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第74話
朝のベルンシュタイン侯爵家は、いつも静かだった。
磨き抜かれた大理石の床。天井まで届く大きな窓。柔らかな朝日が、格式高い食堂を淡く照らしている。
長い食卓の中央には、銀のティーセット。
香り高い紅茶の湯気が立ち昇り、焼き立てのクロワッサンとハムエッグが整然と並べられていた。
「お嬢様、本日の予定でございます」
執事が静かに頭を下げる。
クラウディア・ベルンシュタインは、紅茶を口へ運びながら小さく息を吐いた。動作は貴族の令嬢としての気品に満ちており、一切の乱れがない。しかし瞳には明らかな不満が映っていた。
「最近、どこへ行ってもあの女の話ばかりね」
「リリアナ様のことでしょうか」
「その名前を朝から聞かせないでちょうだい」
ぴしゃりと言い放ちながら、クラウディアはカップを置く。音は、氷のように冷たく響いた。
令嬢として生まれ、幼い頃から完璧を求められてきた。
礼儀。学力。芸術。社交。すべてにおいて優秀でなければならない。
だからこそ、クラウディアは努力してきた。必死に。誰よりも。睡眠を削り、休息を後回しにして、常に自分を高めることを意識してきた。自分の道が決まっており、道を完璧に歩むことが、彼女の人生だった。
それなのに完璧が狂った。
「最近の学園、リリアナ・フォン・エルヴェルムばかりですわ」
平民と食事をした。改革を訴えた。聖女だ。救世主だ。革命家だ。意味が分からない。
「ただランチしただけでしょう」
クラウディアは本気でそう思っていた。何か特別なことをしたわけではないではないか。単に、一人の平民の少女と食事をしただけではないか。
それなのに、なぜ学園中がリリアナを賞賛するのか。理不尽さに、クラウディアの心は常に沸騰していた。
クラウディアと逆に周囲は違う。貴族たちは皆、リリアナを特別視している。噂は学園中に広がり、誰もがリリアナの行動に耳を傾けている。宴会では名が上がり、社交界では評判が尽きない。
王太子アレクシスすら、リリアナを信頼している。気に入らない。
クラウディアは自分の努力を否定されたような気分だった。自分が積み上げてきたものすべてが、この一人の少女によって、薄れてしまった。屈辱感から毎日クラウディアの心を蝕んでいた。
「今日こそ、化けの皮を剥がして差し上げますわ」
クラウディアは静かに笑った。しかし笑みは光を失っていた。まるで、深い谷底から上を見上げるような、絶望的な輝きだった。
◆
私は猛烈に緊張していた。
「絶対、待ち伏せされてる気がする」
廊下を歩きながら、私は小声で呟いた。誰かに聞かれないように、息を殺して。
最近の学園は怖い。本当に怖い。毎日が修羅場だ。
何をしても騒ぎになる。ランチを食べれば革命。掃除をすれば聖女。保健室へ行けば癒やしの女神。
意味が分からない。完全に意味が分からない。普通に生きたい。
普通の少女として。目立たず。静かにチョコを食べたい。ただそれだけだ。
「お嬢様、本日は特別な茶葉をお持ちなのですね!」
隣を歩くエマが、嬉しそうに包みを抱えている。エマの表情は、何かとても重要なことを成し遂げたような喜びに満ちていた。
私は遠い目をした。
「あれは保険よ」
クラウディア対策。最近ずっと睨まれている。私への視線は殺意すら感じさせるほどだ。このまま敵対したら絶対に破滅フラグへ繋がる。ゲーム的な意味で、今はクラウディアを敵に回す時期ではない。
だから私は調べた。クラウディアの好みを。好きな紅茶を。
彼女が最近どんなことに時間を費やしているのかを。
そして入手困難だという隣国産の高級茶葉を取り寄せたのである。茶葉は、普通の商人を通じては絶対に手に入らない。私の立場だからこそ、特別なルートで入手できたのだ。
これを渡せば丸く収まるはず。
平和的解決。素晴らしい。私の作戦は完璧だ!
すると角を曲がった先で、目的の人物が待ち構えていた。
「来ましたわね、リリアナ」
クラウディアが扇子を広げる。動作は威圧的で、まさに決闘の開始を告げるものだった。
背後には取り巻き令嬢たち。全員、こちらに敵意の視線を向けている。
完全に決闘前。怖い。本当に怖い。私は心の中で悲鳴を上げた。
(ここで揉めたら終わる! ここは何としても穏便に収めるしかない!)
だから私は即座に頭を下げ、高級茶葉を差し出した。まるで降参の旗を掲げるようだった。
「こ、これ、とても美味しいのでぜひどうぞ」
お願い。これで仲良くして。というか放っておいて。差し出された包みに、すべての願いを込めた。
するとクラウディアは眉をひそめた。明らかに不満が映っていた。あれ、失敗か?
