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第51話 静寂の欲望
私は静かな時間が好きだ。これは転生前から変わらない。騒がしい場所より、落ち着いたカフェ。大人数の飲み会より、一人でぼーっとする休日。何の義務もなく、誰からも期待されず、ただそこに存在するだけの時間。
誰かと話すにしても、気を使わない相手と穏やかに話すくらいがちょうどいい。いや、むしろ話さずに黙ってお茶を飲んでいるだけでも十分だ。だから今日も、本当なら。
学園の中庭で、のんびり紅茶を飲むだけの平和な午後になるはずだった。
「わあ、すごく綺麗です」
はずだった。私は向かいに座るミレイユ・フローレンスを見つめ、そっと息を吐いた。木漏れ日が揺れる中庭。白いテーブルクロス。焼きたてのスコーン。花の香りが混じる紅茶。完璧なお茶会日和だ。
本来なら、このままずっと続くはずの穏やかな時間。
なのに。周囲からの視線が痛い。ものすごく痛い。
「ああ、こういう視線か」
私は内心ため息をついた。転生後、何度も経験している感覚だ。貴族社会の鋭い視線。好奇心と警戒心が混在した、独特の圧力。
(なんでみんなそんな見てくるの)
理由はわかっている。私とミレイユが一緒にいるからだ。ミレイユは平民出身の奨学生。本来のゲームでは、悪役令嬢リリアナにいじめられる立場だった少女。
でも中身が一般人の私としては、頑張ってる子をいじめる理由がわからない。むしろ応援したい。というか普通にいい子だ。
つい先週だって、図書館の四階で書籍に埋もれている彼女を見かけたから、奨学試験の対策法を教えただけ。食堂で立っていたから、席を譲っただけ。どれも特に深い意味はなかった。
本当に。
「この紅茶、すごく美味しいです。えっと、なんという種類でしょう?」
「ダージリン。セカンドフラッシュね。春に摘んだもので」
「へぇ、季節で名前が変わるんですか」
「そう。夏のセカンドフラッシュは、マスカットのような香りが特徴。秋のオータムナルは、まろやかで」
思わず説明が長くなってしまった。でもミレイユは嬉しそうに聞いている。
「すごく詳しいんですね」
「趣味だから」
「スコーンもふわふわで。このジャムは?」
「イチゴ。上等な砂糖漬けよ。遠慮なく食べて」
彼女のペースに合わせていると、自分も気がほぐれる。そういえば、ミレイユと話していると、本当に気が楽だった。
いつもの貴族交流は疲れ果てる。相手の発言の裏を読み、自分の一言が何を意味するかを計算し、派閥のバランスを考慮する。それはもう交渉であって、会話ではない。
ミレイユはそうではない。話していることが全部、本当の気持ちなのだ。
「この紅茶、すごく美味しいです」
「それはよかったわ」
「スコーンもふわふわで」
「遠慮なく食べて」
「はい」
にこにこしている。かわいい。小動物感がある。見ているだけで癒やされるタイプだ。するとミレイユが、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「でも、私なんかがご一緒してよかったんでしょうか」
質問の意図は明確だ。周囲の視線のこと。身分差のこと。そういった懸念だ。
「どうして?」
「だって、周りの方たち」
ちら、と彼女が視線を向ける。少し離れた席で、貴族令嬢たちがこちらを見ていた。彼女たちの瞳に映るのは、純粋な好奇心ではなく、何かを計算しようとする目だ。
ひそひそ。ざわざわ。
聞こえないふりをしているけれど、絶対こっちの話をしている。「公爵令嬢がなぜ」「平民と」「お茶なんて」。そういった内容だろう。
まあ、そうなる。公爵令嬢である私が、平民出身の奨学生と普通にお茶しているのだから。貴族社会ではかなり珍しい光景らしい。実際、ゲームの設定では、身分制度は絶対的で、そんなことあり得ないのだろう。
「気にしなくていいわ」
私は紅茶を一口飲んだ。香りがいい。落ち着く。心が和らぐ感覚。転生前のカフェで味わったあの感覚に近い。
「私は、ミレイユと話していると楽しいもの」
「うっ」
ミレイユがぱっと顔を赤くする。反応の素直さが可愛い。
「そ、そんな」
「本当よ」
彼女は素直だ。反応がいちいちわかりやすい。だから一緒にいて疲れない。貴族同士の会話って、だいたい裏の意味を探り合うので精神が削られるのだ。
誰がどの派閥か。どの発言に意図があるか。誰と距離を取るべきか。そういう計算ばかり。知らないし面倒だし帰りたい。
その点、ミレイユは安心感がある。何を言っても、相手は悪意を持って受け取らない。ただ額面通りに受け取ってくれる。
それはどれほど幸福なことか。
「リリアナ様って、噂と全然違いますね」
「噂?」
「すごく怖い方だって聞いてました」
過去のリリアナの行動が罪深い。ゲームの設定では、彼女は次々と人を傷つけていった。
「でも、本当はすごく優しいです」
「それは誤解」
そう言い切りたかった。しかし。
「違います」
ミレイユが真剣な顔になる。
「前に迷子の子を助けてましたよね。中庭で」
「あれは通路を塞がれて困っただけで」
「図書館でも平民の生徒に席を譲ってました」
「空いてる席が他になかったから」
「食堂でも、わざわざ後ろの方へ行ってれば誰も気付かなかったのに、前の方で立ってました」
「たまたまです」
なんで全部見られてるの。
(怖い!)
