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第53話 辺境伯令嬢とピクニック
辺境伯令嬢ヴィクトリア・レインフェルドから招待状が届いた時、私は三秒ほど真顔になった。
いや、嫌な予感しかしない。
封筒からして圧が強かった。深紅の蝋印。無駄に高級そうな紙質。筆跡まで戦いを挑んでいるような勢いがある。宮廷で何度も見た、あの独特の筆致——自信に満ちた曲線と、わずかな威圧感を含んだストローク。一見して返事は必須であるという無言のプレッシャーが伝わってくるようだった。
私はティーカップを置き、静かに隣の執事セバスティアンを見た。
「断ってもいいかしら」
「おすすめはいたしません、お嬢様」
即答だった。
「ですよねぇ」
私は机に突っ伏したくなる衝動を堪えた。ヴィクトリアはクラウディアと違って、本当に有能だ。変に敵対すると後々まで尾を引くタイプの貴族である。しかも辺境伯家とエルヴェルム公爵家は昔から微妙に政治的距離感が悪い。ここで露骨に断れば、公爵令嬢、辺境軽視とか意味不明な方向へ発展しかねない。そうなると、貴族社会という複雑な人間関係の網の中で、思わぬ落とし穴が増えるということだ。
破滅フラグ回避において、対人関係の摩擦は最悪の悪手である。
「行くしかないのね」
「はい。そうなるかと思われます」
セバスティアンが穏やかに微笑む。執事の口角の上げ方、目の奥に浮かぶ同情。その顔が、ご愁傷様ですと言っているようにしか見えなかった。
そして数日後、私は後悔していた。猛烈に後悔していた。
「ヴィクトリア様」
「何かしら」
彼女は涼しい顔で歩を進めていた。
「これはピクニックと聞いていたのだけれど」
「ええ。ピクニックですよ」
彼女は涼しい顔で答えた。背後には、切り立った岩山。岩盤がむき出しになった険しい地形が続いている。ゴツゴツした鉱山道。吹き荒れる乾いた風。そして遠くに見える鉱石採掘場。採掘用の機械音や、鉱夫たちの声が何となく聞こえてくる。
(どう見ても軍事訓練です、ありがとうございました)
私は心の中で泣いた。辺境伯領、完全に舐めてた。王都育ちの令嬢が来るべき場所ではない。この場所は人間を鍛える場所だ。
空気が違う。気温が違う。地面が固い。何より坂がきつい。本当にきつい。周囲では兵士たちや作業員たちが慣れた様子で動いているが、こっちはすでに息が上がりそうだった。それも、まだ出発して三十分ほど経ったばかりなのに。
けれどここで無理ですと言うのはダメだ。それは戦略的な敗北を意味する。貴族社会において弱音は舐められる。特にヴィクトリア相手には。彼女は自分より弱い者に対しては、容赦を知らない性質の貴族なのだ。
だから私は必死に前世の知識を総動員した。一定の呼吸を保つ。腹式呼吸で酸素をしっかり取り込む。歩幅を狭くする。体力を一気に使わない。水分補給をこまめに。汗をかいたら塩分も取る。
ありがとう前世の登山動画。
ありがとう熱中症対策記事。
転生してから一番役に立ってる知識だ。
「へえ」
前を歩いていたヴィクトリアがちらりとこちらを見た。視線は、こちらを一瞬で判断するような鋭さを持っていた。
「音を上げると思ったのだけれど」
「まだ平気ですわ」
本当は平気じゃない。足が重いし暑いし帰りたい。
でも意外だったのは、辺境の空気そのものは嫌いじゃないことだった。風は強いけれど澄んでいるし、王都みたいな息苦しい視線も少ない。誰かをジャッジするような、あの独特の緊張感がない。働いている人たちの顔もどこか真っ直ぐで、生きることに必死な感じがした。そういう直線的な生き方って、王都にはない。
そんなことを考えていると、近くで鉱夫たちがざわつき始めた。
「本当に歩ききってるぞ」
「エルヴェルムの令嬢だろ?」
「もっとこう、すぐ倒れるタイプかと思ったが」
聞こえてます。でも否定できない。
私もそう思ってた。というか、正直なところ、自分だってここまで歩けるとは思わなかった。
さらに進むと、今度は辺境兵たちが敬礼してきた。
「リリアナ様、お水を」
「あ、ありがとうございます」
受け取ると、なぜか周囲が感動したような顔になる。その反応の大きさに、私は戸惑った。
「我々からの水を断られないとは」
「辺境を下に見ておられないのか」
違います。普通に喉が渇いてただけです。
王都の貴族ならば、ここで遠慮申し上げますとか何とか言って、持参した高級なミネラルウォーターを飲むのだろう。しかし私はそこまで気を回す余裕がない。というより、目の前で提供してくれた水を素直に飲む方が、相手も喜ぶし、何より自分も楽だ。
でも彼らは妙に感激していた。その様子を見て、ああ、そういうことか、と思い至った。中央の貴族は、辺境の人々を下だと思っているのだろう。だから自分たちが提供するものを受け取られるというのは、珍しくて、ありがたいことなのだ。
