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第52話 暗殺者と夕暮れの路地裏
その日、私は珍しく一人だった。
いや、正確には。少しだけ一人になれたが正しい。
最近の私は、常に誰かに監視されている。ガルド率いる護衛騎士団。王宮の視線。社交界の執拗な噂。セレスの執念深い考察。ヴィクトリアの戦略的な警戒。そして王太子アレクシスの不可解な視線。息が詰まりそうだった。胸が圧迫されるような感覚は、毎日少しずつ強くなっていく。
だから今日は、久しぶりに護衛を撒いた。もちろん命知らずな真似をしたいわけではない。乙女ゲーム世界で死亡フラグを建てるほど愚かではない。
ただ、王都の小さな雑貨店へ行きたかっただけだ。執事セバスティアンへの贈り物を探すために。彼はいつも私の無茶を静かに支えてくれている。前世の感覚が抜けない私は、こういう時に何かお礼をしたくなってしまう。貴族令嬢としては変なのかもしれないけれど、感謝の気持ちを物で表現することは悪いことではないはずだ。
「これ、素敵ね」
私は小さな銀の万年筆を手に取った。装飾は控えめで、下品ではない。だが職人仕事の細部が美しい。繊細な彫刻、完璧な重量感。セバスティアンのような誠実で堅実な人物に似合いそうだった。
会計を済ませ、紙袋を提げて店を出る。気づけば外は夕暮れだった。王都の石畳は橙色に染まり、人通りも減っている。陽はもう西の空に沈みかけ、街灯に火がつき始めていた。薄暗くなっていく景色は美しいが、同時に危険だった。
「まずいわね」
私は軽く顔をしかめた。本来なら、こんな時間に貴族令嬢が一人歩きなんて絶対しない。フラグ管理的にも危険すぎる。しかも今日は護衛もいない。ガルドに見つかれば、おそらく発狂するだろう。それはそれで見物だが、今は避けたい。
「急いで帰りましょう」
私は足早に路地へ入った。大通りへ抜ける近道のはずだった。地図で確認したから間違いない。暗くなるまでに公爵邸へ帰り着けば、誰にも気づかれないだろう。そう甘い計算をしていた。
数秒後。
「あっ」
人生には、時々、終わったと思う瞬間がある。今がそれだった。まるでゲーム画面がフリーズしたような、世界が一瞬止まるような感覚。
薄暗い路地裏。壁にもたれかかる黒衣の男。顔の半分を覆う布。鋭い目。そして月明かりを反射する短剣。
これってあれだ。間違いなくアレだ。
「暗殺者だーーーーーー!!」
心の中で絶叫した。悲鳴に近い。いやいやいやいや。なんで暗殺者がいるのか。乙女ゲーム世界じゃなかったのか。恋愛は、青春は、恋愛フラグは?どうして最近ずっと治安が終わってるのか。
逃げたい。でも無理。本能でわかった。この男、強い。ガルドとは違う意味で危険だ。空気が静かすぎる。雑音がない。呼吸をするだけで喉が痛い感覚さえある。
男はゆっくり視線を上げた。動きは計算されている。捕食者の動きだ。
「リリアナ・フォン・エルヴェルム」
声が低い。ぞくりとした。
(終わった。完全に終わった)
名前を知られている。完全にターゲットだ。つまり計画的だ。私の脳内で警報が鳴り響く。
どうする。叫ぶ、逃げる、土下座、どの選択肢も生存率が低い。
いや待って。ここで騒いだら面倒になる。貴族令嬢が夜の路地裏で男と遭遇。最悪スキャンダルだ。しかも相手が暗殺者なんて判明したら、王宮案件になる。ガルドが発狂する。セレスが執念深く考察する。ヴィクトリアが深読みする。王太子アレクシスはどうするかな。想像したくない。
嫌すぎる。私は震える指をぎゅっと握った。とにかく生き残る。穏便に。平和的に。スマートに。
「あの〜」
男が眉を動かす。反応があった。まだ殺す段階じゃないのか、もしくは遊びのつもりか。とにかく時間を稼ごう。
私は震える手で腰の財布を取り出した。全財産。今日持っていた現金全部。貴族令嬢としては少額だろうけど、私には痛い。かなり痛い。先週のお小遣いをほとんど注ぎ込んだ万年筆代もある。でも命には代えられない。
「これをどうぞ」
男が黙っている。怖い。沈黙が怖い。呼吸すら聞こえる。私は必死に言葉を絞り出した。震える喉から、絞り出すように。
「これで、温かいものでも食べて」
声が震える。情けない。格好悪い。でも止まらない。恐怖が言葉を紡がせている。
「静かに去ってください」
お願いします。見逃してください。私はただ平穏に暮らしたいだけなんです。恋もしたいし、友達とお茶もしたいし、セバスティアンとの日常も続けたい。死にたくない。その瞬間だった。男の目が見開かれた。
「は?」
空気が変わる。殺気が止まった。それまで張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
「助かった?」
いやまだわからない。男は財布を見た。それから私を見る。もう一度財布を見る。視線の往復。沈黙。長い。怖い。
(別の意味で怖い)
「俺を」
男が掠れた声を出す。声帯が使われていないのか、まるで錆びた鐘のような音だった。
「見逃すのか」
「えっ?」
意図が読めない。暗殺者の思考回路は複雑すぎる。
「俺が誰か、理解した上で」
いや暗殺者だなとは思ってるけど、具体的に誰かは知らない。
(見逃すじゃない、私が助かりたい!)
