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第47話 王宮に不穏な噂が流れる
王宮での大規模な夜会から数日が経過した。本来なら悪役令嬢の破滅が確定していたはずの時期に、私、リリアナ・フォン・エルヴェルムは公爵邸の自室で深く頭を抱えていた。窓からは王都の夕焼けが見え、その美しさとは裏腹に、心の中は複雑な感情で揺れ動いていた。
(処刑ルートから救世主扱いって、どういうことなの?)
王宮パーティーで、私はただ貴族から真っ先に逃げようとしただけだ。それがどういうわけか、完璧な避難誘導を行った聖女として称えられ、今や学園でも王宮でも、私と目が合うたびに誰もが熱烈な視線を送ってくる。その視線の重さに、日を追うごとに息苦しさを感じるようになっていた。
「救世主リリアナ様」
「中立の守護天使」
「王国の光」
そんな呼称が廊下を歩くたびに聞こえてくる。貴族たちは私の前で深く頭を下げ、召し使いたちは敬虔な目つきで私を見つめる。その期待の重さが、まるで鎖のように自分を縛りつけているような感覚に陥っていた。
(光じゃない。私はただ逃げてただけです!)
私はバサッと机に突っ伏した。保身のために動けば動くほど、理想の貴族像として神格化されていくこの現象は、もはや怪奇現象に近い。それはまるで、私の行動が何か宇宙的な力に導かれているかのようだ。
(だいたい、救世主って何? どういう職業? 給料は出るの? 退職金はあるの?)
そのような俗事が頭をよぎるのは、おそらくこの状況の深刻さから目を背けたいからなのだろう。王太子アレクシスからの断罪は回避され、ヒロインのミレイユとの関係も何とか保ったし、すべてが丸く収まるはずだった。なのに今はこの得体の知れない救世主というポジション。逃げ場のない重責に、私は何度も頭を抱えた。
窓の外を見やると、王都の景色が映り込む。夕暮れ時の灯火が灯り始め、王宮の塔々がシルエットとなって浮かび上がっている。この王国の繁栄も、王宮の秩序も、全て自分とは無関係の話だと思っていたのに。まさか自分がこうも深く関わることになるなんて。その思いが胸に重くのしかかっていた。
そんな私の切実な悩みとは裏腹に、王宮では不穏な噂が広まり始めていた。廷臣たちの間で、小声での会話が増え始めたのだ。まるで何かが壊れ始めているかのように、王宮の空気そのものが変わったような気がしたのである。
「黒幕が本格的に動き始めたらしい」
「王国を揺るがす陰謀が」
「リリアナ嬢が計画の邪魔らしい」
(えっ私? なんで?)
不吉な言葉を耳にした私は、ガタガタと震えながら廊下の陰に隠れた。石造りの壁に身体を押し付け、息を殺して周囲の会話に耳を傾ける。貴族たちは私の存在に気づかず、ただ淡々と不穏な言葉を交わしていく。
王国の中枢に関わる人物が黒幕として潜んでいるという話だ。本来ならヒロインのミレイユが立ち向かうべき案件だ。設定上、王国の転機を決める重大な陰謀が暗躍しており、多くの貴族が関わっているはずだった。この物語においては、私はあくまで敵役に過ぎず、主人公であるミレイユの引き立て役として存在すべきなのである。しかし私は、そのような危険な領域には絶対に踏み込みたくない。
(怖い。陰謀とか黒幕とか、そういうのは主人公の仕事でしょ? 私はただ、平穏に、静かに、安全に暮らしたいだけなのに)
思いが強くなるたびに、私は自分がどうして破滅せずに済んでいるのか、理由を知りたくなる。処刑ルートから救世主ルートへ。劇的な転換の理由は何なのか。それを理解することが、今の状況を切り抜けるための唯一の手がかりになるはずだ。
実は、この陰謀の噂が聞こえ始めたのはここ数日のことだ。元々は注視していなかったのだが、廷臣たちの会話があちこちで漏れ聞こえるようになったのだ。何かが壊れ始めている。そして何故か、何かが私に関連しているという噂が広がっている。拡がりの速さは、まるで火が燃え広がるかのようだ。
(黒幕とか関係したくない)
私は周囲を警戒しながら、こっそりと王宮の廊下を歩き始めた。決して噂の真相を探ろうなどという高尚な目的ではない。むしろ反対に、自分がどのような疑いを向けられているのかを知りたかった。知らぬが仏という言葉もあるが、知らずに巻き込まれるのはもっと危険だ。無知のまま陰謀に巻き込まれることほど恐ろしいことはない。
(いや、探るつもりはないけど。でも、巻き込まれて死にたくないから、地雷の場所を確認するくらいの情報は必要なのよ)
足音を殺して曲がり角に差し掛かった。王宮の建築は複雑で、様々な通路が入り組んでいる。本来は侵入者や不正な行動を防ぐための設計だったはずだが、現在の私にとっては願ったり叶ったりだ。誰かに見られないように移動できるのだから。この迷路のような通路が、今は私の唯一の逃げ場となっていた。
その時だった。
「ぐああああ。なぜだ。なぜ失敗する!」
どこかの控え室から、絶望に満ちた叫びが聞こえてきた。声は荒れ狂い、まるで理性を失った者の発声だ。隙間から覗くと、高い地位を持つ黒幕候補らしき貴族が書類の山に埋もれて発狂している。彼の金色の髪が乱れ、高級そうな服装も汗で濡れていた。彼の顔は蒼白で、まるで人生のすべてを失った者の表情だ。目には絶望と怒りが混在していた。
「リリアナ嬢のせいだ。あの娘が動くと、なぜか計画が崩れるんだ」
彼は何度も何度も、私の名前を呪詛のように繰り返した。言葉の激しさに、私の心臓は激しく鼓動を始めた。
(えっ? 私、何もしてない。計画の邪魔はしてないけど!)
