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第79話 完璧な誤解
エルヴェルム公爵家に仕える家庭教師、マグヌスは、本日も深いため息から一日を始めていた。
原因は、もちろんリリアナ・フォン・エルヴェルムである。
かつての彼女は、完璧だった。礼儀、学問、舞踏、政治学、歴史、外交、どれを取っても非の打ち所がなく、まさに公爵令嬢の完成形だったのだ。
最近のリリアナは違う。柔らかく笑うようになった。使用人に礼を言う。平民とも平然と話す。おまけに、意味不明な行動ばかりする。
にもかかわらず、なぜか周囲の評価だけは爆発的に上がっていた。
「理解不能です」
マグヌスは眉間を押さえながら、公爵邸の長い廊下を歩いていた。壁に飾られた絵画を横目に、彼は深く考え込んでいる。あれほど完璧だった令嬢がなぜこのように変わったのか。
それも、変わった結果、むしろ周囲からの評判が上がったというのは、教育者としての自らの価値観を揺るがすものだった。
本日の授業内容は帝国史。それも、王国成立以前の高度な政治史だ。普通の貴族子女なら泣いて逃げる難易度だが、リリアナなら問題ない。そう思っていた。
いや、正確には。
「最近のリリアナ様は、集中力に問題がある」
妙に疲れた顔をしていることが多いのだ。まるで何か重大な使命を背負っているかのような。学園で救世主だの聖女だのと騒がれているらしいが、本人はむしろげっそりしている。魔法学園での活動が彼女に重い負担をかけているのだろうか。
マグヌスには理解できなかった。名誉とは誇るべきものではないのか。なぜこれほど重苦しい顔をしているのか。
そんなことを考えながら勉強部屋へ入ると、既にリリアナは席についていた。淡いクリーム色のドレス姿。髪は美しく整えられ、窓から差し込む光を受けて輝いている。
「おはようございます、マグヌス先生」
声が死んでいた。完全に生気を失った声。まるで何か大きな事件があったかのような。
「寝不足ですか?」
マグヌスが尋ねると、リリアナは小さく呟いた。
「人生に疲れました」
「令嬢らしからぬ発言はお控えください」
即座に注意すると、リリアナは、
「はい」
と小さく肩を落とした。眠そうな様子を見ながら、マグヌスは内心で首を傾げる。本当に最近の彼女は妙だ。以前なら、弱みなど決して見せなかったというのに。あの時の完璧なリリアナはどこへ行ってしまったのか。
テーブルには軽食が用意されていた。焼きたてのサンドイッチと紅茶。公爵家らしい上品な香りが漂う。リリアナはサンドイッチを一口食べる。
「リリアナ様」
「は、はい?」
「サンドイッチはもう少し背筋を伸ばして召し上がってください。貴族の姿勢は、そのまま家格を表します。食事作法一つで家の品格が判断されるのです」
「はい」
再び肩が落ちた。彼女の生気はさらに失われていく。続いて紅茶を飲もうとした瞬間。
「カップを持つ角度が浅いです」
「はい」
「視線も下げ過ぎです。貴族たるもの、常に視線は水平か上向きであるべき」
「はい」
「ため息は禁止です。ため息は疲労と不満の表れ。貴族はいかなる時も優雅であらねばなりません」
「はい」
もはや尋問だった。リリアナは遠い目をしている。その瞳が、明らかに逃げたいと言っていた。しかし逃げることはできない。マグヌスは厳格な教育者である。妥協はしない。完璧さの追求は容赦がないのだ。
◆
「では、本日の授業を開始します」
ああああ〜今日は家庭教師マグヌスの授業か。眠くなるわ。厳しいし、面白くないもん。
机の上に分厚い帝国史の教科書を置く。本の重さから眠くなった。
「この年表を本日中に暗記してください」
私の顔から色が消えた。完全に絶望の表情である。記憶できるはずないだろ!
「全部ですか?」
「当然です。帝国と王国の関係を理解するには、細部まで把握する必要があります」
「人間って、そんなこと可能なんですか?」
「可能だから学ぶのです。不可能なことを可能にするのが教育です」
マグヌスは冷静に言い放つ。厳しい視線は私を圧倒する。本気かいな。誰か助けてよ、この人厳し過ぎます!
