72
第72話 ヒロインとのランチ
軍部から救国の天才軍師などという、まったく必要のない二つ名を与えられたのは困った。私は本気で反省していた。兄へのプレゼントは危険だ。
お兄様は何でも国家規模へ変換する才能がある。知恵の輪を渡せば暗号解読。パズルを作れば軍事革命。
危険過ぎる。もうプレゼントはしない、もう嫌。私は普通に生きたいだけなのに。
「今後、お兄様への贈り物は禁止ね」
私は自室で紅茶を飲みながら固く誓った。すると背後でエマが目を輝かせる。
「お嬢様ほどの知性を持つ方のお遊びは、国を揺るがしますからね」
「揺るがしてない!」
「軍部が泣いて感謝したとか」
「知らないわよ!」
「今、王都ではエルヴェルムの叡智と聞いています」
「やめてえええええ!」
私は頭を抱えた。このままだと本当に何か大変な方向へ行く。絶対まずい。なので私は初心へ帰ることにした。
つまり断罪回避である。本来、この世界の悪役令嬢リリアナは、ヒロインを虐めた末に破滅する。
婚約破棄。社交界追放。最悪の場合、修道院送り。恐ろしい。
一度はアレクシスとの断罪イベントを回避した。だが油断はできない。ゲームには隠しイベントというものがある。
つまり。
「ミレイユと仲良くしておけば安全なのでは?」
これである。ヒロインキャラのミレイユと友好関係を築いておけば、断罪される可能性は低い。
完璧な作戦だ。実は、私がこの戦略に辿り着いたのには深い理由がある。前世の記憶を持つ私は、ゲームのストーリーラインを熟知していた。
悪役令嬢の破滅ルートは、ヒロインに対する嫉妬と虐めから始まる。だからこそ、感情の根源を断つことが最善だと考えたのだ。
ヒロインを敵ではなく、友人として迎え入れることで、破滅フラグを次々と削除できるはずだ。
理論は完璧。実行も簡単なはず。ただ、私は一つ大切なことを見落としていた。
この世界の人々は、私の行動をすべて特別な意味として解釈する傾向があるということだ。
◆
朝。王都の端にある小さな家で、ミレイユ・フローレンスは目を覚ました。窓から差し込む柔らかな光。小鳥の鳴き声。
「朝」
彼女はゆっくり起き上がる。貴族のような豪奢な寝室ではない。
木の床に、小さな寝台。けれど掃除は行き届いていて、温かな暮らしの匂いがあった。
ミレイユの家は質素だが清潔で、何より愛に満ちていた。壁には両親が大切にしている家族の絵が飾られており、毎朝彼女が見る最初の光景である。
貴族の邸宅では決して得られない、素朴で深い温もりがそこにはあった。
「ミレイユー、朝ごはんできてるよ」
階下から母の声が聞こえる。
「はーい!」
慌てて制服へ着替える。学園の制服は質が良い。平民の家では少し浮いて見えるほどだ。
鏡の前で髪を整えながら、ミレイユは小さく笑う。笑顔は、毎朝の儀式だった。
希望に満ちた一日の始まりを祝うような、そして親への感謝を込めた。
彼女は、貴族の子どもたちとは違う何かを持っていた。困難の中でも前を向く力。親からの無限の信頼。
「今日も頑張ろう」
階段を降りると、食卓には温かなスープと黒パンが並んでいた。
野菜を煮込んだ素朴な味。豪華ではない。でも優しい味だった。
スープの湯気は、家全体を温かく包み込んでいた。母の手による毎朝のご飯。
それは単なる栄養ではなく、ミレイユが学園で生き抜くための精神的な支柱となっていた。
「最近ちゃんと食べてる?」
母が心配そうに聞く。母の瞳には、深い愛情と同時に、微かな不安が映っていた。貴族の子どもばかりが通う学園への進学。娘がそこで虐げられていないか、心身ともに無事でいるか。
毎日その心配を抱えながらも、顔には出さない。親というものの強さだった。
「うん! 学園の食堂、すごく美味しいの」
「それなら良かった」
父は仕事へ向かう準備をしていた。日焼けした大きな手で、ミレイユの頭を撫でる。
父の手は、仕事の手だった。一日中働き、汗を流し、それでも家族のために稼ぎ続ける。
手には、無数の傷があり、ミレイユはそれを見るたびに、親への感謝の気持ちが深くなる。
「無理するなよ」
「大丈夫!」
ミレイユは元気よく笑った。それから鞄を抱え、小走りで家を出る。貴族ばかりの学園。最初は怖かった。
圧倒的な権力差。きらびやかな衣裳。親から聞かされていた階級社会の厳しさ。けれど今は、少しずつ居場所ができ始めている。
新しい友人たちができ、笑顔で声をかけてくれる子たちもいた。いじめられることもなく、むしろ学業でも好評を得ていた。
それは彼女の努力と、そして何より、あの公爵令嬢のおかげで。
ミレイユがリリアナ・エルヴェルムの名前を思い浮かべた時、彼女の頬は無意識に温かくなった。
◆
私は学園食堂で、緊張しながらミレイユを待っていた。
「落ち着いて、私」
