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第75話 夜会の試練
夕暮れ時のエルヴェルム公爵邸は、昼とは違う静かな華やかさに包まれていた。
窓の外では庭園の噴水が淡く光り、長い廊下には魔導灯が等間隔に灯されている。壁に掛けられた絵画たちも、その光に照らされて、まるで生き生きとした表情を取り戻しているようだった。
そんな中、公爵夫人エレノア・フォン・エルヴェルムは、自室で夜会の支度を整えていた。
鏡の前に立つ姿は、まさに社交界の女王。
深い藍色のドレスは夜空のように美しく、胸元には銀糸の刺繍が流星のように煌めいている。腰部には宝石が散りばめられ、光に当たるたびに虹色の輝きを放っていた。
腰まで流れる金髪は丁寧に結い上げられ、横顔は芸術品のように完成されていた。その完璧さは、生まれながらのものではなく、年月をかけて磨き上げられた結果なのだろう。
「奥様、とてもお綺麗です」
エマが感嘆の声を漏らす。エマの声には、純粋な讃嘆だけでなく、ほんの少しの恐怖も含まれていた。
エレノアは鏡越しに微笑んだ。笑顔は貴族的だが、どこか鮮烈な危険性を秘めている。
「ありがとう、エマ。これくらいできていなければ、社交界では通用しませんからね」
その微笑みだけで、空気がぴんと張り詰める。
優美。完璧。そして恐ろしい。私は少し離れた場所から、その様子を見ていた。母を観察するように。警察の目撃者のように。
(今日の夜会、絶対疲れる)
嫌な予感しかしない。最近の私は、何をやっても騒ぎになる。
掃除をすれば聖女だと称賛される。お茶を渡せば調停者だと言われる。ランチを一緒にすれば革命家だと噂される。
もうやめてほしい。正直なところ、私は何もしたくない。ただ目立たずに、自分の人生を歩みたいだけだぞ!
今日は王宮での夜会がある。母と私が呼ばれた。
「リリアナ」
エレノアがこちらを振り返る。視線には、何もかもを見通す力があるように感じる。
「準備は?」
「できています、お母様」
私もドレスへ着替えていた。淡い白銀色のドレス。清潔感があり、それでいて高級感も兼ね備えている。使用人エマが言うには、清廉なる聖女を意識した色らしい。
やめて。その路線やめて。私は聖女ではない。ただ、たまたま運が良かったり、適切に行動できたりするだけだ。それを勝手に聖女扱いするのは、期待値を上げすぎている。いずれ絶対に裏切られる。地味なドレスがいい。目立つだろ!
「本日の夜会には王妃様も出席されます」
エレノアが静かに言った。優しいようでいて、厳しい通告のようにも聞こえた。
「失礼のないように。あなたの振る舞い一つで、私たちの名誉が傷つく可能性もあります」
「はい」
胃が痛い。親の期待ほど恐ろしいものはないと、この瞬間私は改めて認識した。家にいたい!
◆
王宮は今夜も煌びやかだった。
巨大なシャンデリアが黄金色の光を降らせ、大理石の広間には数え切れないほどの貴族たちが集っている。まるで極上の宝石が並べられた陳列棚のようだ。
色鮮やかなドレス。深紅、藍色、翠色、薄紫。光に当たるたびに色が変わるような特殊な生地もある。
燕尾服。それぞれの男性たちは、勲章や家紋を胸に付けている。
宝石。首飾り、腕輪、指輪。まばゆいばかりの輝き。
香水。様々な香りが混ざり合って、複雑で優雅な香気になっている。
音楽隊が奏でる優雅な旋律。提携された楽士たちの息がぴったり合っている。
銀盆にはぶどう酒が並び、焼き立ての肉料理や香草の効いた魚料理が運ばれていく。食べるというより、視覚で楽しむための芸術作品だ。
「最近の穀物相場は」
「辺境の魔獣討伐が増えておりますな。討伐報奨金の増額も必要では」
「王太子殿下はますますご立派に。あの方なら、次代の統治も安泰でしょう」
貴族たちの会話が、あちこちで交差していた。政治、経済、王族。彼らの話題は限定されている。
私は母と共に会場を歩く。母の後ろについていくだけで、まるで彼女の付属品のようだ。
すると自然に人々が道を開けた。エレノアの威圧感に逆らうことはできない。
「エルヴェルム公爵夫人だ」
「隣にいるのがあの噂の令嬢」
「噂のリリアナ嬢よ。あの方本当にいるんだ」
あああ、聞こえてくる。嫌だ本当に嫌だ。視線が怖い。一つ一つの視線が、私の心臓に小さな穴を開けていくようだ。
できれば壁になりたい。壁なら誰も見ない。注目されない。存在を忘れられる。
その時。
広間の奥が静かにざわめいた。王妃が姿を現したのだ。深紅のドレスをまとった姿は、まるで薔薇の女王だった。夜の薔薇。危険で、美しく、近づくことさえできない。
頭上には王家の宝冠。純金と宝石でできた、王権の象徴。
微笑みは柔らかいのに、目だけは鋭い。目は、全ての嘘を見抜き、全ての計算を理解している。
お出ましかお出ましか王妃。
その隣にはアレクシスがいた。アレクシスも参加するようだ。まあ当然か。
漆黒の正装に金の装飾。王族に相応しい、完璧な見た目だ。
長い銀髪が揺れるたび、周囲の令嬢たちが頬を染める。彼のルックスは本当に規格外だ。
絵画みたいだな、と他人事のように思ってしまった。他人の恋愛に関心がないのだ。
できれば王妃との会話がなければいいが。
すると。
「リリアナ嬢」
王妃がこちらへ歩いてきた。終わった。絶対に終わった。絶対面倒事だ。この流れはいい兆候ではない。
「最近、あなたの噂をよく耳にします」
王妃が私に近づく。
「恐れ入ります」
下手に出るしかない。この方は、王国の最高権力者の妻だ。敬わない理由はない。
「学園でも大変活躍しているとか。吟遊詩人たちの中では、あなたの逸話が広がっているようですね」
「いえ、そのようなことは」
全力で否定したい。なぜ人は、自分の小さな行動をこんなに大きく解釈するのか。王妃は何か企んでいるかのように微笑んだ。笑顔には、何か意図が隠されているようだ。
「では一つ、聞かせてちょうだい」
その瞬間、隣の母エレノアから、凍るような圧力を感じた。
完璧に答えなさい。失敗は許さない。
無言でそう言われている。怖い。親子の暗黙の了解ほど怖いものはない。
「リリアナ嬢。今の王国の税制について、どう思うかしら?」
はい?
私は一瞬で理解した。罠だ。これ、完全に罠。王妃は私を試しているのだ。やばい!
税制問題は今、貴族派閥の争点になっている。複雑で、繊細で、間違えば大変なことになる。
増税派。王家の財政を強化したい派閥。
減税派。貴族の負担を減らしたい派閥。
王家寄り。王妃の政治的スタンス。
貴族寄り。母エレノアを含む貴族派閥のスタンス。
つもりは増税、減税どっちに寄っても批判されるか。
ここで変なことを言えば終わる。確実に終わる。政治的失言は、回復不可能だ。
(政治的発言は絶対NG!)
脳内会議が始まった。委員会が開催され、複数の私が同時に考える。
どちらにも媚びず。しかし無能にも見えず。角も立てず。目立たず。安全な答え、安全、安全第一。生存戦略。
そして私は、考え抜いた末に口を開いた。