私は、小さく
「誰か助けて」
と呟いた、その時だった。
――ドンッ!!
突然、屋敷の外から重い音が響く。
何かしら!
まるで何か大きなものが落ちたような。直後、使用人たちの慌てた声。何かが起こったのは確実だ。マグヌスが眉をひそめる。
「何事です?」
緊張が走る。しかし誰からの説明もない。数秒後。勉強部屋の扉が勢いよく開いた。現れたのは近衛騎士団長、ガルド・ヴァルハルトだった。全身を重厚な黒銀の鎧で包み、腰には巨大な剣。
何を考えているのこの人。ここは勉強している部屋なのに!
まるで戦場帰りの英雄である。いや実際、戦場帰りだったかもしれない。雰囲気は戦場そのものを持ち込んでいるようなものだ。いったいどうしたのかな。
「ガルド様?」
私が驚く。この強力な騎士が勉強部屋に直接現れるなど、よほどのことがあったに違いない。ガルドは険しい顔で答えた。
「この近辺で強盗が出た。都の治安が悪化しているということか」
「えっ強盗ですか」
「俺から金品を奪おうとしてきたので、一撃で黙らせた。反撃する機会も与えなかった」
恐ろしいことを平然と言った。ガルドの騎士の強さは伝説的なものだ。なぜガルドから強盗しようと思ったのか。そいつらは相当なバカだろうな。普通はしない。そもそも近衛騎士団長という立場にあるだけで、王国最強の剣士の一人である。原作ゲームでも強いとなっていた。
「リリアナ様の屋敷周辺に不穏分子がいる可能性がある。警備を強化する必要があります」
「いや、騎士団長が直々に来なくても」
「来る」
即答ですか!
ちょっと過保護だと思っていても、ガルドは勉強部屋の扉の前に立つ。完全武装で。その圧はすごい。鎧が放つ冷たい金属光が、室内を支配していた。私は明らかに困惑していた。
「えっと授業なんですけど」
「安心してください、リリアナ様。俺が命に代えてもお守りします」
「安心できません。命が重い!」
悲鳴のようなツッコミをしてしまう。ガルドの騎士の忠誠心は、まあ嬉しい面もあるし、ありがたいと思いたいし、良いのだが、時に空気が読めていない。しかも困ったことにガルドは真顔である。顔には一ミリも疑いがないのだ。そうなると授業は中止だろう。強盗が近くで出たことだしね。マグヌスは小さく咳払いした。
「では授業を続けます」
ええええ、続けるのかよ!
気を取り直し、帝国史の解説を始める。十分後。二十分後。三十分後。
私の目が、どんどん死んでいった。完全に限界だった。ガルドの存在感、マグヌスの厳しい指導、そして膨大な暗記量。全てが私に襲いかかっていたのだ。
だめだ、この人達には私の常識がいっさい通じない!
「リリアナ様、この帝国史の流れを説明してください。特に、ハウスランド戦争がもたらした政治的影響について」
「はい、え、え、えっと」
ふらり。ペンを持ったまま、頭が揺れる。揺れは徐々に大きくなっていった。あああ眠いよ。
「リリアナ様?」
「すぅ」
寝た。私は完全に寝る寸前。しかも机に突っ伏す寸前で、こくこく揺れている。光景はまるで人形のようだろうな。マグヌスが絶句する声が聞こえる。
「ね、寝ている?」
ガルドが爆速で室内へ踏み込んできた音がした。うるさいよ〜。静かに寝かせてお願い。
「マグヌス殿!!」
「なっ!」
あまりの速度と迫力に、マグヌスは思わず跳び上がった。
「そこまでだ!」
どうした、何があった?
ガルドは真剣な表情で私を庇うように立つ。彼の剣はこの瞬間も本当に鋭い。
「リリアナ様は今、微かな呼吸音から周囲の気配を察知する心眼の呼吸法の修行に入られている」
「は?」
何を言っているのか、マグヌスには理解できないって顔だ。そりゃあそうだろう、なにせ私だって理解不能だ。
「これ以上の発言は脳に負担がかかる!」
「いや、どう見ても居眠り」
だめだ、ガルドとマグヌスの会話を聞いていると、うとうとしてしまう瞬間だった。
ビクッ!!
