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第77話
王宮の朝は、静かでありながら忙しい。高い天井へ朝日が差し込み、白亜の回廊には磨き上げられた床が淡く光っている。侍女たちは規律正しく行き交い、騎士たちは窓際に並んで警備を続けていた。
夜明けとともに、王宮は一日の業務へと動き出す。会議の準備をする官吏たち、王妃への報告書を整える侍女たち、すべての行動が緻密に調和している。この統制の取れた雰囲気こそが、大国の繁栄を支える基盤なのだ。
そんな王宮の一室で、王太子アレクシスは鏡の前に立っていた。
「これで問題ないだろう」
彼が選んだ服装は、黒を基調とした極めて簡素な正装だった。装飾は最低限。刺繍も控えめ。王太子というより、視察に向かう役人である。
すると背後から、呆れたようなため息が聞こえた。
「あなたは本当に、そういうところが不器用ね」
振り返ると、王妃が立っていた。今日の王妃は淡い紫のドレスをまとい、首元には王家の青い宝石が輝いている。艷やかな黒髪には銀の簪が一本、それだけで十分な高貴さを放っていた。毎日異なる装いで王宮を彩る王妃の美貌は、この国の宝の一つとも言われている。
優美、そして有無を言わせぬ迫力があった。
「母上」
「その格好でエルヴェルム公爵家へ行くつもり?」
王妃の言葉に、アレクシスは僅かに眉を動かした。自分の意図を見抜くこともなく、すべてを知っていたようだ。王妃に対して秘密を持つことは、初めから不可能なのだろう。
「問題ありません」
「大問題です」
即答だった。王妃はアレクシスの肩へ手を伸ばす。強い意志を感じさせる。
「リリアナ嬢に会いに行くのでしょう?」
リリアナの名が口にされた時、アレクシスの表情が微かに変わった。王妃はそれを見逃さず、唇の端に薄く笑みを浮かべた。
「はい」
「ならば、もう少し華やかになさい」
侍女たちが慣れた様子で新しい衣装を運んでくる。深い紺色の上着。金糸の刺繍。王家の紋章入りの飾緒。アレクシスは少し眉を寄せた。
「派手では?」
「恋する男は多少着飾るものです」
「母上」
珍しく言葉に詰まる息子を見て、王妃エレオノールは小さく笑う。笑い方には、幾年もの母としての威厳と、人生経験からの余裕が混在していた。
「去年までのあなたなら、こうして訪問などしなかった。よほどのことなのでしょう」
ため息混じりにそう言いながら、王妃はアレクシスの衣装を整える。
「あの娘も、なかなか手強いようですね。あなたがここまで苦労するなんて」
「母上、そういう」
「やめておきなさい。見えていますよ、すべては」
王妃エレオノールの瞳には、何かを知る者の深さがある。それは王族としての教育によるものか、あるいは母親としての直感によるものか。おそらくは両方なのだろう。
「行ってらっしゃい、アレクシス」
王妃の声は、どこか楽しそうだった。それは息子の恋を応援する母親の、優しい笑みが籠もった言葉だった。
◆
エルヴェルム公爵邸の一角では、小さな少女がベッドの上でぬいぐるみを抱えていた。
ソフィア・フォン・エルヴェルム。
リリアナの妹である。部屋は淡い色を基調に整えられていて、窓辺には花の刺繍入りカーテン、小さな本棚には童話が並び、丸い机の上には食べかけのクッキーが置かれていた。壁には、リリアナと撮らせた一枚の肖像画が大切そうに飾られている。姉妹の絆を示すように。
貴族令嬢の部屋としては上品だが、どこか幼く温かい。
ソフィアはぬいぐるみへ話しかけていた。
「今日はね、お姉様とおやつ食べるのー」
ぬいぐるみは、ソフィア用に特別に作られた綿製の子馬だ。ソフィアはこれをシロと名付け、毎日のように秘密を打ち明けている。
そこへ、こんこん、と扉が鳴る。
「ソフィア様。お嬢様がお呼びです」
エマの声だった。
「お姉様が?」
ソフィアはぱっと顔を輝かせる。
「はーい!」
ぱたぱたと廊下へ飛び出した。その足音の快活さは、エルヴェルム邸全体に活気をもたらすようだ。
◆
そしてその頃、私は本気で追い詰められていた。
(王太子様が来る!)