ヴィクトリアが横で小さく目を細める。表情に、複雑な計算が走っているのが見える。
「貴女、本当に変わってるわね」
「そうですか?」
「普通の中央貴族なら、ここまで歩くだけで不満を言う。水なんか、絶対に受け取らない」
「そんなものかしら」
「そんなものよ。王都での教育では、辺境は蛮族に近い存在として教わるの。自分たちより下の者から何かを受け取るということは、格を落とすことだと」
彼女は淡々と言ったが、その視線はどこか複雑そうだった。まるで私の行動を何度も分析して、深層にある意図を探っているかのような眼差しだ。
「貴女は、本当にそう思ってないのね」
「思ってません」
正直に答えた。それだけだ。
しばらくして、ようやく山道が開けた。崖の上に近い場所で、強い風が吹き抜けている。遠くまで山脈が見え、向こうには隣国との境界線が広がっていた。眼下に広がるのは、険しい山々と、間を縫うように引かれた国境線。ここから見ると、本当に小さく、細く見える。
私はそこで限界だった。もう無理だし足が棒になった。
(暑い帰りたい)
でも引き返すわけにもいかない。王都での名誉のためにも、ここは気を失わない程度に耐えるしかない。
なので私は近くの岩へ腰掛け、心の底から本音を漏らした。
「ここ、風通しが良くていい場所ですね」
つまり涼しい。休めて最高。
(早くここで休憩したい)
それだけだった。しかし空気が止まった。
「何?」
ヴィクトリアが振り返る。表情は、何かを重大に受け止めたかのようだ。兵士たちも動きを止めていた。
(え、何、私また何かやった?)
ヴィクトリアはゆっくり周囲を見渡した。険しい山道。広い視界。天然の高低差。そして隣国との境界線を見下ろせる位置。
「なるほど」
その顔を見るのが怖かった。やめてその顔。
(深読みする顔やめて!)
「この場所を選ぶとは」
「選んでません。本当に」
慌てて否定した。でも時すでに遅し。
「国境全体を見渡せる防衛拠点。しかも風の流れがいいから、敵の煙も滞留しない。隣国からの奇襲も困難」
「知らないです」
兵士たちがざわつく。
「確かに」
「ここは長年、隣国との争点だったはず」
「だが誰も活用できていなかった」
待って、なんで軍議始まってるの。
私はただ涼みたかっただけなのに。
(なぜそれが軍事戦略になってるの!)
ヴィクトリアがじっと私を見る。眼光は、刃物のような鋭さを帯びていた。
「貴女、ここまで計算して来たの?」
「してません。本当に!」
「辺境の現実を見て、この場所を提示した」
「違います!」
「しかも、風通しがいいか」
彼女が小さく笑った。嫌な予感しかしない。
「つまり、国同士の風通しも良くしろということね」
「違いますって!!」
だがもう遅かった。周囲の兵士たちが完全に感動モードに入っていた。
「なんというお方だ」
「辺境の争いを終わらせようとしておられる!」
「これが中央最高位貴族の視点!」
違う。ただの疲労であった。休憩しただけだった場所であった。それが軍事で極めて重要な視点で有能な場所となった。
(なんでこうなるの!)
その日の夜。事態はさらに悪化した。辺境伯と父アルベルト公爵が会談を始めたのである。しかも、である。会談の内容は、あっという間に宮廷全体に広がった。
「リリアナが気に入った土地を戦火に晒すわけにはいかん」
「同感だ。できれば長期的な平和を模索したい」
なんで。でかい話になった。外交の堅物にまで発展していた。
(どうして私の感想が国家問題になってるの)
さらに隣国側にも話が通り、長年揉めていた境界線問題が一気に和平方向へ進み始めた。それも、私がその場所をいい、と言っただけで。こんなことってあるのか。
(意味がわからない、勘違胃している私を!)
数日後、王都へ戻った私は、公爵邸でぐったりしていた。階段も上がるのが大変だ。
「ただいま戻りました」
するとセレスが真顔で言った。
「聞きましたよ」
嫌だ。絶対ろくでもない。
「辺境の地理的条件を利用し、和平交渉の糸口を作ったとか」
「作ってません。本当に!」
「しかも軍事境界線を休憩地点として再定義した」
「そんな大層な話じゃないです!」
「恐ろしい女だ」
なんで戦慄してるの。セレスの横でガルドまで頷いていた。
「流石です。さすが公爵令嬢」
「だから何が?」
ヴィクトリアは腕を組みながら小さく鼻を鳴らした。
「気に食わないけれど、結果として領民たちは喜んでいるわ。これもまた、戦略か」
「それは良かったけど」
「貴女、本当に自覚ないのね」
あるわけない。私はただ山登りしただけだ。ただ必死に生き延びて、涼しい場所で休憩したかっただけなのに。なのに気づけば。国境問題が消えていた。もう、何もかもが意味不明である。
(勘違いもここまで来たか!)