「それでも金を渡すと?」
不可解そうに聞かれた。
「いや、その温かいもの食べると、人って落ち着くかなって」
本音だった。前世でも、極限状態の時って温かいご飯が大事だったし。お粥とか、スープとか、温かい飲み物とか。身体が温まると、心も落ち着く。それは種族を問わず、生物としての本質的な反応だと思う。だから。
でも男は固まっていた。像のように。石像のように。呼吸もしていないのか。
「温かいもの」
「はい」
復唱されてしまった。
「俺のような汚れ仕事の人間に」
なんか話が重くなってきた。私は冷や汗を流した。違う。そんな深い意味はない。ただ恐怖で財布差し出しただけ。しかし男は、ゆっくり片膝をついた。
ひざまずいた。正真正銘、ひざまずいた。
「なぜだ」
「えっ?」
「なぜ俺を断罪しない」
「いやだって怖いし」
正直に答えた。
「慈悲か」
「違います!」
「救済か」
「違います!」
話を聞いて男は震えていた。さっきまでの殺気が嘘みたいに消えている。かわりに、何かもっと複雑な感情が満ちている。
(この人、私を勘違いしている!)
「俺は命令で人を殺してきた」
「はあ」
反応に困った。何と言ったらいい。同情、慰め、それとも否定。
「そんな俺に、再起の機会を与えると」
「いや別にそこまでは」
「なんという方だ」
あ、ダメだこれ。完全に勘違いしてる。それも深い方向に。感動話の方向に。
私は後退した。帰りたい。ものすごく帰りたい。このままセバスティアンの万年筆を渡して、普通の日常に戻りたい。
「リリアナ様ーーーー!!」
地鳴りみたいな声が響いた。
「うわ来た」
騎士団長ガルドだ。次の瞬間、騎士たちが路地へ雪崩れ込む。あっという間に包囲完成。完全包囲だった。暗殺者の男が即座に立ち上がり、身構える。
「追手か」
「違う、私の護衛です!」
「リリアナ様! ご無事ですか!」
ガルドが駆け寄ってくる。怖い。なぜこの人いつも突撃してくるのか。理性がない。
「だ、大丈夫です」
「その男は?」
「えっと」
説明が難しい。非常に難しい。どう説明するのか。実は暗殺者なんですけど、今さっき改心したんですとでも言うべきか。
暗殺者が突然、ガルドへ向かって頭を下げた。
「彼女には手を出すな」
「何?」
「この方は、本物だ」
やめて。変な評価しないで。
「俺はこの方に救われた」
ガルドの目が鋭くなる。計算が始まる。私は内心悲鳴を上げた。
(救った覚えはない。私が助かりたかっただけ!)
「貴様、何者だ」
男は静かに答えた。
「もう暗殺者ではない」
いや五分前まで暗殺者だったでしょ。本物の暗殺者の殺気を感じたはずだけど。
「今日からは」
男が私を見る。やめてその忠誠心に満ちた目。それはまるで、異世界で魔族になびくスライムのようだ。
「リリアナ様の影として生きる」
「待って!」
(とんでもない発言だよ!)
「この命を捧げる」
「待ってえええええ!」
私の叫びは、誰にも届かなかった。
(私の影とか必要ない!)
◆
翌朝。エルヴェルム公爵邸。私は応接室で死んだ目をしていた。窓からは朝日が射し込み父親と向き合っている。
「つまり」
父アルベルト公爵が淡々と言う。髭面の厳格な顔は、普段通りだ。
「暗殺者が自首し、お前への忠誠を誓ったと」
「はい」
「しかも裏組織の情報まで提出した」
「はい」
「ほう」
楽しそうだった。やめて。父親が何か企みを始めている気がする。
向かいではガルドが腕を組んでいる。表情は険しい。後悔に満ちている。
「俺の警備を潜り抜けるとは」
いやそこ反省するとこなんだ。反省してください。
「だが、まさかリリアナ様が闇の住人すら心酔させるとは」
違います。本当に違います。誤解です。
(説明会が必要です!)
「流石です」
「だから違うんですって!」
ガルドは真剣だった。最悪だ。新たな勘違いが次々と発生している。
さらに。
「警備体制を見直す」
「嫌な予感がします」
「本日より護衛を三倍に増やす」
「必要ない!」
「敵は裏社会にもいると判明した」
「増えたの味方なんだけど」
誰も聞いてくれない。論理が通らない。私の言葉は空気のように透過している。横で、昨日の元暗殺者が静かに頭を下げた。
「リリアナ様」
「何かな」
覚悟を決めて聞く。
「昨夜いただいた金で、温かいスープを飲みました」
「そ、そう、ですか」
微妙な感じだ。何か言いたげだ。
「泣きました」
なんで泣く。意味がわからない。どこに泣くポイントあるのか。まさか万年筆代の方が良かったか。
「人として扱われたのは初めてでした」
空気が重い。やめて。そんな感動話にしないで。あと、その目を向けないで。さらに、父とガルドの視線を感じて。
(私はただお金取られただけなのに!)
私の心からの叫びは、この静けさに消えていった。