眠りそうな睡魔に落ちる時に私が、突然机を叩いた。音は室内に響き渡る。
「ひゃっ!」
たぶん私の寝言である。もう頭は半分寝ている。私がどうやら机を叩いた振動で。パラリ、と教科書の一ページが浮いたらしい。マグヌスは違和感を覚えているようにも見えるが。
「こ、こ、これは?」
ページがめくられた。そしたらマグヌスは凍りついたみたい。
「印刷が、違う? 僅かな文字のズレ。だが、それは決定的だった。歴史年号の記述が一部改竄されている。これは帝国側が流した偽造歴史書か」
マグヌスの顔色が変わる。血の気が引いていく。この書は近年、一部の貴族派閥で出回っている危険文書だったらしい。
王国の歴史認識を書き換えるための政治的工作。あまりに精巧で見抜ける者は少ないト父からも聞いていた。偽造であると気付く者は、極めて稀なのだと。
それを私は意図せずに発見させてしまったとなる。
あああ、またやらかしたかな!
眠ったふりをしてごまかそう! それが一番だ、私らないし、叩いただけだぞ!
「机を叩いたことで、危険文書だと矛盾を気付かせたのか?」
「な、何ということだ」
マグヌスの手が震える。身体は恐怖と驚きに包まれていた。いやいや驚かないで!
「リリアナ様は居眠りなどしていなかった! この教科書が偽造であると見抜き、私に気付かせたのか!」
ガルドが誇らしげに頷く。完全に納得している顔をして。
「流石はリリアナ様だ。さすがです」
「なんという洞察力!」
マグヌスは床に膝をついた。ああああ、どうしようかな、このまま寝たふりを続けるか。起きた方がいいのな悩む。
「眠っていても敵の謀略を察知されるとは」
違う、ただ寝ているだけであって、偶然に叩いただけだ!
しかも私本人は、よだれを垂らしかけている。寝顔は決して知的ではない。むしろ完全に無防備だろう。だから偶然だと理解しろマグヌスよ!
しかし二人には私がやったと確信している感じ。
「リリアナ様」
マグヌスは静かに膝をつく。姿勢はひざまずいているようなものだ。
「私の未熟な講義など、不要でした」
「えっと?」
やはり起きよう。ようやく起きたように思わせる。寝ぼけた顔を上げる。目はまだ焦点が定まっていない。これで偶然だと思ったに違いない。うんうん大丈夫だ。
「あなたは既に、歴史の裏側まで見通しておられたのですね」
「えっと何のことかな?」
「私は、自分の浅はかさを恥じます。教える立場にありながら、偽造文書を見抜けないなど」
「え?」
「どうか今後も、ご指導いただきたい。あなたの知識、あなたの洞察力、全てが王国の宝です」
「えええええ!」
私の絶叫が部屋に響いた。マグヌスは確実に私が発見させたと思っている!
なぜ偶然だと思わないのだ。今起きたのだよ。
私の声は完全に困惑と混乱を示していた。マグヌスは、聞いているが理解していない。ガルドは腕を組み、深く頷いていた。
「やはりリリアナ様は凄い。本当に凄い」
「違います! 私は寝ていました。何も知りません!」
「眠りながら敵の陰謀を暴くとは。これは武術の極地だ」
「寝てただけです!! 勘違いです」
「謙遜まで完璧だ。本当に完璧な令嬢だ」
「違うのおおおお!!」
マグヌスは感動で目を潤ませながら退室していく。背中には、尊敬と反省の念が満ちていた。ガルドは誇らしげだった。最愛の人を見守る騎士そのものだ。
そして部屋に一人残された私は終わった。もう終わりだ。また国家レベルの騒ぎになる。
「なんで?」
机に突っ伏した。完全に諦めた姿勢だ。
「私は偶然に机を叩いただけ」
窓から差し込む光の中で、髪がそっと揺れた。
「誰か〜〜〜〜助けてください!」
誰にも聞こえない、小さな呟きが部屋に消えていった。