怖い。最近のアレクシスは危険だ。夜会のあとから特に距離感がおかしい。
目が優しい。言葉が深い。そして何より、行動が本気だ。怖い。
断罪ルートを回避したと思ったら、恋愛ルートに突入している気がする。ゲーム的に一番油断できないのだ。
悪役令嬢ゲームの攻略対象は三パターンある。一つは懲罰ルート。ヒロインに対して厳しい態度を取り続けるもの。二つ目は改心ルート。ヒロインの善行によって心を入れ替えるもの。そして最後が恋愛ルート。ヒロインに恋をして、彼女を守ろうとするもの。
最も危険なのは、この恋愛ルートである。
なぜなら、恋愛ルートに突入すると、もう選択肢が消える。プレイヤーは宿命に従うしかない。ゲームのシステムがそうできているのだ。そしてアレクシスは、確実にそこへ向かっている。
なので私は考えた。王太子と二人きりにならなければいい。
つまり。
「ソフィア!」
「お姉様ー!」
飛びついてきた妹を、私はがっちり抱きしめた。癒やし。天使。可愛い。そして最強の防波堤。
ソフィアの無邪気な存在は、あらゆる恋愛イベントを無効化する力を持っている。妹がいれば、王太子とて恋愛的な雰囲気を作り出すことはできないはずだ。
「今日は一緒にお散歩しましょうね」
「わーい!」
よし、これで恋愛イベントは防げる。その時、脳裏で警告音が鳴った。
これは、フラグ回避としては危険行為のカテゴリーに入る。恋愛ゲームにおいて、妹を盾として使う行為は、行為自体がイベント化する可能性がある。乙女ゲームの攻略対象は、思いやりのある女性を好む傾向があるのだ。
つまり、妹思いの姿を見せることは、逆に評価を上げてしまう危険性がある。今の私はそこまで考える余裕がなかった。
◆
エルヴェルム公爵邸の門前では、執事セバスティアンが使用人たちへ指示を飛ばしていた。
「そこ、落ち葉が一枚残っています」
「申し訳ありません」
アレクシスが来るので、家では急いで片付けられた。セバスティアンの目は鷲のように鋭く、邸の管理に完璧さを求める。
「庭園の石畳も再確認を。一ミリの歪みも許さない」
執事は王太子の訪問を、国家的な視察程度の価値で捉えているのかもしれない。なぜなら、ここはエルヴェルム公爵家。この邸の評価は、すなわちリリアナの評価であり、さらには公爵領全体の評価へと直結するのだ。
執事の横では、エマが花壇周辺を掃除していた。
「王太子殿下がお見えになるのですから、お嬢様に恥をかかせるわけにはいきませんわね」
彼女の声には、リリアナへの忠誠と、何か別の感情が混在していた。もしかしたら、王太子との関係が今後どうなるのか、下心ながらも応援している部分があるのかもしれないかった。
掃除は門。玄関。庭を行う。ゴミ一つ落ちていない。ただそこに存在する景色それ自体が、一つの美しい作品となっていた。
もはや芸術の域だった。やがて馬車の音が近づく。王家の紋章入り馬車。
装甲された車体は、王族の身分を示している。四頭の白馬が牽く馬車は、陽光に輝き、道を行く者たちの視線を集める。
アレクシスが降り立つと、使用人たちは一斉に頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、殿下」
セバスティアンが完璧な礼をする。腰を折る角度、手の位置、視線の向け方に至るまで、すべてが規則に則っている。
アレクシスは静かに頷いた。
「突然の訪問を許してくれたこと、感謝する」
王太子らしい高貴さと、若き青年らしい誠実さが混在していた。王族であるながらも、他家への訪問時には相手への配慮を忘れない。バランスの取り方が、彼を優れた後継者たらしめている。
その姿を見たエマは、こっそり感動していた。お嬢様の未来の旦那様と。




