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第58話
最近、私は静かに暮らしたいという願いを諦め始めていた。いや、完全には諦めていない。まだ心のどこかでは希望を抱いている。
けれど現実は厳しい。おにぎり事件以降、なぜか私は民を救う食糧改革の先駆者みたいな扱いを受けていた。
違う。私はただ豪華弁当を避けたかっただけだ。
それなのに学園では塩むすびブームが起き、騎士団では携帯食として採用され、挙句の果てには王宮の農政部門からまで視線を向けられている。
意味がわからない。
(もう嫌、静かにしたい!)
平穏に暮らしたい。こんなことになる前の、何もない日常に戻りたい。けれど、どうあがいても、そんな日々は二度と来ないのだろうか。
転生してこの身体を得た時点で、私の運命は変わってしまったのだ。だとしたら、もう逆らっても無駄なのだろうか。
そんな絶望的な思考に浸りながら、私は深くため息をつきながら、エルヴェルム公爵邸の廊下を歩いていた。
実家は広い。広すぎる。廊下を歩くだけで軽く運動になる。壁には高価そうな絵画が並び、窓の外には手入れされた庭園が広がっていた。使用人たちは忙しそうに行き交い、どこもかしこも名門公爵家そのものだ。
前世一般人としては、いまだに落ち着かない。むしろ毎日が緊張の連続である。ここは私の居場所ではないのだ。
そう感じながらも、この身体と名前が私を縛り付けている。この矛盾に、私は毎日疲弊していた。
そんな中、私は父の執務室前で立ち止まった。何かしらの相談をするわけではない。ただ、この無気力な状態から少しでも抜け出したかっただけだ。
コンコン、と軽く扉を叩く。
「お父様、入ってもよろしいですか?」
少し間を置いてから、低い声が返ってきた。
「入れ」
私は静かに扉を開けた。室内には大量の書類が積み上がっていた。机に向かう父アルベルト・フォン・エルヴェルムは、相変わらず完璧な姿勢を崩していない。髪を後ろへ流し、鋭い灰色の瞳で書類へ目を通している姿は、まさに冷徹な公爵そのものだった。
王国随一の権力者。社交界では氷の公爵と恐れられている人物。なのだけれど。
「お疲れですね」
私がそう言うと、父はわずかに眉を動かした。ほんの僅かな変化。でも最近の私はわかる。この人、疲れてる。
目元が少し重いし、肩も硬い。たぶんずっと仕事してる。前世で散々ブラック企業を見てきた。
あの世界で働く人々は、まさにこんな顔をしていた。肩は凝り、目は落ち込み、心は完全に折れていた。
だからなんとなくわかるのだ。同じ疲弊の匂い。同じ絶望の色。
「あまり根を詰めすぎるのは良くありません」
「お前がそれを言うか」
「何か問題でも?」
「最近のお前は、王宮を騒がせすぎている」
ぐうの音も出ない。私はそっと視線を逸らした。本当に不本意なのだけれど、指摘されると余計に言い訳ができない。おにぎり事件。塩むすびブーム。そして今、私の名前は王都中でささやかれている。
それは私が望んだものではなく、ただ一連の出来事に巻き込まれた結果に過ぎない。なのに誰もそれを理解してくれない。
「まあ、それはそれとして」
私は父の後ろへ回り込んだ。アルベルト公爵が少しだけ目を細める。
「何をするつもりだ」
「肩、凝っていませんか?」
「肩?」
「少し失礼しますね」
返事を待たず、私はそっと父の肩へ触れた。硬い。びっくりするほど硬い。石かと思った。
筋肉が完全に強ばっている。これは相当な負荷がかかっているのだろう。うわあこれは辛そう。
同じ疲弊した者として、その苦しみがわかる。私は軽く指を押し込んだ。
前世知識による肩こりマッサージ。というかツボ押し。テレビで見たレベルの知識だけれど、やらないよりマシだろう。
自分も疲れているから、その気持ちが少しでも楽になればと思ったのだ。すると。
「うう」
父が沈黙し、ううと声にした。
「あれ、痛かったですか?」
「いや」
声が低い。怒ってる?
やっぱり余計なお世話だっただろうか。だけれど父は動かなかった。
むしろそのままの姿勢を保っている。なので私は続けた。
肩。首筋。背中。凝ってそうな場所を適当に押していく。前世の知識なんて大したものではないが、それでも何もしないよりはましだろう。
疲れている人間への最低限の気遣い。ただそれだけのつもりだ。
「お父様は少し働きすぎです」
「おお」
「休める時は休まないと」
「ほう」
なんか反応が怖い。この低い声色は、何かを考えている時の父の常套句だ。でも止めるわけにもいかない。むしろここで止めると、余計に疑われる気がする。
私は続けた。
「全部ご自分で抱え込まず、周囲に任せてもいいのでは?」
すると。ぴたり、と空気が止まった。嫌な予感。父はゆっくり顔を上げた。鋭い瞳が私を見る。怖い。
「なるほど」
出た。深読みする時の顔。政敵を追い詰める時の顔だ。
「そこが弱点か」
「え?」
「確かに、最近は掃除が滞っていた」
「掃除?」
「お前は、私に休めと言いながら」
父が静かに口元を上げる。それは笑みというより、獲物を見つけた猛獣の顔だった。表情から伝わるのは、明らかに政治的な野心だ。
「休んでいる間に片付けろ、と」
「えっ」
待って。話が見えない。何を言われているのか、さっぱりわからない。肩こりの話がどうして掃除に変わるのか。
「流石だな、リリアナ」
「何がですか?」
「そこまで読んでいたとは」
「いや、肩こりの話なんですけど」
「ふふふ」
怖い。完全に話が噛み合っていない。それは私が何を言ったのではなく、父が勝手に解釈しているからだ。
全然聞いてない。その時だった。
コンコン、と扉が鳴る。
「失礼いたします」
入ってきたのはセバスティアンだった。有能執事である。助かった。この奇妙で不気味な空気を何とかして。
「旦那様、例の件ですが」
「うむ」
父は淡々と頷いた。声には、先ほどまでの不可解な満足感が満ちていた。
「始末しておけ」
「承知いたしました」
何を?
何か大切なことが決定されている。セバスティアンは一瞬だけ私を見た。そしてほんの僅かに、哀れむような目をした。
いや、それは同情ではなく、忠告の眼差しだった。
お嬢様、あなたは何をしてしまったのかと。
そう言われている気がした。嫌な予感しかしない。強烈な不吉さが全身を包む。




