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第69話
数時間後。保健室は異様な空間になっていた。保健医の報告が広がるのは、光の速度だった。学園の中で情報は瞬く間に拡散していった。
あっという間に、私の元には生徒たちの列ができていた。
「リリアナ様、肩をお願いします!」
「腰も!」
「首が!」
なんで列できてるの。私は困惑していた。朝には三人程度だと思っていたのに。昼を過ぎた頃には、十人以上が保健室を訪れていた。しかもみんな異常に感動している。
「身体が軽い!」
「奇跡だ!」
「治癒魔法より楽になる!」
違う。マッサージ。ただの。単なる指圧である。古くから東方で行われている、非常にシンプルな医療技法なのだ。
彼らの顔には、本当に救われたような表情が浮かんでいる。そんな中、さらに厄介な人物が現れた。
「なるほど」
セレスだった。宮廷魔導士にして、皮肉屋。そして深読みの権化。セレスは腕を組みながら私を見つめる。金色の瞳が、何かを測定するように細められる。
「魔力を使わず、経絡を刺激し、自己治癒力を高めるとは」
経絡? 何それ。そんな言葉、前世でも習わなかった。
「古代東方文明に存在した無魔法医術に酷似している」
始まった。セレスの考察タイム。彼は知識の鬼だ。一度何かに興味を持つと、それを徹底的に分析する。だから私は苦手にしている。顔は恐ろしく綺麗ではある。
「当時の術者たちは、人体内部の魔力循環を把握していたと言われている。失われたはずの技術だが」
セレスの金色の瞳が細められる。私の全てを見透かそうとしているようで、不気味だった。
「リリアナ。君の知識は、どこまで底知れないんだ?」
「マッサージです」
「マッサージとは?」
「前世、あ、いや、古代魔術とか私は知らない」
危ない。口が滑った。転生という秘密は、まだこの世界では知られていない。知られてはいけない。もし秘密が露見したら、何が起こるか分からない。
しかしセレスはますます難しい顔になる。
「やはり秘匿知識か」
違う。本当に違う。あの店は、ただの民間のマッサージ店だった。そこに何か特別なものがあったわけではない。
すると保健医がにこにこしながら言った。セレスの反応を見て、ちょっと面白がっているようだった。
「セレス様も受けてみます?」
「必要ない」
即答だった。速さと確実さから、セレスは本当に必要ないと考えているのか、それとも別の理由があるのか微妙なところだ。
「えー? でも肩凝ってそうですよ」
「凝っていない」
「目の下、すごい隈ですよ」
「これは研究の成果だ」
保健医が笑う笑い方に、何かの確信が感じられた。
「あれぇ? さっきの論理的解説と違いますねぇ。まるでリリアナ様に触れられるのが怖いみたい」
ぴく、とセレスが固まった。今の反応は、完全に図星を指されたそれだった。どうしたのかな。
「こ、こ、怖いわけないだろう」
「顔赤いですよ?」
「赤くない!」
赤い。ものすごく赤い。耳から首まで、真っ赤に染まっている。私は思わず吹き出しそうになった。
宮廷魔導士としての冷徹なイメージはどこへやら。今の前セレスは、ただの恥ずかしがり屋の青年だ。
今のセレスならやってあげたい。
「やってあげますよ」
「ほら、リリアナ様もそう言っていますよ、座って」
保健医がセレスを椅子へ座らせようとする。
「いい」
「肩だけでも」
「いい、いい、いいよ僕はその」
動揺しすぎでは?
セレスは珍しく視線を逸らした様子が、学園中にどう伝わるか。保健室には生徒もいる。セレスも気づいているのだろう。
「僕は宮廷魔導士だ。触診程度で動揺するわけが」
「はいはい、座ってください」
「待て」
しかし保健医と周囲の生徒たちは完全に面白がっていた。
「セレス様が焦ってる」
「珍しい」
「かわいいセレス様」
セレスの耳が真っ赤になる。彼はこうなると、もう何も言い返せなくなるのだ。プライドと現実のギャップが、彼を沈黙させる。
私は苦笑しながら、そっと肩へ触れた。
「うわ、固い」
「うっ」
セレスが身を硬くする。
「寝不足ですね?」
「ね、ぶそく」
返答が弱い。
「ここ押しますよ」
ぐっと。
「うっ!!」
セレスが跳ねた。周囲が吹き出す。この光景は、確実に学園中に広まるだろう。
宮廷魔導士セレスが、指圧で跳ねる姿。それは伝説になるかもしれない。
「効くでしょう?」
「な、なんだこれは」
「疲労です」
私は普通に答えた。本当に、彼の肩は信じられないほど固かった。
多分、彼はここ数日、きちんと睡眠を取っていないのだろう。研究に没頭するあまり。
セレスはぼう然としていた。まるで未知の魔法でも見たみたいに。そして小さく呟く。
「本当に底が知れない」
違う。私はただの元会社員。肩こりに苦しんだ一般人である。ただそれだけなのだ。
その後。保健室は癒やしの聖域と呼ばれるようになった。生徒たちは疲れると保健室へ来る。もはや病気や怪我の場所ではなく、疲労回復の場所へと変貌してしまった。
保健医は指圧を学び始めた。私から教えてもらい、彼女も少しずつその技術を習得していく。
そして私はというと。
「癒やしの女神」
という意味不明な二つ名まで増えた。もう何がなんだか。学園の守護聖女に癒やしの女神。どんどん肩書が増えていく。
「なんでなのぉぉぉ!」
私は保健室のベッドへ突っ伏した。心には、深い疲労感が満ちている。寝ていれば平和だと思ったのに。
どうして保健室ですらイベントが発生するの。もう嫌。本当に隠居したい。どこか誰にも知られない場所で、静かに暮らしたい。
そんな私の横で。セレスはまだほんのり赤い顔のまま、無言で肩を押さえていた。
彼の表情は複雑だった。驚き、困惑、そして何か別の感情が入り混じっている。
確実に好意というものが含まれていたっぽい。
本当に、彼女は底が知れないとセレスは言った。だからこそ、彼は何度も私の元へ戻ってくるのだろうか。私の謎を解きたいがために。そ私の笑顔を見たいがために。理由は後付けであり、本当のところは、私がいる場所へ行きたいだけなのだとしたら、恋愛フラグ発生だ。こんなシナリオ原作にはなかった。




