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第80話 外交領事館の波乱
王都の中心部から少し離れた場所に、建物は存在していた。白亜の石造建築、王国外交領事館。古い建物ながら、長い年月を経てもなお威厳を失っていない。高くそびえる円柱、磨き抜かれた大理石の床、巨大なシャンデリア。歴代の外交官たちの肖像画が壁に並び、静かな空気の中にも、この国の歴史そのものが積み重なっているようだった。
私は建物を見上げながら、小さく息を吐いた。
「帰りたい」
この一言。
「リリアナ様、まだ始まってもおりませんが」
隣でミレイユが苦笑する。
嫌だよ。今日は学園同士の合同交流イベントなのだ。しかも場所が外交領事館。つまり絶対に面倒なことになる。外交なんて、貴族の腹の探り合いの極地ではないか。
本来なら国の最高指導部が関わる領域だというのに、何故か学生行事として扱われている。前世一般会社員だった私には荷が重すぎる。
社内の調整さえストレスだったのに、国家間の駆け引きなど、想像するだけで頭が痛い。
私はただ静かに生きたいだけなのだから。嫌な予感もあるが、まあ、偉い人の話を聞いていれば終わるだろう。気楽に行こう!
「リリアナ?」
後ろから落ち着いた声がした。振り返ると、王太子アレクシスがこちらへ歩いてくる。深い紺色の礼装に銀の装飾。今日は交流祭だからか、普段より少しだけ柔らかな服装だったが、それでも王族特有の気品は隠しきれない。周囲の女子生徒たちが小声で騒いでいる。熱い視線に気づかず、アレクシスは私の前で足を止めた。
「顔色が悪いが大丈夫かい?」
「外交イベントって聞いた瞬間に胃が痛くなりました」
これは本当だ。
「緊張しているのか」
「生き残れるか不安です」
「?」
アレクシスは不思議そうに首を傾げた。違う。あなたが思ってる意味じゃない。私は断罪イベントとか恋愛フラグとか政治的トラブルとか、そういう意味で死活問題なの。この異世界での生存確率に関わる問題なの。わかってくれないだろうな。
その時だった。ドシン、と重い足音が響く。なんだろうかこの音は?
外交領事館なのに異様な迫力を感じるが。振り返ると、近衛騎士団長ガルドがこちらへ向かってきた。
「えっと、なぜガルドがここに?」
今日のガルドは完全武装だった。黒銀の鎧、巨大な大剣、肩には王家直属騎士団の紋章。どう見ても外交イベントの参加者ではなく、魔王討伐に向かう戦士である。他校の生徒たちが、一斉に息を呑んだ。
「ひっ」
「近衛騎士団長!」
「本物かよ!」
ガルドはそんな視線など気にもせず、私の前に立つ。
「リリアナ様。本日の警備は万全です」
「外交イベントに警備必要ですか?」
「必要だ」
即答だった。怖い。もう本当に怖い。なぜ外交領事館での学園交流に、王国最高戦力の騎士団長が警備につくのか。過剰な防備は、ただならぬ何かを予感させていた。
「他校の生徒も参加しているのに、目立つよ」
明らかに私だけ目立つ存在になったのは間違いない。いつもの学園では知られていても、他校の生徒は知らないだろう。
そのまま私たちは会場へ入る。大広間には長い机が並べられ、私の学園の生徒十名、他校の貴族学院の生徒十名が向かい合う形で座っていた。奥には数名の外交官。年配の者もいれば、若い切れ者らしい人物もいる。皆、鋭い目をしていた。外交官てあるから完全にエリート集団である。転生前の日本でも外務省と同じようなものだろうから、東大レベルの頭のいい人だ。私は席に座りながら、心の中で泣いた。逃げたい。本当に逃げたい。なぜ私が学園を代表する10名に選ばれたのか不思議だ。他に優秀な生徒がいたのにだ。
まあ、もう今さら言っても始まらないのは、最初の討論は開始されており、は比較的簡単だったようだ。
「隣国との交易で重要な品目は?」
「穀物と鉱石です」
「正解」
「では外交で最も重視すべきは?」
「信頼関係です」
「うむ、良く勉強している」
周囲も順調に答えていく。アレクシスも的確に回答し、他校の生徒たちから感嘆の声が上がった。外交官たちも頷きながら、いくつかの質問が出される。王立学園の教育水準は高いと評価されているようだ。私はと言うと、何もわからないままだ。わかるわけない。よってこのまま静かに黙って時間が過ぎるのを待つのが得策。頑張れアレクシス! 応援しているぞ!