「紅茶葉?」
「はい」
「馬鹿じゃないの。私は毎日飲んでいるわよ。必要ないわ」
ああああ、駄目だ。賄賂失敗。作戦崩壊。私は絶望した。
「そ、そうですか」
終わった。もう断罪される。社交界での地位を失い、学園での評判も地に堕ちるだろう。クラウディアの一言で、すべてが終わる。恐怖が、私の全身を支配していた。
その時だった。エマが突然、目を輝かせた。
「クラウディア様! お嬢様は、あなたが最近夜遅くまで勉強されてお疲れだと知り、リラックス効果の高い茶葉を探しておられたのです!」
やめて。何言ってるの。私は何もそんなことを言っていない。エマの創作だ。完全な創作。しかも声が大きい。廊下に響いてる。
生徒たちが集まり始めた。噂好きな令嬢たちが、この騒動を逃すはずがない。
「この茶葉は隣国から取り寄せた特別な品でして!」
エマは包みを開く。途端に、甘く上品な香りが広がった。それは、本当に高級な茶葉にのみ許される、上貴な香りだった。
クラウディアの目が見開かれる。
「ええっ?」
「ご覧くださいませ」
「ま、まさか、その茶葉は」
クラウディアの声が震えた。本気で震えている。
「私が探しても入手できなかった幻の茶葉!」
「その通りです」
エマが誇らしげに胸を張る。自分の創作が功を奏したことに、彼女は大満足のようだった。
いや、なんであなたが誇るの。
私は困惑した。
「まあ、そうなんだよね」
知らなかった。適当に高いやつを選んだだけだった。取り寄せる際に、執事に「高級な茶葉を」とだけ指示し、詳しい内容は聞かなかったのだ。
クラウディアは茶葉と私を交互に見る。視線は、まるで私を透視しようとするかのような強さだった。
「どうして」
「え?」
「どうして、そこまで」
問いかけの中に、クラウディアの困惑と、何か別の感情が混在していた。私は内心で必死だった。
どうしてって怖いからです。あなたと揉めたくないからです。
静かに暮らしたいからです。破滅フラグを回避したいだけです。
しかしエマは感動したように頷いている。
「お嬢様は本当にお優しいのです」
「違う!」
否定したが遅かった。クラウディアの肩が震える。表情が、激怒から悔恨へと変わっていった。
「な、何よそれ」
瞳が潤んでいた。本当に潤んでいた。
「私を敵視するどころか、体調まで気遣うなんて」
いや違う。気遣ってない。保身、完全に保身。自分の身を守るための、計算された行動だ。
「これじゃ、私がただの嫌な女みたいじゃない!」
クラウディアは悔しそうに唇を噛んだ。誰かに負けることを初めて経験した、幼い子どものようだった。
そして。
「いただきますわ」
「内密にね」
そっと茶葉を受け取った。まるで聖なる物を受け取るかのような、恐る恐るとしたものだった。
私は心の中でガッツポーズした。
(勝った!)
作戦成功。危機回避。これで平和。静かな学園生活。ようやく訪れる安心。そう思った。
◆
翌朝。
「ごきげんよう、リリアナ様!」
元気な声が響いた。私は机で固まる。そこには、朝から満面の笑みを浮かべるクラウディアがいた。笑顔は、昨日の剣呑な雰囲気から一変して、太陽のように明るかった。なんで。
「本日のお茶会ですが」
「お茶会?」
「ぜひご一緒したく!」
「えっ!」
周囲の令嬢たちがざわつく。
「クラウディア様が」
「ライバル関係では?」
「まさか和解を」
違う。和解というか、私は静かにしたかっただけだ。というか、むしろ今の状況はもっと複雑になっている。
しかしクラウディアは完全にキラキラした目でこちらを見ていた。目の輝きは、何かを信仰するときの光だった。
「リリアナ様のお言葉、昨日一晩考えましたわ」
「言葉?」
「ぜひ内密に。つまり、真の気遣いは見返りを求めない、という意味でしたのね!」
「違います!」
否定したが、クラウディアは聞く耳を持たなかった。
「なんて高潔な!」
周囲が感動し始めた。
やめて。誤解。盛大な誤解だ。
「リリアナ様は社交界の調停者だわ」
「敵すら救うなんて」
なんでそうなるの。事態は悪化している。むしろ、昨日よりも悪化している。私は頭を抱えた。
クラウディアは私の前で、まるで宗教的な崇敬の念を込めて見つめている。これは本当に危険な状況だ。敵意は引かれたが、代わりに妙な信仰が生まれてしまった。
◆
夜。エルヴェルム公爵家の広い食堂。
エマは興奮した様子で報告していた。
「お嬢様の徳の高さが、また一人頑なな心を救いました」
彼女の報告は、あまりにも的外れだ。でも、その誤解が紡ぐ物語に、誰もが魅せられていく。
父アルベルトが静かに頷く。
「よくやった、リリアナ」
「やってない!」
私は食堂で叫んだ。
「救ってないです! 学園が大変なんです!」
「ベルンシュタイン侯爵家との関係改善は大きい」
父は何も聞いていない。
「違います!」
「さすがお嬢様です」
セバスティアンまで頷く。家の執事まで同調するとは。違う。全員違う。誰も私を理解していない。
「私はただ静かに生きたいだけなの!」
その叫びは、誰の心にも届かなかった。すると兄ルシアンが楽しそうに笑った。笑い方は、全てを知っているようなニュアンスを含んでいた。
「無理じゃないかなぁ」
「なんでですか?」
「だって妹が動くたびに、世界が変わるから」
「変えてない!」
私は泣きそうになった。本当に、泣きそうだ。その時。
エマがうっとりした目で呟く。
「明日もクラウディア様が挨拶に来るそうです」
「なんでぇぇぇぇぇ!」
私の悲鳴が、食堂に響き渡った。私の平穏な学園生活は、今日も遠かった。
いや、もはや遠いというレベルではない。完全に消滅してしまった。
最初は敵意に満ちた視線。次は、根拠のない信仰。そして今は、毎日のように訪問される有り様。
この流れは、いったいいつまで続くのか。
私は、ただ静かに生きたかっただけなのに。
ただ、目立たずに、平穏に、誰かを傷つけることもなく、自分の人生を歩みたかっただけなのに。
なぜ、こんなことになってしまったのか。答えは、おそらく誰にもわかるまい。
誰もが、自分たちの都合よく、私を解釈して、私を創造して、私を神聖視しているから。
本当の私など、誰も見ていないのだ!