今回は簡単。普通にランチへ誘うだけ。余計なことをしなければ大丈夫。完璧に計算された作戦。
昨夜、私は執務室で何度もシミュレーションを繰り返した。ミレイユの性格、食堂での状況、最適な誘い方。
すべてを完璧に準備した。これはただのランチではなく、断罪ルート回避の重要なイベントなのだ。
私は深呼吸した。そして入口から現れたミレイユへ声をかける。
「ミレイユ」
「えっ」
彼女が驚いたように振り返る。目には、戸惑いと期待が混在していた。
「もし良ければ、一緒に食べましょう」
保険。これは断罪回避のための保険。徹底した安全策だ。完璧なリスクヘッジ。
するとミレイユは目を丸くしたあと、ふわりと笑った。笑顔は、本当に心からの喜びで満ちていた。
「私で良ければ!」
「ええ」
よし順調。この笑顔を見て、私は一瞬だけ、自分の行動が本当に保険だけなのか疑いを持った。
それは一瞬で、私の思考は再び現実問題へ戻った。
しかし次の瞬間、食堂の空気が凍った。
「今、見た?」
「公爵令嬢が平民を」
「同席を許した?」
やめて。そんな大事件みたいに言わないで。
貴族社会の常識が、この瞬間に崩壊しているとでも言うのだろうか。食堂という公共の場所で、身分の高い貴族が身分の低い平民と同じテーブルについた。
それは単なる食事ではなく、階級制度への明白な反逆として映ったのだ。私は平静を装いながら席へ座った。
ミレイユは恐縮しきっている。小さな身体は、緊張で硬くなっていた。周囲の視線の重さ。自分のいない地位にいる者との共席。
今の状況が彼女にもたらすプレッシャーは、計り知れないものかも。
「その、すみません」
「なぜ謝るの?」
「身分差が」
「食事くらい普通でしょう?」
前世では当たり前だった。会社員と社長令嬢が同じ店でランチしても革命にはならない。この世界は違う。
王国の社会構造は、身分制度を根幹としており、秩序を破ることは、単なる礼儀违反ではなく、政治的な声明と受け取られるのだ。
しかし周囲の貴族たちは違ったらしい。
「身分を超えた友愛」
「なんという慈悲」
違う違う、違うただのランチだ!
なぜそれが慈悲に変わるのか。食堂中の視線が、私たちに集中していた。何か歴史的な瞬間を目撃している、そういった雰囲気が漂っていた。
すると。
「あっ」
ミレイユの口元へソースが付いた。私は反射的にハンカチを取り出す。
放置すると、周囲が彼女へ余計な視線を向けるかもしれない。
つまりこれは保身。貴族社会において、平民が汚れた状態で存在することは、二重の烙印を押されることになる。
だからこそ、私は即座に行動する必要があった。ミレイユを守るための、最小限の介入を。
「動かないで」
「え?」
私はそっと彼女の口元を拭った。その瞬間、世界が止まったようだった。
実際には、私の指先がミレイユの顔に触れただけなのに。
「これで大丈夫」
ミレイユが真っ赤になる。
「そ、そんなことまで!」
「普通よ?」
前世でも、何かついてれば拭ってあげるのは普通だった。しかし周囲は普通ではなかった。あれ、何か変だな。
ざわっ、と食堂が揺れる。
「公爵令嬢が平民へ自ら手を」
「博愛主義の具現化だぞ」
「聖女に違いない」
なんで、違う! ただソースを付いてただけで!
この瞬間、私は気づいた。世界は私の行動を、私が意図した意味では解釈しない。そこにはいつも、誰かの理想が上塗りされる。小さな親切が、社会変革の象徴へと膨らむのだ。
その時。
「リリアナ」
低く澄んだ声が響いた。嫌な予感しかしない。声の主は、常に世界を深く読み、その意味を歴史的文脈の中で捉えるあの男だった。
振り返ると、そこには王太子アレクシスが立っていた。
彼の瞳には、何かを悟ったような光が宿っていた。
なぜ来るのよ?
「なぜソースを拭ったのだ?」
「おかしくないでしょう別に」
「普通はしない」
「するわ!」
アレクシスは真剣な顔だった。真剣さが、余計に私を追い詰める。
「つまり君は、身分制度に疑問を持っているのだな」
「持ってないよ!」
アレクシスは聞いていない。すでに、私の行動を一つの思想として解釈していた。
「平民を対等に扱った」
「普通に接しただけ!」
ミレイユがおろおろしている。
「わ、私なんかに」
「ミレイユは悪くない!」
するとアレクシスの瞳が細められた。そこには、確信があった。
「やはりそうか」
「何やはりなのか?」
「君は未来を変えようとしている」
あああああああ、違う。私はソースを拭いただけだよ!
なぜこのくらいのことが、未来を変わるのか。大ごとじゃない! 拭いただけ。
我が国の身分制度の壁は、私が想像していたよりもはるかに厚かった。
そしてその壁を破壊する力を、無意識のうちに私は持ってしまったのだ。
ああああ、またも大きな話になってきている!




