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第55話
「触ればいいのね?」
「ええ」
セレスが笑う。その笑みの奥には、期待と興奮が満ちている。
「ぜひ、本音を見せてください。本来のリリアナ嬢が何を望み、何を恐れているのか」
だから本音なんて。そんな大層なものはない。私の願いなんて、本当に単純だ。
破滅したくない。目立ちたくない。平穏に暮らしたい。美味しいもの食べたい。できれば長生きしたい。以上。
それだけである。高い理想も、壮大な野望も存在しない。ただひたすら、つつましく、人目につかないままに生きていきたいだけだ。
ただし、一つだけ補足がある。もしこの世界全体が平和ならば、自分の身の安全もより確かなものになるだろうという、極めて個人的で利己的な理由からして、世界平和に賛成しているという点だ。つまり、これは究極の自己保身の論理なのだ。
私はそっと魔道具の鏡へ手を伸ばした。冷たい。金属表面が掌に接した瞬間、嫌悪感が走った。何か古い、そして悪意すら感じられるような冷たさだ。
触れた瞬間、鏡面が淡く光り始める。光は徐々に強くなり、室内全体を包み始めた。室内が静まり返った。誰もが鏡を見つめている。
魔力がゆっくり広がっていく。それは目に見えるほど濃厚で、あたかも何かが目覚めようとしているようだった。
次の瞬間。鏡が、眩い黄金色に染まった。
「え?」
私は目を瞬いた。映し出されたのは、広大な草原だった。金色の麦が風に揺れている。その様子はまるで、生きているもののような波を打っていた。豊かさと繁栄の象徴。
青空の下、人々が笑い合い、子どもたちが駆け回っていた。誰もが幸福そうで、誰もが安心して笑っていた。市場には食べ物が溢れ、誰もが穏やかな表情をしている。
戦いも、飢えも、恐怖もない。まるで絵本の中みたいな理想郷。
「これは」
誰かが息を呑む。アレクシスだ。王太子の声に動揺が含まれていた。
私は混乱した。違う。こんなのじゃない。いや、確かに平和がいいなとは思った。これ以上戦乱が起きないでほしい、難民が増えないでほしい、飢える人がいないでほしい。そういう願いはある。
でもこれは。
(ただの隠居生活イメージ図なんだけど)
詳細に言えば、もっと小規模で個人的な願いでしかないのだ。私の理想はもっとこう、小さくてプライベートなのだ。田舎の小さな家でのんびり暮らしたいとか、その程度。庭で野菜を育てて、毎日焼き菓子を作って、猫と一緒に寝たいとか。そういった素朴で個人的な夢。
ところが、この鏡の出力が壮大すぎる。何かが間違っている。何かが歪んでいる。
鏡の効果が、私の本当の願いを誤解、あるいは拡大解釈しているのか、それとも、私自身が無意識のうちに何かを望んでいるのか。
「まさか」
アレクシスが震える声を漏らした。横顔は、信じられないものを見たようだった。理解できない光景に直面した者の顔。
「君は」
やめてその顔やめて。絶対ろくでもない誤解する顔だ。王太子アレクシスは、そういう決定的な勘違いをする傾向がある。彼は正義感が強く、優しい心を持った王族だが、だからこそ自分の解釈に絶対の確信を持つのだ。
「自分個人の幸福ではなく」
違います。
「国全体の未来を願っていたのか」
「違います!」
即答した。しかし誰も聞いていない。
アレクシスは鏡を見つめたまま、静かに目を伏せる。その動作は、何かの重大な真実に気付いた者のそれだった。
彼は立ち上がり、私を見つめ、瞳には、敬意のようなものが浮かび始めていた。
「誰も争わず、飢えず、笑って生きられる世界。それが君の願いだったとは」
「いやあの、待ってください」
「私は今まで、君を理解した気でいた」
重い、空気が重い。部屋全体が言葉の重さに圧倒されている。王太子の発言は、この場の全員の認識を変える力を持っていた。
「だが違ったな、リリアナ。君は私などより、ずっと高い場所を見ている」
「見てません」
むしろ地面しか見てない。フラグ回避のために。自分より高い場所を見ると、高い場所に引きずり上げられるからだ。
さらに悪いことに、ミレイユが感極まっていた。
「やっぱり!」
うわあ。目がきらきらしてる。この輝きは、崇拝の光だ。