困惑しながらその場を離れ、別の部屋の前を通りかかると、今度は密談の声が漏れてきた。私は慌てて足を止め、息を殺して耳を傾けた。
「リリアナ嬢が先ほど通りかかった瞬間、密談の内容が全部聞かれてしまったようだ。計画は中止だ」
え、今のは。私は確かに道に迷ってウロウロしていただけだし、部屋の前を通ったのも偶然だ。何も聞いていないし、聞こうとも思わなかった。そもそも密談があることすら知らなかったのだ。
(聞いてない。ただ道に迷ってウロウロしてただけなのに)
彼らの口調から察するに、密談は極めて秘密性の高いものらしい。もし私が本当に聞いてしまったとしたら、それは大変な事態だ。巻き込まれのパターンはこのようなものだと相場が決まっている。知らず知らずのうちに秘密を耳にして、結果として危険に巻き込まれるというパターンだ。
さらに別の場所では、騎士たちが深刻な顔で話し合っている。彼らは王宮の防衛を司る高位の騎士たちのようだ。表情の深刻さから、何か重大な事態が発生しているのだろうと推測できた。
「リリアナ嬢の数々の善行が、反乱分子の資金源をことごとく断っているらしい。やはり彼女は全てを見通しているのか」
善行? 資金源を断つ? そもそも反乱分子って知らないし、私は何も関わってなかった。私が行った行動は、すべて保身のための自分勝手な行動ばかりだ。それなのに、それらがどうやら国を揺るがす陰謀と関係しているらしいのだ。
(偶然ですが、どこが計画を邪魔することになるの?)
しかし、彼らの表情を見ると、どうやら私の無意識の行動が、実は黒幕たちの活動に深刻なダメージを与えているらしい。なんという因果関係だろうか。自分の保身のためだけに取った行動が、結果的に王国の陰謀を破壊しているというのだから。
私は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた。体が震え、足がすくむような恐怖を感じた。どうやら私が保身のために取った行動が、知らず知らずのうちに黒幕たちの急所を突き、彼らを自滅に追い込んでいるのだ。これは、運が良いのか悪いのか、判断に困る状況だ。
「リリアナ嬢が邪魔だ」
「排除すべきか?」
貴族の声は、さすがに怖かった。低く抑えられた声には、確実な殺意が含まれていた。排除という言葉の意味するところは明白だ。つまり、私を暗殺するということなのだ。
「いや、無駄だ。あの娘は運命そのものに守られている。手を出す方が危険だ」
この言葉に、私は一瞬息ができなくなった。運命に守られている? 冗談ではない。私は何度も死を覚悟したのに。何度も破滅するはずだったのに。
(ひぃぃぃ。怖い。殺さないで!)
私は重すぎる評価に耐えきれず、ドレスの裾をつまんで全力で逃げ出した。靴が鳴り響くのも構わず、ただひたすら逃げた。走った。もう何も考えることができず、ただ恐怖が私を駆り立てていた。
(関わりたくない。陰謀とか黒幕とか、本当に無理。私はただ静かに暮らしたいだけ)
心臓をバクバクさせながら、人通りの少ない裏通路へ逃げ込む。冷たい石壁が肌に当たり、一層恐怖感を増幅させた。王宮というのは、こんなにも不気味な場所だったのか。昼間は華やかで美しい王宮も、今は迷路のような暗い建物に見えた。
しかし、角を曲がった拍子に、何かに足を取られて転びそうになっている人物と衝突しそうになった。とっさに両手をついて衝突を避けるが、相手は地面に落ちていた。
「おっと。なっ、リリアナ嬢? なぜ、こんな場所に」
そこにいたのは、青ざめた顔で重要書類をバラ撒いている一人の貴族だった。彼の目は虚ろで、まるで人格そのものが抜け出てしまったかのようだ。その顔には、完全な絶望が刻まれていた。
(いや、本当に道に迷っただけなのよ。こっちだって逃げてるんだし)
私は天を仰いで頭を抱えた。この男も、もしかして先ほどの黒幕候補の一人なのだろうか。その場合、彼は私が陰謀を妨害していると思い込んでいるのだろう。つまり、これは大変危険な状況だ。
明日にはまた、リリアナ様が裏通路で賊を待ち伏せし、見ただけで制圧した、なんて尾ひれが付いた噂が王宮を駆け巡るのだろう。そして私の救世主としての地位はさらに高まり、期待はさらに増していくのだ。ああ、もう嫌だ。このサイクルはいつまで続くのか。私は何もしていないのに。何もしていないのに、何もかもが勝手に進んでいく。
「お願いだから私を陰謀に巻き込まないで」
震える声で呟いた私の願いは虚しく、王宮の噂は止まる所を知らない。それはまるで、私の声など誰も聞いていないかのように、一人歩きしていくのだ。
◆
夜が深まり、王宮の宮殿中で、新たな噂が広がり始めていた。ろうそくの明かりが廊下を照らし、影が揺らめく中で、貴族たちの会話が交わされていた。
「救世主リリアナ様が、自ら動いて黒幕を牽制しておられる」
「裏通路での秘密工作も明かされたぞ」
「やはり彼女こそが、この王国を照らす唯一の光だ」
リリアナの逃亡が、黒幕を追い込む形になっていた。次々と黒幕の部下たちが逮捕され、陰謀の一部が明るみに出ていった。すべてが、私の無意識の行動によって引き起こされた結果だ。しかし事実は誰も知らない。代わりに英雄的な活躍という虚構が、リリアナ本人の知らないところでさらに拡大していった。
王宮の夜は更け、窓の外には星々が瞬いていた。