私の応援があったからか、途中から空気が変わった。年配の外交官が、ゆっくりと眼鏡を押し上げる。
「甘いな」
会場が静まり返る。一言に含まれた威圧感は相当なものだった。
「理想論ばかりだ。外交とは、国家利益の奪い合いでもある。貴殿らは現実を見ていない」
空気が一気に重くなった。さらに他校側の外交講師も口を開く。その声音は王立学園を下に見たものだった。
「王立学園の教育は、随分とぬるいようだ。これでは国家の将来も危ぶまれる」
ピリ、と緊張が走る。アレクシスが静かに目を細めた。瞳に一瞬、王太子としての光が宿る。しかし反論はできない。確かに問題が難しくなっていたからだろうか。周囲の生徒たちも息をひそめている。こう言う時は存在感を消そう。それが一番正解だ。
すると、その時。
「ふん」
一人の男子生徒が立ち上がった。金髪を後ろに流した美青年。高価そうな赤い制服。指には宝石の指輪。そして何より、全身から漂う俺が一番偉いという圧。いかにも傲慢貴族である。その自信満々の態度は、明らかに常人ではない育ちを示していた。
「私はディルク・フォン・グランツ。グランツ侯爵家嫡男だ」
名乗った瞬間、周囲がざわついた。有名人らしい。グランツ家は王国内でも指折りの貴族家。嫡男の登場に、空気が一変する。ディルクはアレクシスを見て笑う。明らかに挑発的だった。何か起こりそう。あああ、やはり来なければという予感がする。
「王太子殿下も大したことがないな」
「何? 理由を説明してみな」
「外交とは力だ。理想論では国は守れん。利益と損失、強者と弱者。現実の中でいかに己の国を最大化させるか。つまりは算盤勘定こそが外交の本質だ」
挑発的な視線。完全にアレクシスへ対抗心を燃やしていた。そしてディルクの視線が、こちらへ向く。やめて私を見ないで。周囲の視線も集まり始めた。なぜか嫌な予感がする。本当に嫌な予感がする。
「それにしても」
ニヤリと笑う。悪意と色欲が混在していた。こっちを見るな!
「エルヴェルム公爵令嬢リリアナ。噂の聖女がどれほどのものかと思えば」
嫌な予感がした。凄くした。最悪の予感。何を言うかなこの人。
「気に入った。私の婚約者にしてやろう!」
「は?」
気づけば手を取られていた。ディルクが一瞬のうちにこちらへ接近し、手を握ってきたのだ。貴族の男子の行動としては、意識的な親密さを示すジェスチャーである。周囲がざわめく。私は固まる。えっ。なにこれ。新イベント? 新攻略対象? いらないいらないいらない!! 巻き込まれたら破滅フラグでしょ絶対!!
その瞬間。
ゾワッ――と空気が冷えた。肌を刺すような殺気。これまで感じたことのないレベルの圧力が降り注ぐ。後ろを見る。アレクシスだった。笑っている。でも目が笑ってない。真剣に人を殺す気で満ちていた。
「私のリリアナに、指一本触れるな」
静かな声なのに、魔力圧が怖すぎる。王族の本気の怒り。世界が震えるレベルの威圧。一方。ガルドが大剣を抜きかけていた。剣の動きに迷いがない。真剣に命を奪う準備だろう。いや切ったらダメだけど。
「我が主への不敬、万死に値する」
「待って待って待って!」
なんで外交イベントで戦争始まりそうなの!
しかも周囲の生徒たちが震えてる!
外交官まで青ざめてる!
貴族たちは一歩引き下がっている!
止めないと!!
でも私は外交なんて知らない!! 知識ない!! どうしよう!!
