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第76話
「皆様が、豊かで、心穏やかに暮らせるのが一番かと存じます」
つまり。何も言いたくない。これである。政治的中立という名の逃亡。私はそっと目を伏せた。現実逃避したかった。
すると沈黙。会場が静まり返る。空気が、確実に何かを待っている。
あっ、やってしまった?
失言した?
それとも、高く評価された?
恐る恐る顔を上げると。母エレノアが、驚きの顔をしていた。
なんて素晴らしい表情をするのと書いてある顔だった。母の顔には、感動と喜びが混在している。
違う。ただ困ってるだけ。母親の好意的な解釈には、いつも違和感がある。
だが王妃も目を細める。それは良い兆候だろうか、悪い兆候だろうか。
「なるほど」
怖い。その一言がこんなに怖いとは。
「特定の政策に囚われず、国民の幸福という本質を語るのね。実に興味深い」
「ええええっ」
「この若さで、政争を超越した視点を持つとは。あなた、本当は何者なの?」
「いや、あの、その」
違う。逃げたかっただけだ。幸福についても、国民についても、深く考えていない。私は政治には無関心だし、詳しくないし。
専門家でもないから言った。
しかしエレノアは静かに息を吐いた。表情には、誇りが満ちている。
「見事です、リリアナ。本当に見事」
「お母様?」
「私の教育を、よくここまで昇華しましたね。あなたは私の期待を超えた」
母親の期待値が更新されただけだ。つまり、今後はもっと高い期待がのしかかってくる。
王妃が微笑む。笑顔は満足げだ。
「未来の王妃に相応しい見識です。本当に素晴らしい」
待って。なんか危険な単語が出た。王妃? 私のこと?
「リリアナはアレクシスの恋人にふさわしいわ。王妃として君臨するに相応しい品性と知性がある」
その瞬間。
周囲の空気が揺れた。社交界の人々の期待値が、一気に上昇する。
私は硬直する。動けない。呼吸もできない。
だが隣のアレクシスは、真っ直ぐ頷いた。様子には、迷いがない。
「はい」
はい? その返事で良いのか。王妃が言ったことを、彼は承認したのか。
「将来を真剣に考えています。リリアナとの人生を」
ちょっと待って。何その爆弾発言。公開プロポーズみたいなことをしている。私はなんて答えたらいいのだ!
「私は」
「リリアナ」
アレクシスが静かに微笑む。彼の顔は、本当に完璧だ。誰が見ても、好意的に捉えるだろう。
「少し外の空気を吸わないか。会場が少し息苦しく感じるだろう」
断りたい。本当に断りたい。でもこの空気で拒否できるほど私は強くない。周囲の視線、母親の期待、王妃の満足感。全てが、外に行きなさいと圧力をかけている。
◆
王宮のバルコニーは、夜風が心地良かった。
遠くに見える王都の灯り。一つ一つの光は、一つ一つの人生を示しているのだろう。
月明かり。満月に近い大きな月が、柔らかく周囲を照らしている。
静かな噴水の音。水が流れ落ちる音は、瞑想的で、それでいて心を落ち着かせてくれる。
アレクシスと並んで歩いているだけで、周囲の侍女たちがそわそわしているのが分かる。
完全に恋人扱いだ。事実上の公式カップル認定。これで戻ることはできない。
「疲れているな」
アレクシスが苦笑した。表情には、心配が滲んでいる。
「誰のせいですか」
思わず反論してしまった。
「私か?」
「たぶん半分くらい。あとの半分は、この場の空気と、社交界の期待値のせいです」
すると彼は小さく笑った。本心からの笑いだろうか。
最近、アレクシスはよく笑う。本来のゲームではもっと冷たい印象だったのに。この世界に転生してから、シナリオを変えたことで彼も何か変わったのだろうか。
「リリアナ」
「はい?」
彼が私の名前を呼ぶだけで、心臓が大きく跳ねた。これは危険だ。
「君は、本当に不思議な人だ」
月光が彼の横顔を照らす。表情は、真剣で、そして強く、私を捉えている。
「誰よりも優しくて、誰よりも誠実なのに、本人だけがそれを理解していない。謙虚さすら、君の魅力の一部になっている」
「誤解です。私は別に優しくもなければ、誠実でもありません。ただ、被害を最小化するために動いているだけです」
「そういうところも含めて」
アレクシスがこちらを見る。
心臓に悪い顔で。目には、私への好意が明確に映っている。
「私は君を大切にしたい。本当に、心の底から」
私は思わず目を逸らした。おかしい。断罪シナリオを回避しただけのはずなのに。どうしてこうなった。
本来なら、アレクシスはヒロインと恋に落ちるはずだった。第一次の断罪シナリオでもそうだったはずだ。
なのに今。まるで恋愛ルートみたいになっている。正規ヒロインは消えた。代わりに私が、その位置を占めている。
(これいいの?)
いや。待って。恋愛イベントって、最後に大きな波乱が来るものでは?
失踪イベント、誤解イベント、三角関係イベント。何かしら必ずある。
つまり。破滅フラグの可能性、まだ残ってる?
私は青ざめた。人生の危機を感じている。
一方アレクシスは、そんな私を見て優しく微笑む。
「寒いのか?」
「違います」
むしろ心が熱い。恐怖と期待で。
「なら良かった」
そして自然に、彼は私の手を取った。
指と指が絡む。温かさが伝わる。現実だ。これは夢ではなく、確実に現実だ。
周囲の侍女たちが息を呑む。今ここで、王族の王子と一般貴族の令嬢が、公に手を繋いだ。この行為は、王族からの承認を意味する。
やめて。見てる。すごく見てる。視線が痛い。私は遠い目をした。
(早く帰って布団に入りたい。そしてもう、社交界には出たくない)
しかし運命は、そんな願いを聞いてはくれないのだろう。明日には、王宮での出来事が民間へと広がり、また新しい騒ぎが始まるのだろう。
聖女とは呼ばれなくなるかもしれない。代わりに何と呼ばれるのか、想像したくない。王妃に近い立場、王族の愛人、未来の王妃候補、などなど。どれもが、私の心を重くする。
アレクシスの手握られながら、月の下で、私は静かに絶望していた。あああああ〜、帰りたい!




