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第50話 セレスの考察が怖い
最近、視線が怖い。いや、正確に言うなら。観察されている感じが怖い。
私は図書館の窓際席で本を開きながら、そっと向かい側へ視線を向けた。薄紫色の装丁の本を開いている女性が、じっと私を見つめている。その視線は冷徹で、まるで何かを分析するように。
(あっ、セレスいた)
宮廷魔導士セレス・アルカディア。整った顔立ちに、細く鋭い目。どう見ても賢そうで、取り付く島もない印象だ。その細い目が、今この瞬間も私を逃さず捉えている。怖い。本当に怖い。
話しかけてみよう。このまま観察され続けるのは精神的によろしくない。
「何か?」
耐えきれず尋ねると、セレスは頬杖をついたまま微笑んだ。その笑みは非常に嫌な予感を与える。
「いえ。ただ、興味深いなと」
「何がですか」
「貴女ですよ。リリアナ嬢」
やめて、その言い方やめて。その口調は絶対にろくな話じゃない予兆だ。なぜかセレスとも恋愛フラグになってきているのは不思議だ。周囲の認識では、私は聖女で、あらゆる貴族男性にモテるという設定らしい。だが女性との恋愛フラグまで立つとは。
私は本を閉じた。この段階で逃げるべきだった。
「私はただ読書をしているだけですが」
「ええ。表面上は」
「表面上って何!」
セレスは楽しそうだった。この人、絶対面白がってる。目元の笑み方が、明らかに獲物を見つけた掃除機みたいだ。しかも厄介なことに、勘が鋭い。他の人みたいに慈愛の聖女とか理想の貴族令嬢とか言ってくるタイプではない。
むしろ逆で、何か裏があると思っている。まあ、ある意味では正しい。中身が別人なので。だが問題は、この人の想像力が妙な方向へ暴走していることだった。
「最近、妙な事件が多いでしょう?」
セレスは机の上で両手を組み、身を乗り出した。このポーズは危険だ。分析モード全開である。
「そうですね」
そう答えるしかない。確かに事件は多い。
「そしてなぜか、毎回貴女が関わっている」
その指摘は正確だった。だからこそ危ない。
「偶然です」
即答した。本当に偶然なのだ。刺客が転んだのも偶然。夜会で避難誘導したのも偶然。ガルドが過剰防衛を始めたのも事故。すべては偶然の積み重ねである。平民奨学生の子が騎士団に拾われたのも、私が声をかけたからではなく、ただたまたま彼が有能だっただけだ。
セレスは、すっと目を細めた。その瞳に光が宿る。これは危険信号だ。
「偶然、ですか」
「はい」
「偶然を装っている可能性は?」
「ありません!」
「敵対勢力を炙り出すために、あえて隙を見せているとか」
「ありません!」
否定しても無駄なのかもしれない。セレスの頭脳は既に走り始めている。
「なるほど」
何もなるほどじゃない。怖い。本当に怖い。考察勢が怖い。ネットスラングが通じない世界では、思考の暴走を止める手段がない。
(まあ、転生したとはわからないでしょ)
セレスは机の上に数枚の紙を並べた。いつの間に用意していたのだろうか。その紙には細かい字で何かが書き込まれている。
「こちらをご覧ください」
「見たくないです」
「リリアナ嬢が関わった事件を時系列で整理しました」
「なんで?」
「分析のためです」
本当にやめてほしい。研究対象になるのは避けたい。紙にはびっしりと何か書き込まれていた。
『王太子との距離調整』
『騎士団長救出事件』
『夜会停電時の誘導』
『平民奨学生との接触』
『クラウディア嬢の失脚』
怖い怖い怖い。なんでまとめた。なぜ記録したのか。研究対象みたいになってる。実験台にされるのは避けたいところだ。
「特に興味深いのがここです」
セレスが一点を指差す。その先には、刺客転倒事件と書かれていた。
「刺客転倒事件?」
そんな正式名称みたいに言わないで。ただハンカチを落としただけの出来事だ。
「普通、人は刺客に遭遇すると慌てる。しかし貴女は冷静に距離を取り、結果として相手は転倒した」
「ハンカチ落としただけです!」
「そこです」
その反応が大問題なのか。
「そこです?」
「偶然ハンカチを落としたように見せた」
いいえ、本当に落としたのだ。
「違います」
「つまり自然現象に擬態した罠」
「違いますって!」
なぜこの人はこんなにも楽しそうなのか。セレスは完全に探偵モードだった。しかもタチが悪いことに、頭がいい。だから説明も妙に説得力がある。全部間違ってるけど。
「リリアナ嬢は、ご自身の影響力を理解していないふりをしている」
むしろ影響力を理解しすぎて、怖いのだ。だから平穏を望んでいるのである。
「してません」
「実に高度だ」
「人の話聞いてます?」
もう説得は諦めた。セレスはセレスなりの理論で動いている。説明しても無駄だろう。
その時だった。
「相変わらず妙な会話をしているのね」
低く、よく通る声。図書館の空気が少し変わる。私は反射的に振り返った。そこに立っていたのは、燃えるような赤髪の令嬢だった。深紅のドレス。鋭い金の瞳。堂々とした立ち姿。その存在感だけで周囲が静寂に包まれる。
「ヴィクトリア・レインフェルド」
辺境伯家の令嬢である。
(来た)
私の中で警戒アラームが鳴る。本当に嫌なタイミングだ。