「では公爵令嬢」
ディルクが余裕の笑みを浮かべた。笑顔は強がりだった。アレクシスの殺気に怯えながらも、見栄と自尊心で前へ出ている。
「一つ問おう。答えられねば、お前は私の女だ」
「いやいやいや、そんな制度は古い!!」
本当に中世貴族の慣行が復活している。この異世界の差別構造の酷さに絶望する。
「隣国が軍備を増強し、こちらへ圧力をかけてきた場合、どう動く?」
えっ。知らない。全然わからない。この質問への正解は何だろう。一般的には軍事力による対抗か、外交による軍縮協議か、はたまた経済制裁か。だけど外交無理。戦争無理。会社員に聞くな。頭が真っ白になる。恐怖が襲う。この問題に答えられなければ、本気でディルクとの婚約が成立するのか。そんなことになったら。
すると、ふと前世の知識が浮かんだ。なんだっけ。戦国武将の言葉。えっと。
「動かざること、山のごとし?」
一瞬、沈黙。その沈黙は、すべてが終わったことを示すようだった。そして。
「ぶははははは!!」
ディルクが大笑いした。
「なんだそれは! 子供の格言かい? 古い教訓を知ったかぶりか?」
わああああああ〜最悪だ。周囲もざわつく。笑う者もいる。失敗だ。やっぱり失敗した。恥ずかしい。本当に恥ずかしい。王妃候補たる身で、こんな的外れな回答をしてしまった。もう終わりだ。
でも外交官たちは違った。全員、真顔だった。外交官たちの視線は、急速に鋭くなっていく。
「なるほど」
「ほう」
「これは恐ろしい」
え? 何? 何が? 年配の外交官が低く呟く。その呟きには、明らかな驚嘆が含まれていた。
「即座に動かない。つまり相手に読ませないということか」
別の外交官が続く。声には感心が満ちていた。
「軍備増強に過敏反応すれば、逆に敵へ情報を与える。自らの不安定さを露呈させることになる」
さらに若い外交官が立ち上がる。
「静観によって圧力を受け流し、同時に相手へ疑心を抱かせる戦略! 相手の行動の真意を読み取らせない。それこそが高度な外交だ」
えっ、そんな高度な意味あったの? 私はただ何かの兵法から何か出してみただけだ。前世での知識の断片が、妙に合致しただけ。意図的な戦略ではない。でも周囲の反応を見る限り、何かとんでもない正解を出してしまったようだ。外交官たちは激しく頷き合っている。
すると貴族生徒ディルクの顔色が変わっていく。彼は震えながらアレクシスとガルドを見る。王太子。近衛騎士団長。両方とも私を全力で庇う構え。つまり。
「これ以上リリアナを求めれば、グランツ家は王家に潰されるという脅迫!」
違う。もう一度違う。
「この女、美しい顔の裏に、ここまで政治的な牙を隠していたのか!」
違う違う違う!!
ディルクはガタガタ震え始めた。顔は青い。恐怖に支配されている。
「わ、私の負けだ!」
えええええ?
一方。アレクシスは感動したように目を閉じていた。その表情は涙すら浮かべているように見える。
「リリアナ君は我々の好戦的な心を、外交戦略によっておさめてくれたのだな」
「違います」
その声は誰にも聞こえていなかった。
「流石です、リリアナ様」
ガルドまで深く頷く。純粋な感動がある。
「戦わずして敵を屈服させるとは。まさに兵法の極地」
「いや、勝手に屈服しただけです!」
しかし誰も聞いていなかった。外交官たちは次々と頷き合っている。表情は真剣だ。老練な外交官たちが、本気で感心している。なぜこうなったのだ。全部偶然だぞ!
「まさに知恵の勝利」
「一言で争いを止めたか」
「恐るべき才覚だ。この娘は只事ではない」
やめて。盛り上がらないで。お願いだから帰らせて。もう何も言いたくない。
その後。交流会終了時には。
「知恵の女神リリアナ様!」
「外交の天才!」
「一言で戦争を止めた!」
などと他校にまで噂が広がっていた。更に外交官たちが、私をして次代の外交官候補として推薦する話まで出ている。
私は廊下の隅で頭を抱える。もう何をしたのかわからない。どうしてこんなことになった。
「どうしてこうなるの」
隣ではアレクシスが優しく微笑み、本気で感動している。
「やはり君は特別だ。国のためになる才能を持っている」
ガルドは腕を組みながら頷き、絶対的な忠誠が宿っている。
「俺は改めて誓う。命に代えてもお守りします。君の才能を世界に示させるまで」
「重い!」
思わず叫んだ。なぜこんなことに。期待され、持ち上げられ、運命が勝手に決まっていく。すると二人が同時にこちらを見る。その視線は心配そうだ。
「リリアナ?」
「どうされました?」
「なんでもないです」
私は遠い目をした。本当にやるせない気持ちでいっぱい。断罪シナリオを回避したかっただけなのに。どうして攻略対象たちの信頼度ばかり爆上がりしているのか。もうわからない。本当にわからない。世界の法則がおかしい。私の行動が勝手に美化される。私はただ。静かにお菓子を食べながら平和に生きたいだけなのだ。やはり来るんじゃなかった。




