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第70話 救国の天才軍師、現る
保健室事件は、本当に参った。まさか仮病で逃げ込んだ先で、癒やしの女神、などという意味不明な称号を増やすとは思わなかった。
あの時点で私の人生は既に軌道を大きく逸脱していたのだが、その後の展開がさらに悪化するとは、到底予想できなかったのだ。
しかも問題はそこだけではない。
セレス。アレクシス。ガルド。
三人とも、最近なんだか距離感がおかしいのだ。特にセレスは厄介だった。以前は絶対裏があるだろうという目で見てきたくせに、最近は私を見るたび妙に視線を逸らす。
明らかに何かを隠しているような、後ろめたさを感じているような挙動。そして気づくと観察している。
ちょうど研究対象を見つめる学者のような、距離を置いた冷徹な視線で。怖い。本当に怖い。
王太子アレクシスはアレクシスで、私を見つけるたび話しかけてくるし、ガルドに至っては護衛人数を増やし続けている。
何か月か前と比べると、私の周囲には常に警備兵がまとわりついている状態だ。過剰な保護が、ますます私を目立たせていることに、誰も気づいていないのだろう。
どうして、私はただ平穏に暮らしたいだけなのに。
そう呟いて、私は遠い目をしながら実家の公爵邸へ戻ってきた。自分の部屋へ籠もり、ため息をついた。最近の生活は、本当に疲れる。
◆
エルヴェルム公爵家の長男ルシアン・フォン・エルヴェルムは、朝に強い。
夜会帰りでも寝不足でも、毎朝きっちり起きる。その日の彼も、窓から差し込む朝日に薄く目を細めながら、侍従の差し出した紅茶を受け取っていた。
高級な磁器のカップに入れられたそれは、毎朝同じように深い香りを放っている。
「本日の予定です」
侍従は丁寧に書類を一枚、机の上へ置いた。
「ありがとう」
ルシアンは柔らかく笑う。一見すると優男に見えるが、中身はかなり切れる。王宮でも次代の怪物と呼ばれるほどの政治手腕を持つ人間だ。ルシアンの笑顔の奥には、常に何層にも及ぶ計算が隠されている。
机には既に大量の資料が並んでいた。貴族派の動向。軍部予算。隣国との外交。そして最近急増している、リリアナ関連報告書も。毎日のように新しい報告が追加されるそれは、もはや一つの重要ファイルとなっていた。
ルシアンは一枚手に取り、くすりと笑った。
「今度は保健室か」
妹は最近、本当に面白い。以前のリリアナは完璧だった。冷徹で、傲慢で、隙がなかった。王妃候補として培われた完璧なシステムのような存在。けれど今は違う。妙に人間らしくて、表情豊かで、しかも本人の意図しない方向へ状況を転がしていく。
「別人みたいだ、まさかな」
そう呟きながら、彼は楽しそうに目を細めた。妹の変化の理由を知りたい。奥底にある秘密を知りたい。そんな兄としての好奇心が、ルシアンの心を動かしていた。
◆
その頃、私はルシアンお兄様のことを考えて頭を抱えていた。
先日、兄に、最近変わったねと言われたのだ。
怖い。すごく怖い。
兄は勘が鋭い。当主としての鍛えられた観察眼は、細かな矛盾を見逃さない。このままでは中身別人説に辿り着く可能性がある。
まさに破滅フラグ。そんな最悪の状況を避けるために、私は必死に対策を考えていた。
どうしよう。私は必死に考えた。気を逸らせばいいのでは?
つまり、何か興味を引くものを渡して、私への追及を減らすのだ。兄の関心を別のものへ向けてしまえば、私の秘密が露呈する可能性は大幅に減少する。
「何がいいかな?」
そこで思い出した。前世で流行っていた知恵の輪や立体パズルを。あれは高度な思考を要求するため、ある程度の知識層には極めて魅力的だ。兄もきっと、そのような知識層に属している。
「これだわ、プレゼントしてみよう」
私は久しぶりに前世知識へ感謝した。この知識さえあれば、きっと兄の関心を逸らせるはずだ。
◆
後日。
私は完成した木製パズルを持って、兄の部屋を訪れていた。
「失礼します、お兄様」
「やあ、リリアナ。どうぞ入って」
ルシアンは書類を片手に微笑む。相変わらず余裕そうな様子は変わらず、むしろその雰囲気はさらに深みを増しているように見えた。怖い。本当に怖い。
私はそっと箱を差し出した。木製のぬくもりが、手のひらに伝わってくる。
「これを持って来たの」
「ん? 道具かな」
「暇潰し用です。時間のある時にでも遊んでと思ってね」
「ありがとう、プレゼントなんて嬉しいな」
どうかこれで遊んでいてください。私を観察しないでください。そんな願いを込めたプレゼントだった。心の中で呪うようにそう念じながら、箱を兄へ差し出す。
ルシアンは興味深そうに箱を開ける。まるで芸術作品を扱うかのような慎重さがあった。
「これは?」
「遊戯です」
木製の立体パズル。精緻に彫られたそれは、組み合わせを変えないと外れない構造になっている。複数のパーツが複雑に絡み合い、単なる力では絶対に外すことはできない仕組みだ。
「へえ〜木製の遊戯か」
ルシアンは目を細めた。目の奥に、知識欲が灯るのが見えた。気に入ってくれそうかな。
「面白そうだね」
「はい。結構難しいですよ」
自信を持ってそう答える。
「ありがとう、リリアナ」
ニコリと笑う笑顔は本当に素敵なのだが、何故か背筋が凍る。直ぐに解いてしまうかな。
「楽しませてもらうよ」
よし。成功。私は内心ガッツポーズした。できるだけ長く遊んでくれ。これでしばらく静かになる。完璧な作戦だ。