この人、怖い。クラウディアみたいなわかりやすい敵ではない。本当に頭が切れるタイプだ。それに加えて、行動力と実力も兼ね備えている。
そして何より、私を全く信用していない。ヴィクトリアは私を見下ろすように視線を向けた。その瞳には、明らかな疑念が映っている。
「聖女ごっこは楽しいかしら? リリアナ・フォン・エルヴェルム」
「ごっこではありません」
「じゃあ本物?」
本物な訳がない。だが否定も肯定もできない状況だ。
「違います!」
「ふぅん」
全然信じてない顔だった。セレスが面白そうに笑う。その笑みは、二人の女性の間に火種があることを示唆している。
「ヴィクトリア嬢。ちょうど今、リリアナ嬢の分析をしていたところです」
セレスはノリノリで説明を始めそうな勢いだ。止めるなら今だ。だが既に遅い。
「奇遇ね。私も興味があるわ」
ヴィクトリアは向かいへ腰掛けた。この空間は既に私の敵地と化した。二人の優秀な女性に同時にマークされるのは、それはそれで終わっている状況だ。
「最近の貴女、妙なのよ」
「よく言われます」
実は内心、これが一番怖い。自分がどう見えているかは、客観的な評価として重要だ。
「昔の貴女なら、平民と仲良くしたり騎士に礼を言ったりしなかった」
「まあ」
否定できない。以前のリリアナ、だいぶ終わっていたらしいし。そもそも原作では、この時期のリリアナは支配的で傲慢だったはずだ。それが変わったのだから、気づかれるのは当然といえば当然である。
ヴィクトリアは細い指で机を叩いた。その音は、図書館の静けさの中で妙に響き渡る。
「つまり目的がある」
「ありません!」
「権力掌握?」
「違います!」
「王太子殿下への政治的接近?」
むしろ逆である。王太子アルバートとの距離を詰めるのは避けたい。王子は友好的であるが、接近しすぎると面倒だ。
「むしろ距離を取りたいです」
二人が同時にこちらを見た。沈黙が訪れる。
あ、失言した。セレスが目を細める。
「なるほど。追わせる側に回った、と」
「違います!」
ヴィクトリアが腕を組む。表情には、何かが腑に落ちたような色がある。
「簡単に手に入るものほど価値が下がる。確かに有効な戦略ね」
「だから違うんですって!」
なんで全部深読みされるのか。私はただ平穏に暮らしたいだけなのに。だが二人とも真剣だった。もはや説得は不可能な領域に達している。特にヴィクトリア。彼女はしばらく黙って私を見つめ、やがて静かに言った。
「一つだけ認めてあげる」
「何をですか」
「貴女は以前より厄介になったわ」
嬉しくない。全然嬉しくない。これは褒め言葉ではなく、警告に近い。
「昔はただ傲慢なだけだった。でも今は違う」
ヴィクトリアの瞳が鋭く細められる。その視線は、何かを見透かそうとしている。中身は別人格ですから。
「本心が見えない」
「普通ですけど」
「それが異常なのよ、貴族社会では」
うわあ。なんか深い話になった。貴族社会では、誰もが何らかのペルソナを被っているのだろうが、その程度が違うということか。単純に別人格なんですけど。セレスが横から口を挟む。
「リリアナ嬢は見せたいものだけ見せるのが上手いですからね」
「無意識かもしれないわね」
「あるいは計算ずくか」
二人で勝手に結論付けられている。
「違いますからね」
もう嫌だ。帰りたい。この図書館を出て、何か別の場所で穏やかに過ごしたい。するとセレスがふっと笑った。
「安心してください」
「何をですか」
「少なくとも私は、貴女を敵とは思っていません」
「……」
それも怖いのだが。
「むしろ興味深い観察対象です」
最悪だった。敵よりも厄介だ。観察対象では、逃げようがない。ヴィクトリアも立ち上がる。
「私も今は様子見にしておくわ」
「ありがとうございます」
「ただし」
彼女は真っ直ぐ私を見た。その瞳には、本当の殺気が宿っている。
「もし貴女が王国を乱す存在なら、私は容赦しない」
怖い怖い怖い。殺気が本物なのよこの人。その脅威の度合いは、セレスとは比較にならない。だが次の瞬間。
「まあ、今のところは」
ヴィクトリアは小さく鼻を鳴らした。その表情には、どこか満足げな色が見える。
「貴女のせいで、腐った貴族どもが慌てているのは少し愉快だけれど」
そう言って去っていく。長い赤髪が揺れた。その背中には、何かしら貴族としての威厳と、そして自信がみなぎっている。私はゆっくり机に突っ伏した。
「疲れた」
「おや」
セレスが笑う。その笑いには、何かしら満足感が込められているようだ。
「演技を崩しても?」
「だから演技じゃないです!」
「その台詞も計算ですか?」
「違います!」
もう本当に無理。この人たち、誰も私の話を信じてくれない。信じてくれなくても、観察は続く。セレスはこの机に座ったままだった。
私は深く溜息をついた。転生してきてから、ずっと誰かに観察されている気がしてならない。それは別に危害を加えられているわけではなく、むしろ研究対象として興味を持たれているだけなのだろう。だが、その状態は果たして安全と言えるのか。
少なくとも、ヴィクトリアの脅しは本物だ。もし王国の安定を乱す行動をすれば、彼女は確実に排除に動くだろう。なら、私は平穏をただ装うだけではなく、本当に平穏な人生を歩むしかない。
今の状況を見ると、平穏な人生は遠いようだ。