危険。ミレイユは両手を握りしめ、涙さえ浮かべ始めている。
「リリアナ様こそ、本当の聖女です!」
「違います!」
「自分の幸せじゃなく、みんなが平和に暮らせる世界を願うなんて」
「だからそれは結果的に私が安全になるからで」
途中で止まった。しまった。でももう遅い。誰もが理解するのに十分だった。
「自分の安全より、人々の平穏を優先するのですね」
ヴィクトリアが低く呟く。彼女は一連の発言を冷静に分析し、その結論に静かに深く頷いている。
違う順番が逆。私が安全に暮らしたい結果、世界が平和な方が都合いいだけなのだ。因果関係が逆転してしまっている。
ところが、周囲の空気は完全に感動モードだった。
怖い本当に怖い。この場の全員が、私を民のためにあらゆることを差し出す聖女として見始めている。
一番怖かったのはセレスだ。彼は鏡をじっと見つめたまま、珍しく笑っていなかった。表情は、純粋な困惑だった。
「おかしい」
「何がですか」
彼の声に、初めて不確実性が混じっている。
「願望を映す魔導具は、普通もっと直接的な欲望を出力する。権力を求める者は王冠を、愛を求める者は特定の人物を、支配を求める者は膨大な兵士を」
「はあ」
「権力、愛情、支配欲、復讐心そういうものを」
それはそうだろう。普通そうなる。歴史に名高い願いの鏡の出力も、大抵はそうだった。野心あふれる貴族の野望、逆恨みに満ちた復讐心、歪んだ愛執。
「なのにリリアナ嬢の願望は、誰も傷つかない世界として出力された」
「偶然では」
「ありえない」
セレスがゆっくり私を見る。瞳には、初めてわずかな警戒が浮かんでいた。それまでの知的好奇心から、危機感へと変わった瞳。彼はようやく気付いたのだ。私が単純な令嬢ではなく、何かの意思を持った存在であることに。
「計算か?」
「違います!」
「これすら計算なのか?」
「だから違いますって!」
セレスが怯えてる!
なんで。彼は一歩後退した動きは無意識的なものだった。
「底が見えない」
「ただの一般人です!」
「一般人はこんな願望出力になりません」
(知らないわよ!)
私だって混乱してるんだから。そもそも、何が起きたのかすら理解していない。願いの鏡が、なぜこのような出力をしたのか。私の無意識が、本当にこの世界全体の平和を望んでいるのか。それとも、他に何か理由があるのか。
その時だった。ずっと黙っていた父が、小さく笑った。
「なるほど」
低い笑い声が、部屋全体に響き渡った。
(これ、嫌な予感)
父の笑いは、何かを確認したときの笑いだ。親として知りたくなかった事実を、確認してしまったときの笑い。
「我が娘は、随分と大きなものを背負っていたらしい」
「背負ってません」
「謙遜するな」
父にまで誤解された。もう、終わった。
(完全に終わった)
この場にいる全員が、私を誤解している。アレクシス王太子は私を聖女として。ミレイユは理想の人として。ヴィクトリアは謎めいた人物として。セレスは何かの秘密を隠す危険人物として。
そして父さえも、自分の娘を大きな使命を背負う者として見ている。
言葉はこの世界の言語で考えるべきだ。私はただ、平穏に暮らしたいだけ。
本当に本当にただの、老後の理想図だったのに。
鏡に映る草原は、まだ静かに金色に輝いていた。その美しさが、今は重い呪いのように見える。誰も知らない。
この景色が、本当は私の隠居計画の一部でしかないことを。
田舎に引っ込んで、毎日焼き菓子を作って、長生きする。ただそれだけなのに。
アレクシスはまだ私を見つめていた。瞳には、何かの決意のようなものが芽生えていた。
だめだ。
(絶対だめなやつだ)
「リリアナ」
王太子が、初めて身分を示さずに私を呼んだ。
「僕たちと共に、この国を導く手助けをしてくれないか」
いや、待ってください。聞いてください。私は王妃志望ではなく、隠居志望なんです。
ただし抗議の言葉は、部屋の中で掻き消えた。
誰もが、聞く耳を持たなかったのだから。都合よく、誤解されて。
そして都合よく、運命に組み込まれていく。
それが、この世界で生きるということなのだろうか。私はそっと目を閉じた。鏡の光はまだ輝き続けていた。それは、私の本当の願いの象徴として。
(実は単なる隠居願いなのに!)