完全に監視されている。もはやストーカーレベルの目撃情報。だけどミレイユは悪意がない。本当に好意から、私の行動を観察しているのだ。
ミレイユはきらきら輝いた目で私を見た。
「リリアナ様は、本当は困ってる人を助けたいんですよ」
「違う!」
「それなのに自分が悪い子だって思い込んでる」
「思い込んでない!」
「でも、本当は誰より優しい」
その純粋な信頼が、罪悪感を倍増させた。いったいどれだけ私は彼女に嘘をついているんだろう。
やめて。そんな純粋な目で見ないで。罪悪感がすごい。
その時だった。
「なるほど」
低い声。空気がぴり、と張る。
私は反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、ヴィクトリア・レインフェルドだった。
深紅の髪。軍服風のドレス。鋭い金色の瞳。完璧に計算された立ち姿。
今日も圧が強い。周囲の令嬢たちも一気に静かになる。
ヴィクトリアは私たちの席を見下ろし、ゆっくり口を開いた。
「公爵令嬢自ら、平民と茶会とは。何か意図でもあるのかしら」
「こんにちは、ヴィクトリア様」
ミレイユがぺこりと頭を下げる。彼女は怖気づいたのか、身体が少し小さくなっていた。ヴィクトリアは一瞬だけ目を瞬かせた。たぶんこの子の真っ直ぐさに、若干ペースを乱されている。
気持ちはわかる。私も最初そうだった。ヴィクトリアは強い。でも、完全には予測できない存在。それがミレイユだ。
「座っても?」
ミレイユの無意識の優しさ。
「どうぞ」
断れる空気ではない。ヴィクトリアは優雅に腰掛けた。その瞬間、周囲のざわめきがさらに大きくなる。
深紅の髪の高等部最強の生徒が、公爵令嬢と平民の奨学生のテーブルに座った。もうこれは、ただの茶会ではない。何かの政治的な集まりに見えるはずだ。
(嫌な予感しかしない!)
ヴィクトリアは私をじっと見た。その瞳に映るのは何か。分析か。試算か。それとも警告か。
「最近の貴女、本当に徹底しているのね」
「何がですか?」
言い訳は無駄だと知っていた。でも言わずにいられない。
「階級意識の改革」
「違います!」
即答した。するとヴィクトリアは小さく笑った。信じてない顔だった。
「平民との交流をあえて人目につく場所で行う。巧妙ね」
「ただお茶してるだけです!」
「平等を周囲へ印象づけるために」
「違います!」
「自然体を装っている。完璧な戦略だわ」
「だから違いますって!」
なぜこの人たちは深読みをやめないのか。セレス然り、ヴィクトリア然り、みんな私に何か意図があると思っている。
私はただ静かにお茶したいだけなのに。
しかしヴィクトリアは顎に手を当てた。思考中。こういう時の彼女は、本当に危険だ。
「でも効果的ね」
「話、聞いてます?」
「最近、保守派の貴族たちが焦っているもの」
怖いこと言い始めた。
「エルヴェルム公爵家が平民層へ歩み寄っている。そう見られているわ。力を失った貴族層との溝を埋めるために」
「そんな大層な話じゃ」
「王太子殿下も貴女を支持している」
「してません!」
「王都有数の騎士団長も動いている」
「暴走してるだけです!」
ヴィクトリアはふっと目を細めた。分析が完了したということか。
「それを偶然に見せているのが厄介なのよ。意図的に見えないように計算されている」
ダメだ。この人もセレス側だった。流れがおかしい。このテーブルは、今や何かの重要な会談に見えているはずだ。
ミレイユだけがきょとんとしている。
「えっとそんな難しい話なんですか?」
「難しくないわ!」
私は即答した。
「本当にただのお茶会だから。スコーンが美味しいから。ダージリンが好きだから。それだけ」
「そうですよね」
ミレイユがぱっと笑うのが救い。この子だけが癒やし。この純粋さだけが、私の心を救う。だが。
「そこが恐ろしいのよ」
ヴィクトリアが真顔で言った。
「貴女は無意識で貴族社会を揺らしている。それに気づいていない。だから止められない」
「揺らしてません!」
「自覚がないのね」
その口調には、ほんの少しだけ哀れみが混じっていた。なんでちょっと哀れむ目をするの。私は頭を抱えたくなった。
世界を動かしたくない。何も変えたくない。ただ静かに生きたいだけなのに。
するとその時。
「リリアナ様!」
ぱたぱたとエマが駆け寄ってきた。専属侍女である。喘いでいる。嫌な予感がする。
「どうしたの?」
「大変です!」
ほら来た。予感的中。
「今、中庭のご様子を見た方々が、噂を広めていて」
「うん」
「リリアナ様が身分を越えた融和政策を始められたと」
私は静かに天を仰いだ。
「特に下級貴族の方々が感動されていて、この方なら新しい時代を作ってくれるのではないかと」
「やめてええええ!」
「公爵家が率先して平民との溝を埋める。素晴らしいと」
「やめてえええ!」
私は机に突っ伏した。ぐったりとした。
違う。本当に違う。革命とか改革とか、そんな大層なものじゃない。
ただ。平和にお茶したかっただけなのに。
するとミレイユが心配そうに覗き込んでくる。
「リリアナ様? 大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない」
「本当に?」
「私、静かに暮らしたいだけなのに」
本音が漏れた。素が出た。でも後悔はない。この子の前では、素でいられるから。
ヴィクトリアがそれを聞いて、ふっと笑う。
「無理でしょうね」
「なんでですか!」
「貴女みたいなのが静かにしていられるほど、王都は甘くないわ。特に、貴族社会は」
全然嬉しくない。その横でミレイユはにこにこしていた。
「でも私は、リリアナ様とお茶するの好きですよ」
その言葉が、全て。
「静かでも、騒がしくても、怖い人だと思われてても。リリアナ様とお茶してるのが、私は一番好きです」
まあ。それだけは、少し救いだった。




