかもしれません!」
「だが危険だ。」
「だからこそ、誰も見つけられなかったんですよ。」
リアは嬉しそうに笑う。
「隠し通路です!」
エリスは半ば呆れたように首を振る。
「危険を前にして、その顔ができるのか。」
「温泉が待ってますから!」
即答だった。
「温泉のためなら崖くらい平気です。」
「……その価値観は理解できん。」
「そのうち分かります!」
リアが胸を張ると、エリスは思わず苦笑する。
本当に、不思議な娘だ。
絶望しかなかったこの地下で、一人だけ希望を見つけて笑っている。
その笑顔につられるように、自分まで前を向きたくなる。
二人は石室を詳しく調べ始めた。
浴槽の縁には、先ほどよりもはっきりと古代文字が浮かび上がっている。
リアは指でなぞりながら、一文字ずつ形を追った。
「……これは祈りの文ですね。」
「読めるのか?」
「全部じゃありません。でも繰り返し使われている文字があります。」
中央の文字を指差す。
「これ、多分『湯』。」
その隣。
「これは『命』。」
「そして、この文字は……。」
リアは考え込む。
しばらくして、小さく息をのんだ。
「『巡る』……?」
文字を順番につなげる。
『命ある湯は、巡りてこそ力となる』
エリスが静かにつぶやいた。
「巡る……。」
リアは地下配管へ視線を向ける。
「やっぱり。」
「源泉が枯れたんじゃない。」
「どこかで流れが止められているだけ。」
その時。
モミジが石室の奥へ走っていく。
「コン!」
壁際で前足を何度も動かしている。
「何かあるの?」
リアが近づく。
そこには、一枚の石板が半分だけ土に埋まっていた。
二人で土を払うと、美しい彫刻が現れる。
湯気に包まれた巨大な浴場。
その中心に立つ一頭の狐。
周りには人々が笑顔で湯に浸かっている。
「これ……。」
リアは思わず見入った。
「モミジたちの一族?」
狐は嬉しそうに鳴いた。
「コン!」
エリスも石板へ目を向ける。
「この紋章は、我が一族の家紋だ。」
「え?」
「テルマエを築いた初代領主の印。」
リアは驚いた。
「じゃあ、この温泉は代々あなたの家が守ってきたんですね。」
「そうだ。」
エリスは静かにうなずく。
「だから私は……。」
言葉が止まる。
「失いたくなかった。」
その一言は、とても小さかった。
領主ではなく、一人の青年として漏れた本音だった。
リアはその横顔を見つめる。
冷たく見えていた瞳が、今だけはどこか寂しそうだった。
「エリス様。」
「……?」
「一人じゃありませんよ。」
彼は顔を上げる。
「これからは私もいます。」
「モミジもいます。」
「だから、一緒にこの温泉を守りましょう。」
真っ直ぐな笑顔だった。
何の打算もない。
純粋な言葉。
その瞬間だった。
モミジがぴょん、と飛び上がり、リアの肩へ乗る。
「わっ!」
小さな舌で頬をぺろりと舐める。
「ふふっ、くすぐったい。」
「コン!」
その額の霊石が、これまでよりも少しだけ鮮やかな朱色に輝いた。
そして地下施設の奥から――
ゴウン……
重厚な歯車が回る音が響く。
止まっていた巨大な機構が、ゆっくりと目覚め始めたのだ。
エリスは驚きながら、その音のする方向を見つめる。
「動き始めた……。」
リアは微笑み、力強くうなずいた。
「はい。」
「温泉が、私たちを信じてくれたんです。」
だが、その頃。
テルマエから遠く離れた王都では、一通の報告書がある男の机へ届けられていた。
「――廃墟のテルマエに動きあり、か。」
豪奢な椅子に座る男は、不敵に笑う。
「面白い。ならば、本当に価値があるのか確かめてやろう。」
その瞳には、秘湯を我が物にしようとする強い欲望が宿っていた。
リアたちが知らないところで、新たな脅威が静かに動き始めていた。




